可愛すぎてつらい

羽鳥むぅ

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第二章

38.二人に足りないもの

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「え?ペス?……って?」

 当然のことだが、チェルシーの呟きの意味が分からないラルフは、戸惑いの声を上げた。その声で我に返ったチェルシーは、手に持っていたグラスを通りがかった給仕に素早く預け、くるりとフレッドに向かい合った。
 オーガンジー素材のドレスの裾が、回転に合わせてゆったりと優しく翻える。が、しかしチェルシー自身はそんな優美なドレスに反して焦っていた。

(……私のせいだわ!)

 フレッドを悲しませてしまった。いつもチェルシーのために心を砕いてくれている優しい人を。
 だって彼は言っていた。他の男性にチェルシーを見せたくなくて、屋敷を出ることすら嫌だったと。それなのに面と向かって話すだけでなく、彼の知らない会話をしてしまった。さらにはダンスを申し込まれて……。

 もしも逆の立場であったなら。想像しただけで辛くて悲しくて、この場から逃げてしまいたくなるだろう。

 フレッドを見上げれば、あの日、ペスと最初に目が合った瞬間が蘇る。捨てられるのではと不安そうに、チェルシーの様子を窺っていたこげ茶色の瞳。フレッドの瞳の方が赤味が強いが、それでも灰色の毛並みと彼のアッシュグレイの髪はよく似ていたから尚更。

(そんなこと、できるはずがないのに)

 これ以上フレッドを傷つけたくない。

 チェルシーは覚悟を決めた。ペスを抱き上げ……ではなく、ドラゴンを優しく撫で、その背に乗る。持て余した感情で破壊の限りを尽くし、孤独に苛まれていたドラゴンはその実、一人の竜騎士を待ち続けていたのだ。

「フレッド様!私たち、まだダンス踊っていませんよね?やっぱり初めに踊るのは旦那様がいいと思うんです!……あっ!でも今日は疲れたから一回しか踊れないかもしれませんね~。……ですのでラルフ卿、申し訳ないですが今夜はフレッド様とだけ踊りますわね。それでは失礼致します。ご機嫌よう」

 言うが早いかチェルシーはフレッドの手を取ってダンスの輪の中に向かって歩き出す。社交に不慣れなチェルシーであるが、どうしても困った時はニッコリと微笑んでその場をさっさと離れたらいいのよ、とは義母の教えである。そう、チェルシーはフレッドだけでなく、サマンサや屋敷の使用人が好きだ。
 ずっと、ランサム家にいたい。彼の取り巻く全てを愛しているから。


 チェルシーの華奢な手は、しかしフレッドにとって、とても大きく感じた。

 反応が遅れてしまったフレッドだが、チェルシーの行動に漸くまともに息を吐いた。呼吸がかすかに震えているのは、安堵からか歓喜なのかは分からない。

 つい先ほどまでは命よりも大事なチェルシーが、あろうことか目の前で奪われそうで、それでもどうしていいか分からず、しまいには鼻の奥がツンと痛んだ。けれど今は、迷わずフレッドの手を取ってくれたことが嬉しくて視界が滲む。
 ちなみにフレッドは特別涙もろいわけではない。チェルシーが絡みさえしなければ。ごく普通の、それよりもむしろ感情の起伏が少ないくらいである。

 フレッドはチェルシーに選ばれたのだ。人当りの良い優し気な男ではなく。チェルシーとしては当然のことだったものの、フレッドにとって、それは彼の努力ではどうにもならないことでもあった。必死に縋り付いたところで振り払われてしまえばどうしようもない。だからこそ、選ばれたという歓喜。

「……チェルシー」

 背後から小さな声が聞こえた。繋いだ手に力は無く、声も少し震えている気がしたから様子が気になったが、とりあえず人が少ない場所を探して向かう。

 チェルシーは反省していた。どうしてもっと早くフレッドとダンスを踊らなかったのか。二人きりにならなかったのか。
 フレッドは無口だ。そして不器用で寂しがり屋なのだ。屋敷でもチェルシーと常にくっ付いていたいくらいに。
 いつも冷静沈着で全てを卒なくこなすフレッドは、ことチェルシーに何かあれば途端に動揺するのなんて、先日の突然訪れた月のもので理解したはずではないか。

 分かり合っているつもりでも、まだ二人の間には圧倒的に会話が足りないようだ。心よりも先に、身体のほうが分かり合ってしまったのが原因かもしれない。
 どんな食べ物が好きなのか、趣味は何か。好きな色や花は?改めて考えれば、チェルシーはフレッドのことをよく知らなかった。……逆は言うまでもないけれど。

 * * *

 少し人気のないエリアに到着したチェルシーは繋いだ手はそのままにフレッドと向かい合った。少し鼻頭が赤いが、フレッドはいつも通りの無表情に戻っている。

「フレッド様。申し訳ありません」
 チェルシーの言葉に、フレッドはその瞳に絶望に似た色を増やした。チェルシーが手を取ってくれたことは嬉しかったけれど、もしかしたら体面としてフレッドと踊るだけであって、あとからラルフとも躍るのかもしれない。
「……分かっている。君を困らせるのは本意ではない」
「もう!そうじゃありませんから!ほら、ダンスを踊りながらお話しましょう?」
「あ、ああ」

 戸惑いながらもチェルシーの言う通りに、繋いだ手はそのまま握り方を変え、反対の手を彼女の腰に回す。ゆったりとしたワルツのタイミングに合わせてステップを始めた。

「私の好きな色は晴れた空のような水色です。好きな食べ物はフルーツのタルト。あと恋愛の演劇を観たり小説を読むことが好きです」
「知っている」
「まぁ!さすがフレッド様。でも、私が誰を好きかご存じですか?」
「え……。そ、それは私であったらいいとは思うが……」

 話ながらもフレッドのリードは完璧であった。知らなかったけれど、彼とのダンスは心地が良い。チェルシーはまた新しいことを知った。それとフレッドはチェルシーに愛されているという自信がない、ということも。

「ではなくて、私が好きで愛しているのはフレッド様だけです。誰に聞かれても堂々と即答してくださいな」
「…………はい」
「ふふ、もう。こんなに素敵でかっこいい旦那様が、こんなに可愛らしいことを知っているのは私だけですからね」
「チェルシー……」

 フレッドはチェルシーの頭に顔を寄せる。しかしこんな時ですら、彼は綺麗にまとめられた彼女の髪を崩すようなことはしない。それでも腰に回った腕は逃がさないと言っているようだ。ズッと小さく鼻を啜る音が聞こえて、チェルシーは申し訳ない気持ちでいっぱいだった。
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