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19.最終話 ふたたび白椿
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真由子が結婚し、家を出て一年が過ぎた。真由子は秋濤の歌会の手伝いに顔を出したり、月に一度は夫の諒人もいっしょに家にやってくる。庭掃除は雪江の仕事になったが、たいしたものではない。一人暮らしは静かである。そして死者と語らうこともできる。
卒業を間近に控えた靖之が突然、家に帰って来た夜のことを雪江は思い出していた。
その日、真由子は昼間から友だちの家に遊びに行き、そのまま友だちの家に泊まることになっていて、家には雪江ひとりだった。
靖之と二人で夕食をとり、食後のコーヒーも飲み終わった後、雪江が洗い物をしようとすると靖之が手伝います、と言った。
「下宿で炊事は慣れてますし、山でも同じです」
「ありがとう。真由子なんか私が言わないと、洗い物の手伝いもしてくれないのに」
雪江が微笑むと靖之も
「まぁちゃんは悪い子だなぁ。今度、叱ってやろう。もっとお母さんを手伝いなさいって」と、わらって言った。青年の手は、雪江の華奢な手よりもずっと大きかった。
皿を洗いながら靖之は言った。
「庭の白椿、ちっとも咲きませんね」
「ほんとうに。世話が不十分なのかしら。椿ってそんなに、手のかかる木でもないのに……」
洗い物を終え、食器を片付けると靖之は、雪江に言った。
「お義母さん、白椿が何年も咲かないのは、実は僕のせいなんです」
「靖之さんのせい? どうしてなの?」驚いて雪江は靖之を方を見た。
「僕があの白椿に、ずっと願掛けをしているからです」
「靖之さんが願掛けを?」雪江は訝しげに言った。
「ええ、庭のあの白椿の木に花がたくさん咲くまでは、僕はどれだけ苦しくても、僕の一番大切な人に僕の思いを決して打ち明けたりはしません。でも白椿の花がたくさん咲いたら僕は打ち明けます。たとえ罪深く、許されない思いであったとしても」
靖之は、雪江の手を取った。
「その人も、きっと僕と同じ気持ちのはずです。思いを伝えて、その人とたった一度だけでも愛し合うことができれば、後はもう何も望みません。目の前から消えろと言われれば、僕は消えます」
雪江は靖之を義母として諭すことも、年上の女としてさらりと受け流すこともできなかった。それは熱を帯びた、一途な青年の瞳のせいだけではなかった。靖之の言ったことは、ほんとうだったからだ。
雪江はそっと靖之の手をふりほどき、背を向けた。
「白椿の花は咲かないかも知れないわね、このままずっと。あの白椿は、咲いてはいけない花だわ」
「いえ、きっと咲きます。咲くその日まで、僕はいつまでも待ちます。待ち続けます」
「もし私が白椿の木を切ると言ったら……」
靖之は雪江の肩を抱くと、自分の方に向かせた。
「なんて残酷なことを言うんです。お義母さんは僕の気持ちに、とっくに気がついていたはずです。それをそ知らぬふりをし続けていたんです。父が生きていたときは、わかります。でも父はいない。僕が願掛けをしてまで自分の気持ちを抑えていることに、どうしてそんなむごいことが言えるんです? それに僕はもう子どもだったあの頃の僕じゃない。僕の目はごまかされません。あなただって、あなただって、ほんとうは僕のことを……」
靖之の目に、うっすらと涙が浮かんだ。
初めて会ったときは少年だった靖之も、今は青年だった。靖之に息がつまりそうなほど強く抱きしめられると、ほそい雪江の体は靖之の胸の中で淡雪のように、はかなく消えそうだった。耳に靖之の激しい胸の鼓動が伝わると、雪江の白い頬へ涙が伝った。
「靖之さん、そうよ、すべてあなたの言う通りよ。だから白椿の花がたくさん咲いたなら、そのときはきっと……でもお願い、これ以上、今は何も言わないで。私に何も聞かせないで」
靖之は両手で雪江の顔を包み、言った。
「願いが叶うなら、僕は死んでもいいと思っていました。でもあなたの言葉を聞いた今、僕は死ぬなんて絶対にいやだ。ずっとあなたと、こうしていたい」
靖之は雪江に狂おしいほどの口づけをし、雪江もふるえる手で靖之の背中を抱いた。何度も口づけを繰り返すうちに、二つの影はもつれていった。
薄い雲が、青空にたなびいている。
白椿の花を見上げ、雪江はつぶやいた。
「業が深いのね、私は」
水上家に嫁いだときから雪江は、若い継母として色眼鏡で見られることを覚悟はしていた。しかし雪江の美しさに加えて、離婚歴があるということへの世間から注がれる好奇の目は、思いのほか激しかった。
俊之や稚子は適度な距離を保ち、親子として接してくれたが、靖之が雪江になつかないのは、雪江が母親として至らないためだと、周囲からの非難は止まなかった。実之は雪江をなぐさめてくれたが、真由子が生まれた後でさえ、三十代の美しい継母には噂が揺曳した。
実之という、穏やかな年上の夫に愛されながら、雪江はしかし、いつしか実之の息子の靖之が特別な目で自分を見ていることに気がついた。そしてそんな靖之に、ひそかに惹かれ始めていく自分の心を雪江は怖れた。靖之にも、そして誠実な夫の実之にも、何があっても自分の気持ちを気取られてはならないと、娘の真由子にさえも雪江は隔てを置き、ずっと気をつけていたはずだった。それなのにあの春の夜、若い靖之の必死なまでの告白に、雪江の心はもろくも崩れてしまった。この恋心は誰にも知られることなく、葬り去るつもりだったのに。
靖之は願掛けと引き換えに雪山で命を失い、そして春がめぐり来るたび、靖之の命の代わりのように白椿は美しく花を咲かせるのかと思うと、悔いとも悲しみとも、そして怨みともつかない思いが、いつまでも雪江の胸を去らない。たとえそれが愛と呼べるものであっても。
今も眠れぬ夜など、ふと庭の白椿の木を見ると、雪江には白椿の木が、靖之の化身のように思えてくる。そして白椿の木はしのびやかに、雪江に語りかける。すべてが終わった後、靖之が腕の中で雪江にささやいた時のように。いつまでも。
雪江はもう一度手を伸ばして、白椿の花にそっとふれた。
やわらかな白椿の花びらは、青年の肌のようだった。
卒業を間近に控えた靖之が突然、家に帰って来た夜のことを雪江は思い出していた。
その日、真由子は昼間から友だちの家に遊びに行き、そのまま友だちの家に泊まることになっていて、家には雪江ひとりだった。
靖之と二人で夕食をとり、食後のコーヒーも飲み終わった後、雪江が洗い物をしようとすると靖之が手伝います、と言った。
「下宿で炊事は慣れてますし、山でも同じです」
「ありがとう。真由子なんか私が言わないと、洗い物の手伝いもしてくれないのに」
雪江が微笑むと靖之も
「まぁちゃんは悪い子だなぁ。今度、叱ってやろう。もっとお母さんを手伝いなさいって」と、わらって言った。青年の手は、雪江の華奢な手よりもずっと大きかった。
皿を洗いながら靖之は言った。
「庭の白椿、ちっとも咲きませんね」
「ほんとうに。世話が不十分なのかしら。椿ってそんなに、手のかかる木でもないのに……」
洗い物を終え、食器を片付けると靖之は、雪江に言った。
「お義母さん、白椿が何年も咲かないのは、実は僕のせいなんです」
「靖之さんのせい? どうしてなの?」驚いて雪江は靖之を方を見た。
「僕があの白椿に、ずっと願掛けをしているからです」
「靖之さんが願掛けを?」雪江は訝しげに言った。
「ええ、庭のあの白椿の木に花がたくさん咲くまでは、僕はどれだけ苦しくても、僕の一番大切な人に僕の思いを決して打ち明けたりはしません。でも白椿の花がたくさん咲いたら僕は打ち明けます。たとえ罪深く、許されない思いであったとしても」
靖之は、雪江の手を取った。
「その人も、きっと僕と同じ気持ちのはずです。思いを伝えて、その人とたった一度だけでも愛し合うことができれば、後はもう何も望みません。目の前から消えろと言われれば、僕は消えます」
雪江は靖之を義母として諭すことも、年上の女としてさらりと受け流すこともできなかった。それは熱を帯びた、一途な青年の瞳のせいだけではなかった。靖之の言ったことは、ほんとうだったからだ。
雪江はそっと靖之の手をふりほどき、背を向けた。
「白椿の花は咲かないかも知れないわね、このままずっと。あの白椿は、咲いてはいけない花だわ」
「いえ、きっと咲きます。咲くその日まで、僕はいつまでも待ちます。待ち続けます」
「もし私が白椿の木を切ると言ったら……」
靖之は雪江の肩を抱くと、自分の方に向かせた。
「なんて残酷なことを言うんです。お義母さんは僕の気持ちに、とっくに気がついていたはずです。それをそ知らぬふりをし続けていたんです。父が生きていたときは、わかります。でも父はいない。僕が願掛けをしてまで自分の気持ちを抑えていることに、どうしてそんなむごいことが言えるんです? それに僕はもう子どもだったあの頃の僕じゃない。僕の目はごまかされません。あなただって、あなただって、ほんとうは僕のことを……」
靖之の目に、うっすらと涙が浮かんだ。
初めて会ったときは少年だった靖之も、今は青年だった。靖之に息がつまりそうなほど強く抱きしめられると、ほそい雪江の体は靖之の胸の中で淡雪のように、はかなく消えそうだった。耳に靖之の激しい胸の鼓動が伝わると、雪江の白い頬へ涙が伝った。
「靖之さん、そうよ、すべてあなたの言う通りよ。だから白椿の花がたくさん咲いたなら、そのときはきっと……でもお願い、これ以上、今は何も言わないで。私に何も聞かせないで」
靖之は両手で雪江の顔を包み、言った。
「願いが叶うなら、僕は死んでもいいと思っていました。でもあなたの言葉を聞いた今、僕は死ぬなんて絶対にいやだ。ずっとあなたと、こうしていたい」
靖之は雪江に狂おしいほどの口づけをし、雪江もふるえる手で靖之の背中を抱いた。何度も口づけを繰り返すうちに、二つの影はもつれていった。
薄い雲が、青空にたなびいている。
白椿の花を見上げ、雪江はつぶやいた。
「業が深いのね、私は」
水上家に嫁いだときから雪江は、若い継母として色眼鏡で見られることを覚悟はしていた。しかし雪江の美しさに加えて、離婚歴があるということへの世間から注がれる好奇の目は、思いのほか激しかった。
俊之や稚子は適度な距離を保ち、親子として接してくれたが、靖之が雪江になつかないのは、雪江が母親として至らないためだと、周囲からの非難は止まなかった。実之は雪江をなぐさめてくれたが、真由子が生まれた後でさえ、三十代の美しい継母には噂が揺曳した。
実之という、穏やかな年上の夫に愛されながら、雪江はしかし、いつしか実之の息子の靖之が特別な目で自分を見ていることに気がついた。そしてそんな靖之に、ひそかに惹かれ始めていく自分の心を雪江は怖れた。靖之にも、そして誠実な夫の実之にも、何があっても自分の気持ちを気取られてはならないと、娘の真由子にさえも雪江は隔てを置き、ずっと気をつけていたはずだった。それなのにあの春の夜、若い靖之の必死なまでの告白に、雪江の心はもろくも崩れてしまった。この恋心は誰にも知られることなく、葬り去るつもりだったのに。
靖之は願掛けと引き換えに雪山で命を失い、そして春がめぐり来るたび、靖之の命の代わりのように白椿は美しく花を咲かせるのかと思うと、悔いとも悲しみとも、そして怨みともつかない思いが、いつまでも雪江の胸を去らない。たとえそれが愛と呼べるものであっても。
今も眠れぬ夜など、ふと庭の白椿の木を見ると、雪江には白椿の木が、靖之の化身のように思えてくる。そして白椿の木はしのびやかに、雪江に語りかける。すべてが終わった後、靖之が腕の中で雪江にささやいた時のように。いつまでも。
雪江はもう一度手を伸ばして、白椿の花にそっとふれた。
やわらかな白椿の花びらは、青年の肌のようだった。
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