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第1章 左遷と「雇用を守る」嘘
夜・仮住まい
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仮住まいは、駅前のビジネスホテルより少しだけ“生活”に近いワンルームだった。家具付きの部屋に入ると、暖房の乾いた匂いが鼻の奥をくすぐる。壁は白、床は薄い木目。置いてあるのは折り畳みテーブルと、真新しいマグカップだけ。――ここに長居するつもりはない、と部屋が先に言っている。
コートを脱ぎ、鞄を床に置いた瞬間、スマホが震えた。画面に踊るのは、知らない番号。出る前に通知が重なる。
【社内共有】
「子会社社長、不倫か」
「ホテル密会写真」
添付あり。
息が浅くなる。火は、夜に大きくなる。私は通知を開き、添付をタップした。
画面に映ったのは、ホテルのエントランスを斜め上から切り取った一枚。外灯の白い光。少し濡れたアスファルト。傘の先。男性――社長が、誰かと並んで歩いている。相手は帽子とマスクで顔が隠れている。輪郭は細い。体格は私の知る“告発者”に近い。それでも、写真は語る。語ってしまう。
「不倫相手とホテルへ」
人は、見たいものしか見ない。
スクロールすると、二枚目。社長がドアを押さえ、相手を先に入れている。紳士的な動作が、より最悪の誤解を生む。三枚目。――腕が、触れている。ほんの一瞬。その“ほんの一瞬”を切り取るために、誰かが何時間も張ったのだと思うと、背中が冷えた。
スマホがまた震えた。今度はメッセージ。
【匿名】
「本社の火消し屋さん、今夜も忙しいですね」
「社長の次は、あなたの番かも」
指先が固まる。脅しの文章は、いつも余裕ぶっている。余裕のある側が書くからだ。私は画面を閉じ、深呼吸を一つだけした。恐怖は時間を食う。食わせない。
鞄からノートPCを出し、机に置く。ログ。時刻。共有範囲。誰が最初に投げた。――追える。追えるはず。でも、追っている間に“空気”は出来上がる。空気が出来たら、火は消えない。火は、燃え広がる。
キッチンの小さな水道で手を洗う。冷たい水が指先の震えを止めてくれる。鏡の前で顔を上げると、頬がわずかに赤い。寒さのせいか、さっき社長が近づいた距離のせいか。どちらにしても、理由を認めたら負けだ。
恋愛禁止条項。あれは、守るための線引き。私は線を引く側。越える側じゃない。
――そう思ったところで、ドアの外から、控えめなノックがした。
一拍、心臓が跳ねる。こんな時間に?覗き穴を覗くと、廊下の白い蛍光灯の下に、見覚えのある影が立っていた。背が高い。肩が広い。コートの下に、作業着の名残。社長だ。
私は鍵を開けかけて、手を止めた。危ない。距離が近い男は、余計な熱を連れてくる。
それでも鍵は回った。火消し屋の癖だ。危機は、ドアの外で放置できない。
ドアを少しだけ開けると、冷たい外気と一緒に社長の低い声が滑り込んできた。
「……出回ったな」
「はい」
私が短く答えると、社長は私の顔を見て、目を細めた。怒りじゃない。確かめるみたいな目。
「怖いか」
そう訊くのか、と意外で、言葉が一瞬遅れた。怖い。でも、それを見せたら負けだ。
「怖くないと言えば嘘です。ただ――仕事です」
社長は小さく息を吐き、視線を廊下の先へ投げた。
「ここ、壁薄いか?」
「普通です」
「なら、廊下で話すのはやめる」
そう言って、彼は私のドアをもう少しだけ押し開けた。入ってくる、ではなく、私を“外の視線”から隠すみたいに。
その動作が、妙に優しくて、胸の奥が勝手に熱を持つ。
「今夜、動くって言ったろ」
社長は声を落とす。
「告発者を移す。ここじゃない。……本社が来る」
本社。人事部長の顔が浮かぶ。私は喉の奥の乾きを飲み込み、頷いた。
「場所は」
社長はスマホを取り出し、短く画面を見せた。地図と、ピン。そして、最後に一行。
――『22:30 ホテル裏口 見られるな』
見られるな。恋愛じゃない。仕事だ。それでも、背中に走ったのは、火事場の緊張だけじゃなかった。
コートを脱ぎ、鞄を床に置いた瞬間、スマホが震えた。画面に踊るのは、知らない番号。出る前に通知が重なる。
【社内共有】
「子会社社長、不倫か」
「ホテル密会写真」
添付あり。
息が浅くなる。火は、夜に大きくなる。私は通知を開き、添付をタップした。
画面に映ったのは、ホテルのエントランスを斜め上から切り取った一枚。外灯の白い光。少し濡れたアスファルト。傘の先。男性――社長が、誰かと並んで歩いている。相手は帽子とマスクで顔が隠れている。輪郭は細い。体格は私の知る“告発者”に近い。それでも、写真は語る。語ってしまう。
「不倫相手とホテルへ」
人は、見たいものしか見ない。
スクロールすると、二枚目。社長がドアを押さえ、相手を先に入れている。紳士的な動作が、より最悪の誤解を生む。三枚目。――腕が、触れている。ほんの一瞬。その“ほんの一瞬”を切り取るために、誰かが何時間も張ったのだと思うと、背中が冷えた。
スマホがまた震えた。今度はメッセージ。
【匿名】
「本社の火消し屋さん、今夜も忙しいですね」
「社長の次は、あなたの番かも」
指先が固まる。脅しの文章は、いつも余裕ぶっている。余裕のある側が書くからだ。私は画面を閉じ、深呼吸を一つだけした。恐怖は時間を食う。食わせない。
鞄からノートPCを出し、机に置く。ログ。時刻。共有範囲。誰が最初に投げた。――追える。追えるはず。でも、追っている間に“空気”は出来上がる。空気が出来たら、火は消えない。火は、燃え広がる。
キッチンの小さな水道で手を洗う。冷たい水が指先の震えを止めてくれる。鏡の前で顔を上げると、頬がわずかに赤い。寒さのせいか、さっき社長が近づいた距離のせいか。どちらにしても、理由を認めたら負けだ。
恋愛禁止条項。あれは、守るための線引き。私は線を引く側。越える側じゃない。
――そう思ったところで、ドアの外から、控えめなノックがした。
一拍、心臓が跳ねる。こんな時間に?覗き穴を覗くと、廊下の白い蛍光灯の下に、見覚えのある影が立っていた。背が高い。肩が広い。コートの下に、作業着の名残。社長だ。
私は鍵を開けかけて、手を止めた。危ない。距離が近い男は、余計な熱を連れてくる。
それでも鍵は回った。火消し屋の癖だ。危機は、ドアの外で放置できない。
ドアを少しだけ開けると、冷たい外気と一緒に社長の低い声が滑り込んできた。
「……出回ったな」
「はい」
私が短く答えると、社長は私の顔を見て、目を細めた。怒りじゃない。確かめるみたいな目。
「怖いか」
そう訊くのか、と意外で、言葉が一瞬遅れた。怖い。でも、それを見せたら負けだ。
「怖くないと言えば嘘です。ただ――仕事です」
社長は小さく息を吐き、視線を廊下の先へ投げた。
「ここ、壁薄いか?」
「普通です」
「なら、廊下で話すのはやめる」
そう言って、彼は私のドアをもう少しだけ押し開けた。入ってくる、ではなく、私を“外の視線”から隠すみたいに。
その動作が、妙に優しくて、胸の奥が勝手に熱を持つ。
「今夜、動くって言ったろ」
社長は声を落とす。
「告発者を移す。ここじゃない。……本社が来る」
本社。人事部長の顔が浮かぶ。私は喉の奥の乾きを飲み込み、頷いた。
「場所は」
社長はスマホを取り出し、短く画面を見せた。地図と、ピン。そして、最後に一行。
――『22:30 ホテル裏口 見られるな』
見られるな。恋愛じゃない。仕事だ。それでも、背中に走ったのは、火事場の緊張だけじゃなかった。
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