千里香の護身符〜わたしの夫は土地神様〜

ユーリ(佐伯瑠璃)

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もう一度、多田羅に太陽を

37、あなたが選んだ道

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 目の前には眩しいくらいの白い景色が広がっていた。思わず目を細めてしまうほどの強い光の中に、朱実はいた。

「ここは?」
「わたしが生まれた場所だ」
「泰然さまが、生まれた場所」

 辺り一面、ただ白く輝く世界はどこまでも続いている。泰然が生まれたという場所はまるで果てがない。暑くも寒くもない空間は、風ひとつ吹いていないし、音さえもない。いわば、無の世界だ。

「神は人々の祈りで生まれるのだ。多くの神がここで生まれ、人々が住まう土地に降りていく」
「泰然さまも誰かの祈りで生まれたのですね」
「そういうことになる。しかし、その祈りが弱くなったり忘れられると、その神は人間の言葉で言う死を迎える。忘れられて消えるならばまだ良いほうだろう。役立たずだと恨まれでもしたら、悪しき神となりその土地は呪われてしまう。神も不安定な生き物なのだ。朱実はそれでも神になりたいと言うのか」

 いつもの泰然の優しい眼差しとは違う。その瞳に厳しき光が宿り、朱実をたしなめるように問うのだ。おまえが思う理想の神の世界はない。むしろなんの保証もない、救いのない地位だと。

「泰然さまはわたしの気持ち、何でも分かってしまうのですね」
「その気持ちに右往左往してしまうがな。まだまだ未熟な夫だ」
「ちゃんと、考えましたよ? もしかしたら人々から忘れられ、泡のようにこの世界から消えることになるかもしれない。反対に、この世界に疲れても終わることはできない。でも、わたしは一人ではありません。泰然さまと一緒ならば、永遠の命を得るという不安も、いつかこの身が消えてしまうかもしれない恐怖も乗り越えられる。日々を大切に生きます。泰然さま、わたしをあなたの傍にずっと置いてください」

 泰然は目を閉じ、しばらく口を閉ざした。朱実の決心は揺らぐどころか強く硬くなってゆくのを感じる。人の子として生を受けた娘を神の世界へさらってもよいのだろうかと躊躇いはある。ましてや朱実は人生を全うしていない。人生半ばで神へ転身することは大きな代償を受けることになる。それは朱実だけの問題ではないのだ。

「朱実の決心はよくわかった。その決心には感謝しかない。なぜならわたしは朱実を永遠に失うことはないのだから。その代わりに、人々は多くのものを失うことになる。その覚悟もあると思ってもよいのか?」
「人々が失うもの、ですか?」
「朱実が神になるというのは特殊な事例だ。普通は死後に家や土地の守り神になる。それは家族や友人、関わってきた人々も納得した上での別れだ。でも朱実の場合はそうではないから、人であった事実を消さなければならない。それは初めから、人の世になかったものとして処理しなければならないということだ」
「それって、多田羅の町にわたしは存在しなかったことにしなければならないということですよね。初めから居なかったように......、ということは、父や友人からわたしの存在が消えるということ......」

 朱実が人として生を受け、生きてきたこれまでの歴史を全て消す。そうなったら、養子として多田羅神社にやって来た父はどうなるのだろうか。町の人々は、友人たちは、朱実の存在が消えたら、どんな人生を歩むのだろうか。朱実一人が人の世から消えたら、どんなふうに世の中が回るのかは誰にも分からない。

「父はどうなるの? わたしが消えたら、父の人生は? まって、母は? 今は神になっているけれど、わたしが消えたら......」
「それは、わたしにも分からないが、彼らは今とは違う別の人生を歩いているのだと思う。ただ言えるのは、多田羅の町だけは変わらずにそこにある」

 なんという事だろうか。たった一人の人間が、関わってきた人々の生活を変えてしまうかもしれないなんて、正直思っていなかった。大切な家族の今ある生活を全く違うものに変えてしまうなんて、誰が想像できようか。

「わたし一人の存在が、関わってくれていた大切な人たちの今を変えてしまう......」
「無理に神にならなくてもよいのではないか。わたしは朱実と一緒に人として生きることは問題ない。共に老いながら多田羅の町を守ればよいだろう。わたしは初めからここに存在したわけではないのだ。世に与える影響は少ない」

 泰然は悩む朱実をそっと引き寄せた。不安でいっぱいな頼りない体を抱き寄せると、安心したようにすぐに細い腕が背中に回された。

(一人で背負わなくていい。何のためにわたしがいるのだ)

 すると背中に回された腕が解かれた。朱実は一歩あとずさり、泰然の顔を見上げた。とても思いつめた顔だ。

「泰然さまは皆の祈りで生まれたのでしょう? だったら泰然さまはその祈りがある限り、神様として生き続けなければいけない! わたしのために人になっては、いけない!」
「朱実」
「泰然さまは多田羅の町を守るために生まれた土地神様なの。大事な春を司る神様。それは皆の願いなの。だから泰然さまは神でいなければならない。これはわたしの願いでもあるから」

 泰然とずっと一緒にいたい。
 でも、父や町の人たちのことを考えると胸が痛くなる。彼らがこれまで築いてきたものが、朱実が消えることで台無しになる可能性があるのだ。人の世にはあまりにも多くのしがらみがありすぎる。
 一晩悩んだ決心が、今になって揺らいでいる。
 そんな自分が腹立たしい。たくさんの人と神様を巻き込んでもなお、迷う自分がいるのだ。多田羅の町に太陽を、多田羅の町に繁栄を。ただそれを願っていただけなのに。

(だめ、こんなことで迷っていたら泰然さまに伝わってしまう)

 すると静かに聞いていた泰然が朱実の手を取り、背を屈め視線を合わせながら再び口を開いた。

「朱実。わたしは貴女に出会えてよかったと思う。神として生まれてすぐは、己が何者なのか理解できていなかった。訳の分からないまま、多田羅の土地神であった蒼然を探す旅に出た。やみくもに走り迷い込んだ鎮守の杜で、妙な輩に襲われそうになっている貴女を見つけた。するとなぜかその輩に怒りが湧いた。わたしのものに触れることは許さないと。初めて感情が動いたのだ。なぜだろうな。生まれたての赤ん坊に近い神でありながら、一瞬にして朱実に惹かれたのだ。心に火が灯ったようだった。荒神にならずにすんだのは朱実のお蔭なのだ。わたしに神へのこだわりはない。ただ、貴女と一緒にいたいと願っただけ。これがわたしの神としての運命ではないだろうか。それはとても幸せな時間であったと思う」

 泰然は出会ったあの頃を懐かしむように朱実に微笑みを見せる。あまりにも悟った表情でなぜか恐ろしさを感じたほどだ。まるで別れの言葉のように聞こえたからだ。

「泰然さまっ」
「朱実には感謝しかない。こんなにも誰かを想う気持ちが生まれるとは思っていなかったことなのだ。神使にも恵まれたし、慈悲の心も芽生えた。朱実の多田羅を思う気持ちがわたしをそうさせたのだろう。朱実が言うように、わたしは多田羅の神であらなければならない。そう、改めて思ったよ。まったく神としたことが、人の娘をここまで追い詰めるとは......わたしは本当に未熟な神だ」

 泰然が慈しむように朱実の頬に手を添えた。指の腹で優しくその肌を撫でる。そしてゆっくりと顔を落とした。
 朱実の額に、こめかみに触れるだけの口づけを落としていった。眉間に、瞼に、鼻先に、そしてゆっくりと赤く染まった唇にそれを重ねた。初めは浅く、しだいに深く、泰然という男を刻むように朱実の唇を開き、熱い舌を絡めた。
 朱実も求めるように泰然の体を引き寄せた。この優しさから離れたくないと願いながら。
 ずっと、この幸せが続けばいいのに。
 神だとか人だとか、そんな垣根はなくなればいいのに。

 そして、泰然がゆっくりと朱実から離れた。

「土地を守るのはわたしの役目だ。わたしのために心を患う必要はない。わたしはずっと朱実を見ている。如何なる脅威から守ると誓おう」
「泰然さま? 待って、なんか変です。どうしてそんなことを言うのですか!」
「わたしは朱実の幸せを願っている。それを叶えるのがわたしではなくてもいい」
「嫌です! わたしはっ、泰然さまがいい!」
「承知している。わたしも朱実を......して、いる」
「泰然さ......ま」

 なぜか急に泰然の声が遠くなった。最後の言葉が聞き取れない。
 大きな耳鳴りが襲い、目の前が真っ暗になった。瞼が下がるのをありったけの力で抗おうとした。目を閉じたら、二度と泰然に会えない気がしたからだ。

(嫌、嫌です。お願いだから、眠りたくない......)

 無情にもそれは叶わず、闇深くへと導かれていった。
 大事なものが手の中から零れていくのを感じながら。
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