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もう一度、多田羅に太陽を
35、お母さんごめんなさい
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金木犀の香はどんどん濃くなり、朱実の思考すら奪おうとする。その香りは鼻の奥から瞼の裏にまで浸透して、脳に達していった。朱実に蒼然の昂った神経を抑える術はない。視界が薄れゆく中、泰然を想った。母の真実に辿り着こうとしているのに、非力な自分はいつも泰然に助けを求めてしまう。不甲斐なさに悲しくさえなる。
(結局わたしは、何もできない)
意識が遠のく寸前に、金木犀とは違う別の香りに包まれた。支えられなくなった体を、誰かが優しく抱き留める。薄く目を開けると、眉間にしわをよせた懐かしい顔が朱実を見つめていた。
「たい、ぜん、さま」
優しく香る沈丁花に包まれた朱実の心に安堵が広がった。例え夢だとしても、泰然の顔を見られたことが嬉しかった。同時に、彼が神だとしても夫は彼以外にいないのだとも思う。
心配そうに大きな手のひらが朱実の頬をそっと撫でた。その温もりに、夢ではないと確信した。
「朱実。待たせてすまなかった」
「泰然さま。来てくださったのですね……コホッ」
嬉しくて息を吸ったとたんにむせてしまう。まだ鼻の奥に金木犀の香りが残っていたのだ。それを知ってか泰然は狩衣の裾で朱実の体を覆った。そして、ゆっくりと口づけたのだ。
「んっ……」
不思議と鼻から胸の奥がすっと楽になった。目の奥を刺すような痛みは消え、代わりに沈丁花の香りが朱実を包み込んだ。
(泰然さまとわたしの匂い)
「よく頑張った。さあ、一緒に帰ろう」
泰然はどんな時も、朱実を咎めることなく優しく慰めてくれる。ひどく八つ当たりをした時だって、そっと見守ってくれていた。全てを投げ出して、泰然に甘えられればどんなに楽だろう。母のことも、蒼然のこともなかったことにしてしまえばいい。泰然に頼めば、記憶さえも消してくれるに違いない。
けれど、
「わたしはまだ帰れません。お母さんのこと、まだ全部を聞いていません」
「しかし、顔色がよくない。また日をあらためてはどうだ」
「いいえ。それは、できません。先延ばしにしては、蒼然さまの心も解放されない。多田羅に秋の神がいなくてもなんとかるかもしません。でも、蒼然さまの心はずっと曇ったままです。どうか、わたしのわがままを聞いてください」
「ううむ……」
泰然は目を閉じ考え込んでしまった。しばらくして、泰然はひどく項垂れる蒼然を見ながら口を開いた。
「わかった。これが朱実のためになるのならば、わたしはこの力を喜んで使おう」
◇
泰然が詞を唱えると、蒼然の体に変化が起き始めた。少し苦しそうに蒼然の顔が歪む。すると蒼然の体からもう一つの別の体が現れ始めた。それは、先ほど朱実の前に姿を見せた母舞衣子であった。
朱実はただ祈るように手を合わせ、目の前の現象を見守った。
泰然の声が大きくなった。
すると、蒼然の体と舞衣子の体がすっと離れ、目を閉じたままふわりと倒れていく。
「あっ!」
朱実が手を伸ばそうとしたときには、舞衣子は蒼然の腕の中にいた。眠っているのか、その横顔は穏やかで安心し切ったように身を委ねている。
蒼然はとても大事そうに、舞衣子を抱いていた。愛おしい人をこれ以上ないほどの、優しい眼差しで見つめている。それを見た朱実は胸が締め付けられた。
「おかあ、さん……」
泰然の詞が終わると、蒼然はようやく顔をこちらに向けた。そして、閉ざしていた口を開いた。
「泰然の手を、煩わせてしまいました。申し訳ありません」
「蒼然のためではない。朱実のためにしたことだ。それより、もう全てを話してもよいだろう。聞かせてほしい。わたしが多田羅に来る前のあなたたちの話を」
「分かりました。こうなってしまった理由をお話しましょう」
蒼然は舞衣子が生まれるずっと前から、多田羅の土地神だった。しばらくして、多田羅神社に舞衣子が生まれた。しかし彼女は生まれつき体が弱かった。それを心配した神主が、風師である蒼然に祈りを捧げたのが始まりだった。
それからずっと、蒼然は舞衣子の成長を見守ってきた。そしてしだいに、彼女を愛するようになった。
「舞衣子にはそういった気持ちはなく、ただのわたしの片思いでした。心清らかに育った舞衣子に、わたしの邪な気持ちを告げることはできませんでした。募る想いになんとか蓋をして、土地神を務めることにしました。しばらくして、舞衣子は結婚し朱実さんを授かりました。わたしも嬉しかったです。彼女の幸せな姿が見られたのですから。しかし、嬉しそうに話す舞衣子から、ある日病魔の臭いがしたのです」
「病魔……。それは母が亡くなる原因のものですね」
「はい。舞衣子の脳に腫瘍があったのです。人の力ではなす術の無い重いものでした。神ならば脳の腫瘍を消すことなど容易いことなのです。わたしの力をもってすれば、舞衣子は助かったでしょう。しかし……」
蒼然の言葉が詰まると、代わりに泰然が口を開いた。
「すなわち禁忌に触れることになる。神は人の命の期限を変えてはならない」
「運命は変えられないってこと、なのね」
「人それぞれ生きる時間は違うものだ。それをわたしたち神が変えてはならない。その代わり人は、死後に神となる。自分の家やその土地を守るために」
「わたしもいつか、多田羅を守る神になるのね」
「人として人生を終えればそうなるだろう」
「えっ?」
そういえば、ここに来たときに蒼然が言っていた。人と神が夫婦になるということは、どちらかが変わらなければならない。神が人として生きるのか、それとも人が神として生きるのか。
「あの、もしかして蒼然さまは母の病気を治すために母に婚姻を持ちかけたり、したのでしょうか。それを父が聞いてしまって蒼然さまに怒って」
「朱実さんはわたしの話をよく覚えていらっしゃいますね。わたしは舞衣子に神として生きることを提案しました。わたしと契ればその病からも解放され、愛する神社と街を守れると伝えました。でも、舞衣子は首を縦に振りませんでした。秋の大祭の日のことです。今思えば、もっと早くに想いを告げていればよかったですね。他人のものになる前に、攫ってしまえばよかった」
「でも、母は今、蒼然さまのそばにいますよ」
蒼然は首を小さく横に振る。
「彼女の意思で、ここにいるわけではないので」
「それは、どういうことですか」
「舞衣子は人の命を終え、神となっても患った脳は治っていませんでした。何も知らない、幼く無邪気な舞衣子には土地神は難しかった。それをよいことに、わたしはこの土地に彼女を連れて来ました」
「そう、だったんですね」
そこまで話すと、蒼然の腕の中にいた舞衣子が身じろいだ。そして目を開ける。蒼然は目覚めた舞衣子の背中を起こしてやった。状況を確認した舞衣子は驚くどころか満面の笑みを見せるのだ。
「朱実さん。あら、お隣の方は?」
「えっと……、わたしの夫です。実は彼、神さまなんです。多田羅という町の土地神で、神社も守ってくれています」
「申し遅れました。わたしは朱実の夫、泰然といいます。あなたの大切な娘さんを、妻として迎えました」
「わたしの娘? 神さまと結婚……?」
舞衣子は大きな目をクルンと動かして、首を傾げてしまった。まだ関係を告げるのは早かっただろうか。
すると舞衣子は蒼然の顔を見上げる。
「ねえ? 朱実さんは、わたしが人間だった頃の娘なの? なんとなく小さい時を知っているような、知らないような」
蒼然はゆっくりと瞬きをして、舞衣子の頬に手を添えた。
「もう、誤魔化しはききませんね。朱実さんはあなたが産んだお子さんです。あなたの夫であった賢木殿が大事に育てくれたのです」
「だからわたし、朱実さんを抱きしめたくなったのね」
「お母さん」
朱実は我慢ができなくなって、そう呼んでしまった。朱実の唯一残る母との思い出は、いつもありがとうの気持ちを持ちなさいと教わったことだ。
「春には土地神様が大地に栄養をくださり、夏には鳴神様が大地を目覚めさせ、秋には風師様が疫病を払い、冬には水伯様が清らかな水を蓄えてくれる。この国は昔から神様に守られてきた。だからわたしたちはいつも心に、感謝の気持ちを持たなければならない。ありがとうの気持ちでこのお面をつけるのよって、お母さんが……教えてっ、くれっ……うっ、ううう」
蒼然に支えられながら座っていた舞衣子が、目を丸くしながら手をついて朱実に近づいた。泣き崩れる朱実の肩にそっと触れる。
朱実は顔を上げて泣きながら詫びた。
「ごめんなさい。多田羅の町はいつも曇ってる。わたしの力が弱いから。狐の舞もお母さんみたいに踊れない。お母さんが守りたかった町はあまり元気がないの。泰然さまに頼りっぱなしな上に、大事な多田羅の神さまと結婚してしまった。ごめんなさい、ごめんなさい」
雨のようにポタポタ落ちる涙が、畳表に吸い込まれていった。
(結局わたしは、何もできない)
意識が遠のく寸前に、金木犀とは違う別の香りに包まれた。支えられなくなった体を、誰かが優しく抱き留める。薄く目を開けると、眉間にしわをよせた懐かしい顔が朱実を見つめていた。
「たい、ぜん、さま」
優しく香る沈丁花に包まれた朱実の心に安堵が広がった。例え夢だとしても、泰然の顔を見られたことが嬉しかった。同時に、彼が神だとしても夫は彼以外にいないのだとも思う。
心配そうに大きな手のひらが朱実の頬をそっと撫でた。その温もりに、夢ではないと確信した。
「朱実。待たせてすまなかった」
「泰然さま。来てくださったのですね……コホッ」
嬉しくて息を吸ったとたんにむせてしまう。まだ鼻の奥に金木犀の香りが残っていたのだ。それを知ってか泰然は狩衣の裾で朱実の体を覆った。そして、ゆっくりと口づけたのだ。
「んっ……」
不思議と鼻から胸の奥がすっと楽になった。目の奥を刺すような痛みは消え、代わりに沈丁花の香りが朱実を包み込んだ。
(泰然さまとわたしの匂い)
「よく頑張った。さあ、一緒に帰ろう」
泰然はどんな時も、朱実を咎めることなく優しく慰めてくれる。ひどく八つ当たりをした時だって、そっと見守ってくれていた。全てを投げ出して、泰然に甘えられればどんなに楽だろう。母のことも、蒼然のこともなかったことにしてしまえばいい。泰然に頼めば、記憶さえも消してくれるに違いない。
けれど、
「わたしはまだ帰れません。お母さんのこと、まだ全部を聞いていません」
「しかし、顔色がよくない。また日をあらためてはどうだ」
「いいえ。それは、できません。先延ばしにしては、蒼然さまの心も解放されない。多田羅に秋の神がいなくてもなんとかるかもしません。でも、蒼然さまの心はずっと曇ったままです。どうか、わたしのわがままを聞いてください」
「ううむ……」
泰然は目を閉じ考え込んでしまった。しばらくして、泰然はひどく項垂れる蒼然を見ながら口を開いた。
「わかった。これが朱実のためになるのならば、わたしはこの力を喜んで使おう」
◇
泰然が詞を唱えると、蒼然の体に変化が起き始めた。少し苦しそうに蒼然の顔が歪む。すると蒼然の体からもう一つの別の体が現れ始めた。それは、先ほど朱実の前に姿を見せた母舞衣子であった。
朱実はただ祈るように手を合わせ、目の前の現象を見守った。
泰然の声が大きくなった。
すると、蒼然の体と舞衣子の体がすっと離れ、目を閉じたままふわりと倒れていく。
「あっ!」
朱実が手を伸ばそうとしたときには、舞衣子は蒼然の腕の中にいた。眠っているのか、その横顔は穏やかで安心し切ったように身を委ねている。
蒼然はとても大事そうに、舞衣子を抱いていた。愛おしい人をこれ以上ないほどの、優しい眼差しで見つめている。それを見た朱実は胸が締め付けられた。
「おかあ、さん……」
泰然の詞が終わると、蒼然はようやく顔をこちらに向けた。そして、閉ざしていた口を開いた。
「泰然の手を、煩わせてしまいました。申し訳ありません」
「蒼然のためではない。朱実のためにしたことだ。それより、もう全てを話してもよいだろう。聞かせてほしい。わたしが多田羅に来る前のあなたたちの話を」
「分かりました。こうなってしまった理由をお話しましょう」
蒼然は舞衣子が生まれるずっと前から、多田羅の土地神だった。しばらくして、多田羅神社に舞衣子が生まれた。しかし彼女は生まれつき体が弱かった。それを心配した神主が、風師である蒼然に祈りを捧げたのが始まりだった。
それからずっと、蒼然は舞衣子の成長を見守ってきた。そしてしだいに、彼女を愛するようになった。
「舞衣子にはそういった気持ちはなく、ただのわたしの片思いでした。心清らかに育った舞衣子に、わたしの邪な気持ちを告げることはできませんでした。募る想いになんとか蓋をして、土地神を務めることにしました。しばらくして、舞衣子は結婚し朱実さんを授かりました。わたしも嬉しかったです。彼女の幸せな姿が見られたのですから。しかし、嬉しそうに話す舞衣子から、ある日病魔の臭いがしたのです」
「病魔……。それは母が亡くなる原因のものですね」
「はい。舞衣子の脳に腫瘍があったのです。人の力ではなす術の無い重いものでした。神ならば脳の腫瘍を消すことなど容易いことなのです。わたしの力をもってすれば、舞衣子は助かったでしょう。しかし……」
蒼然の言葉が詰まると、代わりに泰然が口を開いた。
「すなわち禁忌に触れることになる。神は人の命の期限を変えてはならない」
「運命は変えられないってこと、なのね」
「人それぞれ生きる時間は違うものだ。それをわたしたち神が変えてはならない。その代わり人は、死後に神となる。自分の家やその土地を守るために」
「わたしもいつか、多田羅を守る神になるのね」
「人として人生を終えればそうなるだろう」
「えっ?」
そういえば、ここに来たときに蒼然が言っていた。人と神が夫婦になるということは、どちらかが変わらなければならない。神が人として生きるのか、それとも人が神として生きるのか。
「あの、もしかして蒼然さまは母の病気を治すために母に婚姻を持ちかけたり、したのでしょうか。それを父が聞いてしまって蒼然さまに怒って」
「朱実さんはわたしの話をよく覚えていらっしゃいますね。わたしは舞衣子に神として生きることを提案しました。わたしと契ればその病からも解放され、愛する神社と街を守れると伝えました。でも、舞衣子は首を縦に振りませんでした。秋の大祭の日のことです。今思えば、もっと早くに想いを告げていればよかったですね。他人のものになる前に、攫ってしまえばよかった」
「でも、母は今、蒼然さまのそばにいますよ」
蒼然は首を小さく横に振る。
「彼女の意思で、ここにいるわけではないので」
「それは、どういうことですか」
「舞衣子は人の命を終え、神となっても患った脳は治っていませんでした。何も知らない、幼く無邪気な舞衣子には土地神は難しかった。それをよいことに、わたしはこの土地に彼女を連れて来ました」
「そう、だったんですね」
そこまで話すと、蒼然の腕の中にいた舞衣子が身じろいだ。そして目を開ける。蒼然は目覚めた舞衣子の背中を起こしてやった。状況を確認した舞衣子は驚くどころか満面の笑みを見せるのだ。
「朱実さん。あら、お隣の方は?」
「えっと……、わたしの夫です。実は彼、神さまなんです。多田羅という町の土地神で、神社も守ってくれています」
「申し遅れました。わたしは朱実の夫、泰然といいます。あなたの大切な娘さんを、妻として迎えました」
「わたしの娘? 神さまと結婚……?」
舞衣子は大きな目をクルンと動かして、首を傾げてしまった。まだ関係を告げるのは早かっただろうか。
すると舞衣子は蒼然の顔を見上げる。
「ねえ? 朱実さんは、わたしが人間だった頃の娘なの? なんとなく小さい時を知っているような、知らないような」
蒼然はゆっくりと瞬きをして、舞衣子の頬に手を添えた。
「もう、誤魔化しはききませんね。朱実さんはあなたが産んだお子さんです。あなたの夫であった賢木殿が大事に育てくれたのです」
「だからわたし、朱実さんを抱きしめたくなったのね」
「お母さん」
朱実は我慢ができなくなって、そう呼んでしまった。朱実の唯一残る母との思い出は、いつもありがとうの気持ちを持ちなさいと教わったことだ。
「春には土地神様が大地に栄養をくださり、夏には鳴神様が大地を目覚めさせ、秋には風師様が疫病を払い、冬には水伯様が清らかな水を蓄えてくれる。この国は昔から神様に守られてきた。だからわたしたちはいつも心に、感謝の気持ちを持たなければならない。ありがとうの気持ちでこのお面をつけるのよって、お母さんが……教えてっ、くれっ……うっ、ううう」
蒼然に支えられながら座っていた舞衣子が、目を丸くしながら手をついて朱実に近づいた。泣き崩れる朱実の肩にそっと触れる。
朱実は顔を上げて泣きながら詫びた。
「ごめんなさい。多田羅の町はいつも曇ってる。わたしの力が弱いから。狐の舞もお母さんみたいに踊れない。お母さんが守りたかった町はあまり元気がないの。泰然さまに頼りっぱなしな上に、大事な多田羅の神さまと結婚してしまった。ごめんなさい、ごめんなさい」
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