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何もわからないままバイトは始まる
第13話
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目を覚ますと、空が薄明るくなっていた。
見たこともない場所を走っている。
窓を全開にすると、生温かい風が顔に吹きかかった。
透は薄目で外の景色を眺めながら呟いた。
「そりゃそうだ」
あれが現実であるはずがなかった。
エアコンの冷気が外気に比べ劣勢になってきたので、透は窓を閉めた。
「酸素が薄かったか?」
「いや、全然です。おはようございます」
透は寝起きの自分の声に幼さを感じて、眉間に皺を寄せた。窓に映るむくんだ顔を軽く睨み、頬を軽く叩く。
「寝言で私の名を呼んでいた」
「えっ、本当ですか?」
透は体温が上がるのを感じ、ボタンをしつこく押して窓を開けた。再び生暖かい風が流れ込んできて、慌てて閉める。
果たして透が寝言で言ったのは、ランの名前だけだろうか。透は確かめておきたい衝動に駆られた。だが色々話していたと知ったら、いたたまれなくなり車から飛び出してしまうかもしれない。まだ何も始まっていないというのに。
透はそれならばいっそと、先手を打って、夢のあらましをランに話した。ランは無言でそれを聞いていたが、そのうち呆れた様子で口を挟んだ。
「25メートルを泳ぐだけで報酬が貰えるのか。いいバイトだな」
「近いですか?」
「掠ってもいない」
だろうな。馬鹿馬鹿しい。
透は脱力し、背もたれに体を預けた。
フロントガラスから望む空は、刻一刻と彩度を高くしていた。今はちょうど、あのプールの底面を彷彿とさせる色合いだ。
雲のない空を走る1機の飛行機のように、兄はぽつんと佇んでいた。透はあのまま、兄に声を掛けたかった。
兄は泳ぐことが苦手だったのだろうか。
思い返せば沿岸部で暮らしていたのに、家族で海に行ったことはなかった。必ず山だった。
校外学習のバスの窓から見た海の鮮やかさを、透は未だに覚えている。窓に張りついていたのは透を含めて数人で、大半のクラスメイトたちは、カードゲームやカラオケで盛り上がっていた。
「そういえば、寝ている間に君の名を考えたんだが、ハリというのはどうだ?」
透はランの方を向きなおった。外を見ていたせいで、緑色の斑点が見える。瞬きを繰り返しながら透はランの言葉を咀嚼した。針?
「刺すやつですか? 縫い物の?」
「いいや。あとで調べてみるといい」
透は「ハリ」が何か知らなかったが、涼しげな響きが気に入った。
「じゃあ、それにします」
「ああ」
窓の景色は、その後もめまぐるしく移り変わった。住宅街を抜け、自然の中を抜け、ビル群を抜けた。透は景色に魅入っていたが、日が高くなるころにはすっかり興味を失った。知らない土地といっても、案外似たような景色ばかりだ。
それよりも喉が渇いた。起きてから一滴も口にしていない。どこか、道沿いのコンビニに寄ってもらうように頼むか。透が話しかけるタイミングを探っていると、ランは立てた親指で後部座席を示した。
「飲み物は後ろだ。食べ物も積んである。好きなときに取っていい」
振り返るとクーラーボックスや紙袋や段ボール、丸めたタオルケットなどで後部座席は完全に埋まっていた。
「すごい量」
「朝方、家から持って来た。その方が効率的だからな」
透は後ろに身を乗り出し、よく冷えたお茶とおにぎりを1つ取った。
「ランさんも食べますか?」
「あとでいい」
透はお茶で喉を潤してから、昆布のおにぎりの包みを剥がした。生きるために食べる。
ふと、今は何時だろうと思った。ポケットからスマホを取り出し確認すると、ちょうど正午だった。亮太から「サボりかー!」というメッセージ、雪からは何かのURLが送られてきている。
パスワードを打ち込みスマホを開こうとすると、横から低い声が飛んできた。
「ハリ」
「はい!」
食べながらスマホを見ていることを咎められると思った透は、咄嗟に文字通りスマホを手から離した。太腿に角から落下し、なかなかに痛い。
「スマホは使ってはならない。ここのラジオも駄目だ。それが条件だ」
「デジタルデトックスですか?」
「そういう認識でも構わない。とにかく終わるまでは見るな」
ランと自分との温度差に戸惑いながらも、透は頷いた。とくに断る理由もない。
「念のため、スマホを預からせてくれ。勝手に見るようなことはしない」
透はスマホの電源を切り、言われた通り手渡した。普段あまり使わないが、いざ手許を離れると心もとなく感じる。何よりまた退屈になってしまった。
「あとどれくらいで着くんですか?」
「どうだろうな」
車はガソリンスタンドで給油する時間を除いて、休むことなく走った。すっかり日が落ちてからも、背の高い木に挟まれた舗装されていない道を、ガタガタいわせながら進んでいた。
透は上部の手すりを掴んで衝撃を殺しながら、ずっと思っていたことを聞いた。
「眠くないですか?」
「ああ」
イエスともノーともとれない返事だ。だが顔はあきらかに寝不足を訴えている。
「どこかで宿でもとって休みませんか? この様子だと、目的地には当分到着しませ
んよね?」
「宿はだめだ。危険すぎる」
「え? どの辺が?」
「どこもかしこもだ」
何だそれ。透は納得がいかず、その後も説得を試みたが、ランは頑なに宿泊することを拒否した。
「じゃあ車を停めて、少しでも眠りましょうよ」
「だめだ。寝るわけにはいかない」
ランはものすごい形相で時計を確認し、窓の外を見た。透も見てみるが、風に葉を靡かせる木々があるだけだ。熊でも出るのだろうか。
見たこともない場所を走っている。
窓を全開にすると、生温かい風が顔に吹きかかった。
透は薄目で外の景色を眺めながら呟いた。
「そりゃそうだ」
あれが現実であるはずがなかった。
エアコンの冷気が外気に比べ劣勢になってきたので、透は窓を閉めた。
「酸素が薄かったか?」
「いや、全然です。おはようございます」
透は寝起きの自分の声に幼さを感じて、眉間に皺を寄せた。窓に映るむくんだ顔を軽く睨み、頬を軽く叩く。
「寝言で私の名を呼んでいた」
「えっ、本当ですか?」
透は体温が上がるのを感じ、ボタンをしつこく押して窓を開けた。再び生暖かい風が流れ込んできて、慌てて閉める。
果たして透が寝言で言ったのは、ランの名前だけだろうか。透は確かめておきたい衝動に駆られた。だが色々話していたと知ったら、いたたまれなくなり車から飛び出してしまうかもしれない。まだ何も始まっていないというのに。
透はそれならばいっそと、先手を打って、夢のあらましをランに話した。ランは無言でそれを聞いていたが、そのうち呆れた様子で口を挟んだ。
「25メートルを泳ぐだけで報酬が貰えるのか。いいバイトだな」
「近いですか?」
「掠ってもいない」
だろうな。馬鹿馬鹿しい。
透は脱力し、背もたれに体を預けた。
フロントガラスから望む空は、刻一刻と彩度を高くしていた。今はちょうど、あのプールの底面を彷彿とさせる色合いだ。
雲のない空を走る1機の飛行機のように、兄はぽつんと佇んでいた。透はあのまま、兄に声を掛けたかった。
兄は泳ぐことが苦手だったのだろうか。
思い返せば沿岸部で暮らしていたのに、家族で海に行ったことはなかった。必ず山だった。
校外学習のバスの窓から見た海の鮮やかさを、透は未だに覚えている。窓に張りついていたのは透を含めて数人で、大半のクラスメイトたちは、カードゲームやカラオケで盛り上がっていた。
「そういえば、寝ている間に君の名を考えたんだが、ハリというのはどうだ?」
透はランの方を向きなおった。外を見ていたせいで、緑色の斑点が見える。瞬きを繰り返しながら透はランの言葉を咀嚼した。針?
「刺すやつですか? 縫い物の?」
「いいや。あとで調べてみるといい」
透は「ハリ」が何か知らなかったが、涼しげな響きが気に入った。
「じゃあ、それにします」
「ああ」
窓の景色は、その後もめまぐるしく移り変わった。住宅街を抜け、自然の中を抜け、ビル群を抜けた。透は景色に魅入っていたが、日が高くなるころにはすっかり興味を失った。知らない土地といっても、案外似たような景色ばかりだ。
それよりも喉が渇いた。起きてから一滴も口にしていない。どこか、道沿いのコンビニに寄ってもらうように頼むか。透が話しかけるタイミングを探っていると、ランは立てた親指で後部座席を示した。
「飲み物は後ろだ。食べ物も積んである。好きなときに取っていい」
振り返るとクーラーボックスや紙袋や段ボール、丸めたタオルケットなどで後部座席は完全に埋まっていた。
「すごい量」
「朝方、家から持って来た。その方が効率的だからな」
透は後ろに身を乗り出し、よく冷えたお茶とおにぎりを1つ取った。
「ランさんも食べますか?」
「あとでいい」
透はお茶で喉を潤してから、昆布のおにぎりの包みを剥がした。生きるために食べる。
ふと、今は何時だろうと思った。ポケットからスマホを取り出し確認すると、ちょうど正午だった。亮太から「サボりかー!」というメッセージ、雪からは何かのURLが送られてきている。
パスワードを打ち込みスマホを開こうとすると、横から低い声が飛んできた。
「ハリ」
「はい!」
食べながらスマホを見ていることを咎められると思った透は、咄嗟に文字通りスマホを手から離した。太腿に角から落下し、なかなかに痛い。
「スマホは使ってはならない。ここのラジオも駄目だ。それが条件だ」
「デジタルデトックスですか?」
「そういう認識でも構わない。とにかく終わるまでは見るな」
ランと自分との温度差に戸惑いながらも、透は頷いた。とくに断る理由もない。
「念のため、スマホを預からせてくれ。勝手に見るようなことはしない」
透はスマホの電源を切り、言われた通り手渡した。普段あまり使わないが、いざ手許を離れると心もとなく感じる。何よりまた退屈になってしまった。
「あとどれくらいで着くんですか?」
「どうだろうな」
車はガソリンスタンドで給油する時間を除いて、休むことなく走った。すっかり日が落ちてからも、背の高い木に挟まれた舗装されていない道を、ガタガタいわせながら進んでいた。
透は上部の手すりを掴んで衝撃を殺しながら、ずっと思っていたことを聞いた。
「眠くないですか?」
「ああ」
イエスともノーともとれない返事だ。だが顔はあきらかに寝不足を訴えている。
「どこかで宿でもとって休みませんか? この様子だと、目的地には当分到着しませ
んよね?」
「宿はだめだ。危険すぎる」
「え? どの辺が?」
「どこもかしこもだ」
何だそれ。透は納得がいかず、その後も説得を試みたが、ランは頑なに宿泊することを拒否した。
「じゃあ車を停めて、少しでも眠りましょうよ」
「だめだ。寝るわけにはいかない」
ランはものすごい形相で時計を確認し、窓の外を見た。透も見てみるが、風に葉を靡かせる木々があるだけだ。熊でも出るのだろうか。
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