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2、男の理性を試されるーホテルのテレビには気を付けろー

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 松永梨香子は鬼丈篤史の一つ年下の幼馴染だ。
 家が隣同士でよちよち歩きの頃から一緒に育った。人見知りをしない、明るくて誰にでも好かれる嫌味のない性格をしている。中学校までは同じ校区の公立に通い、高校では梨香子は女子校に進み、篤史は男子校へと進んだ。学び舎は離れこそしたが、家は隣同士。思春期の微妙な時期も梨香子は変わらず篤史に接してきた。
 だからお互いのことは大抵知っている。好きな歌、好きな食べ物、得意な教科、苦手な教科、はじめて家出したときのこと、初恋、そして失恋。

「そう言えば俺、梨香子の夢知らないな。あれ、なんだっけ」
「えー、分かんないの? 私の夢はお嫁さんだよ」
「いや、それ夢にしなくてもいいだろ。梨香子はいい子だからすぐになれるって。それよりやりたい仕事とかないのかよ」

 鬼丈は自分のことを棚に上げて、梨香子の将来を案じた。それが気に食わなかったのか、梨香子は口をムッと閉じて鬼丈の顔を上目遣いに睨んだ。

「なんだよ」
「あっちゃんはさ、私が誰かのお嫁さんになっても平気なの? 私の隣にあっちゃんじゃない男の人が立って、手を繋いで、遠くに連れて行くんだよ? いいの?」
「えっ、いいもなにも……」
「ちゃんと想像して!」

 たったいま自分は船乗りになれないと船から降ろされ、絶望のどん底にいたはずだ。それが幼馴染の登場と、次の仕事まで決まっていたのだ。それだけでも混乱しているというのに、今度は梨香子の結婚相手まで想像しろと言われている。

 鬼丈は梨香子の視線から逃げるように片手で顔を覆った。とりあえず、考えるフリをして見せる。

(待て待て待て。俺、なにやってんだ。俺はいったい何者なんだ)

 そして、再び込み上げる吐き気。

「うっ……」
「あっちゃん?」

 慌てて岸壁の端に走って顔を海面に出した。

「おぇぇぇぇ」

 間違いない、これは陸酔いおかよいだ。

「大丈夫? あっちゃん、疲れてたんだね。ごめん、ごめん。ちょっと休んだ方がいいよね」

 梨香子は鬼丈の背中をさすりながら、あたりを見渡した。鬼丈の胃は空っぽなので、なにも出ない。でも、吐き気だけは襲ってくる。

「ちょっと待ってて、お水買ってくる」
「ごめん」
「いいから、いいから!」

 梨香子は小走りでその場を離れた。

 鬼丈はというと、情けなさで地面に肘をついたまま顔を上げられなかった。
 船酔いから解放されたのに、今度は陸酔いとは。心の整理もままならない。

「なんなんだよ。なんだって、こんな格好悪いんだよ。梨香子が知らない男と結婚する? いいもなにもねえよ。俺がもらうつもりだったんだよ。一人前の船乗りになったら、な」

 まだ、彼女にもしていない梨香子を嫁にしたいと思っていた鬼丈。
 くそぅ、くそぅと地面を叩きつけるしかなかった。


 ◇


「り、梨香子?」
「ん?」
「おまっ、ここがどこだか分かってて入ったんだよな」
「うん。フリータイムだから夕方まで休めるよ。体調よくなったらご飯食べに行こうね」
「いや、いやいやいやいや。そんな気安く入んなよ。てか、来たことあるのか、こういう所」

 あの後、水を買ってきた梨香子に連れられて港の近くのホテルに入った。なんでもない顔をして梨香子が入室手続きをして、今に至る。
 古き良き言葉で言うならばラブホテル。少しおしゃれに言うならばブティックホテルとか、レジャーホテルだろうか。

「怖い顔しないでよ。あるわけないじゃない。今日が、初めてだよ……あっちゃんとが、初めて」

 初めてという言葉に安堵して、初めてという言葉に緊張が走った。分かっている。梨香子は体調が優れない自分を休ませるために、ここを選んでくれたんだと。なのに、本来の目的が霞みそうになるほど、部屋の雰囲気が煽ってくる。

「そ、だよな。わるかった。その、疑って」
「気にしてないからとりあえず、横になって。ちょっと眠った方がいいよ。わー、さすがにベッドひとつだね。広いね」
「お、おう」

 市街地に行けばビジネスホテルがたくさんある。でもここは港だ。夜になると妖艶な光を放つ建物が並ぶ。幸いにして今は昼間。
 鬼丈は己の煩悩を振り払うように、ベッドに倒れ込んだ。

 軋むことなく自分を受け止めた大きなベッド。ほんのり香るストロベリー、枕元には当たり前のようにアレがある。横を見ればすりガラスの壁がある。その向こうはバスルームだろう。この部屋で男女がすることと言えばひとつしかない。

(考えるな! 俺は、いま、陸酔いのまっただ中だぞ! 寝ろ! 寝るんだ。兎に角、起きてくれるな俺のオレ!)

「テレビつけてもいい? 小さい音で見るから」
「ああ。俺のことは気にすんな」
「うん」

 鬼丈は枕に顔を沈めて目を閉じた。高鳴る心臓と、昂る己の理性を抑え込むために。

「あっ……あんっ、あんっ♡ だめぇぇ、そこ触っちゃ、だめぇ♡」

 鬼丈の背中に電気が走った。
 どう考えてもそれは女性の喘ぎ声だ。まさかまさかと薄目で見ると、慌てた梨香子がリモコンを持ち上げていた。

「はぁ、はぁ、はぁ……いいね。気持ちいいよ。君の中、最高だ」
「ああん、ああん」

 下げたかったらしいボリュームはどんどん上がる。消せばよいのにパニックになった梨香子はリモコンを落としてしまった。

「ほら、そろそろ我慢の限界だろ。イケよ、イっちゃえよ」
「あー、イクっ、イク、イッチャウゥゥ」

 どうにも止められなくなって、梨香子はとうとう悲鳴をあげた。

「キャーッ!」
「梨香子!」

 鬼丈はベッドから飛び起きて、リモコンの電源ボタンを押した。そして、耳を塞いで立ち尽くす梨香子を抱きしめてソファーに座った。
 梨香子は震えていた。

「ごめん! 俺が船酔いとか陸酔いとかしなけりゃ、こんな嫌な気分にならなかったんだ。すまん! 本当にすまん」

 梨香子には刺激が強すぎた。トラウマになりはしないかと鬼丈は心配した。これは自分のせいだ。梨香子はなにも悪くないのに。
 梨香子の震えが大きくなった。肩がカタカタと揺れている。

「梨香子、大丈夫か」
「ふっ、ふ……ふふっ」
「りかっ――」
「うふふふ、あははは。わたし、やっちゃった。ごめん、びっくりして止められなかった。そうだよね、あはは。そういう所だもんね。ごめんね、あっちゃん」
「笑ってんの⁉︎」
「あははっ、お腹いたいー」
「え、マジかよ!」

 梨香子は震えていたのではなく、笑っていたのだ。

「ごめん。普通の番組ないんだね。恥ずかしくてパニックになって、リモコン投げちゃった……」
「投げちゃったって」
「止めてくれて、ありがとう」
「おーまーえ~!」

 そういえば鬼丈は、梨香子のそういう性格に振り回されてきたのだ。あっけらかんとした、底抜けの明るさに鬼丈は救われてきたのだ。

「でもすごいね。あんな風になっちゃうんだね。あっちゃん知ってた?」
「なに聞いてんだよ」
「アレって、そんなに気持ちいいのかな。痛くないのかな……」
「わかんねーよ」
「ねえ、あっちゃんはしたこと、ある?」

 鬼丈は梨香子に真剣な眼差しを向けられて、息をのんだ。さっきまで笑い転げていた目じゃない。至極真面目に問いかけてきている。
 あるのか、ないのか、答えはその二択しかない。しかし、どう答えるかでこの先の関係が変わってしまう。

 思わずゴクンと唾を飲み込んだ。まだ、好きだと告白もしていないというのに、セックスの経験があるかどうかを問われている。
 梨香子は間違いなく経験はない。未経験者に対して、あると言うがいいか、ないと言うべきか。いや、そもそも自分は梨香子からどう思われているのか謎である。

 そして鬼丈は自身に問いかける。
『おまえは経験あるのか、ないのかどっちなんだ』と。あると言えばあるような、ないと言えばないような。あの時の経験が、どちらの枠に入るのか分からないのだ。

 鬼丈篤史、ここに来て絶体絶命である。
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