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第2章 ホテル写真の裏:男を匿う社長
夜・社長の車
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社長の車は、内装が無駄に新しくなかった。シートの端に擦れがあり、ダッシュボードには現場の地図が挟まっている。誰かを乗せるための車じゃない。誰かの場所へ走るための車だ。
助手席に座った瞬間、ドアが閉まる音が思ったより大きく響いて、私は反射で肩をすくめた。外の冷気が遮断され、代わりにエンジンの熱と、社長の体温の残り香みたいなものが車内に満ちる。――近い。逃げ道がない近さ。恋愛禁止条項の警報が、また頭の奥で鳴る。
「シートベルト」
社長が短く言う。
「分かってます」
言い返しながらベルトを引くと、金具がカチリと留まった。拘束、と一瞬だけ連想してしまい、自分で苦笑いを飲み込む。
車は滑るように動き出し、工場の明かりがバックミラーの中へ小さくなる。
「……さっきのメール、CC多すぎだろ」
社長がハンドルを握ったまま吐き捨てる。
「“正しい顔”を揃えたいんです」
「正しい顔で、人を潰す」
社長の言い方は荒いのに、芯が外れていない。私は窓の外を見ながら答えた。
「潰す方が、円滑だから」
社長が小さく舌打ちをして、信号で止まる。赤信号の光が、彼の横顔に薄く当たる。頬骨のライン、眉間の影。怒っているのに、疲れている。守る側の人の疲れだ。
私は自分の指先を見た。USBがポケットの中で硬い。あれを開いた瞬間から、もう戻れない。戻る場所なんて、最初から無かったのかもしれない。
「……怖いか」
不意に社長が言った。視線は前。信号はまだ赤。今朝も聞かれた質問。だけど今夜のそれは、少しだけ温度が違う。
「怖いです」
嘘をつくのをやめた。
「怖いのに、やるのか」
「やらない方が、もっと怖い」
言ってから、胸の奥が痛んだ。過去の夜の白い蛍光灯が、ちらりと見えた気がした。
信号が青になる。車が進む。社長が片手でウインカーを出し、もう一方の手はハンドルから離れない。丁寧な運転。荒い言葉と、丁寧な所作の組み合わせが、妙に心に残る。
「お前さ」
社長が低く言う。
「本社の人事なのに、なんでここまで踏み込む」
質問の形をしているけれど、答えを待つ種類の問いじゃない。確認。線引き。私は一呼吸置いてから、言葉を選んだ。
「……火消しは、燃えた後じゃ遅いからです」
社長が鼻で笑う。
「優等生の答えだな」
「優等生は嫌いです」
思わず言ってしまって、少しだけ自分に驚く。こんな感情的な返答は、普段ならしない。
社長は笑わない。代わりに、ほんの少しだけ声を落とした。
「じゃあ、本音は」
胸がきゅっと縮む。本音――それは、条項が一番嫌う言葉だ。
「……守る側に立つなら」
私は言いかけて、途中で噛んだ。自分の決意を、声にすると現実になるから。社長は答えを急かさない。急かさない代わりに、静かに言う。
「俺は、守る」
短い。強い。その一言が、車内の空気を少しだけ変えた。仕事の同盟の言葉なのに、胸の奥に熱が落ちる。
ふと、社長のスマホがダッシュボードで震えた。画面が光る。私は反射で目を向けた。通知のプレビューに、見覚えのある名前。――本社人事部長・佐伯。
社長は一瞬だけ視線を落とし、すぐ前に戻した。取らない。無視する。その選択が、私を守っていると分かってしまって、息が詰まる。
「……見られる」
私が小さく呟くと、社長が低く返した。
「見せる相手は選ぶ」
選ぶ、という言葉が危険だ。恋愛禁止条項の警報が、耳の奥で大きく鳴った。
車は街灯の少ない道へ入る。窓の外が暗くなるほど、車内の距離が濃くなる。社長が急にスピードを落とし、路肩に寄せて止めた。
「ここから先、尾行が付く可能性がある」
「……本社が?」
「そうだ」
社長はエンジンを切らず、私を見ないまま言う。
「だから、次の合図があるまで、車から降りるな。――目を付けられたら、お前も燃える」
燃えるな。佐伯の声と、社長の声が重なる。私はシートベルトに指をかけたまま、動けなくなる。
そのとき、社長のスマホがもう一度震えた。今度は別の表示。
【現地総務:吉岡】
――「社長、今、ビル前に“監査”の車が来ました」
社長の手が、ハンドルを強く握った。
「……もう来たか」
低い声。怒りより先に、覚悟がある声。
私は息を飲み、ポケットの中のUSBを握りしめた。火は、夜に大きくなる。そして今夜は、私たちの側の火も――点けるしかない。
助手席に座った瞬間、ドアが閉まる音が思ったより大きく響いて、私は反射で肩をすくめた。外の冷気が遮断され、代わりにエンジンの熱と、社長の体温の残り香みたいなものが車内に満ちる。――近い。逃げ道がない近さ。恋愛禁止条項の警報が、また頭の奥で鳴る。
「シートベルト」
社長が短く言う。
「分かってます」
言い返しながらベルトを引くと、金具がカチリと留まった。拘束、と一瞬だけ連想してしまい、自分で苦笑いを飲み込む。
車は滑るように動き出し、工場の明かりがバックミラーの中へ小さくなる。
「……さっきのメール、CC多すぎだろ」
社長がハンドルを握ったまま吐き捨てる。
「“正しい顔”を揃えたいんです」
「正しい顔で、人を潰す」
社長の言い方は荒いのに、芯が外れていない。私は窓の外を見ながら答えた。
「潰す方が、円滑だから」
社長が小さく舌打ちをして、信号で止まる。赤信号の光が、彼の横顔に薄く当たる。頬骨のライン、眉間の影。怒っているのに、疲れている。守る側の人の疲れだ。
私は自分の指先を見た。USBがポケットの中で硬い。あれを開いた瞬間から、もう戻れない。戻る場所なんて、最初から無かったのかもしれない。
「……怖いか」
不意に社長が言った。視線は前。信号はまだ赤。今朝も聞かれた質問。だけど今夜のそれは、少しだけ温度が違う。
「怖いです」
嘘をつくのをやめた。
「怖いのに、やるのか」
「やらない方が、もっと怖い」
言ってから、胸の奥が痛んだ。過去の夜の白い蛍光灯が、ちらりと見えた気がした。
信号が青になる。車が進む。社長が片手でウインカーを出し、もう一方の手はハンドルから離れない。丁寧な運転。荒い言葉と、丁寧な所作の組み合わせが、妙に心に残る。
「お前さ」
社長が低く言う。
「本社の人事なのに、なんでここまで踏み込む」
質問の形をしているけれど、答えを待つ種類の問いじゃない。確認。線引き。私は一呼吸置いてから、言葉を選んだ。
「……火消しは、燃えた後じゃ遅いからです」
社長が鼻で笑う。
「優等生の答えだな」
「優等生は嫌いです」
思わず言ってしまって、少しだけ自分に驚く。こんな感情的な返答は、普段ならしない。
社長は笑わない。代わりに、ほんの少しだけ声を落とした。
「じゃあ、本音は」
胸がきゅっと縮む。本音――それは、条項が一番嫌う言葉だ。
「……守る側に立つなら」
私は言いかけて、途中で噛んだ。自分の決意を、声にすると現実になるから。社長は答えを急かさない。急かさない代わりに、静かに言う。
「俺は、守る」
短い。強い。その一言が、車内の空気を少しだけ変えた。仕事の同盟の言葉なのに、胸の奥に熱が落ちる。
ふと、社長のスマホがダッシュボードで震えた。画面が光る。私は反射で目を向けた。通知のプレビューに、見覚えのある名前。――本社人事部長・佐伯。
社長は一瞬だけ視線を落とし、すぐ前に戻した。取らない。無視する。その選択が、私を守っていると分かってしまって、息が詰まる。
「……見られる」
私が小さく呟くと、社長が低く返した。
「見せる相手は選ぶ」
選ぶ、という言葉が危険だ。恋愛禁止条項の警報が、耳の奥で大きく鳴った。
車は街灯の少ない道へ入る。窓の外が暗くなるほど、車内の距離が濃くなる。社長が急にスピードを落とし、路肩に寄せて止めた。
「ここから先、尾行が付く可能性がある」
「……本社が?」
「そうだ」
社長はエンジンを切らず、私を見ないまま言う。
「だから、次の合図があるまで、車から降りるな。――目を付けられたら、お前も燃える」
燃えるな。佐伯の声と、社長の声が重なる。私はシートベルトに指をかけたまま、動けなくなる。
そのとき、社長のスマホがもう一度震えた。今度は別の表示。
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社長の手が、ハンドルを強く握った。
「……もう来たか」
低い声。怒りより先に、覚悟がある声。
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