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第一部
8 5歳の時に目覚めた能力
木の扉の向こうには小さな部屋があり、奥にはまた扉が見えた。
一番最初の部屋には若い警備兵が二人いて、リファエル殿下と私に頭を下げた。
「ようこそ、おいでくださいました」
知らせをくれたお婆さんはロシナ様といい、殿下の乳母をされていたという。
「お世話になります」
頭を下げると、ロシナ様は微笑み、警備兵の二人も立ち上がって頭を下げてくれた。
彼らが座っていた椅子の近くには簡易テーブルがあり、そこには競豚の予想らしきものが書いてあった。
「今日の分ですか?」
「はい。今日は子豚なので余計に当てにくいんです。昨日は女性が一人勝ちしたと聞いて、僕たちも駄目元でやってみようと」
「そうなんですね。あの、紙とペンを貸してもらっても良いですか?」
警備兵は不思議そうな顔をしつつも、私に紙とペンを渡してくれた。
そこに、今日の予想を書いて渡す。
「最終レース、駄目元で賭けてみてください。駄目だったら賭けた分のお金はお渡ししますので」
「……わかりました」
呆気にとられた顔をしつつも、フルージアの人だからか、嫌な顔をするでもなく素直に紙を受け取ってくれた。
すると、殿下が尋ねてくる。
「公爵令嬢が競豚に興味があるのか」
「豚さんは可愛いですから」
「そうなのか? まあ、可愛くないとも言わないが、……可愛いか?」
「可愛いですわ」
そんな話をしていた時に、奥の部屋から、また新たな若い男性がやって来て、警備兵二人と入れ替わった。
「交替時間なので行ってきます!」
二人は紙を握りしめて、私たちが下りてきた階段を上っていく。
「最終レースの前に、君の弟についての話をするか」
そう言って、殿下は私を奥の部屋へと案内してくれた。
奥の部屋には応接セットと、私たちが入って来た扉以外にも三つの扉があった。
黒のソファに座るようにすすめられ、腰を下ろすと、ロシナ様がお茶を運んできてくれた。
「早速、様子を確認するか」
コの字型に置かれたソファの一人席に座った殿下は、ローテーブルの上に置かれていた大きな水晶玉に向かって手を伸ばした。
すると、水晶玉が点滅し始める。
「こ、これは……?」
「話せる状態らしい」
殿下はそう呟くと、右手の人差し指だけ水晶玉に触れた。
その途端、点滅が止み、水晶玉の中に映像が映し出された。
薄暗い中、二人の男性の姿が見えて、その内の一人の顔がわかった瞬間、私は立ち上がって叫んだ。
「グレイル!」
男性二人は私の声が聞こえたのか、一斉にこちらに顔を向けた。
二人共、身を隠すかのように黒の外套にフードを目深に被っている。
周りも薄暗いし、体が揺れているから幌馬車の中にいるのかもしれない。
グレイルと一緒にいる男性は驚くほどの眉目秀麗の男性で、その人が殿下に向かって話し掛ける。
「エル殿下、グレイル様を無事にそちらに連れていけそうです」
「お前の婚約者はどうした?」
殿下が尋ねると、男性は眉根を寄せて答える。
「残りました」
「はあ? 残った!? 何してんだ!」
「そういう女性なんです」
「信じられねぇ」
殿下は大きく息を吐いてから、こめかみを押さえた。
事情はよくわからないけれど、私はグレイルが無事だったことが嬉しくて、水晶玉に映し出されたグレイルに話し掛ける。
「良かったわ、グレイル!」
「リーチェお姉様もご無事で良かったです。僕は、こちらにいるジェド様に助けていただいたんです」
グレイルがジェド様を紹介してくれると、ジェド様は爽やかな笑みを浮かべて、私に無言で頭を下げた。
「弟を助けていただき、本当にありがとうございます」
「当然のことをしたまでです」
その後はお互いに簡単な挨拶を交わし、合流した際に改めてお礼を言うことにした。
二人との会話を終え、水晶玉がまた透明に戻ってから、殿下に尋ねる。
「あの、今のはどういう仕組みなのでしょう?」
「仕組みっつーか、魔法だな」
「ま、魔法?」
聞き返すと、殿下は右手の人差し指を天井に向けて立てた。
すると、指の先に火が出たかと思うと、すぐに消えて、今度は水が出てきて殿下の服を濡らした。
「ど、ど、どうやったらそんなことが?」
「だから魔法だって言ってんだろ」
詳しく話を聞いてみると、両親の最期を見てしまった日から、特殊な力が使えるようになったとのことだった。
水晶玉の不思議な出来事については、話したい相手が話せる状態にあり、鏡や窓など、人の姿が映せるものが近くにあるなら、どんなに遠くにいても会話できるらしい。
そして、その近くの映像も見ることができるんだそう。
すごい!
と言いたいところだけど、力が生まれたのは両親の死がきっかけと聞くと、口にするのは憚られた。
沈黙が続いた時、殿下が明るい声で話し掛けてくる。
「そろそろ最終レースの時間だな」
殿下は水晶玉に手を向けると、また、水晶玉が点滅した。
映し出されたのは競豚場だった。
「エル様! ちょうど今からです!」
さっき出て行った二人は大きめの鏡を持参していた。
興奮した様子で最終レースの様子を映せるだけ映してくれる。
しばらくして結果が分かると、二人が興奮して叫ぶ。
「すごい! すごいです! 当たりました! 今夜は豪遊だあ! 美味しいもの買って帰りますね!」
「幸運の女神様も帰らずに待っていてくださいね! お金をお渡しします! ひゃっほーう!」
はしゃぎまくっている二人を見た殿下は、呆れた顔をして映像を打ち切った。
「悪い。紹介していなかったから名前を知らないんだよ。つーか、はしゃぎすぎたよな」
「かまいませんわ。喜んでくださっているのなら嬉しいです」
後から聞いたところによると、この日も他国の人間しか賭けておらず、私は、今までの最高額の勝ちを叩き出してしまっていたのだった。
一番最初の部屋には若い警備兵が二人いて、リファエル殿下と私に頭を下げた。
「ようこそ、おいでくださいました」
知らせをくれたお婆さんはロシナ様といい、殿下の乳母をされていたという。
「お世話になります」
頭を下げると、ロシナ様は微笑み、警備兵の二人も立ち上がって頭を下げてくれた。
彼らが座っていた椅子の近くには簡易テーブルがあり、そこには競豚の予想らしきものが書いてあった。
「今日の分ですか?」
「はい。今日は子豚なので余計に当てにくいんです。昨日は女性が一人勝ちしたと聞いて、僕たちも駄目元でやってみようと」
「そうなんですね。あの、紙とペンを貸してもらっても良いですか?」
警備兵は不思議そうな顔をしつつも、私に紙とペンを渡してくれた。
そこに、今日の予想を書いて渡す。
「最終レース、駄目元で賭けてみてください。駄目だったら賭けた分のお金はお渡ししますので」
「……わかりました」
呆気にとられた顔をしつつも、フルージアの人だからか、嫌な顔をするでもなく素直に紙を受け取ってくれた。
すると、殿下が尋ねてくる。
「公爵令嬢が競豚に興味があるのか」
「豚さんは可愛いですから」
「そうなのか? まあ、可愛くないとも言わないが、……可愛いか?」
「可愛いですわ」
そんな話をしていた時に、奥の部屋から、また新たな若い男性がやって来て、警備兵二人と入れ替わった。
「交替時間なので行ってきます!」
二人は紙を握りしめて、私たちが下りてきた階段を上っていく。
「最終レースの前に、君の弟についての話をするか」
そう言って、殿下は私を奥の部屋へと案内してくれた。
奥の部屋には応接セットと、私たちが入って来た扉以外にも三つの扉があった。
黒のソファに座るようにすすめられ、腰を下ろすと、ロシナ様がお茶を運んできてくれた。
「早速、様子を確認するか」
コの字型に置かれたソファの一人席に座った殿下は、ローテーブルの上に置かれていた大きな水晶玉に向かって手を伸ばした。
すると、水晶玉が点滅し始める。
「こ、これは……?」
「話せる状態らしい」
殿下はそう呟くと、右手の人差し指だけ水晶玉に触れた。
その途端、点滅が止み、水晶玉の中に映像が映し出された。
薄暗い中、二人の男性の姿が見えて、その内の一人の顔がわかった瞬間、私は立ち上がって叫んだ。
「グレイル!」
男性二人は私の声が聞こえたのか、一斉にこちらに顔を向けた。
二人共、身を隠すかのように黒の外套にフードを目深に被っている。
周りも薄暗いし、体が揺れているから幌馬車の中にいるのかもしれない。
グレイルと一緒にいる男性は驚くほどの眉目秀麗の男性で、その人が殿下に向かって話し掛ける。
「エル殿下、グレイル様を無事にそちらに連れていけそうです」
「お前の婚約者はどうした?」
殿下が尋ねると、男性は眉根を寄せて答える。
「残りました」
「はあ? 残った!? 何してんだ!」
「そういう女性なんです」
「信じられねぇ」
殿下は大きく息を吐いてから、こめかみを押さえた。
事情はよくわからないけれど、私はグレイルが無事だったことが嬉しくて、水晶玉に映し出されたグレイルに話し掛ける。
「良かったわ、グレイル!」
「リーチェお姉様もご無事で良かったです。僕は、こちらにいるジェド様に助けていただいたんです」
グレイルがジェド様を紹介してくれると、ジェド様は爽やかな笑みを浮かべて、私に無言で頭を下げた。
「弟を助けていただき、本当にありがとうございます」
「当然のことをしたまでです」
その後はお互いに簡単な挨拶を交わし、合流した際に改めてお礼を言うことにした。
二人との会話を終え、水晶玉がまた透明に戻ってから、殿下に尋ねる。
「あの、今のはどういう仕組みなのでしょう?」
「仕組みっつーか、魔法だな」
「ま、魔法?」
聞き返すと、殿下は右手の人差し指を天井に向けて立てた。
すると、指の先に火が出たかと思うと、すぐに消えて、今度は水が出てきて殿下の服を濡らした。
「ど、ど、どうやったらそんなことが?」
「だから魔法だって言ってんだろ」
詳しく話を聞いてみると、両親の最期を見てしまった日から、特殊な力が使えるようになったとのことだった。
水晶玉の不思議な出来事については、話したい相手が話せる状態にあり、鏡や窓など、人の姿が映せるものが近くにあるなら、どんなに遠くにいても会話できるらしい。
そして、その近くの映像も見ることができるんだそう。
すごい!
と言いたいところだけど、力が生まれたのは両親の死がきっかけと聞くと、口にするのは憚られた。
沈黙が続いた時、殿下が明るい声で話し掛けてくる。
「そろそろ最終レースの時間だな」
殿下は水晶玉に手を向けると、また、水晶玉が点滅した。
映し出されたのは競豚場だった。
「エル様! ちょうど今からです!」
さっき出て行った二人は大きめの鏡を持参していた。
興奮した様子で最終レースの様子を映せるだけ映してくれる。
しばらくして結果が分かると、二人が興奮して叫ぶ。
「すごい! すごいです! 当たりました! 今夜は豪遊だあ! 美味しいもの買って帰りますね!」
「幸運の女神様も帰らずに待っていてくださいね! お金をお渡しします! ひゃっほーう!」
はしゃぎまくっている二人を見た殿下は、呆れた顔をして映像を打ち切った。
「悪い。紹介していなかったから名前を知らないんだよ。つーか、はしゃぎすぎたよな」
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後から聞いたところによると、この日も他国の人間しか賭けておらず、私は、今までの最高額の勝ちを叩き出してしまっていたのだった。
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