The blue moonlight

瀣田 花音

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Chapter.3-1

Burn up the red eyes.

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 軍の催しが終わり、一夜明けた朝の出来事。
 フィーヴァの町外れに悲鳴が鳴り響いた。
 エルゼイクにとっては未だにライゼルカが帰ってこない事を悩みの種にして、寝ようにも寝れない夜を過ごし、ようやく目を閉じて明日に意識を持ち込めると思った矢先の悲鳴だったので、多少苛立ちを覚えながら、瞼を強引に開けてそのまま朝の支度を済ませて、朝市の為に別荘の戸を開けた。
 すると、別荘の目の前には何故か、昨日のパレードとは比較にならないほどの人でごった返していた。
 この街ならではの賑やか、という喧噪とはほど遠い、所謂、騒ぎが巻き起こっていた。
 様々な言葉が飛び交うせいで、何が起こっているのかも分からなかったエルゼイクだったが、一旦その場を離れようと人混みから遠ざかると、ようやく行き交う人の声を拾うことが出来るようになったが、

「人が殺されたんですって」
「顔が見えなくなるくらいに殴られてたらしいな」
「しかも女性よ。女性の顔に傷を負わせて殺すだなんて信じられない」

 極めて物騒な言葉が飛び交っていたことも相まって、気にせざるを得なかったエルゼイクは来た道を引き返して、人混みの中へ飛び込んだ。
 様々な人がごった返している中でカメラとメモを所持した新聞記者の姿が何人かいたせいもあって、じわじわとエルゼイクに不安を誘った。
 我が我がと言わんばかりのカメラマンやジャーナリストの人混みを小さな身体でくぐり抜けると、シートを被せられた人―――だったものが足をそこから覗かせていた。
「え」
 エルゼイクはその足―――靴に見覚えがあった。薄いエメラルドの色をしたエナメルのローファー。たまに、エルゼイクが視線を下にやるときによく目に映ったものだ。
 側面には黄色い花の飾りがあって、今それはうっすらと赤い液体で染まっていた。
「顔がぐちゃぐちゃで判別がつかないな……… 恐らくは……… うーん、証言が無いとなんとも言い難い」
 警察が呟く。
 同時にエルゼイクの呼吸が荒くなった。目も見開いたまま閉じ方を忘れてしまっていた。
「今、情報が入った。遺体は一つじゃなかったそうだ。そっちはまだ顔に面影があるんだが……… これはかなり厄介な事になりそうだ」
「少し教えて頂けませんか?」
 先ほどやってきたばかりの警官が、遺体の確認をしていたもう一人の警官に耳打ちをした。すると、調査をしていた方はそれを聞いて思わず口を手で塞いだ。
「………災難続きっすね、あそこ」
「下手に手を出せない。どうなるかなんてこっちも知る由もない。天に身を任せるほか無いのさ、この案件は」
「俺たちの仕事って………」
「とりあえず、この遺体について―――」
 エルゼイクはそれでも沈黙を貫かざるを得なかった。
 ああ、あの靴には勿論心当たりはある。
 昨日、その靴を見たからだ。
 綺麗な格好で自分に合いに来てくれて、自分の父とも打ち解けてくれて、そして、また会おうと言ってくれたあの人。

 エルゼイクは信じたくはなかった。


「遺体の女性はこの辺のカフェに勤めているキャサリン、キャサリン・ミントという女性との事です」


※ ※ ※


 ルインツエイラの屋敷は山の奥地にあり、麓の方への道を辿ると森の中に入る。そこで、さくらんぼの木を目印に、道を外れてそのまま真っ直ぐへ向かうと池がある。ここはマルセルが幼少期の頃から釣りやスケッチ、水遊び等でよく使っていた場所だった。同時に、彼に安らぎを与える場所でもあった。
 勿論、この場所を知るものは新聞社は愚か、家族ですら誰も知らない。もっとも、マルセルの亡くなった両親は知っていた訳だが。
 抱えたものが多すぎて、ここへ久しぶりに戻ってきたマルセルは池の前の草むらに腰を下ろしてその風景を眺めていた。
 彼が今まで生きてきた上で唯一変わらない景色がそこにあった。
 童心に帰りたい一心で無意識にここへやってきたが、それだけでは変わらない事は彼も重々承知の上である。
 ただ、この場にいると何故か落ちつきを得られるのも昔と同じ。
 ため息を一息吐いて、鏡のように映る池の水面で自身の顔を眺める。幼少期の頃よく眺めていた当時の自分の面影はどこにもなく、今の状況から引き返すことなど不可能だと返って思い知らされた。そんな憂鬱から気を紛らわす為にそっぽを向いて葉巻を咥え、マッチで火を付け、明かりで周りがぼんやりと輝く。
 すると、これまで暗闇で見えていなかった視界から、一つ、人影のようなものが映った。
 少しだけ火の位置を顔の方まで上げると、その人影の瞳が一瞬だけ光輝き―――

「私は、悪くない。人を愛することは悪い事じゃない。そこに善悪なんて無い」

 声を聞いて唖然としていると、いつの間にか火は消えていた。
 もう一度マッチで火を付けて、先ほどの人影を目で追っても、どこにもいなかった。そして、その火でようやく葉巻に火を付けて一服するも、どうも気が紛れない。
 娘には励みになる言葉を投げかけられたものの、本当はマルセル自身が最もその言葉をどこの誰でもいいから欲しがっていた。そんな寂しさが募る一方で、ここまでやってきた事を彼本人はまだ自覚していない。これが気が紛れない理由。
 この時、久しぶりに前妻のルーンの事を思い出した。
 あの時、追い返すような真似をせずに上手く説得出来ていれば、と。表立った行動を起こさずに窘めることが最善かつ最も難しい平和への道筋だという事はいつの世も変わらず、この国に軍隊なるものが存在しているのも、いざという時のため。警察だってそう。
 全てが全て上手くいくはずなんて無いのに、状況が過去に答えを求めてしまう。
 再びため息を吐いて、立ち上がったマルセルは、ここにこれ以上いる必要はない、と場を離れようとして三歩歩くと、今度は大きな革のベルトのようなものに、足を引っかけた。
 躓く事は無かったが、なんだろう、と確認するとどうやら馬具―――手綱だった。
 それも見たことのある手綱だった。一輪のコスモスの花をモチーフとしたルインツエイラの紋章が刻まれた金具が革と革を留め具として繋がれていた。かつて飼っていた馬が身につけていたものだ。
 かつて車を買った際に、引取先が見つからずにその場で逃がしてしまった。その残骸だと言うことは考えるまでも無かった。
 マルセルは、己の無能でどれだけの命を奪ってきたのだろう、と再びふてくされかけたその時、再び先ほど聞いた声を聞いた。

「馬って動物は本来絶滅しているものよ。少し怪我をしてしまえばすぐに身体が弱って死んでしまう生き物なのだから当然よ。自慢の速い足も酷使してしまえばすぐに折れてしまうし、折れたら心臓に血液を送るためのエネルギーも蓄えられない。出産も一度に一匹から二匹が限度。それに繁殖期が定まっている。こんなに生存に不都合な動物なのだから、人間無しで生きていくのなんて無理なのよ。気にしなくてもいいの」

 囁きのような、小さくて、それでいてはっきりと聞き取れる声色だった。
 マルセルは、その声を聞いた事は無かったものの、波長や言葉の選び方に似ている人物を直ぐさま連想した。前妻のルーンだ。
 特に命については語る事と言えばルーンから得られるものは確かに多かった。植物学者ではあったものの、その知識は植物だけにとどまらず、それらが生えている地形や地質、気候、生息している動物の生態系等など様々であった。馬の話も、どこかで聞いたことがあった。

「君は、誰なんだね」

 マルセルのそれまでの心境と今の状況がマルセルに畏怖感を与え、それを抑えるために敢えて声に出して問いかけた。勿論、周りを見ても誰もいない。真っ暗闇のみが存在する森林の中で池に映った月の光だけが揺らめきながら輝いている。

「私は貴方の愛するものを愛するもの、とだけ」

 声がもう一度聞こえると、今度はマルセルから見て右側の茂みから二度、橙色の明かりが点灯した。何かの電灯だろうか、と光の方へと濡れた地面に気をつけながら進んでいくと、また光が一瞬だけ点灯する。
 普段ならくだらないと無視していたこの状況に、マルセルは何かがある、と錯覚して、再び光の方へとついていく。すると、また視線の先で光が点る。光ってはついていき、光ってはついていき、これを何度も繰り返すと、マルセルの視線に点る光が段々と薄くなっていった。と、いうより周りが明るくなっていった。
 錯乱状態に近い心境の中で考える余地もなく、マルセルは最後の光を見つけ、足を進めると―――

「ようやく出てきたな。マルセル・パルム・ルインツエイラ」

 気付けば紺色の警護服を身に纏った何人もの警官がマルセルの周囲に立ち塞がっていた。勿論、何かをした、という覚えなどない。寧ろ、ここ最近まで被害者として世話になっていた立場であるが故に、目の前にいる若い警官の言葉の使い方に耳を疑った。
「………な、なんだね。それに、こういうときは―――いや、なんでもない」
「なんだねもこうもないだろう。分かっていてやっている癖に」
 マルセルには今の状況を読み解く術はともかく、自身や周りに対する疑いすら考える余裕も無かった。思い当たる節といえば、サリエラが偽造したありもしない噂を流布させた、くらいのもので、彼女もそのような事を進んでやってのける人間性はしていない。
 ならば、今の状況はなんなのだろうか。あまりにも突然で何かを考えたとしても言葉として発信する事など不可能に近しい。
 ならば、せめてもの自身にかけられている容疑とはなんだろう、と警官に問うた。
「単刀直入に言うが、私は何をした?」

「こいつ、正気かよ。自分の妹を殺っておいて」

「――――――いま、なんと?」

「だから、お前を、サリエラ・ローズ・ルインツエイラ殺害の容疑で逮捕する、と言っているんだ!」



※ ※ ※



「今日は、どうだったの?」
「ええ、とてもいい日でしたわ。お母様」
「いつもは良くないみたいね」
「ここ最近は、ちょっと……… でも、今は元気ですよ。お母様」
「何かあったの?」
「いえ、その………」
「言いづらそうな事があるみたいね。無理に話さなくてもいいわ」
「………………では、お言葉に甘えます」
「でも、随分と大人になったのね。そろそろお花が咲きそうだわ」
「思春期、という意味合いでしょうか?」
「そんな所ね。蕾、うん、そう、蕾よ。貴方は蕾」
「………は、はい」
「でも、このままでは咲くかどうかは分からないわ。蕾のまま咲かずに地に墜ちていく花もあるの。今はじっと我慢する時」
「何もしなくてもいいって事?」
「いいえ、貴方の場合はいつも気を張ってばかりだから、少しは休みなさい」
「私は休んでいるつもりなのだけれど………」
「傍から見たら貴方はいつも無理をしているわ。ええ、頑張り過ぎなのよ。無意識に」
「分からない。頑張らないが分かりません」
「なら、幸せを覚える事ね。私が貴方――――――いえ、貴方達にしてあげられなかったことね。親として今も恥じているわ」
「――――――幸せ?」
「ええ、幸せ。幸福」
「私は幸せですよ。いえ、幸せでした」
「全ての幸福が過去にある、と言いたいのね。ライゼルカ」
「………はい」
「そんな事はないのよ。今までの積み重ねがここにあるから、貴方はここにいるの。生きている事そのものが幸福なの。これは私の幸福。そして、それを他者―――私以外の人間全てに振る舞う事も私の幸福」
「その為にお花の研究を?」
「ええ、でも、もう出来なくなってしまったわ。ダメって分かっているの。でも、続けて良かったと今は思っているわ」
「………………屋敷を追い出されても、ですか?」
「あそこから出て不便は増えたけれど、でも、私の幸福、希望は消えていないわ。その為の貴方達」
「寂しくはないのですか?」

「………………寂しいわよ。とても、とても、とても、寂しい。でも、今だけが今の私ではないの。だから、貴方も、貴方なりの幸福を見つけなさい。そして、自分以外の人に振る舞いなさい」


『起きて、そろそろ目覚めの時間だよ』
 目映い陽光が瞼の裏側の暗闇をぼんやりと照らすと、ライゼルカはようやく目が覚めて身体を起こした。
 辺りを見渡せばそこは知らない部屋、知らないベッドの上。その右側のサイドチェストの上には赤い薔薇が差された花瓶が置かれていた。
「ここはどこ?」
『覚えていないの? 君はあの後眠りこけて、一緒に居た男の人がここまで運んでくれたんだよ。場所は―――君の知らない片田舎』
「………………そう、だったのね」
 ライゼルカの記憶から、ここまで来た記憶はすっぽりと抜け落ちていたようで、どうも腑に落ちなかった。混乱を交えながら寝室から出ると、
「おはよう。昨日は楽しかったね――――――って、あれ」
 寝室の隣はダイニングルーム。テーブルの上でジェインが朝食を並べている所だったが、ライゼルカの顔を不思議そうに覗き込んでいた。「お、おはよう」と、ライゼルカは恥を隠すようにぎこちなく、長い髪で顔を隠しながら会釈をした。
「君、なんかあった?」
「え、いや、そんな」
 ジェインにはライゼルカの顔はよく見えなかったが、彼女の表情に異変があるのには気付いていた。勿論髪で顔を隠しているのだろう、というのは把握している。

「涙の匂いがする。嫌な夢でも見たの?」

 ライゼルカは自分が泣いていた事に気付かず、言われてから鏡を見てはじめて自覚した。何故泣いているのかは本人にも知れず、止めようと目を拭っても涙が溢れんばかりだった。
「………なんで、なんで涙が出るんだろう」
「君、大丈夫? 相当嫌な―――」
「いえ、そんな、嫌という言葉で括っていいものではないんです。でも、なんか………」
「ご飯は落ち着いたらでいいよ。もし良ければ話も聞く」

 暫くするとライゼルカの涙が止まった。そして、自身の身分を隠しながら、自分が見た夢の内容をジェインに話すと、彼もまた複雑そうな表情を時折見せながらも、できるだけ平然を装うような素振りを見せた。
 ライゼルカにはジェインの細かな表情の変化を読み解くことは出来なかったが、少しだけ様子が違うような気を感じ取りつつ、敢えて言葉にはしなかった。
「お母様はとても、純粋な方でした。ええ、今でもその透明さに勝るものはありません」
「不鮮明なものほど憂鬱を生み出すものもないし、透明度はどこへ行っても大事だよ。それが争いの引き金になったとしても、解決したら平和を生むことだって出来る」
「いいえ、そういうお話ではありません。お母様は争い事が苦手です」
「というと?」
「かなりわがままでした。態度には見せませんでしたが、ここまで生きてきて彼女より我の強い人間には出会った事がありません」
「繊細な方だった、という事かな」
「普通の人には分からない繊細さはありましたね。でも、いい人でした。誰に対しても言葉遣いは丁寧で安心感を与えてくれる、そんな存在です」
「いいお母さんだったんだね」
「お父様には嫌われましたが」
「何か訳でもあったんでしょ、どうせ」
「ええ、多分。聞いても何も言ってくれないから、こっちは今も何がどうなって出て行ってしまったのかは分からないわ」
「今はお母さんと連絡は取れるの?」
「取れるわけないじゃない。この国で得た資格の全てを剥奪されて退去させられたのよ。今どこにいるのか、何をしているのかも分からないわ」
「―――資格の剥奪………って、そんなに悪い事でもしたのかい?」
 そう聞かれてライゼルカは自分の身分を察せられると思い、冷や汗をかいた。
「い、いえ、あ、いや、その………」
「何か隠しごと………の雰囲気がしたけど、まぁいい」
「誰にだって秘め事の一つや二つくらいあったっていいでしょう?」
「少し君に見せたい物があって」

 食事を取った後、ライゼルカはジェインと共に外へ出て散歩をする事になった。
 今いる場所が片田舎であるとはじめて気づいたのはともかくとして、ここまでライフラインなるものが行き届いていない場所に足を踏み入れたのはライゼルカにとって初めてであった。自らが以前住んでいた屋敷の周囲の事もあって自然そのものの景色に不慣れ、という訳ではなかったが、機械らしい機械――――――人工物の少なさがその自然の風景を彼女にとって新鮮さを与えていた。
 麦畑を通り越して森林の目の前に着くと、墓石が一つ寂しそうに立っていた。
「これが僕のお母さん。今は石になっちゃった」
 ジェインが面白おかしく言った。ライゼルカはそれをどう受け止めていいか分からないまま、沈黙した。
 それでもジェインは続けた。
「僕のお母さんはね、とても優しい人だったんだ。病的に優しかったって今になって思う。子供の頃はそういうのが一切分からなかったんだけれど、今こうして軍人という職に就いて………って、違う、多分、どんな職に就いても一緒だ。僕がやりたかった事の全ての一切を否定しなかったんだ。
 僕は生まれつき目が良くない。全てがぼんやりと霞んでいて、眼鏡をかけてもそれは変わらない。色も皆が指摘しているのと違うものに見える事もしばしばあるんだ。
 そのせいで幼少期の頃はよくいじめにあった。テントウムシのいろは何色みたいな。普通は赤色に黒い斑点がついてるみたいだけれど、僕には緑色に白の反転がついているように見えたんだ。今も同じ。そこを横槍つかれて―――内容に関してはあんまり言いたくないな。
 そこで、僕はお母さんに言ったんだ。いじめられているって。目が悪いからだって。そしたら、お母さんは『人に下を創る人間はいつしか下に追いやられて、自覚のないまま底へと下っていく。昇りたいなら人を認めなさい』って言ったんだ。今なら分かるけれど、その時の僕は何も分からなかった。でも、お母さんを裏切ったりしたくないから、僕は―――」
「君はいじめた相手に何かした―――ってこと?」
「ううん、全然違う。敢えて尽くしたんだ。食料送ったりとか、水送ったりとか、色々」
「なんで」
「逆に相手が僕に対してどう思っているのかってのを確かめたかったんだ。性格の悪い行動だよ。
 でも、なんか自分の中で違ったんだよ。やっちゃいけない、しちゃいけないって」
「………どういうこと?」
「分からない。今でも。でも、今こうして自分が立っていられる事に感謝している自分がいる事になんの不満もないから、どうこうすべきでもないかなぁって。別に怠惰であるわけでもないんだよ。本当に、自分が、自分のしたい、すべきことを全うしてここに立っているんだなって」
「私を含めてって事?」
「わかんない。でも、そういうことなのかな。わかんないけど」

 ジェインの言葉を最後に暫く沈黙が続いた。そして日の暮れが迫った時にライゼルカがくだらない世間話(好きな食べ物)等の、話題を持ち込んで会話を続けようと努力をしたが互いに言葉を紡ぐ事ができなかった。
 そして、ライゼルカは暫く考えた後、自分の母親がどうなっているのか考えて、もしかしたらもう死んでいるのかもしれない、という不安に駆られた。もう十年も会ってない。
 その不安の塊は段々肥大していくと共に、憂鬱が顔に出るようになった。
 気になったジェインは、
「お母さんは確かに死んだ。でもね、いなくなったって考えてない」
「何? いきなり」
「君、どうせ君のお母さんはもう既に死んだって考えてたでしょ?」
「え」
「声の色でなんとなくわかるよ」
「………そうやって人の心を分かった気になって物事言うのは相手方に対して失礼―――」
「まぁ、続けるよ。君が何を言っても、嘘をついて誤魔化しても、何かを隠していても、僕は僕を信じている。だから、続けるね。
 僕のお母さんのお墓、綺麗だったでしょ?」
「………確かに」
「僕のお母さんの友達がよく掃除に来てくれたから、綺麗だったんだ」
「それとこれと何が関係あるの?」
「命ってのはね。他の人から完全に忘れられて初めて終わるものなんだ。裏を返せば僕のお母さんを覚えている人がいるのであれば、その命そのものはまだ消えてはいない。
 君も君のお母さんのことを覚えている限り、その命は決して消えない」
「永遠に生きていられれば、他人の命も永遠になる、みたいな言い方ね」
「間違っていないと思うよ。その考え方。皆のことが大事だから長生きしようってみんながなるんだ。それに、どんな生き物もそうだけど、死にたくはないんだ。死を知らないから」
「例え死を知らぬまま死を迎えるものがいたとしれも、あなたは同じ言葉を投げかけられるの?」
「かけられるね。痛みでさえ通じ合えば」
「不思議な人」
「なんとでも言えばいい。僕はそうやって生きてきた。そして生きている」
 ジェインの言葉を聞いたライゼルカは不思議と不安のようなものがかき消されていった。どの言葉が引き金になったのかは本人にも分かってはいないが、居心地がよかったのか、心は安心感で満たされていた。

 墓参りを終えた二人は素直に家に帰ろうとしたところ、ジェインは買いだしに行く事を咄嗟に思い出した。ジェインが住んでいる家に車は無い。
 代わりにいたのは馬だった。走りというものを知らなさそうなほど太い足と体格をもった大人しそうな芦毛の馬だ。
 時折首をぶるぶると震わせ、荒々しさを見せる瞬間もあったが、ライゼルカとしてはこれが可愛く映った。
「初めて? 馬見るの」
「私も飼っていました。でも、車の購入をきっかけに手放してしまいましたけど」
「みんなそうなんだね。この辺は燃料買える所がないから、馬でしか移動出来ないし、維持も難しい。仕事では乗るんだけどね」
「飼ってた頃はあまり気にしていなかったのだけれど、よく見ると色んな仕草をするのね、馬って」
「耳をひくひくさせたり、とか?」
「そうそう、普段触れ合う動物と動きが違うから見てて面白いのかも。鼻ひくひくさせたりとか」
「そのくせ前歯は人間とそっくりだ。四足歩行なのに」
「ははは、確かに」
 その馬の名前は『ミドラーシュ』。天啓を意味する名だった。
 特にその名に拘りはなかったらしいが、叔母が咄嗟に放った言葉をそのまま名前にしたらしい。
「後ろは大丈夫? 不快感はない?」
「無いです。とても、乗り心地はいい」
「にしても、慣れてるね。そんなに乗る機会あったの?」
 ライゼルカはもの言いづらそうに、
「あ、いえ、家がそういう家系でして………」
「昔はとても高かったからね。それこそ今で言う車くらいの値段だったし、牧場かなんかだったのかな?」
「たははは」と、笑顔で返した。勿論、ルインツエイラ家は牧場もやっていたので事実ではある。
「すごいね。僕、この目じゃなかったらジョッキー。この仕事―――軍人ってのがなかったら死に物狂いで牧場に勤めようと思っていたんだ」
「どうして?」
「多分君も知っていると思うけれど、大半の動物ってね、人間の僕達よりも目が悪いんだ。ぼやけて見えたり、一部の色しか認識出来なかったり。中には僕達人間よりも目のいい動物はいるんだけれど、人間ほど頭が良くなかったりする」
「それは知っているけれど………」と、視力の事を言おうとしたが、相手方への無礼を弁えてライゼルカは口を閉ざした。
「ペットはともかくとして野生の動物たちっていつも戦争なんだ。食ったり食われたり。そこには目の善し悪しも無い。身体の善し悪しもない。死ぬ奴は死ぬし、生き残るやつは生き残るんだ。それは人間も同じだけれど、人間は簡単にその動物たちっていうのを、身体の能力の差を知能で支配しているんだ。
 だから、その動物たちを救うか、或いはその野生で生きている動物みたく戦いたかった。殺しをしたいわけじゃない」
「あなたは人間が嫌いなの?」
「好きだよ。人間は他の人間がいないと生きていけないからね。社会的動物ってやつ」
「そのようなことを記した本をどっかで読んだことあったわ」
「動物は自然から知恵を学び人間へ近づく。人間は人間から学んで知識とする。知識の融合が知恵になる」
「他にも、人間は人間がいて感情を得る、とか」
「ま、そこは動物の感情みたいなのを読み取れないだけだと思うけど。馬だって怒るときは怒るし」
「確かに」と、ライゼルカは微笑むが、ジェインは続ける。
「でも、笑うことって人間にしか出来ない。そして笑顔を見ると僕も笑顔になる」
 ライゼルカはすんと、真顔に戻ってみせるが心底では嬉しさを覚えていた。
 この会話を終えた二人は暫くして再び小屋へ帰っていった。辺りは夕焼けに染まっていて、風が凪いでいる。
 やがて、新月の夜を迎えた。今日という日に限ってはムーンライトは沈黙を貫いていた。




※ ※ ※



 マルセルの収容されている鑑別所は彼が特権階級の人間だからと言って小綺麗な場所を用意された訳では無く、道の脇を見ればネズミの亡骸が拝めるほどに小汚い場所であった。
 固いパイプ椅子に座って、暫く、警官が一人やってきた。
「落ちぶれましたね。ルインツエイラの公」
「わ、私は何も………」
「言い訳後で聞きます」
 しばらくの静寂の後、マルセルに対する尋問が続いた。殆どの答えを否定で返しているのにも関わらず、理不尽な問いかけがこれでもかというほどマルセルの心をいたぶった。
「他に言いたいことはあるか?」
「どうせまた揚げ足を取るつもりだろう。そうやって人の―――」
「弱い部分につけ込んで人の上に立つことは簡単で―――っておっしゃるつもりですか?」
「そんな事をいうつもりは滅相もない。でもな、話には」
「とりあえずおちついてください」
 マルセルはむすっとした表情を警官に対して浮かべて腕を組んだ。
「自分自身が行った行動について、把握はされていらっしゃいますか?」
「だからしてもないしやっていない。突然捕まってこちらはてんやわんやしている」
「こちらも仕事柄、人殺しのあなたと突然お話しなくちゃいけない」
「なら、どうやって殺したって言うんだ。自分の妹だぞ」
「娘の事で口論になった。それくらい上の方々から話は聞います」
「そんなことで――――――」
「屋敷を燃やしたのは娘さんと言うことも話には。これに関しては新聞屋にはまだ口外していませんが―――………そのうち世に出回る事でしょうね」
「………………それは―――」
「貴方も疑っている。いや、確信ですかね。どうせ、この件も家族ではない誰かに罪をなすりつけてもみ消そう、って魂胆だったんでしょう」
 図星をつかれてマルセルは何も言い返す事が出来なかった。
「何がどうなっているんだ………」
「それはこっちが聞きたいです。別件ですが、娘さんの―――ライゼルカさんの同級生が学校付近の街の排水路で亡くなられていたのはご存じですかね? それも二人」
「それは全く関係無い」
「そうでしょうか? あの悪名高い『レオンポスト』に所属していた貴方の事ですから少々信用に欠ける部分が―――」
「そこはもう辞めた。とっくに」
「ま、それが原因――――――ごほん、失礼」
 マルセルは相手の警官を睨んだ。警戒心とどこまで探りを入れられているのか、根拠のない疑いを持たれているのか、焦燥と怒りを覚え、そこから来る貧乏揺すりで机の上の電気スタンドが揺れた。
 それを警官は訝りながら眺めていたが、表情は変えなかった。しばらくして、警官は思い出したかのように一言。
「そういえば、前妻のルーンについて聞きたいことがあるのですが、よろしいですか?」
「なんだ」と、マルセルは怒り混じりに言った。

「ムーンライトってご存じですか?」

「そんなもの知らん」

「永遠の命を持った花、と聞かされておりまして、もし情報があればこちらにご提示して頂きたいのですが―――」

「………―――そんな事を聞いて何になるんだ?」

「さぁ、僕が少し興味あっただけですよ」

 静寂が生まれた後、マルセルは扉から入ってきたもう一人の警官に外へ連れ出され、そのまま独房へと連れて行かれた。鉄格子とセメントの壁で出来た冷たい床の薄暗い部屋。床には排便する為に設けられた穴が一つ。勿論、糞便独特の不快感を覚える異臭もする。
 冷たい床に寝そべりながら、突如起こった不自由な空間に不安と焦燥を覚えながら、これまでの過去への憧れと現状への疑問が閉塞感を更に煽った。この感情が後悔なのか、という自己への疑問が燻る。正しいと思って行動してきたが故、更にこれまであった自我というものが段々と失われていった。
 心の暗闇にある唯一の希望は自分の娘の無事を祈る事ができる、という事だけだった。
 マルセルは無事を祈りながら、天井を見た。壁際の上部に小さな窓があった。
 少しだけ、ほんの少しだけ光が漏れていたが、その光は月ではなく、少しだけ眩しい星の光が二つあった。



※ ※ ※



「エルゼ、手に五本の指があるか知ってる?」
「お母さんとてをつなぐため?」
「うふふ、かわいらしいわね」
「えへへ」
「手に指があるのはね、物を掴む為なのかもしれないけれど、他の動物だって出来る事なのよ」
「わんちゃんもゆびで何かつかむの?」
「ほら、猫と一緒で何かを欲しがる時に手招くじゃない? 他の動物―――そうね、お猿さんとかなんかは人間みたいに物を手に取ったり、木を上ったり出来るのよ」
「エルゼも木登りできるよ!」
「私の前ではともかく、パパの前ではあまりやらないで欲しいかな」
「なんでー?」
「危ないから」
「わかったー」
「私が言いたいのはそういう事じゃないの。私が言いたいことというのはね―――――」



「お母さん!」
 エルゼイクはカーテンで暗闇を演出させた別荘のベッドの上で死んだように眠りこけていた所、そう叫んで起き上がった。
 時計の短針は五時を指していた。普段の彼女ならこんな時間にこんな大声を上げた事を恥じる所だが、先日見た事件の衝撃は未だに彼女の目に焼き付いている。先の事件も火事の一件も夢であって欲しい事を願うばかりだが、今こうして、一人でベッドの上で叫んでも誰の声も返ってこない故、現実へと引き戻されていた。
 姉はどこにいるのだろう。父は無事なのだろうか。叔母は叔母で考えを変えてくれているのだろうか。他のルインツエイラの人間はどうなるのだろうか。
 心配事があまりにも絶えず、ベッドから飛び出ると掛け布団とマットレスにはぐっしゃりと寝汗が染みついていた。パジャマも下着も同じ。
 着替えを終えて軽く身体を清潔にしたところで、顔を隠しながら外へ出ると、ドアの郵便受けに一束の新聞があった。
 すぐ部屋に戻ってそれを読み直すが、これには何度も目を疑った。
 一つ目は先日の事件の事。
 エルゼイクが自分の目で目撃してしまったものだ。トラウマを掘り起こされた気分を味わったが、それも束の間であった。
 問題は二つ目の記事だった。
 自分の父親がその妹を殺した、という容疑で逮捕されている、という見出しであった。父の妹は、叔母――――――サリエラの事だ。先日の嫌みったらしいサリエラの一面は苦手ではあったが、昔は良くしてくれた記憶が蘇り、
 文字が目に入った瞬間、声にならない悲鳴をあげていた。
「………なんで。なんでなの!」
 エルゼイクは普段、怒るような性格でもなければ、いくら理不尽な状況に陥っても叫ぶことは稀であった。だが、昨今で二回も同じ事が起き、気付けば噎せている彼女の姿があった。
 歯を食いしばって、感情を整えるも、たまたま読んだ記事の小さな文に一つ、ルインツエイラ本家の家系の事が記されていた。
「………はぁ………はぁっ………………!」

 自分の名を記されている箇所があった。

 次は自分の番である、と不安妄想が止まらず、身動きをしていても身体が勝手に震えはじめた。
 やがて、いても立ってもいられなくなり、マルセルに替えとして買って貰った地味な服装に着替えて早足で駆けるように別荘の外へ出て、ポケットに入っていた縫い合わせ用の布を頭巾として深く被り、俯きながら早足で歩いて行った。行く宛てはどこにもないのに、ここにいてはいけない、と身体が勝手に反応していた。
 必死になって歩いて、無心のまま歩いて、頭が真っ白になったところで、こつんとエルゼイクの頭に男性の胸元が当たる事もしばしばあり、それも謝罪もなしに通り過ぎていく。
 いつの間にか、分かりやすい位に綺麗に彩られた街の煉瓦地も車や馬に踏みならされたごつごつの土で出来た道の所までやってきていた。履いていたローファーの劣化で靴底の皮が足先からめくれあがり、地面に躓いて、ようやく街から出たことに気付いたが、今の彼女にとってはどうでも良かった。
 人前に自分の姿形痕跡全てを晒したいと思えなくなっていた。
 自分の存在を恥じていた。
 自分の存在を諦めていた。
 自分の存在が苦であった。
 だから、足が無くなるまで歩いてその辺の動物に食べて貰おう、と自分の命さえ卑下しながら、街から遠ざかるようにとぼとぼと歩いていた。その足取りは靴に重りでもついているのかと錯覚するほど重たく、靴を脱ぎ捨てるまでに至った。地面の小石に足を傷つけられても、血が靴下に滲んでも痛みは無かった。
 やがて、怪しい雲行きから雨が降り出した。最初は小降りだったが、一気に雨音を立てて降り出した所で、エルゼイクは反射的に傍にあった木陰で腰を下ろしていた。
 辺りを見渡せば、どこにあるのかも分からない森林の中であった。草木と土の匂いが入り交じって自然という言葉など生易しく程の野生が蔓延っている。
 地面の感触も自分の生まれ育った穏やかで柔らかな草原のそれとは一切違う。土混じりの枯れ葉が不快にも粘度と湿気を帯びていて、より一層の圧迫感、緊張感、寂しさがエルゼイクを襲った。ここに居続ければ確実に死ぬ、という恐怖が今になって表面に表れてきた。
 なんでここに来てしまったのだろう、と束の間の後悔をしたがもう時はすでに遅かった。
 誰かの助けが欲しかったのに、欲しいはずなのに、誰かの何も言える環境とはほど遠い。


 ああ、帰って音楽が聴きたい。
 ああ、帰って暖かい布団で寝たい。
 ああ、もう一度でいいからキャサリンさんとお話がしたい。
 ああ、あの頃の塞ぎ込んだ姉でもいいから、あの空間に戻りたい。
 ああ、学校に戻りたい。
 

 誰でもいい。私が断ってしまった殿方でもいい。一生寄り添ってあげるから―――寄り添わせて頂くから、私の傍に来て欲しい。


 一人は嫌。こんな所で、誰にも見つからずに一人でいるのは嫌。


 死にたくない。寂しい。死にたくない。生きていたい。


 後悔の念は留まることを知らず、次々と過去の記憶からあふれ出てくる。己の意思が、己の生存を呼びかけてくる。
 もっと強く心を持って生きていくべきだった。


「あああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!」


 その時、ようやくエルゼイクはその意思を涙とともに声に出して叫ぶことが出来た。咆哮に近い獣の鳴き声のような音は、辺りの木々に止まっていた鳥たちをも動かした。
 同時にがさごそ、と森林の草木が掠れる音がした。が、たった一つだけ、その音が地を這って地面についている手と耳を一緒に響かせた感覚に反応し、直ぐにその方向へと足を駆けた。
 血が滲んだ足の裏の痛みがようやく感覚となって現れたが、そんな事すらどうでもよく、ましてや獣であっても構わない、人間がいてくれればそれでいい、一か八かの葛藤の中、そこへたどり着くも誰もいなかった。
 だが、エルゼイクはそこに足跡があったのを見逃さなかった。獣の足跡もたしかに散らばっていたが、一つだけ明らかに違うものがあった。
「………靴、足跡………人間」
 口角を歪ませながら笑みを作りエルゼイクはそれを辿るが、今度はごつん、と生き物では無い固い物にぶつかった。大木であった。
 気絶する程のものではなかったが、衝撃で脳震盪を起こしてその場で倒れた。
「………………期待、しすぎたか」
「何をだ?」
 ぼやけかけた視界に二つ、木ではない棒のようなものがエルゼイクの視界に入った。天井から降ってくる雨もそこでようやく止んだ、がぽつぽつと音を立てはじめた。
 無理矢理立ち上がろうと懸命に、痛む足を地につけて立ち上がるも、今度はめまいが襲う。
 口から息が抜ける感覚と共に、再び倒れかけた時に、何者かが彼女の両肩を支えられて姿勢を保っていた。
 誰が助けたのか確認する為に首を上にやって無理矢理視界を合わせると彫りの深い男性の顔が映った。父親と同じか、それより若いくらいの歳だろうか、と考えた所で、
「ほお、これはこれは」
「………………な、な、ん………で………すか」
「いや、こんな所に人がいるのが珍しいと思って。迷子かな?」
「ま………まい、ご…………と―――………い、いえ、ば………ま―――」
「迷子だね。今からおぶるから、姿勢そのままに出来る?」
「………あ、ぁ、はい」
 男性はエルゼイクを背負いながら傘を差して歩き始めた。
 エルゼイクはすっかりと身体の力が抜けきっていたが、ようやく呂律が回るようになり、男性に尋ねた。
「この辺の人なんですか?」
「いや、全然。入った事もないよ。こんな所。山だし」
「なんで道を知っているのですか?」
「そりゃ、来た道くらい覚えているよ。逆に、なんで君はここで迷子になっていたのかな?」
「………………」
「ふっ、まぁいい。それにしてもここは草が多いな。見たこともない植物ばかりだ」
「とりあえずお礼だけ―――」
「大丈夫。それにしても自然って凄いな。これって全部種が割れてこの姿を作っているんでしょう?」
「ものによっては根から根を作っていってそこから生えるものもあるってお母様が―――」
「君のお母さん、物知りだね。でも、最初に何か種がないとこの形にはならないと思うんだ、僕は。誰かが巻いたのかな」
「植物くらい自分で種まきくらいできますよ。全部が全部、人の手で生きている訳じゃ無いんですよ」
「つっかかるね、君。面白い。続けよう。僕はこういうの見るの結構好きなんだよね。何かが増えて成長してこの形になる、みたいなのを知るのがさ」
「それがなんなんですか」
「誰かが誰かを受け入れて一つの命になって、それが何かを食べて大きくなる。それが命だろう? 植物も人間も同じ」
「それがどうしたんですか」
「違うのは植物は食べられても、文句を言わない所にあると思うんだよね。ほら、動物って食べられる時にもがくだろう? そして鳴く。でも、植物はそういうことをしないんだ。増える気あるのかよって考えるんだ。でも、こうやって木になったり、林になったり、やがて森になって、食物連鎖の頂点に立っている人間の君を殺しかける事だってできる」
「私が弱いみたいな言い方」
「現に死にかけていた。あのままだったら死んだも同然だったろう。要は生命力が強いね、というお話だよ」
「ふーん」
「興味が無さそうに聞くんだな」
「言ってることお母様みたいだもん」
「ま、この話はここで終わりだ」
 男性はそう言うと背負っていたエルゼイクを下ろした。気が付けば道に出ていた。
 そして、視線の向こう側には車の影があった。
「ど、どうも、ありがとう―――――」

「気にしなくてもいいんだよ。エルゼイク・アマリリス・ルインツエイラ」

「え」

「君の家が姉のせいで燃えた事も、マルセルが自らの妹のサリエラを殺した事も、僕は全部知っている。全部ね」

「な、なにを――――――」

「でも、君には罪はない。本当はかくまいたかったんだが、こちらも都合が悪いんだ。今や君も有名人だからね。傘はあげるよ。君の事を調べられたらこっちも溜まったもんじゃないからね」

「………あなた、何者?」

「僕? そうだな………悪食の―――」

 男性はそう言いかけた所で何かに気付いたかのように後ろを振り返った。エルゼイクも同じくして男性が振り返った方を見ると見覚えのある佇まい、姿勢、背格好をした女性の姿があった。顔こそは深く被っていたプリムで隠れていたが。
「………………お母様?」
 エルゼイクの視線の先には小さく映った二人の姿。どんな関係なのか疑う余裕も無かったが故に、女性の方を見て、
「お母様! お母様なんでしょう!?」
 女性の方はようやくこちらを見るが、視界に映る彼女はあまりにも小さく表情はともかく顔なんてとてもではないが、確認出来ない。
 少しでも距離を縮めようと痛む足を無理矢理動かして――――――



『私が言いたいことというのはね、人の手って表情が宿っているの』



「お母様! お母様ぁ!」
 女性が視界の奥の車の中に入っても、エルゼイクの足は止まらない。男性も車の中へ乗るが――――――


『ほら、こうやって手を握って親指だけ開く。これを空に向けて嫌な気になる人いないでしょう』


「ヤダ! もう行かないで!」


 車が走り出しても、エルゼイクは激痛に耐えて―――


『次は全部の指を開いて見なさい。ほら、これがお母さんが研究してるお花よ。何か欲しい時はこうやって手を開くの』


 手を開いて伸ばしても、その距離は絶対に縮まる事は無い。それなのに―――


「何か欲しい時に手を開けって言ったのお母様でしょ! お母様! 頂戴! 戻ってきて頂戴!」


『そうすれば、欲しいものが手に入るの。今はもらえなくても、続けていればいつかは―――』


 エルゼイクが息切れした所で、とうとう痛みに耐えきれなくなった足が地面を拒絶して、前へと行こうとする自らの身体とのバランスを保てずに、大きく転倒した。濡れる地面に身体を滑らせて、泥まみれになりながら、うつ伏せに倒れた。
 もう上体を起こす体力など残っていない。もう、追いかけてはいけない、と身体が嘆いていた。
 車の後輪の轍の始まりの中心で寝そべって、何も動けないまま、せめて女性がなにをしていたのかを確かめたくて、残り少ない体力を無理矢理使って、首を彼女がやって来た方へ向けた。



「………………お………か、あ………さ………ま………………? な、ん………で………」



 雨に打たれて所々、赤い液がこぼれ落ちている赤い草原が、目の前に広がっていた。これを最後にエルゼイクは全てを諦めるように意識を閉ざした。



※ ※ ※



 アルデラント公国北東部の島―――アリエス島はここ最近で活発な火山活動がみられていた。火山灰の堆積こそ見られなかったものの、飛散は僅かながらに確認され、大陸極北部の町村の住人のいくつかに健康被害が見られた為、軍が動く事となった。
 港からアリエス島までの距離は小型の船舶でも往復出来るほどの距離であった為、巨船での出航ではなく、いくつかの船舶に分けて火山の調査に赴く事となった。
 軍人や消防は勿論の事、現場の状況を詳細に記す為に新聞記者や、少数ながらに火山学を専攻している学者やその研修員も船に乗り込んだ。
 その中で極めて異質を放つ存在がいた。
「こんにちは。ルーン・キャンベラと申します。今回はアリエス島に生息している植物の調査に赴くべく、アルデラント軍第三艦隊のこの………………小型船舶? 搭乗させて頂きます」
 どういうわけか、植物学者であるルーンと名乗る女性が乗り込むこととなった。彼女はまだ二十を過ぎたばかりで、学者としては幼く、国内では家庭を持っていて当たり前の歳頃であるにも関わらず、彼女は独身で、恋人もいないという。
「正気かよ。なんでこんな緊急事態だってのにアマ連れてかなきゃいけねえんだよ」
 小太りの海軍の兵士が船の上でタバコを咥えながらもの悪そうにいった。傍にある堤防の上で革のリュックの肩紐を強く握り絞めながらも、落ち込んだような顔でルーンは、「………すみません」と謝るも、「足引っ張んなよ」と返され、認められた気がしてすぐに機嫌を取り戻した。
「大丈夫です。この日の為にマナーやルールはきっちりと頭に叩き込んできました!」
「そんなもん、ここでは通用しねえよ。全部慣れだ。慣れ。仕事と一緒」
「仕事はまだ………………したことないです」
「甘ったれの箱入り娘と来たか」
「おい、フォイド!」
 もう一人、操縦席から痩せ型で長身の兵士がフォイドという兵士に投げかけた。フォイドという兵士はばつの悪そうに痩せ型の男の方へ歩き、耳を貸した。
 痩せ型の男はフォイドに囁く。
「あいつはな、ルインツエイラっていう、めっちゃお偉いさんの所の息子さんのお気に入りでここにいるんだ、丁重に扱え」
「はぁ!? なんでそんなのがこんな危険な場所に―――」
「声がでかい。理由に関しては聞かされてないが、あの娘自体はそこまで害………というより、その辺で研究費くすねて酒かっくらってる教員よりかはやり手って噂だ。我慢して付き合え」
「ちっ」
「そんなんだからお前はまだど―――」
 ごつん、と痩せ型の男はヘルメット越しにフォイドにげんこつ。
 「いいから乗れ」と、合図を促されると、ルーンは船に乗り込んだ。初めて乗る船舶に揺れる足元がぐらついてしばしば上手くバランスが取れずに、兵士二人は半ば心配そうに眺めていたが、彼女はそれを「海ってこんなに揺れるのね」と言って楽しんでいた。
 変わった奴だな、と二人して話していたところで船は動き始めた。
 この場に乗っている兵士二人、消防士一人、地質学者一人、そしてルーンは、移動中なにも話さなかった。外観が綺麗だとかそう言った話題もしなかった。ただ無言のまま、小型の帆船に波揺られていた。
 船が指定の浜にたどり着き、船員が上陸して最初に感じたことと言えば熱量だ。先ほどまでいた港に比べて明らかに熱かったのだ。気温による蒸し暑さとは違う、誰かに遠くから焼かれているような、乾いた熱気。周囲の海をも沸騰させてしまえそうなエネルギーを、島の中央に位置している火山から感じた。
 この熱気に、やけどを危惧してルーンも人差し指から林檎の指輪を外してポケットに入れた。ただ、その顔はやけに好戦的な笑みを浮かべており、怯えている兵もいる中で威勢だけは軍人そのものといっても差し支えなかった。班はそのまま浜を超えて目の前の森へと足を進めた。
「しかし、ルインツエイラのお偉いさんも、とんでもないの選ぶんだな」
「金持ちは物に関していえば何でも手に入る。でも人はそこにいるやつしか選べん」
「十人十色ってか」
「それとは全然違うけど………とりあえず刺さる相手ってのは、その時点のそいつにとってなんかあるんだよ。俺もそう。お前は―――」
「溶岩に沈めるぞ」
 ルーンにとってこの島の植物は自身の研究の管轄ではあったが、周囲にありふれたものであったが故に興味を示す事はなかった。なぜここへやって来たのかも、何かある、という直感のみで動いていた。
 やがて歩みを進めると森を抜けると山道――――――だったものが現れた。黒く変色はしているが未だ溶岩としての熱を帯びた岩に道を閉ざされている。ここまでやってくると、空は雨雲とは全く違う種類の暗雲に覆われており、まるで夜を錯覚させるかのような薄暗さを周囲に解き放っていた。兵士とルーンを除いたこの班の調査員もこの気味の悪さに身を僅かに震わせ、先の見えない恐怖に怯えていた。
 途中、フォイドが「いきなりドーン! って来たりな」と冗談を言うと一気に班の他の人間がすくみ上がる等のアクシデントがあったが、無事に観測地点まではたどり着くことが出来た。
 山頂からおおよそ300m程の地点に位置するそこに外観を見渡せる澄み渡った空気はなく、先ほどまでいた  森の景色が薄らと見える程度であった。勿論、植物など何もない。地質学者とその助手が周囲の状況の視察、及びメモ書きをする程度で、他の人は少し熱の籠もった岩肌に腰を下ろして休んでいた。
 フォイドの指示で途中から皆はガスマスクを着用する事を余儀なくされたが、ルーンはその指示を無視して、何か遠くを眺めていた。この班の全員がどこかで会話の糸口を見つけて打ち解けると思いながらも、何も聞き出せず、ルーンの考えはともかく考え方すら闇の中にあった。
 とりあえず、と、フォイドはルーンにマスクの着用を無理矢理急かしたが、一切言うことを聞かなかった。「待っている子がいるはずなの」と突っぱねたのだ。
「そんなもんいるはずねえだろ。さっさとマスクつけろ。死ぬぞ」
「死なない」
「死ぬって!」
「死なないの。その子は死なないの」
「お前が死ぬんだっつうの!」
「その子は私をきっと――――――」
 突如、ルーンの言葉を遮るように足下を掬われる程の地響きが鳴り響いた。皆は必死に姿勢を下げ地面に這いつくばり、山から転げ落ちないようバランスを保つが、ルーンはその場で尻餅をついてしまった。幸い、転げ落ちる事は無かったが、状況やルーンの、登山や噴火に対しての知識の無さなどを鑑みて第三艦隊は一旦の下山を決意した。

 麓の森林―――とはいうものの、午前に、出てきた方とは別の地点でキャンプを構え、フォイドは固く閉ざした口をついにルーンに放った。
「おい! なんだお前! なんも聞いてねえのか! ここらってのはガスとか噴石とか、危ねえもんで溢れてんだ! なんでなんも対策しねえんだ!」
「だって、周りの人が………」
「言い訳をするな! 自分の命だぞ!? 自分を愛してくれている人も踏まえて自分という存在が成り立っている事は絶対に忘れるな!」
「…………………」
 フォイドの叱責を最後に辺りに沈黙が訪れる。しかしながら、ルーンは怯えや迷い、といったような情を今でも持ち合わせてはおらず、あろうことか反省すらしてなかった。あそこで自分が死なないと信じ切っていたのだ。
 しばらくして、痩せた兵がフォイドに小さい声で呟いた。
「調べによると、あの嬢さん、占い師の子供なんだと」
「占い? タロットとか占星術とかそういうの?」
「自前で用意したカードを使うとかなんとか」
「親子揃って電波って事が言いたいのか?」
「ちげえよ。俺が言いたいのは、なんで‘占い師の娘が女であるにも関わらず学校に行ける’んだって話」
「そりゃ、貧乏人から金巻き上げれば簡単に稼げるだろ。話術みたいなの駆使すりゃ誰だって出来そうだ」
「それがそうでもないらしい。ルーンって娘の親の主な顧客層は貴族らしくて、その繋がりでルインツエイラ家とも縁が出来たって話らしい」
「この国も狂ってきたってもんだ」
「世の中が狂ってない時なんてなかったろ。とりあえず、あいつは今までの奴らとは扱い方ってのを考えた方がいい」
「俺他人に対して考えて接するの苦手なんだよな」
「知らねえよ。とりあえずやることはやれ」
 静寂の森の中の囁きはルーンにも聞こえてはいたが、聞く耳は立てずに、その場で咲いている植物を眺めて、たまに指で撫でて時間を過ごしていた。その表情はどこか寂しげで、それでも笑顔ではあった。そして日が開ける少し前、ルーンは持ち場の寝袋で寝息を立てて静かに眠った。
 起床後、ルーンは僅かな睡眠時間にあくびをかきながらフォイドに先日注意された事を再度忠告を受けた。非常にうるさい声ではあったが、それでも眠気が飛ぶことはない。寧ろ、後ろで聞かないふりをしていた地質学者達の方がすくみ上がってしまっていた。
 そして、朝一番の兵士の仕事として、フォイドは電報の交換を行った。他の班との情報交換である。こちらには幸い被害もなく、他の所も同じだろう、と気を楽に電報を送った。しかし、他の班には噴石や火砕流による被害で計三人の死者と七人の負傷者が出た、との知らせを聞いてより一層気が引き締まった。
「やっぱり遊びじゃねえんだな、これ」
「仕事を遊びだって思ってる連中のが少ないよ。とりあえず、調査のレポートだけまとめさせて俺たちは帰ろう」
「帰っても居場所なんてないさ」
「でも、死ぬのって寂しい事じゃないのか? 少なくとも俺は君が死んだら悲しいよ、フォイド」
「どうせなら女に言われたい」
「君は死なないと思う」
 ルーンがフォイドに対して割って入った。
「お前に言われてもなんか嬉しくない」
「こらこら、人を選ぶな」
「君は死なない」
 昨日のような真っ暗な雲は嘘だったように消えて、青空が広がっていた。
 空は綺麗だったが、周囲を探索していくうちに、昨日、別の場所で起こったであろうと思われる噴石や火砕流の被害も鮮明になっていた事もあり、決して晴れた心で調査に臨もうとするものはいなかった。
 暫く探索するうちに地質学者が何かを見つけて悲鳴をあげた。皆はその声を聞いて学者の元へ寄ってみると、
「うわあ、めっちゃ焦げてる」
「ここまで酷いの戦場にもないや」
 火砕流に飲み込まれたであろう人物の遺体が冷えて固まった溶岩に埋もれていた。胸から上は辛うじて、人の形を保ってはいたが、見た目は人型の炭である。
 フォイドは遺体の様子を探るべく、空へ突き上げていた右手の人差し指を軽く触ると、ぽきり、と使用済みの木炭の如く簡単に折れて地面に灰を散らした。
「なんで俺たちは昨日無事だったのか………訳分かんねえな」
「全くだな。さっきあっちにもガスかなんかで死んでたやついたから、身元だけ特定して埋めといた。遺体持って帰ってくんなって言われたし」
「どいつだ?」
「アラン・シェパード大尉――――――っても帰ったら中佐かぁ………」
「ああ、あの美人奥さん娶ったって噂のあいつか。残念だな。死んで手にした身分も、生きて努力すりゃいつかは届くもんだって言うのに」
「ま、死ってのは生きている時に何かしら役目を終えた奴から訪れるっていうし、そういう運命なのかな」
 自らの知らない合間に起こっていた地獄の残骸に心を打ちひしがれるものもいれば、慣れているものもいる。みんな同じ人間であるにも関わらず、命の価値観はどれも同じではない事をこの場が証明した。
 暫くして、この惨状に慣れていない地質学者が怯えながら言った。
「………………こ、この火山、へ、変ですよ」
「どうかしたのか?」
「今の今まで、観測したレポートを交換していたんですけど、本当ならもうこの辺りの海は噴火で島が隆起して無くなっているはずなのに………事の進みがあまりにもゆっくり過ぎる」
「その癖噴火っぽい現象は普通に起きる。普通に人が死ぬ」
「大体、こういう所に人を――――――いや、志願したのは僕ですけど……… でも、起こっている事は変です。溶岩の流れる火砕流、それと同時に噴石。もう爆発してもおかしくないのに、それが起こらない」
「誰かが守ってんのかね」
「………………多分?」
「それを調べに来たんだろうが! さっさと仕事に取りかかれ!」
「ひいぃ!」
 その日の第三艦隊は何事もなく業務を終えた。消防士の一人が夜回りの為、拳銃を一つ手に取って周囲の警備に向かっている間、他の班の者は焚き火を囲って一時の休息についていた。
 火の粉が散るのを横目に、空いた時間で釣ってきた川魚を串に刺したフォイドはそれ炙って焼き加減を見つつ、ルーンの方へ目をやった。
 ここへ来てからというもの、ルーンは何かに取りかかる、といった様子は一切見せなかった。傍から見ればぼーっと突っ立って空を眺めているだけであったが、彼女の、極めてエキセントリックな発言に近寄りがたさを感じた他の班の人間は特に注意する事も出来なかった。
「………………そろそろ来るかも」
 焚き火に焼かれた魚の弾ける音だけが辺りを響かせていた静かな空間の中でルーンは咄嗟に呟いた。
 一拍子遅れて痩せた兵士が「何が」と言いかけた瞬間――――――身体が浮く程の地響きと共に山の向こうから、耳を劈く程の巨大な爆発音が周囲に響き渡った。先ほどまで感じられなかったはずの熱気が風と共に吹き付け、周囲の木々が橙色の光に照らされた。耳と目を塞ぎ、地面に蹲っても恐怖からなる興奮を誰もが抑えるのに、ここにいる誰もが歯を食いしばり、漏れてしまいそうな声を抑えた。。
 皆が皆、冷静さを取り戻そうと必死だったが、ルーンだけは尻餅して膝を抱え、溶岩と赤くたぎる噴煙に目を取られていた。


「やっぱり、私は守られている」


「何言ってんだ、噴石が降ってくるからも知れねえから、さっさと―――」
 どん、という地鳴りの音と衝撃と共に土煙が上がる。焚き火で明るかった視界が一瞬にして暗闇に消え、澄んだ空気に埃と砂塵が混じった。
 ルーンですら分かった。目の前に噴石が落ちてきたのだと。
 そして、自分ではない誰かが、その下敷きになったのだと。その理由も簡単だった。地面から男二人のうめき声が聞こえたから。痩せた兵士と、地質学者の助手の声だ。痩せた兵士の声からはまだ生気のようなものを感じたが、もう一人からは臓器が鳴るような音も響かせていたが故にもう助からないだろう、と本人も薄れる意識の中で感じ取った。
 辺りは、噴石の衝撃で回りの木々が折れて散乱するなど散々状況だった。だが、ルーンだけは至って冷静であった。それにも関わらず二人を助けようとはしなかった。
 彼女は何かに導かれるように森を抜けて爆発したであろう火山の天辺を見上げた。
 綺麗に星が散る夜空に、先端だけ赤く、そこから煙を上げている山の景色を、ルーンは不謹慎にも綺麗だと感じた。そこに罪悪感はなかった。
「ああ、多分、そこにいるのね。あなた」
 目を閉じて、鼻から大きく息を吸って、数秒息を止め、口から吐き出すと、ルーンは天辺へ向かって歩き出した。
 フォイドはそのルーンの影を刹那、目撃したが仲間の救助に急ぎ、彼女を止める事が出来ずにいたことに対して自身の心に楔を打ち付けていた。
 ルーンが再び挑んだ火山だったが、爆発によって地形が変わって傾斜が急になっていたが故に登山は困難を極めた。時に手を使って岩を触ろうとしたが、焼けるほど熱が籠もっているものもあり、途中で象皮の手袋を嵌めて上れない箇所を無理矢理這い上がった。何度も身体を酷使して、彼女が導かれるように辿りついた場所は、熱砂と熱気に塗れた岩場だった。辺りを見渡せば、赤く滾るマグマが流れ、地面は靴を通さずに感じ取れる程の熱を放っていた。立っているだけで火傷してもおかしくない程の高温だった。

「ここにいるのでしょう」

 そう呟いてもここには誰もいない。来ない。

「私は命を賭けてあなたに逢いに来たの」

 あまりの高温に汗が噴き出し、それすらも熱で蒸発してしまう程の地獄のような場所でも、ルーンは言葉を発した場所から動かなかった。
 やがて喉が渇いてきたが、飲む水なんて持ってきてもいなければ、この一帯にオアシスと呼べる場所などどこにもない。
「おい! ルーン! お前何やってんだ!」
 後ろから男性の声がして、咄嗟に振り返るとフォイドの姿があった。彼も最低限の荷物だけしか持っておらず、水も何もかもを置いてきてしまっていた。また、もう戻れなくてもいい、と思ってここに来た。
「何もしてません。ただ待っているの。今の私には何もないから」
 ルーンはフォイドに対してぶっきらぼうに返す。
「あるだろ! 愛してくれている人がいるんだろ!」
 だが、フォイドは叫ぶようにルーンに言った。必死で、汗まみれになって、途中、熱の籠もった岩に右膝を擦りむかせて、火傷か擦り傷か分からないような傷を負いながらも、なんとか自分の足で立っている状態だった。
「分からないの。それが分かったら私だってここまで来ない」
「じゃあなんでお前はそうやって身を投げるような真似をするんだ!」
「私は私を……………… ううん、それは違う。言葉にしてはダメ。思ってもだめ、考えてもダメ、考えの火種になるような事を連想してもだめ、何も考えちゃだめ」
「おい、どうしたんだよ」

「私は………………」

 ルーンの体力は既に限界が来ていた。本人にも自覚はあったが、自身の体力以上に自身の精神力と衝動が上回り、意思だけが彼女をここへ呼び寄せていた。
 元々運動は得意ではなかった彼女がここまで来られた事自体が奇跡に近いとしか言いようがない。


「これが運命。そう言っていたから」


 ふらりと、ゆっくり揺れる視界を最後に、彼女は、倒れて地面に叩きつけられるのだろう、大きな火傷に苦しみもがいて最期を迎えるのだろう、と自覚をしながら消えゆく意識に身を任せた――――――はずだった。

「おい! しっかりしろ!」

「………………なんで、なんで助けるの―――………」

 うつ伏せに倒れる寸前のルーンをいつの間にかフォイドは自身の膝を犠牲にして抱きとめていた。痛みでどうせ感覚が消えると思い込んで熱の籠もった岩に膝を預けたが、痛みはどんどん増していき、ついには骨の髄にまで到達していた。
「っつてえええええええ!」
「………熱く、ないの?」
「あちいよ! クソ痛え! でも話しちゃいけねえ」
「なんで、助けたの? 貴方は死なないはずだった――――――」
「そんなもん関係ねえよ! なんの為に俺がこの仕事やってると思ってんだ! 誰も助けられずに軍人なんか名乗れるかよ!」
「………………私、貴方達の事、人を殺す仕事人だと思っていたわ。そういう人の集まりだと思っていたの」
「それは人それぞれだ。でもな、俺は何かを守る為にこの仕事をしている。今助けてる」
「助けなくても」


「言っちゃダメだ。せめて自分を愛せるようになるまで、言うな」


「………………」

 二人の間に暫くの沈黙があった。静止している間もフォイドの痛みは段々と進行していく一方で、熱による身体の細胞の破壊によって、もう立ち上がる事は不可能であった。それでもフォイドは自分の命を諦めてはいなかった。

「………………はぁ、はぁ、いいか。よく聞け。世の中ってのは、自分の意思だ。自分の意思が世の中を作り替えていくんだ。思っていた通りの事は起こらないけれど、思った顛末ってのはどこかで必ず起きる。はぁ、今はわだかまりがあったとしても、自分がどれだけ破滅を願っても、今は起こらなくても、いつかは起きる。そんな事願うくらいなら、せめて、自分が好きな自分を思い描く方が余っ程気が楽なんじゃないのか?」

「………………私には、それがない。分からない」

「じゃあ、それを見つけるのがお前のこれからでいいんじゃないのか」

「でも、私はここで死ぬ運命だったの。貴方が生きながらえるはずだったの。それが変わった。貴方の行動が変えてしまった」

「何言ってんのか全然わかんねえけど、お前はまず、目の前の希望を見つけろ。俺じゃなくていい。さっきも言ったけど、ここに連れてきてくれた奴がいるんだろ。そいつのことを思い出せ。そいつを願え」

「………え、マルセルの事? 変な人って印象しか………突然ポエム読むし」

「………………それがそいつなりのお前への―――……… いや、これはお前が見つけろ。お前の為に。お前の未来の為に」

 フォイドはもう、息をするのだけでも精一杯であった。膝の傷口から壊死が広がっており、臓器の様々な部位が壊死し始めていた。
 ルーンも同じくして、自分がどこかで助かる、という運命のみを信じていたものの、状況的には絶望であった為に不安が募る一方であった。
 死ぬ気でここへ来たはずなのに、いざ直面するとなると、やるせない気持ちが広がった。諦めたくない、というぼんやりとしていながらも極めて強い感情のようなものが、己に逢ったはずの運命と反発して、生きていこう、という意思が勝り、目を開けた。


『菫。縺倥※縲∫ァ√↓蜃コ莨壹∴縺溘く繧サ繧ュ』


「………………そういう、ことだった、のね」
 あろうことか、閉じかけていた視線の矢先にあったのは花であった。それも固まったばかりの火砕流の上に咲いていた。


『縺壹▲縺ィ縺薙%繧貞ョ医▲縺ヲ縺セ縺励◆』


「な、なんだこれは」
「あなたにも聞こえるのね」

 二人の頭の中に、直接、声のようなものが届くような感覚が走った。しかしながら、何を伝えたいのか、言語的には意味が分からなかった。
 だが、ルーンにはなんとなく、それが伝わり、

「無理はしなくていいのよ」

『莠コ繧貞ョ医▲縺ヲ縺セ縺』

「あなたは、あなたを守りなさい」

『縺ゅ↑縺溘?莠九′繧上°繧翫∪縺帙s』


「あなたは植物。だから、地面に向かって咲くのではなく、空に向かって咲きなさい。今は月の出ている時間だけれど、本当は太陽に向かって咲くものだけれど、きっと美しい花になります」

『縺溘¥縺輔s縺ョ縺??縺。縺後↑縺上↑縺」縺ヲ繧ゅ>縺??縺ァ縺吶°』

「命は巡る者だから、たまたま貴方の出番になっただけなのよ。だから、あなたのしたいようにしなさい。それが、私の得られなかったもの。そして、与えたいと思ったもの」


『縺ゅj縺後→縺』


 ルーンは立ち上がった。もう、自身で限界を決めつけていた身体に、更に鞭を打って、震えながら足に力を入れて、黒い岩の上に咲いている花の傍によって、ついに膝を折った。じゅう、と自分の身体の焼ける音を立たせながら、痛みなんか感じない素振りをして花の方へ足を進めた。疲労と痛みで震えながら、その場所へやってきた時にはもう、彼女の意識は、この場に在るかどうかも怪しいと言える。
 曖昧な意識の中でも、彼女の無意識はいつの間にか、自身の身体の警告を押しのけて、岩に咲いていた花を掬っていた。


 そして、摘んだ花を胸に押し当てて―――


「空に咲きなさい。全ての生き物は空を見て大きくなるから。お花は地面に咲くものじゃないの」


『せめてのおんがえしに、あなたを、あなたたちをすくいます。これがあなたたちの言葉かな』

「何をするの?」

『あなたたちいがいのものをまもらない。この山にもうむりはさせません』

「………そう」



『知っているの? わたしが、ぼくが、きみの、とがになり得るかのうせいであるのは』



「なんとなくわかっているけれど、でも、いいの。罪だけが人の人生じゃない。だから、君の―――ううん、君が君である事を認めてくれる人が現れても、私を―――――――――」





 この祈りが火山に咲いた花へ還る時には二人の意識はここには無かった。あったのは、大きな爆発、それに伴う噴煙、火山灰の堆積、地滑りとそれに連動して起こった津波。
 噴火による犠牲者の数は調査に赴いた人間のみに限らず、島の付近に住んでいた住民にまで及んだ。
 だが、この噴火を目撃しながら生存したものは口を揃えてこう言った。

『奇跡を見た』と。

 その噴火には色があった。
 燃え盛る火炎の色ではなく、色とりどりの光を抱いた、虹色の閃光を散らして、大地を湧き出させていたのだ。
 降り積もる火山灰にも色があった。見た人は口を揃えて〝虹色の雪〟が降ったと言った。
 悲劇である事には変わりは無く、生き延びた人は涙を流して生存を喜び、犠牲に泣いた。
「おいおい、これって………」
 一人の青年が噴火のあった島へ友人を連れて赴き、その惨状に呆気にとられて言った。
「森が火山灰に埋もれてこんな頭だけ出してるとこなんて今しかみれねえよな」
「にしてもひでえな。おい、マルセル。もうあの子は――――――」
「いやだ、俺は諦めたくない」
 マルセルという青年は小さなシャベルを片手に、必死に灰を掘りながら言った。周囲にいた友人達は彼の気持ちを察して止めようとはしなかったが、彼の望む結末には諦めていた。
 無駄だと誰もがぼやいていたが、マルセルは諦めなかった。
 周囲にいくつもの穴を作り必死に探したが、日が暮れても影も形もその姿見ることはなかった。
 絶望に打ちひしがれていたマルセルの姿を横目に友人達は無言の慰めを投げかけるが、彼には何もかもを受け取る余裕がなかった。
 もうあれから数ヶ月の時が過ぎており、生存の可能性など皆無に等しかった。
 だが、マルセルが最後だと思い、地面に突き立てたシャベルに固い感触があった。もしかしたら、と考え、周囲を掘ってその塊なるものを掘り進める。

 形として現れたのが、人の遺体だった。

 口をあんぐりと開けて嘆いているようにしか見えないまま火山灰に埋められてそのまま命を終えた亡骸。蝋人形のろうな感触の固い肌の人間の遺体だった。

「う、うわあああああ!」

 遺体など見慣れぬマルセルが悲鳴を発するのも無理はなく、その様を友人達は見届ける他無い。
 男性か女性かなどを見分ける術はマルセルには無かった。故に彼は絶望に打ちひしがれて、今日という日の、明日以降の捜索を諦めた―――はずだった。
 帰りの船の付近に大きな洞穴がいつの間にか存在していた。浜の砂でで盛り上がった釜倉の入り口の穴のようなものが誰も知らぬうちに作り上げられていたのだった。
 友人達もこれには驚きを隠せぬとも、何かあるかもしれないと放っておきつつ、マルセルに口裏を合わせながら、無理をさせぬよう放っておくように誘導したが、黙ったその穴を掘りつつ、奥へ潜った。

 全身全霊で、使ったことの無い筋肉を駆使しつつ、暗闇の中で、夢中に掘り進めていくと、途中、空洞に辿りついた。力を入れても空振りを繰り返す感触だ。やがて、その穴を掘り進めていくうちに自分自身が底へ放り投げられて、底へと打ち付けられる痛みを味わった。
 上を向けば自分がそれまで掘ってきた証となる穴の光がぼんやりと輝いている。もう、後には戻れない。
 それでも、マルセルとしてはどうでも良かったのだ。
 彼女に会えさえすれば。

「………ルーン」

 マルセルは真っ暗な視界の中で、その感覚のみを頼りに呟いた。いるかどうか確証はなかったが、直感だけが彼女がここにいると彼の頭に知らせていたのだった。

「………………マルセル?」

「どこだ!」

「ここよ!」

「今貴方は―――いつもは方角で言えるのに、言えない! 分からない! 声を聞いてマルセル! 私はここにいるよ! ずっと………ずっと………………!」


「分かってる。ずっと探していた」

 声を頼りに、不器用ながら辿りついた場所の地に手を預けた先には暖かな肌の感触があった。決して自分のものではない人肌の感触だ。
 触った瞬間、涙が溢れそうになったマルセルだったが、必死にそれを堪えてそこで、息をして声を出して必死に生存を訴えているルーンの腕を取った。

「…………………なんで、分かったの。私がここにいるって。生きているって」

「信じていたから。君の全てを―――――――」



※ ※ ※



 星をちりばめた夜空が瞬く頃合いにエルゼイクは目覚めた。背を預けている寝床の心地よさに若干の懐かしさと心地良さを覚え、再び眠ろうとしたところで違和感を感じたのでそのまま起き上がろうとしたが、上手く姿勢を起こせない。視線を下へ向けると、足が何かに引っかかっている。そして無数の包帯に覆われていた。
「………………ぃったあ………!」
 頭と足が酷く痛んでいる上に、目が覚める前の記憶が曖昧だった。痛みのせいなのか、それとも立て続けに起こった悪夢のような出来事のせいなのか、原因は分からない。
 そして、今どこにいるのかも分からない。一瞬だけ自分の死を疑ったが、この痛みが本物である以上、すぐにその考えから離れた。
 
 それでも彼女を纏う憂鬱は消えなかった。
 憂鬱、痛み、そして家族や友人という名の居場所の喪失。全てが無くなったこの状況が、深く彼女を絶望へと追いやっていた。
 喜怒哀楽の全てが消えた虚無に退屈を覚える隙間も無く、心にぽっかりと空いた穴を埋めたい気力も無い。

 なのに、気が付けば涙が出ていた。理由があるのに、根源は違う所にある気がして、涙に意味も分からないまま、頬を伝って毛布を濡らしていた。

「私、なんで泣いてるんだろう」

 溢れる涙を拭っても拭っても、袖が濡れるだけ。やがて、涙も止められない自分に嫌気がさして、悔しくなって、ようやく悲しいと思えるようになった。
 酷い自責思考に加えて逞しい反骨精神でこれまで生きてきたエルゼイクにとって、自分自身の無能はもっとも許せない事の一つだった。もしあの時、という思考がいつも彼女の心を後悔の念と共に暗闇へ誘拐して、己にとっての光への道筋を閉ざしていった。
 結局自分自身という存在は一人では生きていけない。寂しがり屋のくせに、陰のでの努力はいつも魅せないのに、今という今はそれを誰かに話したくてたまらなかった。報われたい、と思った。

「おや、寝ている子が起きた。どう? 落ち着いた?」

 知らない部屋の扉から、アルデラントの軍服を着た男が一人、紅茶を片手に、部屋に入ってきた。キリッとした目つきに筋の高い鼻をした、筋骨隆々で体格の良い体つきから、外見だけでは畏怖を覚えそうな反面、声は低く落ち着いていて優しい響きだったもので、エルゼイクは少しだけ安心しながらも、現状の把握をしていないが故、軽い疑心暗鬼に駆られた。

「誰ですか。あなた」
「ああ、そうか。最初は自己紹介をしておこう。僕はシオン。シオン・ダイト少佐です。君が雨の中道ばたで倒れてたから、ここに連れてきた」
「軍の人―――………と言うことは国の人。あなたも私の事知っていてここへ連れてきたんですか?」
 本気で疑うという行為自体はエルゼイクが今までしてきた過去でもかなり珍しい。自分自身でも慣れなくて、モヤモヤしながら発言をしたが、
「はて? 君の事は知らないよ。反抗期の家出娘だと思っていた」
 シオンから返ってきた答えに対し、更に疑いが深まった。
「家出? そんなことしません。したくもないし、今後もしない。する意味が分からない」
「じゃあ、なんであんな所で倒れていたんだ?」
「………………それは」
「言えないでしょ。ま、僕は言えるよ。したことあるし。しても意味無かった。いや、した、という事に意味はあったかな」
「へぇ、軍人さんが家出なんかしたら命に関わるものなのに、よく平気でいられるね」
「今は流石にしないよ。したら、君が言ったとおり階級が二つ上がる事無く死ぬから意味がなさ過ぎる。僕が家出したのは君くらいの歳頃の時さ。不都合続きで自分が嫌になって、今後何すりゃ良いか分からなくなって、旅に出るって言って家を飛び出したんだ。そんで寂しくなって三日で戻ってきた」
「いいですね。帰る家があって」
「ないのか?」
「………………それは言わない」
「ま、言いたくなったら言えばいい。最悪、ここを君の家にすればいい。勿論仕事はしてもらうけど」
「多分、長く続かないと思いますよ? というか、長く続けさせてもらえないというか」
「ふーん、自分がそう思っているうちはそうなんだろうね」
「嫌みったらしい言い方」
「なんとでも言えばいいよ。僕もそうだったし。結局人間、詰まったら何かしらしなきゃいけないんだ」
「………………あっそう。私は――――――はぁ」
「ま、今考える事でも無い。足も怪我しているし、どうせ飯もろくに食べてないんだろう。だから頭も回らない。元気になったら話聞いてあげるよ」
「は? 出るの? この部屋」
「いや、出るけど。何? どうかした?」
「………………もう少し―――――やっぱいい。大丈夫」
「もう一度寝な。君は疲れてる。起きたらまた来るよ」
 エルゼイクは久しぶりに交わした言葉と言葉のやり取りの終わりに寂しさを覚え、シオンが部屋から出た後に、ほんの少しだけ恥じらいを覚えた。
 また、同じ行動を取っていた男性に対して、図星をつかれた気分になってしまった点についても、自分が強気で在りたくて反論してみたが、それすらも手のひらの上で転がされている気がして、気持ちや気分に靄がかかった。
 でも、少しだけ憂鬱な気持ちや虚無感は紛らわせて、安心感そのものは取り戻せたと自覚した頃には再び眠気がやってきた。そのまま目を閉じて、すうっと呼吸をすると、あっという間に眠りに落ちた。
 この日は新月。周囲を照らすものは無くとも、視界に暗闇に落とす時間はほんの僅かでいい。



 朝日――――――と呼ぶには少々遅すぎる包囲に太陽が昇りきっている昼下がりにエルゼイクは強烈な陽光に目が刺激されて起床した。ここ最近、夢を見ること無く起きた事が無い彼女にとって、何もなかった睡眠からの目覚めがやけに心地良く感じた。
 しかし、今日はすぐにベッドから出ようと思ったものの、足の怪我で自分の力だけでは起き上がれない事に苛立ちを覚えた。
 ここがどこなのかを、昨日出会ったシオンという男性から聞いていない。いっその事大声で彼を呼びたい所だったが、ここが共用の軍事施設だった場合、はしたない行為を晒す上に自分の存在を知られてしまう危険性も鑑みて、敢えて口をつぐんだ。
 また、強烈に空腹を訴えている胃袋がエルゼイクに、更に他者への呼びかけを訴えていた。背反する思考と身体の警笛はいつしか身体に軍配があがり、気付けばベッドの上で音が鳴らせそうなものを目で探していた。
 すると、ベッドの傍らにあったウッドデッキの上には、紅茶の入ったティーセットが置かれていた。昨日、シオンが持ってきたものだ。
 砂糖をかき混ぜる為のスプーンで、まだ紅茶が入っているティーカップを叩き、音を鳴らして暫くすると、
「おはよう。この部屋にベルは無かったはずだけど、君かな?」
「おはようございます」
 シオンが部屋に入ってベッドの上のエルゼイクの様子を見る傍らで、スプーンを握っている彼女の様子を見て、少しだけ口角を緩ませた。
「知ってるかい? そのスプーンは音を鳴らす為のものではなく、砂糖をかき混ぜる為のものなんだ」
「知ってます。声を出したくなかっただけです」
「ここには僕以外誰もいないよ。声出しても大丈夫。訳あってちょっとだだっ広い所に住んでるだけ」
「なら、次からそうします」
 このタイミングでエルゼイクの大きな腹の音が部屋に響いた。咄嗟に毛布で腹を隠しても、響き渡る音は消せなかった。
 顔と耳を真っ赤にして、ちらりとシオンの法へ目線を向けると、彼はなんの悪気も無い笑みを浮かべながら、黙って部屋から出て行った。一人になれたのはいいものの、恥じらいそのものが消えずに、毛布を集めて布の塊にした挙げ句、それに抱きついて顔を隠して、静まることの無い気の高揚を必死に抑えた。

 暫くすると、シオンが、サンドイッチが三つの乗っているプレートを片手に再び部屋に入ってきた。生ハムと卵、レタスにパンが挟まっている。どれもサイズはエルゼイクの小さな手のひら二つ分。
「はい、君の待ちかねた――――――」
 いつもなら怒られるであろう、「頂きます」という感謝の言葉も述べずに、差し出されたサンドイッチを飲み込むように頬張り、途中でむせかえりつつ、紅茶を無理矢理喉へ流しながら、速く食事を摂ろうとするエルゼイクの姿にシオンは目を細めて、
「おいおい、そんな早食いしたら太る―――」
「良いから黙ってて」
「はいはい」
 今の彼女には誰かの聞く耳など持つ余裕は無かった。味覚は確かに健在で、サンドイッチが美味しかったという感想も素直に述べられたはずだが、食事を摂るという生き物として本能的な衝動に加え、どうしてか他人に対して本音で語りたくない、という曲げたくない意思があった。
 二分ほどで完食して確かに腹は満たされたが、どうしてか心は落ち着かない。
「ねぇ、部屋から出てってっていったら出てってくれる?」
「昨日とは反応が真逆だね。君が望むならそうするけど、また引き留めたりはしない?」
 シオンは昨日引き留められたことに対して、敢えてそのように返すと、エルゼイクはまた毛布にくるまって、顔を見せずとも耳を赤くした。
「しない」
「じゃあ出てく―――というのは嘘。今日はこっちから話たい事があるんだよね」
「何よ?」
「君には好きな人、いるかな?」
「なに、助けてあげたお礼に僕と付き合ってって話? 絶対に乗らないよ? そんなの恩着せがましいしタイプじゃない」
「告白してもないのにフラれた……… なんて話僕がするとでも? 違うよ。君に愛している人がいるか、と言う話さ。家族とか恋人、友達やペットでもなんでもいい」
「………………全部いなくなった」
「それは死んだって事かな?」
「死んだ人もいる。死んでるかどうか分からない人もいる。でも、目の前にいない」
「複雑な事情をお持ちだね。じゃ、君は君自身の事、どう思っているのかな?」
「今は何も出来ない自分が嫌い」
「じゃあ、昔は好きだったって事かな?」
「そんなこと、考えた事無かった。考えなくても良かった……… 今は、今までがなんであんなに幸せだったんだろう………って………」
「ま、こういうのを乗り越えた後に、本当の幸せの意味が分かるってもんさ」
 何かを失った悲しみを、失い続けた痛みの傷が未だ癒えていないエルゼイクに、シオンの言葉は重くのしかかった。
 前を向きたい気持ちは山々だが、状況がそうさせてはくれない。
「………………私は、どうすればいいの?」
「今は休むべきだと思うよ。三日くらい。その後はまた歩けるようにリハビリしながら、今後の事を考えな。行き詰まったら、僕が助けるよ。それに君の話を聞いていると、君はどうやら受け取る事よりも与える事の方が多かったみたいだね。愛情ってやつ。間違ってないと思う。
 愛情はね、受け取る事よりも与える事の方が余っ程価値があるんだ。だから、過去の自分も、今の自分も否定しなくてもいい」
「あっそ。暇なんだけど。なんもできないし、車椅子くらいあったっていいでしょう」
「それは明日持ってくるよ。今日まではそこにいた方がいい」
 シオンはまた一旦部屋を出た後に、本をいくつか持ってきた。勿論、車椅子は持ってこなかった。苛立ちから、無理矢理にでも立ち上がってやろう、と足を力ませたエルゼイクだったが、足が痙攣する程の激痛が走った。
 エルゼイクには焦りがあった。キャサリンやサリエラ、他の家族事を思い浮かべるが、失ったものは戻らない。これは割り切るしか無い。今は出来なくても。でも、ライゼルカとマルセルは生きているかもしれない。状況が状況だからが故に、誰かに襲われてしまうかもしれない。状況から見るに、二人の時間には限りがある。
 失う痛みを知ったからこそ、失いたくないという強い意志は肥大して固く、強くなっていく。離反している今の自分の身体の状態が憎くて、いつの間にか自分でも信じられない位、強く両手の拳を握り絞めていた。
「おねえちゃん、そんなに強く拳握ったら腕も怪我しちゃうよ」
「え?」
 意識が自分自身の中で迷子になっていた所、子供の声を聞いて、我に返って周囲を見渡すと、まだ十歳ほどの子供が不思議そうにエルゼイクの顔を覗いていた。

 エルゼイクはその子供を見て、驚嘆せざるを得なかった。

 容姿を一言で表すなら、妖精。
 病的とも言えるほど真っ白な肌にまん丸とした目玉に真っ赤な光彩を携えていた。同じくして、背中まで伸び切った髪の色も真っ白。
 存在そのものが透き通って見える程の、純白さを醸し出している裏腹に、素肌を隠す衣服は真っ黒で長袖のワンピース。その上に黒いレースのローブに身を包んでいた。

 容姿の指摘をしたくなる一方で、自分の姿そのものが少女のコンプレックスに触れる可能性を考え、敢えて何も言わなかった。

「こらこら、勝手に部屋から出るなって言ったばかりだろ。そこには客人が―――」
 シオンが再びやって来ると、エルゼイクはキッと鋭い目つきで彼を睨んだ。
「嘘つき」
「……………あはは。子供を預かっていたのをすっかり忘れていたよ」
「ファイナを忘れるなんてお兄さん酷いー!」
「ごめんごめん。とりあえず、これは説明しておかなきゃな」

 少女の名前はファイナ。大陸南部のイオリアという港町の堤防に一人で、背を預けてうなだれていた所を所属している警官に保護され、たまたま居合わせていたシオンの元へ預けられた。
 彼女は家出で一人になった訳では無く、家族が家に帰ってこなくなった事を皮切りに、残された借金のせいで差し押さえられ追い出される形であの堤防に行き着いたとの事。
 先天性の病による彼女の白い肌と赤い眼は日光を浴びるとすぐに炎症を起こしてしまい、普通の生活を送ろうにも薬が必要だった。家族がどこにいるのかは、ファイナ自身も知らず、シオンが身元を役所に問いただしても、なんの返答も得られなかった。このことから、シオンは、ファイナは一家と共に、海外から移住してこの場所に行き着いたのだろうと推測した。
「ファイナちゃんを孤児院や教会に預けたりしないんですか?」
「うーん、考えたけどこの子の事を思うとあまりやるべきじゃないって直感が言うんだよね。だから僕が預かっているんだ。ま、最近信用できる伝が出来たから、そろそろここから離れちゃうけれど」
「あら、そうなんだ」
「なんだ、無関心そうに」
「そんな冷たく接しているつもりは無かったのだけれど、そう聞こえたなら謝るわよ」
「おや、僕に謝罪するタイプだったとは、意外だな」
「あなたではなく、ファイナちゃんに」
「ですよね」

 一言で謝罪を終えた後、シオンは部屋から出て行くが、ファイナは部屋に留まった。保護者の言うことも聞かず無理矢理。
 エルゼイクがファイナに興味がある事に無理もないが、逆もまた同じだった。見知らぬ人と話す事に恥じらいを覚えるだろう歳頃にも関わらず、好奇心の揺さぶりが勝っているのか、ただ単に無邪気なだけなのか、それとも共感をする心が無いのか、思ってもないような言葉が飛び交う質問大会だった。
「おねえちゃん、お尻大きいね!」
「………………あ、あははは」
 反応の返し辛さといったら、それまで普段の会話で行ってきたものと方向性がまるで違う。子供の頃から家族や学校、遊びでは相手方へ恥じらいを避けるように言葉を選んできたのに対し、ファイナはそう言った一切の配慮をしない。本人としては単純に喜んで欲しいと思っているのか、無邪気な笑顔を振りまいていたからか、更に混迷を極める一方であった。
 だが、子供の体力など底が浅い。少し話して読み聞かせをしているうちにベッドに上半身を預けて、椅子に座りながら眠るファイナを見ながら、エルゼイクはそう思った。しかしながら、無邪気な子供の相手は疲れるものの、その元気な姿を見ていくうちに心に刺さっていた棘が少し抜けた気がした。
 次の日から、車椅子でのリハビリが始まった。曰く、両足の裏の傷だけでなく、右足には疲労骨折の診断が下っていたが故に、この生活は長くなるとシオンから告げられたが、ショック受ける事はなく、寧ろ、自分の力で動く事が出来るという喜びが勝っていた。
 「動ける」と自然に笑うエルゼイクの姿を見て、希望を持てた気がした。助けて良かった、と。その調子で建物の隅々を見て回りたい、とシオンに告げると、彼は快く案内してくれた。
 思えばここがどんな場所で、なんの為に建てられたものなのかエルゼイクはまだ知らなかった。

 部屋の外は廊下だったが、綺麗なものとは言えなかった。寧ろ、汚いとも言える。二人の足跡が微かに浮いてしまうくらい表面や隅には埃が溜まっていた。先ほどまで居た部屋とは大違いだ。
「掃除、してないんですね。意外です」
「綺麗好きだよ? 僕は、敢えてしてない」
「じゃあ、なんでしないんですか?」
「話すよ。ある程度案内が済んでから、だけど」

 エルゼイクは自分で車椅子の車輪を回して、シオンの後をついていった。車椅子には取っ手が付いていたが、シオンがエルゼイクに手を貸すことは無く、振り返ることもしなかった。ゆっくりとした足取りで、最初に案内された部屋には、盾と紋章、そして旗がずらりと綺麗に並べられた棚が均等に配置されていた。
 この部屋は綺麗だったが、棚の背が高く、照明もないせいで影が多く、暗かった。
 「見ていいよ」と言われ、車椅子の上から、並べられていたものをじっくりと観察しているとある共通点に気が付いた。勿論、口には出さなかったが、この部屋に置いてあるものは全て、市や商工会などから送られたものではなく、国から直接送られていたものであった。理由も、歴代大公の名とサインを象った彫刻が全てに刻まれていたことから察せられた。両親共に、持っていた勲章を見て育ったエルゼイクにとって、これを見抜くのは簡単だった。
 しかし、廊下の掃除はしないのに、この部屋だけ綺麗に片付いているのは何故なのだろう、と甚だ疑問で、口を開こうか迷った。後で話す、と言われたのを思い出してこの場では何も言わなかったが、疑問の渦が巻いたことに違いは無い。
 車輪を回して考える。頭を回して考える。エルゼイクはいつの間にか車椅子での癖が身についた。

 次に訪れたのは武器庫だった。ここではシオンは何も言わなかったが、置いてある銃や弾薬、手榴弾、大小様々な武器の数々が雑に木箱に収められていたのを見て、エルゼイクも察しが早かった。ここは部屋の掃除が行き届いていない所か、誰も踏み入れた形跡が無く、換気も行き届いていないせいか、埃では無くカビの臭いで充満していた。
 部屋には誰かが叩いて壊したような穴がいくつも空いていて、そこから虫やネズミが這って出入りしていた。とても同じ建物の中にこのような空間があるとは信じ固く、入ろうとも思わなかった。様子を気にしたシオンはそっと部屋の戸を閉めて、
「どう? 僕の武器コレクション」
「最低」
「なんとでも言えばいい。どうせあんなの使い物にならないレプリカだよ」
「本当は湿気で使い物にならなくなっただけでしょう?」
「そうとも言う」
「あなたって本当、何考えているか分からない」
「同じ言葉を君に返そう。でも、次で分かると思うよ。ここがどういう場所なのか」

 次に行く場所は階段を降りた先の場所だとエルゼイクは聞かされた。車椅子での移動は当然無理なので、シオンの手を借りて下へ降りたが、あまりにも涼しい顔で担ぐ姿に、心を許しかけてしまう反面、階段も降りる事が出来ない身体への不満も募る。
 ここまで手ほどきをしてくれるシオンにせめて返せるがあるならば――――――
「ここだよ。これで僕がどういう人間で、ここがどういう場所か何となく分かったでしょう?」
 広い玄関から外に出て、今まで居た場所が煉瓦で出来た建物だと言うことをエルゼイクが初めて知ったに関心したのも束の間、離れ設けられた倉庫のような建物に入って、シオンは開口一番にそう言った。
「そういえばあなた軍人でしたっけ」
「人殺しとは言わないんだね」
「本物の人殺しは秩序を乱すもの。秩序を守らぬ人間の秩序を守る人殺しは単なる操り人形。だから、法という秤で裁かれない。それを私は人殺しと呼称しない」
 倉庫は先ほどまでの部屋とは比べものにならないくらいに広かった。ただでさえだだっ広かったルインツエイラの屋敷の面積とほぼ一緒といった所だろう。
 置いてあったものは型落ちの戦車一台と、自動車だけで、何かが乗り物や馬を飼っていただろうと思われる空間には何も無く、ただ寂しく壁の隙間からこぼれる陽光を一本の線にして受け入れていた。
「ま、ここじゃこじんまりとし過ぎているから、奥に行こう。ここがどういう場所か、そして、僕が何者かを話すよ。興味ないかもしれないけれど」
「聞くわよ。聞いてもらう事で安心出来る事もあるから」
「もう僕に不安は無いよ」
「強がり?」
「強くなっただけ」
 倉庫の隅の影で暗くなっている場所まで行くと、寝袋と本棚、そして照明となるランプが置かれている場所があった。どれも使い込まれてぼろぼろだったが、何度も修繕した痕跡があった。ランプに火を付けて周囲を照らすと、暗くて見えなかった棚が光に照らされて姿を現した。そこから一つ、木箱を取り出して椅子代わりに座り、シオンは口を開いた。
「分かったとは思うけれど、ここは軍事基地だ。いや、軍事基地だった」
「今は?」
「空き家―――………という言い方は少し語弊があるね。僕が住んでいるから」
「まさか不法居住者」
「そんなわけ。僕が買い取ったんだ。これでも高給取りだからね」
「流石は軍人ね」
「あまり羨ましがらないんだね」
「お金持ってても、あんなに汚いもの見せられたら羨ましいって情も沸かないわよ」
「そりゃそうか」
「で、話って何?」
「話というのは、僕がファイナみたいな子だったって話だよ。家族がいなかった」
「え、家出していたんじゃないの?」
「家出というのはものの例えだよ。五歳くらいになった時にすぐ捨てられて、一週間くらい万引きで生計立ててたら警察に見つかって孤児院に送られた。覚えていたのは名前だけ。住んでいた場所は覚えていたけれど、文字の読み書きも何も出来なかった。住所を伝える術が無かった」
 笑いながら話すシオンだったが、出端から自分の育ちの良さに気付かされたエルゼイクは押し黙事しか出来なかった。
 そんな彼女に視線を合わせ、シオンは続けた。
「でも、そこの生活ってのが長引けば長引くほど嫌になってきてね。毎朝お祈りしなきゃいけないし、勉強はさせられるし、食べ物も好きな時間にしか食べられない。極め付けには門限だ。寝れない日も寝かしつけられるのが本当に嫌でね。我慢できなくなって途中で出てったんだ」
「反省しないタイプだったって事?」
「そうだね。全く反省なんかしなかった。あの時は」
「似てる人を知ってるかも」
「ま、誰にでもあるし、どこにでもいるよ、そんな人」
「んで、こっそり出て行って、また万引きで生計立ててやろうって思った」
「うわぁ………」
「引くなよ。そういう事君には無かったんだろうけど」
 ここでシオンは懐からタバコを取り出し火を付けて、その辺に放り投げた。代々に光る先端からは長細い煙が、割れながら天井へと舞い上がっていく。
「タバコ、苦手かい?」
「父も吸っていたので平気ですけれど、吸わないのに捨てるって」
「僕はタバコ苦手」
「じゃあ、なんで?」
「あの臭いがいつも忘れられないから。ま、続けよう」
 エルゼイクは困惑しながらも聞く耳を立てたが、すぐに別の情へとすり替わった。燃えるランプから目をそらして視線を上にやると、映っていたのは曇っていたシオンの表情だった。
「家出をした訳なんだけど、ここで初めて思い知ったよ。初めて万引きした時と状況や俺の知識、知恵のレベルが全く違うって事にね。あの時は読めなかった文字も読めるようになっていたし、数字もそう。ものの価値ってのを知ったからか、人と触れ合った事で人の事を中途半端に知って、共感できるようになかったか分からなかったが、出来なかった。万引き。
 そんで、腹減って寂しくなって、恥と不安を感じながら、孤児院に戻ったら、泣かれたよ。若い保母さんに。『心配したんだから~』って。今思えば、親だったら三日も家空けてたら不安で悶え死ぬよなぁ」
「私はその保母さんの―――………いえ、続けてください」
「そこからは、真面目になろうって勉強して、運動して、ルールもちゃんと守るようになって、友達も作るようになった。ま、出来た友達は引き取り先が見つかったりしてすぐ離れ離れになったりしたけど。んで、十五になって就職先として軍人を選んだ。これは金のために」
「何かに使う為?」
「いや、金貯めとけって教えに従ったまでだよ」
「意外と従順ね」
「軍人ですから」
「ま、軍に入ってからはあんまり苦労しなかった」
「へぇ、そんな凄腕だったんですね」
「いや、全然。しんどい思いは沢山したけど、これを苦労と呼んで人に騙るには人間として浅いと思う自分とかち合う。だから言わない」
「そういうのも聞いてみたいんですけど」
「じゃあ簡潔に。どこへ行っても思っている以上に大人は汚い。終わり」
「それは戦ってきた人間がってこと? 作戦的な」
「全部だ、全部。人間滅べって思ってる。今もそう」
「うわぁ、私みたい」
「でも、悪い奴ばっかじゃない。だから、疑いつつも話をする事は忘れない。誰にだって心があって、思考になって、言葉になって、行動に移す。同情出来ない奴も中にはいるけどね。そもそも共感出来ない奴とか頭良すぎる奴とか」
「人当たり良さそうなのに」
「お、ここでようやく褒め言葉頂きました」
「褒めてない。続けて」
「で、ここの話をするよ。ここはね、僕みたいな孤児から軍に志願した人が集められる特別な訓練所だったんだ。下っ端も上官もみんな孤児。理由も簡単だ。教育面に難があるから。
 だから、ここを脱走する奴は多かった。俺みたいに孤児院で従順に育った奴だけがいた訳じゃ無かったって事だ。誰にも引き取られないまま不良になって、犯罪を繰り返して金目当てでここへきた奴なんかはザラに居たし、中にはマフィアの下っ端上がりで拳銃ほしさにここへやってきた奴もいたな。そいつはすぐ〝自殺〟したけどね」
「………自殺、ねえ」
「多分、君が思っている〝自殺〟と種類が違うと思うけど、この辺は置いておこう。僕はここでの思い出の話がしたいんだ。
 さっきも言った通り、ここはろくでなしばかりの、訓練所というよりかは矯正施設に近い場所だった。でも、ここに居る奴らの人生ってどれも苦難の上に、希望を持ってやってきた奴らばかりだったから、方向性はどうであれ明るい奴が多かったよ」
「過去との対比で明るく振る舞っているだけじゃないの?」
「そんなことはないさ。本当に明るい奴らばっかりだった。僕が一番暗かったかもしれない」
「なんでよ。貴方が一番恵まれて―――」
「恵まれていたさ。だから、有り難みが分からなかった――――――訳でもないか。僕は金の使い方が分からなかったんだ。
 どちらかというと、他の奴らがここにいて言われたことをこなすだけでタダ飯と金が手に入る事に喜びを覚えていたんだ」
 元より金に困らない生活をしていたエルゼイクには分からない話でありながら、彼女自身の意識として分かってあげなければならない話でもあった。欲しいものは何でも手に入った。やりたいことも全部やらせてもらえた。改めて昔を懐かしみつつ、もう戻れない日常が恋しくなる一方で、目の前のシオンという男の哀愁をその身で感じ取った。これまでの日々が当たり前では無かったのだと。
 黙り混み続けるエルゼイクを横目に、シオンは続ける。
「僕はこの場所で一番頭が良かったみたいで、上官には可愛がられ、同僚には慕われ、時に嫉妬された。おまけに戦術と戦略を練るのが得意だったらしく、戦に駆り出されても僕は後ろで指示する人間だったんだ。だから、ここに入って怪我したこともなければ、戦で古傷を作った事もない」
「へぇ、自慢?」
「そのつもりは一切ないよ。僕のせいで死んだ人は沢山いる」
 命の責任の矛先を背けさせる為に「………そ、それは、」と、エルゼイクがシオンをなだめようとしたが、彼の口は笑顔を作っていたせいか、それ以上の言葉は紡がなかった。でも、目は笑っていなかった。
「責任能力が無かった訳じゃ無いんだけれど、こういうのを続くと感覚も麻痺してくる。こうやって人って死んでいくんだ、と思った。多分、だけど今富を築いている人も同じ気分や気持ちを背負って、社会をダメにしているんだろうってね」
「………………憂いはあったのね」
「みんなが命をかけてた。駆ける。賭ける。懸ける。色んな意味を込めて、片腕を無くしたり、足を無くしたりしながら戦っているのに、僕はやっぱり指示しているだけ。でも、感謝されるんだよ。怪我も何もしてないのに、傷一つ付かないのに、『ありがとう』って。意味分かんないだろ? 死人が出ても、身元が分からない奴ばかりだから、責め立てられる事も無い。嫉妬もされない。そして、勝てば上官から褒められる。そしていつの間にか少佐だよ。入って最初の戦で死んで二つ階級が上がった奴よりも偉くなってるんだ。何もしてないのに」
「何もしてない………ことはないよ。私みたいな人を助けられる人柄じゃん」
「そうかな。そういう風に映るのかな、映っていたのかな。ま、こういうのが続いて、評価されて、僕は〝普通〟の軍の所属になったんだ。まともな人間として認められて、同じ仕事をした。ここでようやく俺は受け取るべき罵声を浴びた。結婚して数ヶ月の新兵が戦場で亡くなって、そいつの両親と兄弟と新妻に殺されるかって位に暴言を浴びた。ここでようやく足りなかったピースが埋まったんだ」
「………………嬉しかったってこと?」
「嬉しいわけないよ。何も嬉しくない。寧ろ死ぬほど泣いたよ。辞めようとも思った。そんで、過去を振り返ったんだ。今まで褒められてばっかでそれに疑問抱いてた事に間違いは無かったということ。そして、それでも続けられた理由だったって事。
 この一件の後、休暇を貰って、墓参りに行ったんだ。亡くなった新兵含め、俺が殺し――――――違う、僕と戦を共にして散った人達全ての墓を巡った。そしたら、前の上官だった奴が来ていたんだ。名前は『フォイド』。気の強いおっさんで女好きなのに童貞でね、僕の同僚はそれを弄り倒していたんだ」
「………童貞って何?」
「余計な事を言った気がするね。忘れていいよ、その言葉」
「え、気になる」
「女の子知らずって意味」
「あー、シオンさんみたいな」
「僕は君を知らないだけ。でも、女の子知らずってのは………………合ってるかも。未だに独身だし」
「………………へぇ」
「何? まぁ、いいよ。それで、フォイドと話してたんだけど、どうやら僕が育った場所が取り壊されるって情報が手に入ったんだ。部隊も散り散りになるって聞いて、昔の記憶が全部蘇ってきたんだ。ここで、退屈そうに眺めていた、死んでいった仲間達の楽しそうな姿を映した記憶がね。走馬灯みたいに」
「………………」
「そこで、なんか、言ったんだ。ここを残したいって。そしたら、『欲しいものは買えばいい』って言われた。だから、買い取るって言った。その頃にはお金も貯まっていたし、価値も分かっていたはず………………だったんだ。でも、なんか、大事だと思ったんだ。その頃も今も同じだけど、お金の使い方が分かっていないから、こういう時にしか使えないと思ったんだ。そしたら、なんて返ってきたと思う?」
「え、足りない、とか?」
「ご明察。本当に『足りない』って言われた。でも、フォイドが一部出してくれるって言ったんだ。酒とタバコで金が無いはずだったんだけどなぁ、って思ってたし、現に僕が出した金の方が多かった。結果としてだけどね」
「じゃあここは、シオンさんと、その、フォイドさん、って人が共同で買い取った基地って事?」
「そういう事になるね。いつか、死んだ兵がお化けとして戻ってきてこられるようにって思って、掃除をしていない所は敢えて掃除はしない」
「お化けとか信じてるんだ。意外」
「信じたくもなるよ。神様とかお化けとか悪魔とか。じゃないと理不尽過ぎてやってられない。買い取って色んな奴住んでくれたけど、その数も段々減って、ついには俺だけになったよ」
「え、フォイドさんは?」
「死んだ。戦に駆り出されて死んだ。軍人なんていつ死んでもおかしくない職業だ。諸外国との折り合いも、表向きは良好って国民には嘯いて平和を偽っているけど、外交ってのはいつも見えない弾が飛び交うものでね。戦争なんて無くても、小っこい紛争だったり、兵士の貸し借りで戦に駆り出されるってのは日常茶飯事なんだよ。その尊い犠牲だ」
「………………それは、残念ね」
「なんだ、フォイドの事気になるのか?」
「いや、聞いた事ある名前だなって。どこで聞いたか覚えて無いけど。でも、気になるかならないか、と聞かれれば気になるかも」
「だよね。こいつは僕なんかよりもよっぽど有名人だからね。さっき言った事もそうだけど、それに加えて戦とは別の件で奇跡の生還を果たしたり、だとか、晩年はクソほどモテたのに寄ってきた女全部振ったくせに童貞のまま死んだし、死に方も伝説級だったし、噂話が広まっても仕方ないか」
「その辺の噂の一切を知らないんだけど」
「あれ、知れ渡ってると思ってた。じゃあ、見栄張って借金して僕と共同出資してここ買い取ったって話は聞いたかな」
「聞いたこと無いよ。でも、誰かから、別の件で話を聞いた事があるの」
「ふーむ、なるほど。じゃあ、話してあげるよ。フォイドの事」
 シオンは火の消えたタバコを片付け、もう一度タバコを取り出し火を付けてその場に置いた。彼にとって懐かしい香り煙と共に舞い上がった。この訓練所の、どこにでも嗅げたこの臭いは今やここにしかない。
 もう、過去には戻れやしないと思いながら、エルゼイクにフォイドの事を話した。


☆ ☆ ☆


 アリエス島の火山の噴火は多大な犠牲を伴った。犠牲者は一万二千人程。負傷者はその三倍。島民は避難により被害を免れたが、島の対岸に位置する街の住人も火山灰に飲まれ、運良く死から逃れられても、その大半が肺に後遺症が残った。
 救援や調査に向かった部隊も結成されたが、ほぼ全てが壊滅状態だった。その中で無傷で帰ってきたのはルーンとフォイドのたった二人だった。
 その二人も噴火が起こった数ヶ月後での救助により生存が確認されたが故に、人間の生存力の限界に医学界に波乱が巻き起こった。二人の身体の仕組みを解剖しようと国が動こうとしたが、これをルインツエイラ家の青年がせき止め、何事も無かったかのように共に元の生活に戻る事が出来た。
 ルインツエイラの青年―――マルセルがルーンと婚約したのはこの件が終わってすぐだった。盛大な結婚式だった。アルデラントの歴史に名を残せるほどの豪華だった。
 振り返れば諸外国の有名な貴族、伯爵、国王、大統領の数々。勿論大公もいた。旋律を整わせつつ、それぞれの持ち味を最大限活かしながらも、いがみ合う事が一切無い、最高級で最大限の催しであり、最も整ったパーティとして名を知られた。
 その後、すぐに子供も出来た。二人。
 一人目は腕白で好奇心溢れる元気な子。よく泣き、よく笑う、喜怒哀楽がはっきりしていた。
 二人目は誰かに慕うことを好む、笑顔の多い子。姉を慕い、姉を思い、親よりも姉を頼る姿が可愛らしく映る子だった。
 二人目が生まれて半月後にフォイドはシオンを連れてルインツエイラの屋敷を訪れた。シオンは本拠に入りたてで、勤務やあらゆる事情、マナー、ルールに慣れておらず、仕事ではミスを連発する余りで、見かねた上司が気分転換に、とルインツエイラ家に許可を得た経緯の元で。
「あら、フォイド。来てくれたのね」
「色々聞いたからな。まずはおめでとう」
 二人の間に、シオンは呆気を取られていた。
 女好きで、尚且つ出会う女性全てにどこかで嫌そうな素振りを見せられていたフォイドに対し、毛嫌う様子を一切見せないどころか、寧ろ好意的に接してくれる異性がいるとは思わなかった。
「あ、あの、フォイド上官に仕えております、シオンと申します。この度はご出産―――」
「あら、可愛い子じゃない! フォイドもこういう子分出来て良かったわね」
「え、いや………」
「こいつは別の所に居たんだが国に能力を買われて本軍として勤務することになったんだ」
「貴方も立派な先輩として人の上に立てる人になったということね」
「ははは! 少し前の俺としては考えられねえな!」
 フォイドは女性からの支持が薄く、男性からの支持が厚い人間だった。モラルは守らない上に、口も下手で、誰よりも目立ちたがり屋。その上、嫉妬心も強く、理不尽に暴力を振るう事も稀では無かった。そんな日常が彼を彼たらしめていたのだが、今は違う。
 出会う全ての人間に振る舞う姿勢が、ルーンに対するものと合わせるようになっていた事で、何故か異性にも支持を得る事となった。
「あ、あややぁ~」
 生まれたばかりの二人目の赤子がベビーカーの上でフォイドに対し、空を仰ぐ。そっと人差し指を差し出すと、赤子はその指を握って、無邪気な笑顔を作った。
「幸せそうだな」
「大変よ。色々と。仕事は全部ストップだし、貴方を気に入ってるこの子ったら、夜行性なのか、夜中しか泣かないのよ。私と寝ても泣き止まないし。でも、隣の子と寝ると大人しくなるのよ」
「面白いな、赤ちゃん」
「面白くない! 色々あって大変なのよ! 貴方もさっさと結婚してその大変さ分かった方がいいわよ」

「俺は、しないだろうな。結婚」

「あら、貴方、結構噂になってるわよ。最近かっこいいとかなんとか」
「違うんだ。なんか。全部。どれだけその身が美しくても、汚らわしくても、俺の目には一人の頑張る人間に映っちまう。そんな人間の邪魔出来ねえよ。俺も俺で仕事柄頑張んなきゃいけねえ」
「大事な人でも出来た?」
「さぁ? 分からない。でも、すれ違ってはいたのかもしれない」
「そっか。でも、どっかで軍人は辞めてね。私は――――――運命を………………」
「俺は辞めない。軍人を。俺が俺でいられた証だから」
「………………そう、なのね」
「寂しそうにいうのはやめろよ。俺だって、この仕事に誇りがあって―――」
「ううん。違うの。怖いの、自分の事」
「あの時の占いの事か?」
「そう。私のは当たるから」
「運命がそういう結末であっても、俺は自由の為に戦うさ。死にたくは無いけど、死なないようにする。生きて、また会いに行くよ」
 傍から聞いていたシオンには二人の会話に割って入る余地などなかった。ただ、内容だけは全て覚えていた。一言一句違わず。二人の間柄は夫婦ではないものの、波長の合った友達――――――以上の関係に見えた。
 そして、噴火の一件から戻った後のフォイドの雰囲気が違うように見えた理由も何となく分かった。
 それからと言うものの、フォイドは訓練やトレーニングの傍らで占いの勉強をするようになった。他人にも披露し、そこそこ当たると評判になった。
 世間からは強面で近寄りがたいイメージも、どんどん柔らかく穏やかなものへと変わっていった。本人も無自覚ではなかったが、決して調子に乗って欲に溺れる事もしなかった。
「なんで荷造りなんてしてるんですか?」
 これまでは散らかっていたフォイドの部屋だったが、例の一件以降は片付けて人が呼べる程度には整っていたが、シオンが目撃した彼の部屋はやけに片付き過ぎていた。傍を見れば衣服などが詰まったスーツケースが開きっぱなしになっていた。
「ここを買い取った時に作った借金全部返済したからさ、次の戦終わったら暫く旅にでもいこうと思ってな」
「戦って、あれですか。カムイのレーヴ侵攻の救援ですか。この国も本当にお金無いって実感させられますね。でも、それとこれと何が関係あるんですか?」
「なんとなく、なんとなくだ」
「なんとなく………………ねぇ」
「文句か?」
「いや、なんか――――――やっぱり言いません。ただ、待ってますからね。ここは貴方の家でもありますから」
「なめんなよ。俺だってここまで腕や足の一本も失わずにやってきたんだ。んな小っこい戦争なんかで死ぬかよ」
「生死の心配はしてませんよ。僕が寂しいだけです」
「ふっ。お前も変わったな。寂しさなんか知らない一匹狼だったお前からそんな事聞けるなんて、思いにもよらなかった」
「貴方だって同じ。変わらないものはないですよ。変わらないものもありますけど。ただ、変えたくないものもあります」
「お前の変えたくないものってなんだ?」
「―――それは――――――」

 一ヶ月後、カムイへの救援任務は終わった。死者はいなかったが、負傷者は多数。その中にフォイドも含まれていた。丁度休みだったシオンは急いで彼の元へ向かったが、
「心臓を撃たれているのに意識が!?」
 医療班から状況を説明されたシオンだったが、容態と状況が全くかみ合わない現象に思わず大きな声を上げた。
「ええ、私たちも何が起こってこうなっているのかさっぱりで………」
「会えないのか?」
「本人は大丈夫、と言っているのですが、ちょっとこちらでは即決は出来かねます」
 フォイドの心臓は機能していない状態だった。それでも意識を保っているどころか元気であり、本人としては一刻も早く病室を出たい、とのことだった。いつ何が起きてもおかしくない状況でありつつも、三日経過しても、同様の状況が続き、フォイドが暴れ出しそうだったのを医者が見かねて面会は許可された。
「大丈夫なのか!?」
 病床のフォイドにシオンが問いかける。
「大丈夫、大丈夫。それよりさ。俺の活躍で、カムイの奴らも度肝抜いてたんだぜ!」
 いつものフォイドの様子を見られて安心したが、これからどうなるのか、という不安は拭えなかった。心臓の機能を停止させながら生きている陸上生物など前代未聞であり、ここに前例が誕生している。
 不幸中の幸いか、心臓以外の怪我もない為、このまま一週間経過すれば、通院という形で治療、及び、診察という名の治験という条件付きで外へが出来ると言われた。
 しかし、フォイドという男は一筋縄では行かなかった。シオンに会った次の日の事、彼はベッドから姿を消していた。医者は慌てて捜索を依頼するが、どこへ行ったのか検討も付かない。
 唯一手がかりがあるとするならば、ベッドに置いてあった軍の除隊届だけであった。受理は勿論されず、軍からの脱走とみなされ、若い兵も彼の捜索へ出る事になった。
 この知らせはシオンの元にも届いていたが、敢えて自分から行動はしなかった。代わりに、とある女性に会いに行ったのだろう、と推論を立ててルインツエイラの屋敷に行くよう若い兵の一人に伝えた。
 思惑は外れた。これはシオンの想定内でもあった。二つ目は恐らくここだろう、と見て居座ってはいたが、数日経っても来る様子は見せず、流石に行動に出ないとまずい、と焦り、ついにはこの場所を離れる決意をした。
 だが、どこに行けば分からない。この仕事を通して語った事といえば、戦の話、女の話、生まれ育ちの話くらいなものだった。
 戦の話に関して、フォイドの人生を通してこの国を舞台に起こった戦争はない。シオンも同様である。
 女の話にしても、同様。同じ女性の話しか聞いてこなかった。他に思い当たる節があるのならば、火山から帰ってきた後に豹変したフォイドに寄ってたかってきた有象無象だろう。
 生まれ育ちはファイナと同じくして港町のイオリアと聞いていた。勿論手配済みであった。
 どこに行ったのだろうと思考を巡らせて暫く。ある合点に行き着いた。
 シオンは今いる場所を直ぐさま離れ、車などそこらに置いて汽車で北へ向かった。予約も何も無しに急遽乗った為、自身の持つ階級制度の割引も使えなかったが、その時の彼には関係無かった。
 向かった先はダアトと呼ばれる街――――――だった場所。ここはアリエス島の火山の噴火に際し、火山灰で埋もれた街の一つだった。
 積もった火山灰の堅さと、それに沈んでいる建物の全てに悲観を覚えたが、それも束の間だった。

「おい! お前! フォイド!」

 町中で倒れている男性の姿を見てシオンは言った。男性は入院着のパジャマを着た姿で横たわっていた。呼びかけると微かに身体を動かした。
 痙攣しながら、男性は駆け寄る彼の姿を確認しようと必死に身体を動かして視線を合わせた。

「おお、シオンじゃないか。どうしたんだ」

 極めて穏やかな声で男性が言った。今まであった髭も、髪も何もなかったが、シオンは彼の声の波長で直ぐさまフォイドだと認識できた。何にやつれたのか、顔には沢山の皺と疲れを顕していたのにも関わらず。
 しかし、彼の元へやってきた時のフォイドの顔色は真っ白だった。浅黒い肌を持ち合わせていた彼の印象とは真反対の姿にシオンは急に不安に駆られて、彼の元へ寄り添い、言った。

「………………なんで、ここまで来たんですか。ここまで逃げたんですか」

「逃げたつもりは………ねえよ、でも、な。こ、こ、この命はどこかに返さなきゃいけねえって―――――――」

「ふざけんな! お前! 好きな奴いるんだろ! 助かる見込みが少しでもあるなら、安静にして、どんな困難な状況でも自分の思いくらい伝えろよ!」

「お? 俺が、ルーンの事好きだって、言いたい、のか………?」

「そうだよ! 違うのかよ!」

「半分正解。半分違う。あいつは、あいつには幸せになって欲しいだけだ。あいつの幸せが、俺の幸せ」

「意味分かんねえよ! お前が………フォイドさんが幸せにならなきゃ意味………ないじゃん………」

「幸せ………ねぇ。お、お前さ。本気で人を好きになった事はあるか………? いつも一匹狼で、全部の事をつまらなさそうに過ごしてて、俺はそういうお前のこと心配してたんだぜ?」

「……………………」

「まだ、分かんねえか。でも、今後のい、いい経験になると思え」

「じゃあ、伝えなくても良いんですか! 伝えるだけならただですよ! あなたの気持ち!」

「言いたい事は沢山ある。寧ろ、俺の人生とか、言いたい事言いまくってきたからな。だから、一番大切な奴にあった時に、言いたい事は言えなかった。でも、言えないままで良かったんだ。あの瞬間が一番大変で、不謹慎だが、一番幸せだった。だから、度が過ぎた高津区は入らない。
 いや、俺は、俺の人生は、あの人に会えたから幸せという形で終えられるんだ。
 だから、せめてあい………つ…………………………に……………」

「お、おい………………………ふざけんなよ………おい! おい、おい! おい!」

 もう、フォイドは動かなくなった。心臓が止まって一ヶ月半経った後の事だった。

 ダアトだった街で、シオンはようやくフォイドが何をしようとしていたのかを把握した。自身の望まぬ結果であり、彼の結論も同じ。
 自由の切なさに身を削がれ、シオンは喉が掻き切れる程大声を出して泣いて、フォイドの遺体を軍へ持ち運んだが、彼の階級があがる事などなく、慰礼制度を譲受する相手もいなかったが故に彼の遺産は全てアルデラントの税へと支払われた。
 シオンは、彼の愛したものへ一部を譲渡出来ないか、と懇願したが、ルインツエイラの家元として、下の身分より無償の報酬を受ける事はタブーとされていたが故に、何もしてあげられなかった。
 だが、遺体だけは彼の元へ届いた。アルデラントの一般的な冠婚葬祭では土葬が基本だったが、シオンは火葬に拘った。

 業者を探すのにも手間をかけつつ、ようやくその時が訪れた。

 木製の棺桶に入った、血の気の無い真っ白なフォイドの遺体に火を入れるその時が。辺りには沢山の新聞紙、藁、着火剤を散布されたその棺桶に火を点すと――――――

「………何、が起こっているんだ………?」

 ものを燃やして散るのは白い灰。そんな事はどこの誰にでも分かっているのに、シオンの目の前に散ったのは白い花弁だった。形はそれぞれ違えど、様々な白い花弁が風に舞って空へ消えてゆく。
 冗談だと思いたくても、自分を通りすぎていく全ての白い灰が、花弁であったのは言うまでもなく、咄嗟に手にした一つの花弁が物語っていた。

 火葬が終わっても同じだった。そこに、フォイドを象った骨は無く、代わりに真っ白な色とりどりの花弁だけが残っていた。灰ではなく、花弁。真っ白できめ細かく、焦げ所か傷一つない花弁。

 燃えて温度が上がっている状態だったのにもかかわらず、シオンはそれに触れた。暖かく、冷たくもなく、一つの花弁だった。

 この状況を目撃したのはその業者とシオンのみだった。
 火葬を終えて暫く考え、シオンはその花弁を全て買い取り、自分が初めて買ったジュースの瓶に詰め込んで、墓に埋めようと模索した。が、人の遺体の人の果てである。簡単に行動に移す事に対し罪悪感を覚えた。

 だが十年後、シオンは気持ちの踏ん切りがついてフォイドの墓を自身の住んでいる基地の付近に建てて、その花弁が入っている壺を墓の傍に掘った穴に埋めようとしたところで―――

「すみません。私ルーン………いえ、もうただのルーンなのですが」

 シオンの元に一人の女性が現れた。顔は見たことがあるが、記憶にあった像と比較し、やややつれている様子であったが「え」という声を漏らさずには居られなかった。

「あ、あの、私シオン――――――」

「存じております。フォイドと一緒に私に会って下さった若い子でしょう? 立派になったのね」

「え、ええ………」

「フォイドが亡くなったって聞いて、その、彼が生前したかったことってのも噂にしちゃってて」

「生前の彼………というよりとある日から、ずっと人気ものでしたからね」

「そうだったんですね。そういった噂は聞いたことなくて、でも、何か心配で調べたら、今はここに………………」

 女性はそういって途端、崩れるように膝を折って顔を目で覆い、目をぎゅっとつむって涙を堪える姿勢を取った。

「彼はきっとここに居続けてくれますよ。みんなを守るために」

 励ますようにシオンが言うが、

「ううん、違うの。私が………あの人の運命を変えてしまった。だから、せめて―――ううん、なんでもない。なんでもない。なんでもない。なんでもないの」

「……………………え、どうかされましたか?」

「あの人ね、旅に出たがっていたの。だから、もし、貴方が良ければ、私にその人の花弁を一部だけでいい、下さい」

「は、花弁………!?」

 突拍子もない図星を突かれ、しらを切るようにシオンが言ったが、女性の目に狂いも無かった。
 後に疑ったものの、その場では九片程ルーンに花弁を渡すと、彼女は颯爽そその場を去った。
 意味のあるものだったのか、と後でシオンは考え、考え考え抜き、残りの休暇を鑑みて、結局同じように、フォイドの思いに答えようと、全国に花弁を巻いた。出来なかった旅をもう一度出来るように、と。





「………………そっか、そうだったんだね」
「僕が根暗野郎だって分かったでしょう?」
「ううん、違うの。貴方が私に話してくれたように、貴方に私の事を伝えておかなきゃいけないなって」
「でも、君は自分で自分の過去を明かさないようにしていたじゃないか」
「言うの。フォイドさんのために。そして、貴方の為に」
「どういう事?」


「私はね、ルーンってお母さんがいて、そのお母さんが私に名前を付けたの。エルゼイク・アマリリス・ルインツエイラって」



※ ※ ※



「少し話がある。マルセル」
 えん罪で独房へ幽閉されていたマルセルだったが、実際には軟禁に近い状態であった。家柄のお陰なのか定かではないが、刑務官のシルバが取り調べという名の面談を申し出て、そこでこっそりと菓子折などを差し入れていた。俗に言う賄賂のようなものである。
 今や名誉の各も地に落ちたルインツエイラだが、腐っても名家である。人間一人どころか千人いても抱えきれない膨大な損失を貯蓄だけで賄える程の資産を有しているが故に金目当ての面談の希望は絶えなかった。勿論、全て謝絶を余儀なくされたが。
 そんな中、シルバは監視の目をかいくぐって、マルセルに対し取り調べを要求した。その為に、周囲にいくらでも嘘を流布し続けた。
「お前はいつも私の所へやってくるんだな。金か?」
「そうじゃない、といつも言っているだろう」
 マルセルの元へシルバがやってくるのはいつも急であった。それもその筈、容疑者としてのマルセル、それを監視するシルバでは立場としては当然である。例えば、事件に必要な情報が発覚したら、容疑者の尋問が急に必要になる。他者の人権の侵害という形での罪で収容されたのならば、その人権を補完するという形式でアルデラントの法は成り立っている。
 しかしながら、己の正しさという形で法をかいくぐるのはいつの時代も容易である。
 その正しさが、真の正義かは人それぞれであるが、シルバにとっては正義だったのだろう。だから、自身の立場を上手く利用し、マルセルを外へ出るように誘導した。
 二人でやってきた面談室は四方セメントの壁で出来上がった鉄筋構造で、いるだけでも冷たさを感じる。
 いつものようにマルセルは簡素に作られた椅子に座るが、シルバはいつも余所余所しさを感じさせる、形式張った素振りで椅子に座る。
 マルセルとしては奇怪に感じる部分があったが、いつしかご愛敬と化して特に追従する事もなくなった。
「んで、今日はなんだ?」
「ムーンライト、という植物について尋ねたいのだが」
「その話はしたくない、と何度も言っているだろう」
「これがあれば、貴方のせいで被ったルインツエイラの損失を、全て賄える程の資産、得るはずだった利益、そして貴方や家族の未来を賄えるんですよ」
「どうやって利用するんだ?」
「………………そういう技師を連れて―――――――」
「甘いな。本当に甘い。人や物に限らず、信じられるものを手駒にして初めて成り立つんだよ。産業というものは。自身がものにしようとする物質も同じ。その物質への理解は進んでいるのか?」
「………………」
「だから、あれに手を出そうとするのはやめておけ。極めて危険だ」
「あれのお陰である火山の――――――」
「その話もしない。過去の事だ。どうせ軍事利用を目論んでいるんだろうが、人の手に負えぬものに憧れを抱き、指示を出すだけでどれだけの犠牲が必要なのか分かっているのか?」
「何故そんなに恐れを抱いているのですか?」
「そんなの………………私にはない」
「そのようにしか見えませんが」
「あのな―――――――いや、言わない」
「言って下さいよ」
「………………ムーンライトは永遠の命を持つと言われている。だが、我々は永遠の存在では無い。仮に我々の助けとしてその存在の技術が確立されようものならば、各々の欲望が働き新たな戦いが生まれる。意味の無い戦いが。関係の無い命の喪失が。ここまで理解が及ばないのかね」
「考えすぎでは?」
「歴史が証明している」
「歴史は人をより良い道に進むための過去として刻まれているものですよ。あなたは、人が変わる事をご存じで無い?」
「確かに人は変わる。変わらないものものいる。そして、変えたくないものもいる」
「貴方は変わらない、と?」
「私は変えたくないんだ。この命としての理を。今を照らし続けるものが命の輝きだろう」
「文学者というものはよく分からないですね。考え方っていうのが特に分からない」
「その命を何度も棒に振られる瞬間に出会うと分かってくるさ。何が大事で何を切り捨てるべきか、というものを。でも、私はまた間違えた。その為に次を………………いや、いい。とにかくだ。ムーンライトの件に関しては黙秘させて頂く」
「また聞きにきますね」
「もう来なくていい」
「また来ます」
 とは言うものの、この部屋から最初に追い出されるのはマルセル本人であるわけだが。
「そういえば、貴方が言っていた例のあれ、持ってきましたよ」
 シルバが小さな声で囁きながら差し出したのは小さな箱。見つかれば即没収されるが、袖の裏側を通して見つからないようにマルセルに手渡した。
 独房に戻り、こっそりと中身を開けるとコンパスが入っていた。子供が遊びで円を描くような小ぶりのもの。建築関係で使うものとは大きく作りが異なり、正確な円を描くには適していないが、マルセルとしてはこれで良かった。
 夜な夜な冷たい床にコンパスで円を描いたの皮切りに、その形はダーツの的のような形に仕上げていく。
 出来上がったのはホロスコープ。マルセルは自分自身を占星術で占おうとしていた。占いなど信じない性分だったが、ここまで立て続けに悪い事が起こるとなると、精神的な疲弊から、過去の記憶を辿ってルーンの事を思い出し、彼女が得意だったものを再現したのだった。
 交際していた頃から、ルーンが彼女の親の都合で占いをやっていたのは知っていた上、やり方を教えて貰った事もあった。その中でも、占星術と自身の行いの的中率が非常に高かった事もあり、興味を示して自分で調べるまでに至った。
 占術を見下している事を口外していたが故に、仕事仲間や友人にこれを披露することは決してなかったが、家族にはたまに披露していた。

 現在の自身のホロスコープを描ききり、暫く眺めて指で星座と星座を繋ぐように円を空にに描くと、暫く悩み、納得した表情を浮かべた。満足のいく未来………はそこには無かったが。
 マルセルの占術は少々時間軸に誤差の多いが的中率は高く、本人も自覚している。だからこそ、この場所に居る事にある種の自信が持てた。
 暫く満月になりかけの小望月を眺めた後、少し心に余裕を持ったが故に、自信の愛する娘たちのホロスコープをそれぞれ描き、彼女たちを占った。
 すると、むっっと顔をしかめ、暫く考え込んだ後、悩み、そして悟り、僅かながら口角を緩めて、目尻を少しだけ下ろして、「幸せにな」と、独り言を呟き、その日の夜は寝付きが悪いながらも、目を無理矢理閉じて夜を過ごした。
 翌日、シルバが再び面会にやってきた。同じように金の催促にやってきた訳だが、マルセルはこれに対し、「一週間以内」と答えてみせたのだ。ただの約束に来ただけだったのに、一週間という期限を明示されたが、今後の動向や景気を鑑みてもここから出られる訳がない。
「マルセルさん、どうしたんですか?」
「奇跡は起きるさ。信じる心さえあれば」
「会話になってませんよ」
「もう一度、希望を持てた。それだけだ」
「あれを渡………いや、違う。それだけでですか?」
「充分」
 余裕たっぷりの表情でその日の面談を終えた。特になにも会話の進展は無く、シルバからすればマルセルの戯言など、滑稽そのものであった。名家ルインツエイラの当主もここまで落ちるのか、と。
 幸福論に関して自信の執筆内で問いた事のマルセルに対し、シルバは彼にどうすればこの先良くなるか認識しているのにも関わらず、初歩的な会話の切り口さえ言い出せなかったが故に、去り際を切なく見送った。
 だが、その数日後、マルセルの出所はいとも簡単に決まった。理由は別の容疑者が名前に挙がったからである。同時にライゼルカに掛けられた容疑も、この影響で薄まった。計算外ではあったものの、マルセルにとっては不幸中の幸い、といった所で、今回自信が拘束された事によって生まれた損失は莫大なものになる。
 これらを取り戻すため――――――にマルセルは動こうとは思ってはいなかった。いつも、己の行く先を知るものに恐怖は無い。
 畏怖していたのは、この先にある自身に訪れる恐怖であった。

 だから、マルセルは出所した後も顔をしかめて周囲を訝る我の如く睨み通してその場を後にした。



「知ってるか? あれやったのってルインツエイラのとこの娘じゃなくて、その同級生だって」
「なんたって、身体売って男使って悪さしていたんだって」
「とんでもねえガキだな」
「よくもまぁ、そんなガキが、それも女が学校に入れたもんだ。親はどういう教育してんだ」
「それが、容疑にかけられたガキってのが養子に引き取られた身のもんで――――――名前は『メアリー』っていうらしい………」

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