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誰にもできない役目 第五話

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 良くない意味での選らばれし民といえるピューロー氏は、ダリメル氏と共に執務室にとり残されていた。彼は下を向いて、押し黙っていた。半ば犯罪的な押し付けではあっても、もはや、これを完璧に遂行してみせる以外には、自分の未来を確立することはできまいと、すっかり観念したように見えた。ここに至っては、精神異常を装って暴れ出したり、いたずらに駄々をこねたりするのではなく、来たるべき大舞台に向けて、たとえ、企画段階からして無茶な式典ではあっても、その体裁が少しでも整うように、協力してやろうという気持ちが芽生え始めたのかもしれない。少しずつ溢れ出てきたピューロー氏の前向きな熱意を感じて、ダリメル氏としては、今回の大イベントの詳細が記された手引書なるものを、ようやく、彼の手に渡した。

 そこには、今日のイベントで扱うことになる、幾人かの罪人たちのプロフィールや、彼らが犯したとされる恐るべき大罪の説明文、そして、他国の判例から学んできた警察法の専門家が、検討の結果、事前に記したとされる、各被告それぞれの罪の重さの詳細が書いてあった。その数枚にわたる文面には、(どのような種の人間が裁定者に選任されてもいいように)なるべく、読みやすい形式で書かれており、難義語には注釈が、すべての漢字には読み仮名が添えられていた。この意義深いイベントを成功に導いていくためには、このきな臭い指南書の中身を、あと一時間足らずのうちに、丸暗記する必要があった。

 そこには、まず、この日に判決を受けるとされる囚人三名の簡単な特徴が記されていた。最初に裁かれる男には、『もっとも許されざる犯罪』という、太字ゴチックの見出しが題名として付けられていた。この男は元々が癇癪持ちらしく、普段から家族や同僚とのつまらないいざこざが絶えなかった。ある日、平穏な民家に突如として押し入り、両手に持った二本の手斧により、妊婦や子供など、何の罪もない三人の婦女子を、説明も憚れるほどの残虐な手法を用いて殺害した咎により、この刑事裁判を受けることになっていた。その説明文の下には、赤いペンによる下線とともに、注意書きが付されていた。

『被告人は警察による取り調べの際にも、反抗的態度や黙秘などがしばしば見られ、反省の色はまったく伺えない。警察の捜査に対しても、証拠となる物品や計画の中身についての詳細を執拗に隠し続けるなど、一切の協力的態度は見られず、情状酌量の余地なしと判断する。よって厳罰を科す』

『国家を代表して、今回のような重大事件の審判を下すことには、たとえ、加害者が人知を超えた悪鬼のような存在であったと仮定しても、少なからず、ためらいと悔恨の念はある。しかしながら、愛する家族と共に、これからの長い生を営む過程にありながら、被告人の横暴なる振る舞いにより、その未来への道を無残にも絶たれるに至った被害者らの声なき無念、そして、後に残された遺族らの万感の思いに対しては、最大限の配慮を手向けるのが妥当だと考える。よって、当法廷としては、極刑を求める大勢の意見に応えざるをえない』

『加害者当人はこの重大な刑罰を、心からの謝罪とともに真摯に受け入れることを望む。さすれば、死刑に処された後の彼の御霊も、この刑自体の持つ、温かな教戒の意志を己が胸に刻みつつ、その身は安らかで清らかな別の魂の姿へと生まれ変わり、天の国へと誘われるであろう』

「この辺の言葉をうまく絡めながら、淡々と判決の趣旨を述べていって欲しい。ただし、判決の主文を読み上げる際は、上階に座っておられる王族の方々にまで君の声が届くように、なるべく、大きな声ではっきりと。全文を完璧に覚えるのが難しいのであれば、適度な長さに簡略化してしまっても構わない。会場にいる無知な聴衆に根本的な意味さえ通じていれば、それで良い。四百年前の建国以来、我が国では初めて行われる、民間人による刑事罰への裁定であり、判決文読み上げのお手本など、どこにも存在しない。外国の法廷の様子を国営放送で流したこともない。つまり、今日に限っては、初歩的な言い間違いを犯したとしても、まったく問題はない。そもそも、それを訂正する権利を持つ人間が存在しないわけだから、何も起こり得ない。君の言い間違いに気づいたスタッフがいたら、すぐに耳を塞いで、何も聞かなかったことにするだろう。

 一人目の加害者については、聴衆の注目を惹きつけるために、あえて重大な犯罪を扱うことにした。何事も第一手が大切だからな。それ以降の判決、つまり、二人目と三人目の事例については、懲役にして数か月程度の軽犯罪を用意させた。良い方に考えれば、これまでの長い歴史においては、捕らえられた犯罪者たちに対して、刑罰が下される瞬間をその目で見たことがある人間はいなかった。だから、大衆は裁判という制度の重要度を、今日に至るまで、まるで知らないわけだ。すでに国家からの判決を言い渡された後の囚人、もしくは、ごく稀に無実の人間の情報しか知らされることはない。なので、「そのような行為は、明らかに公共の利益に反している」「今回のことを良く反省して、今後は他人に対して、迷惑行為を起こすことのないように」などと、簡潔な忠告や格言を含んだ適切な文言を織り交ぜつつ、君の酌量で刑罰の度合いを決めても宜しい。

 おそらく、今日の一日はかなり長く感じるだろうが、明日からは似たような裁定の繰り返しとなる。犯罪人の特性など、どれも似たり寄ったりだからな。もし、同じような刑罰を言い渡していくことに飽きてきたなら、思い切って凶悪犯を無罪にして解放してしまう可能性を考慮してもよいだろう。時には、予想の裏をいくパフォーマンスも大切だ。おそらく、マスコミも喜ぶ。そして、似たような判決が続いたとしても、被害者たちの思いはそれぞれ違うだろう。これは今日明日に限ったことではない。おそらく、これから先は、ずっとそうなるであろう」

 その説明とともに数枚のレジュメが渡された。そこには裁判官の入場のシーンから、儀式の終盤において、被告人に対して判決を述べるシーンまでの詳細な説明が簡略化された図柄と共に書かれていた。その内容の要約は、上記のとおりである。レジュメの中の文章には、そこかしこに、「たとえ、どんな非常事態に陥っても、決して、君のせいにはならないので、落ち着いて対応して」「読み間違いやミスをして、会場からどよめきが起こっても、動揺を見せてはならない。どうか、そのまま、強引にでも式典を進めて欲しい。きっと、どうにかなる」「多くの優秀な補佐役が緊急時に備えて、舞台の裏側に待機している」などの落書きともとれるアドバイスが挟み込まれていた。しかしながら、このような寛大なる忠告が、彼の心中をより不安にさせるのだった。そもそも、ピューロー氏と名乗るこの男性は、まともな学校教育を受けたことがなく、このような法律関連の文章を目にするだけでも、足下の地面が揺らめくような眩暈を覚えて、意識が遠のくように感じられた。

「開会まではあと三十分ほどだ。君が完全な法律家になる時間など、すでにないし、もはや、そんな人間になる必要もない。本日の式典のだいたいの流れが理解できていれば、その文面のすべてを暗記する必要すらない。大まかな流れすら覚えこむ自信がないのであれば、そのレジュメ自体を公式の判決文の裏に隠して、裁判官席のデスクにまで持っていくことができるように手配しよう」

 ダリメル氏はピューロー氏の緊張を少しでも解いてやろうと、優しく声をかけた。しかし、つい先ほど、裁判官に就任したばかりの男からの明確な返答はなかった。彼はすでに打ち沈み、自分だけの世界に入っていた。国内における最大級の緊張の場において、歴史的な過失を犯さぬためにも、脳みそに元々備わっていた認識能力のあらん限りを尽くして、これらの難解な文面をできるだけ頭に叩き込もうとしていた。

 その頃、ディマ氏は自身が普段の公務において縄張りとしている、中央行政庁の扉を足早に出ると、上級官吏専用の黒いハイヤーに乗り込み、そのまま大聖堂を目指していた。巨大な三角屋根と特徴的な鋭塔は、はっきりとその視界に入っていた。徒歩でも十分に移動可能な距離である。身分の高さを道行く一般人に見せつけたいわけではなかった。だが、今日は建国記念日でもあり、先月、貴族院での採決によって取り決められた通り、新しい司法制度へと移行する特別な日でもある。歩道は無知蒙昧なる愛国者や、ただ、騒ぎ回りたいだけのやじ馬であふれかえっており、日銭目当ての安っぽい大衆紙の記者たちに前方を塞がれ、しつこく絡まれる可能性もあった。

 幸いにも、車は無用な混乱に巻き込まれることなく、無事に聖堂前の駐車場まで辿り着いた。案の定、そこには、好奇心旺盛で、しかも、権力の怖さというものをまるで教えられていない、派手に着飾った陽気な若者の集団がいた。彼らは祭りの空気に飲まれ、相当に酔っ払っているのか、遊び半分で車両の前に立ちふさがろうとしていた。ハイヤーの運転手は威圧を兼ねたクラクションを何度も鳴らして警告した。しかし、不遜な若者たちは不敵な笑みを浮かべたまま、盛んに手を叩き、何か意味の通らないことを喚いているのである。そこで、近くに待機していた、数人の武装警官が駆け寄ってきて、無礼な若者たちを人目につかぬ場所まで無理無理引きずっていった。式典に参加する官吏や貴族連中の自家用車が到着するたびに、何の意味があるのかすら知れないバカげた騒動が延々と繰り返されるのだった。

 この特別な日に大聖堂で行われる式典に参加できるのは、いわゆる上級階級でも、ほんの一握りの人物だけである。大貴族や華族においても、自身とわずかな身内以外の参加は、できるだけ見送るようにとのお達しが出ていた。当然のことながら、褒章の一つも受けたことのないような一般人は参加するどころか、この付近一帯に立ち寄ることさえ、憚れることになった。もちろん、いつの時代においても、そして大小を問わず、いずれの国家においても、分をわきまえぬ人間というのは必然的に存在する。黒蟻の大群から、働き者の蟻だけを区別することができぬように、こういった不遜な輩がこの聖域に平気で近づいてきて、我がもの顔で暴れまわることを収めることのは、どのような有能な為政者の時代においても難しいといえた。単純な感情論に屈して、武力行使による厳しい対応を行えば、これまでは健全だと考えられていた国家の運営の在り方にまで、疑念を生じさせることになり兼ねないからである。

 舞台の裏側でのドタバタ劇など露しらず、時計の針は着々と進んだ。祭典の幕開けとなる、正午は少しずつ近づいていたのだ。この歴史的な式典の意味すら知らない大衆たち数千人は、いったい、どこから今開催の参加者や場所に関する機密情報を得たのかは知れないが、この大聖堂の正面玄関付近に殺到していた。「一目でいいから、式典の様子を見せてくれ」「王妃と姫の麗しい姿を一目でも見せてくれ」などと、身の程知らずにも図々しく訴える者もいた。しかし、そんなルール無用の無謀な要求が受け入れられるがあるはずはない。不毛極まる激しい押し問答が続く中、強行突破を図ろうとする不遜な輩数十人が、ついに防弾服を着込んだ警備兵と激しく衝突するに至った。来期の昇給のためにも、このような醜態を上層部の官吏には知られたくない警備兵たちは、すぐに重火器を押し付けて彼らを脅し、この事態を穏便な方向で収束させようとしていた。だが、暴力に訴えることを諦めた若者たちは、会場付近から去ることはせず、結局のところ、この周囲を埋め尽くしていた愚かな群衆が完全に排除されるに至ったのは、深夜遅くになってからである。歴史的式典の主催者たちとてバカではない。会場周辺がこのような混乱状態に陥ることは、この式典の日取りが決まったその日から、すでに予測できていたのである。なので、本式典に参加予定の要人たちは、そのすべてが裏口から入場することが事前に取り決められていた。

 ディマ氏は黒服の人だかりを懸命にかき分けて進み、大聖堂の裏口付近から、会場となる一階の中央フロアを目がけて進んでいた。開会の時間は否応なく近づいていたが、昨日までのような漠とした不安感に心中を曇らされることはなかった。当初は山積していた難問の数々は、この自分と少数の優秀な官吏の手腕によって、まんべんなく解決されたのだと、そう思っていた。一階ロビーの両脇には、巨大な純金の大鷹の像が飾られていた。この豪勢な像は、数百年ほど前に、我が国随一の狩人が、王侯貴族たちの閲覧する狩猟会において、巨大な大鷹を射殺したことに由来するらしい。その鷹の話はこの国のその後の繁栄を予測する吉兆と捉えられ、このような彫像の形で崇められることになった。しかし、伝説はあくまでも伝説。歴史は為政者や報道機関により常に歪められ、百年以上前の歴史的事実には、信憑性というものは、ほとんどないのである。中央フロアへと至る、白金の豪奢な飾りの付いた大扉にその手をかけた。扉のすぐ傍らには、会場に入る者を逐一チェックするために、黒の燕尾服をまとった役員が数名配備されていた。そのひとりから声がかけられた。

「ディマ様、新聞各社の記者たちが先ほどから会見を求めています。お忙しいところまことに恐縮ですが、本日におきましては、なるべく、質問に応じて頂いた方がよろしいかと思います」

「ありがとう、わかっているよ」

 その言葉はこのイベントの責任を共有する同志へと返された。彼は外と中を敢然と仕切るその扉を押し開けて、大フロアへと入っていった。フロア内部では、一階のフロアに千五百以上もの王族以外の一般向けの座席が準備されていた。しかし、それらはすでに上級官吏や大商人、あるいは、低級地方貴族の関係者により埋め尽くされていた。訳あって、上階に入りそびれてしまった貴族たち、高名な学識者、司法行政に関わりのある官吏のお歴々、地方都市の市長や幹部など上階へ登るのが忍びない連中が、我先にとここへ駆けつけて、広大なフロアの席を埋め尽くしていた。最大のイベントを目前に控えて、高貴な大聖堂内を、得もいわれぬ緊張と空気が、そして、式典の開会を待ちきれぬざわめきが包み込んでいた。このある種異様なる雰囲気に少しも気を取られず、ディマ氏はフロアの中央付近まで進んでいった。演台の準備の状態を確認するためである。しかし、そこには至らず、取材許可の腕章を備えた政治記者たちが彼を取り囲んだ。すでに昨夜からこの近辺の宿舎に待機していたその執念は、この大式典の企画と責任を一手に担うディマ氏を数時間も待ち続けていた。我が国の最高幹部は歴史的式典を前にどのようなコメントを発するのか。明日の朝刊の記事の大部分は、このイベントの詳細報告に充てられるため、大舞台を直前に控えた、ディマ氏のコメントを少しでも多く引き出すことは重要な任務であった。

「やあ、皆さん、こんにちは。今回の式典に関する、いくつかのご質問は喜んで承ります。しかしながら、ご承知の通り、開会までには、すでに時間はありません。ご質問はなるべく手短にまとめてお願いします」

「行政庁の長官として、我が国において、もっとも大きな変革の日を迎えられたわけですが、今の率直なお気持ちは?」

「感無量の極みです。昨日はずっと家族とともに家で静かに過ごしました。今日この日のために、なるべく余計な飲食を避け、空いた時間さえあれば祭壇に向かい、国家の従順たるしもべとして、ただひたすらに、大地と自然に宿られた神々に向けて、新たに生まれ変わる国の未来永劫の繁栄を祈っておりました」

「国王陛下は先日の会見におきまして、もし、今回の改革が成功裏に終始したのであれば、その総責任者の任にあたるディマ氏の功績は、きわめて大きいのではないかと、深いお気持ちを込めて語っておられました。そのことについては、どのように思われますか?」

「大変名誉なことであります。しかしながら、今回の式典は、我が国が過去の旧制度からの脱却を果たすための、きわめて重要な節目でもあります。これを何の躓きもなく達成することができたとすれば、それは、国民全体の真摯な協力があってのことであります。我が国の民衆の完全なる勝利であると、そう結論付けて頂いた方が良いかと思います。私も、国家に従順なる民衆のひとりとして、この作業に携われたということを光栄に思う次第です」

「中央官庁内におきましては、今回の平和で民主的な司法確立の立役者である、ディマ氏に対して、国王陛下から、最高褒章が賜れるのでは、という憶測もあるようですが、この推測につきましては、どう思われますか?』

「私は何の家柄も才能も持ち得ない、ひとりの人民として生まれ育ちました。どうあがいても、民の上に立つほどの人にはなり得ません。このまま、底辺層の役人ままで晩年まで市民に貢献し、その生涯を無事に終えたいと願っております」

 ちょうどその時、聖堂の神聖なフロア内部を、ひときわ大きな歓声が包み、やがて、それは割れんばかりの大拍手の渦へと変わっていくのだった。一階で開会を待ちわびていた多数の来賓たちは、皆すみやかに立ち上がり、その偉大なる光輝を見つめていた。お住いの大公宮から、十数台の供の馬車と共に恐ろしいほどの時間をかけてここまでやって来た、国王陛下とその家族の一行は、今やその姿を貴族や官吏たちの前に現し、中央の大扉をゆっくりとくぐると、真っ赤な絨毯の上を静々と進んでいた。報道陣にすっかり包まれている、ディマ氏の立ち位置からでも、上階の貴賓席へと通じる階段に向けて、王族の一行が、そのまま、歩んでいく姿がはっきりと見えたのだ。

「それでは、報道関連の皆様、そろそろ式典の開会となりますので、これにて失礼致します」

 ディマ氏は蟻のように群がった記者連中に対して、軽く会釈をすると、その場を急ぎ足で離れ、王族の行進のあとに続いた。
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