恋愛禁止条項の火消し屋は、子会社社長を守る側に立つ

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第10章 恋の着地:守りながら恋をする

夜・二人きり

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夜。子会社ビルの裏手。自販機の白い光が、アスファルトを四角く切っていた。風が冷たい。吐く息は見えないのに、指先だけが痛い。

私はコートの襟を立て、スマホを見ないように歩いた。通知が鳴らない静けさは、油断の音だ。

「——福本」

背中から声が来た。振り返る前に分かる。この声は、会議室の“決裁”の声じゃない。もう少し人の温度がある。

社長は、車を降りて歩いてきた。運転手はいない。護衛もいない。その無防備さが、今は怖い。

「……ここにいると思った」

社長は言った。理由を言わない。言えば、切り貼りされるから。

私は、自販機の光から半歩だけ外へずれた。明るさの中にいると、何でも“絵”になる。絵になると、噂になる。

「帰らないんですか」

私が言うと、社長は短く息を吐いた。

「帰れるなら帰ってる」

沈黙が落ちる。沈黙は居心地が悪いはずなのに、今日は違う。喋らないで済む沈黙は、救いにもなる。

社長は、ポケットから小さな封筒を出した。白い封筒。社内の封筒じゃない。個人の文具の匂いがする。

「これ」

差し出す。私は受け取らない。受け取った瞬間、借りになる気がした。

「受領は第三者経由で」

反射で言ってしまって、自分が嫌になる。恋じゃない。手順だ。

社長は、封筒を引っ込めなかった。怒らない。怒らないのが、また怖い。

「分かってる」

社長は言った。

「これは渡さない。見せるだけ」

封筒の中身を、端だけ見せた。紙。二枚。一枚目の上に、太字で書いてある。

「暫定措置:社長決裁(写)」

二枚目は、短い指示。

「不利益取扱いの停止/接触禁止の徹底/面談同席の義務化」

——言葉が、形になっている。私が今日、欲しかった形だ。

「……これを、出したんですか」
「出した」
「本社に?」
「全部に」

“全部に”。その一言で、背中の皮膚が少しだけ緩む。私にだけ向いた盾じゃない。現場全体に向いた盾。

私は視線を落とした。視線を上げると、物語が始まる。始まってしまったら、私はまた燃える。

社長が、低い声で言う。

「今日、懲戒の紙が出たとき」
「俺が言う前に、お前が紙を見た」
「……あの反応、現場の人間はできない」

褒める言い方じゃない。ただ事実を置く言い方。だから刺さる。

「できないんじゃなくて、やらないだけです」

私は答えた。

「やると燃えるから」

社長が頷いた。

「燃える」

一拍。

「燃やす側は、燃えても困らない。燃料は他人だからだ」

言葉が、同じ場所に落ちる。この人は、今日それを理解した。理解があると、近づける。近づけると、恋が怖くなる。

私は自販機のボタンを押した。何でもよかった。手を動かさないと、胸が先に動く。

ガタン、と缶が落ちる音。音が現実を固定する。

社長が言った。

「缶、冷たいだろ」
「……冷たいです」
「手、貸せ」
「いりません」

拒否が早すぎた。自分で分かる。拒否は相手を傷つけることがある。でも拒否しないと、次が来る。次が来ると、私は自分を失う。

社長は、引かなかった。押さないで、近づかないで、ただ言った。

「福本」

名前だけ。名前だけを呼ぶのは、距離を測る行為だ。

私は、息を吐いて言った。

「恋が怖いんです」

言ってしまった。言わないつもりだったのに。言葉が自分から落ちた。

社長は、すぐに答えなかった。答えると正解を出すことになる。正解は、切り貼りされる。

「恋が、じゃない」

社長がようやく言った。

「恋を“処理”されるのが怖いんだろ」

私は缶を握り直した。当てられると、痛みが正体を変える。隠す痛みから、認める痛みに変わる。

「……好きが証拠になる」

私は言った。

「好きが借りになる」
「借りは取り立てられる」
「だから私は、先に手順を探す」
「手順で守って、手順で遠ざける」

社長が、小さく頷く。

「だから今日、お前は中心から降りた」

私は驚いて顔を上げそうになり、ギリギリで止めた。見たら、目が合う。目が合うと、物語が生まれる。

「……分かってるなら」

私は言った。

「どうして来たんですか」

社長は、たぶん一番危ない答えを避けるために、言葉を選んだ。その選び方が、また胸に刺さる。

「謝りに来た」

短い。責任の言葉だ。

「俺は止められたのに、止めなかった」
「現場を“順番の外”に置いた」
「お前が手順で守ろうとしたのに、会社が手順で殺した」

一拍。

「それを、俺が許してた」

許してた。主語が自分だ。責任の置き方が、逃げない。

私は言った。

「謝る相手は、私じゃない」
「新人と、告発者と、現場です」
「分かってる」

社長は言った。

「だから、今日出した。全部に」

封筒を戻し、両手をポケットに入れる。距離を詰めない姿勢。それが“守る”の形だと、この人は学んでいる。

私は、缶のプルタブを開けた。プシュッという音が、夜に小さく弾ける。弾ける音は、心の弁を少しだけ緩める。

「……社長」

私は言った。

「私を守らないでください」

社長が首を傾げる。

「守らない?」
「個人として守ると、私が燃料になります」

私は淡々と言った。

「守るなら——手続きで」
「公の場で」
「全員に同じ形で」

社長は、少しだけ笑った。馬鹿にした笑いじゃない。安心に近い笑い。

「それを、今日言った」
「俺が守るのはお前じゃない。手続きだって」
「……覚えてる」

覚えてる。その言葉が危ない。覚えてる、は距離が近い。近いと、恋が始まる。

私は一歩だけ後ろへ下がった。自販機の光の外。影の中に戻る。

「ここじゃ恋はできません」

私は言った。

「ここで恋をしたら、私はまた消えます」

社長は、すぐに否定しなかった。否定すると、“大丈夫”になる。大丈夫は嘘になる。嘘は、現場をまた殺す。

「……じゃあ」

社長が言った。

「恋の話は、しない」

一拍。

「俺は“会社の話”だけをする」
「会社が、二度と人を消さないために、何を直すか」
「その話なら、お前に聞きたい」

私は、少しだけ頷いた。恋じゃない話。それなら、私は生き残れる。

「条件があります」
「言え」
「窓口を通す」
「記録を残す」
「私を中心にしない」
「現場の声を先に置く」
「……守るのは、人じゃなく手順」

社長は、ゆっくり頷いた。

「全部やる」

即答しない頷き。それが信用になる。

風が吹いて、缶が冷えた。私は手袋の中で指を動かした。まだ痛い。でも痛みは、恐怖だけじゃなくなっている。

社長が最後に言った。

「福本」

名前だけ。

「消えさせない」

私は、返事をしなかった。返事をしたら、借りになるから。代わりに、缶を持った手で軽く会釈だけした。

夜の静かな場所で、二人きり。恋の代わりに、手順の約束だけが残る。

それが今の私には——いちばん安全で、いちばん怖い救いだった。
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