1 / 19
1.早春
しおりを挟む
暦はとうに春なのだが、三月の風はまだ冷たい。日は照っているものの、時々手を擦り合わせながら、真由子は庭の掃除をした。真由子はもうすぐ二十七になる。
いまどき都心に庭付きの家がある、と言えば金持ちのように思われそうだが、真由子の亡くなった父、水上実之が、たまたまそこに親の代から住んでいただけのことで、水上家は金持ちでも何でもない。
地価がいくらになろうが、真由子や母の雪江の生活には、さしあたって大きな影響をもたらさなかった。よく知らない人々から折に触れ、バブルの時に売れば良かっただの、バブルがはじけて売り損ねただのと言われても、真由子にしろ、母の雪江にしろ、一向にこたえず、どこか他人事のように聞いてしまうのが常だった。変わった母娘だと思われているかもしれない。もし真由子自身、自分の家について何か聞かれたとしても、思っていることはせいぜい、この家は古い家だ、ということぐらいしか答えられない。実際、建物の大半は、昭和四十年代に建てられたらしい。
「真由子、こちらに来てお茶にしましょう」
縁側の廊下に面したガラス戸を開けて、母の雪江が声をかけた。
「あと少しで終わるから、もう少しだけ待っててね」
真由子は雪江に向かって手を振った。
庭掃除は小さな頃からの真由子の仕事だった。真由子は手際よく庭箒で落葉を集めると、ちり取りに落葉を入れていった。そしてごみ箱に落ち葉を捨てると、庭箒とちり取りをもとの場所へと戻した。
縁側では雪江が、真由子の来るのを待っている。
真由子は足早に縁側の方に走って行き、三和土の上に庭下駄を脱ぐと、そのまま縁側に用意された座布団に座った。
雪江の運んできた漆塗りのお盆には、お茶と羊羹が二人分置いてある。真由子は口元をほころばせた。
「羊羹って子供の時は、どこがおいしいのかちっともわからなかったけど、大人になってからはわかったわ。熱いお茶を飲みながら食べると、ほんとにおいしい。これでお茶が玉露だったら、もっとおいしいのに……」
真由子が黒文字で羊羹を切りながらそう言うと
「玉露はお客様用よ。かりがねだって十分おいしいじゃないの」と雪江はわらった。
雪江は夫の実之が主宰する、短歌の結社「秋濤」の手伝いをしていた。手伝いといっても、雪江自身は歌を作るわけではなく、毎月届く「秋濤」の会員の原稿を整理したり、歌会の場を整えたり、お茶やお菓子を出したりするぐらいだった。実之が自宅で長く続けていた歌会なので、実之亡き今も月に一度、歌会は開かれている。駅からも近く、便利なことが歌会の続けられる理由だろうが、雪江のさりげないもてなしも、一役かっていると真由子は思う。
羊羹は、仏壇にも同じものが供えられている。実之は私立大学の文学部の教授で日本文学を専門にしていた。大学から自宅に戻ると、すぐに着物に着替えるような古風な男だったが、甘いもの、特に羊羹には目がなかった。そんな父を思い出し、真由子はくすりとわらった。
いまどき都心に庭付きの家がある、と言えば金持ちのように思われそうだが、真由子の亡くなった父、水上実之が、たまたまそこに親の代から住んでいただけのことで、水上家は金持ちでも何でもない。
地価がいくらになろうが、真由子や母の雪江の生活には、さしあたって大きな影響をもたらさなかった。よく知らない人々から折に触れ、バブルの時に売れば良かっただの、バブルがはじけて売り損ねただのと言われても、真由子にしろ、母の雪江にしろ、一向にこたえず、どこか他人事のように聞いてしまうのが常だった。変わった母娘だと思われているかもしれない。もし真由子自身、自分の家について何か聞かれたとしても、思っていることはせいぜい、この家は古い家だ、ということぐらいしか答えられない。実際、建物の大半は、昭和四十年代に建てられたらしい。
「真由子、こちらに来てお茶にしましょう」
縁側の廊下に面したガラス戸を開けて、母の雪江が声をかけた。
「あと少しで終わるから、もう少しだけ待っててね」
真由子は雪江に向かって手を振った。
庭掃除は小さな頃からの真由子の仕事だった。真由子は手際よく庭箒で落葉を集めると、ちり取りに落葉を入れていった。そしてごみ箱に落ち葉を捨てると、庭箒とちり取りをもとの場所へと戻した。
縁側では雪江が、真由子の来るのを待っている。
真由子は足早に縁側の方に走って行き、三和土の上に庭下駄を脱ぐと、そのまま縁側に用意された座布団に座った。
雪江の運んできた漆塗りのお盆には、お茶と羊羹が二人分置いてある。真由子は口元をほころばせた。
「羊羹って子供の時は、どこがおいしいのかちっともわからなかったけど、大人になってからはわかったわ。熱いお茶を飲みながら食べると、ほんとにおいしい。これでお茶が玉露だったら、もっとおいしいのに……」
真由子が黒文字で羊羹を切りながらそう言うと
「玉露はお客様用よ。かりがねだって十分おいしいじゃないの」と雪江はわらった。
雪江は夫の実之が主宰する、短歌の結社「秋濤」の手伝いをしていた。手伝いといっても、雪江自身は歌を作るわけではなく、毎月届く「秋濤」の会員の原稿を整理したり、歌会の場を整えたり、お茶やお菓子を出したりするぐらいだった。実之が自宅で長く続けていた歌会なので、実之亡き今も月に一度、歌会は開かれている。駅からも近く、便利なことが歌会の続けられる理由だろうが、雪江のさりげないもてなしも、一役かっていると真由子は思う。
羊羹は、仏壇にも同じものが供えられている。実之は私立大学の文学部の教授で日本文学を専門にしていた。大学から自宅に戻ると、すぐに着物に着替えるような古風な男だったが、甘いもの、特に羊羹には目がなかった。そんな父を思い出し、真由子はくすりとわらった。
1
あなたにおすすめの小説
嘘をつく唇に優しいキスを
松本ユミ
恋愛
いつだって私は本音を隠して嘘をつくーーー。
桜井麻里奈は優しい同期の新庄湊に恋をした。
だけど、湊には学生時代から付き合っている彼女がいることを知りショックを受ける。
麻里奈はこの恋心が叶わないなら自分の気持ちに嘘をつくからせめて同期として隣で笑い合うことだけは許してほしいと密かに思っていた。
そんなある日、湊が『結婚する』という話を聞いてしまい……。
【完結】時計台の約束
とっくり
恋愛
あの日、彼は約束の場所に現れなかった。
それは裏切りではなく、永遠の別れの始まりだった――。
孤児院で出会い、時を経て再び交わった二人の絆は、すれ違いと痛みの中で静かに崩れていく。
偽りの事故が奪ったのは、未来への希望さえも。
それでも、彼を想い続ける少女の胸には、小さな命と共に新しい未来が灯る。
中世異世界を舞台に紡がれる、愛と喪失の切ない物語。
※短編から長編に変更いたしました。
友達の肩書き
菅井群青
恋愛
琢磨は友達の彼女や元カノや友達の好きな人には絶対に手を出さないと公言している。
私は……どんなに強く思っても友達だ。私はこの位置から動けない。
どうして、こんなにも好きなのに……恋愛のスタートラインに立てないの……。
「よかった、千紘が友達で本当に良かった──」
近くにいるはずなのに遠い背中を見つめることしか出来ない……。そんな二人の関係が変わる出来事が起こる。
恋愛の醍醐味
凛子
恋愛
最近の恋人の言動に嫌気がさしていた萌々香は、誕生日を忘れられたことで、ついに別れを決断。
あることがきっかけで、完璧な理想の恋人に出会うことが出来た萌々香は、幸せな日々が永遠に続くと思っていたのだが……
[完結]優しすぎた選択
青空一夏
恋愛
恋人の玲奈とコンサートへ向かう途中、海斗は思いがけない出来事に遭遇する。
たいしたことはないはずだったその出来事とその後の選択は、順風満帆だった彼の人生を狂わせた。
十年後、理由の分からない別れを抱えたまま生きる海斗の前に、忘れていた過去と向き合うための期限が訪れる。
これは、優しさから選んだはずの決断が、取り返しのつかない後悔へと変わった物語。
これは、すべてを手に入れてきたはずの人生を歩んできた男が、たった一度の選択で、一生後悔することになったお話。
※本作は他サイトにも掲載しています。
月下の香り
紫さゆり
恋愛
高宮瑠璃子は幼い頃、母を亡くし、母方の祖母の文代と暮らしている。
父の高宮総一郎は、瑠璃子に毎月多額の養育費を仕送りするほかは、進学、進級、誕生日やクリスマスなど年に数回、瑠璃子に会いにくるといった交流である。
そんな父が、ある日亡くなる。
瑠璃子は、父の戸籍に不審を抱き、恋人の藤島正巳と一緒に……
大人の恋の物語です。
【完結】灰薔薇伝 ― 祈りは光に還るー
とっくり
恋愛
「灰が散っても、祈りは光に還る」
戦で傷ついた騎士と、彼を救った修道女。
罪と祈りの十日、孤独の十年――
灰薔薇の咲く風の丘で、
二人の想いは時を越えて静かに息づく。
滅びゆく国、信仰と禁忌の狭間で、
一人の女が“赦し”を信じ、
一人の男が“生きる”ことを選んだ。
灰薔薇の香りは、愛でも奇跡でもなく、
祈りそのものだった。
彼らに下される運命は――。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる