あたしの犬

中野翔

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あたしの犬 第1話

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    1.

 はじめは、変な子がいるな、と思った。授業中、いつも爪を噛んでいて、足をぶらつかせている。教師の話をまったく聞いていないのかと思えばいきなり手を挙げて、誰も答えられないような難問に答えようとする。その子が手を挙げるときにいつも目につくのは長手袋。
 なぜか、左手にだけ、花嫁がつけるようなレースの、黒い長手袋をしている。制服に、黒い長手袋。それに毎日違う色の、小さなリボンをあたまにつけている。不思議キャラのつもりかな、それとも単に痛い子なのかなとあたしは思った。すぐ前の席だからプリント配るときに軽くアイコンタクト、目で会釈みたいなことをしてみたけど、もうまったく眼中ないといった様子なので、彼女がふり向くたびに軽く会釈するのも面倒になって、もうなにもしない。


 授業の間は、どこを見るか選ばなくてすむから楽だ。話を聞いてるふりをして、いや、そんなことする必要もないけれど、どこか一点をきめて凝視して、自分の世界に没入してればすむ。そんなときあたしは呆けたまぬけな顔をしているに違いないけれど、授業中だから誰もあたしのことは見てない、はずだと勝手に仮定して安心してあたしは呆けている。

 窓の外を眺めることが多い。教室は空気が密だ。それはたとえば、視線が絡み合って身動きが取れなくなる、わたしの表面を薄い膜が守っていてそれは針でつつくとはちきれそう。小説で読んだいくつかの表現が頭をよぎるけど、それ即ち息苦しい。教室は息が苦しい。おい、なかね。おい、なかねるか。教師が誰かの名前を呼ぶ。授業中に寝るのを許さない厳しい理科の教師だ。なかね、ってだれ。あたしも含めみんなが教室が声の届く先を探しはじめたとき、あたしの目の前のその子が、くぱぁっ、とさっきまで洗面器に顔を突っ込んでたみたいに、顔をあげた。

 「はい」その子は返事をした。
「なかね」教師は座席表でその子の名前を確認している。おそらく化学にしか興味のない人だから、他の扱いがものすごく雑になる。化学のことを話すときだけ、妙に熱を帯びるのも、周りがひいてるのに気づかないのも、この手の教師にありがちなこと。
「寝るなよ」教師は注意した。
「先生」
「なんだ」
「保健室行っていいですか」
「なんでだ」
「生理です」
 軽い失笑が起きた。
「はい」理科の教師は気にせず、「気をつけて」そう言った。無神経な教師だとは思ったが、この子も良い勝負だ。あたしも倣って、「先生、」手を挙げる。なんだ、と教師が聞いたので、「保健室に」とだけ言うと、教師は「いけ」という風に手を振った。なにも聞かれなかった。せっかく答え用意してたのに。「なんでだ」と、訊かれ、「厄年です」と答える。少しシュールかな。いや、意味分かんないか。
  とにかく落胆、というのは大げさで残念だ。どうしたのって同級生に目で尋ねられ、口パクでせいりって、秘めやかに言う小学校高学年あたりからはじまった女子の特権的な席の立ち方をしてみたいけど、みな能面のような顔をしてあたしを見ない。みな無表情だ。

 廊下では宙に浮かんでいる埃が窓から差し込む光に照らされて、くっきりと光の道筋を示している。手をかざすとかじかんだ指先にほんのりと暖かさが伝わる。懐かしい気分になった。小学生の頃、あたしはよく庭に停めてある車のシートの上に寝転がって仰向けになりながら、本を読んだ。車のなかだけ時間が止まっている気がして心地よかった。あのときも車の中には埃が舞っていた。懐かしさのなかに逃げ込んで、何もかも忘れて、この光の道筋を眺めながら、空気のなかに徐々に消え入ってしまいたい。
  
  そうすれば無理やり笑顔を作って誰かと話す必要もなければ、他人の目を気にする必要もない。教室の人たちの目に入りさえしなければ、どこに行ってもいい。保健室でも、図書館でも、家に帰っても。自由だ。それでも、あたしの足は保健室に向かう。授業をサボって保健室のベッドで眠る。それこそあたしが学校に来る目的。

 保健室は消毒液の匂いがする。保健医がいないので、待合表を見る。一番上にひとりだけ名前が書いてあった。中根ルカ。その下に自分の名前を書いて寝室の扉を開けると、女の子が一番奥のベッドで座っていた。
「眠れないな」女の子はあたしの顔を見るなりそう言った。
「寝なくていいんじゃない」あたしは言った。すんなり話していた。
「さっきの子だよね、中根ルカさん?」
「そうだよ」
「あたしね、」中根ルカは一瞬窓の方を向いて、「わたし自分の名字嫌いなの。だからルカ、でいいよ」
「ルカ」
「そう。それで、あなたは?」
「あたし?」
「うん名前」ルカは両足をぶらつかせた。
「あたしは、中橋りり子」
「ふうん。可愛い名前」ルカは自分のつま先を見ながら言った。「でも普通の名字」
 ルカは毎朝違う色のリボンを髪につけて来た。存在感のない子で女の子のグループに入れなくても飄々としていた。ルカはあたしのすぐ前の席なのに、いつもひとりでどこかに遊びにいっているので話す機会がない。いつも休憩時間なにしてるの? 訊くと、
「さあ、なんだろう?」ルカは逆に訊いてきた。「何をしているのだろうか?」
 知らないよ。あたしが笑うと、ルカは手を叩いて見てはしゃいで笑う。
 この子は、馴れ馴れしい? 失礼? それも、すこし違う。
 あたしは、毎日、昼の休憩にルカがどこに行くのか知りたいと思った。
「ルカちゃん。今日、一緒にお昼しませんか?」あたしは休憩時間に弁当箱を持って話しかけた。ルカは耳にイヤホンを挿して鼻歌を歌っている。気づかない。
「ルカちゃん」ルカの前にまわりこんで、手をひらひら目の前でかざすと、ルカは気づいたようだった。
「あ、」ルカはイヤホンを外した。「どうしたの」
「お昼ごはん一緒に食べない?」
「いいよ。そのまえに、」ルカはふらふら歩いて、ふり向いた。
「ついて来て」
 なにを考えているんだろう。なにも考えてないのかもしれない。
「きれいなリボンだね」
 紺色の、昨日より地味で小さなリボンだった。
「今日は喪に服さないといけないからね」ルカは言った。喪に服す? 表情を覗うと、すこし苦しそうな顔をしていた。
「どうしたの」
「うん。だいじょうぶ」ルカは平静をとり戻して言った。「運動場行こう」

 運動場では男の子たちがフリスビーをしていた。小さな運動場の隅には倉庫があり、その陰になっている砂場にルカはあたしを案内した。砂場の端には、水の入った小さなビンが置いてあり、タンポポの花が挿してある。ルカはビンの前にしゃがみこんで、ポケットから大事そうに小さな包装紙を取りだした。タンポポの花が一輪、包まれている。

 「犬が死んだの」そう言ってルカは古い花を差し換えた。「ここに埋めた」ルカはビンの前にしゃがみこむ。あたしも倣ってそうする。
「手を合わせればいいのかな」ビンを見たまま、ルカは言った。「べつにあたし仏教徒でもないし、なんでこういうときって手を合わせるんだろうね? 友達が死んだとき宗教に入ってない人はどうするんだろうね」
「そうだね」
「まあ、友達じゃないけど」ルカは笑った。「犬だから」
「なんで死んだの?」あたしはなんとなく訊いた。
「殺したの」ルカはしれっと言った。「わたしが殺した」 
 ルカはぼんやりしながら話しはじめた。
 

 ――今日こそ、わたしは犬を殺さなきゃと思った。はじめは、犬を殺すと考えただけで、怖ろしかった。そんなことを考えている自分がいけないんだって思って、すぐ別のことを考えようとしてた。それでも頭の中から考えが離れなかった。友達と喋って笑ってるときも、頭の片隅でそのことを考えてた。それで、今日こそ、殺さなきゃって、目が覚めたとき思った。いつか殺さないと、わたしはずっとこのことを考えて生きていかなきゃならなくなる。

  それは辛すぎる。だって犬を殺すことを考えて生きつづけるのは辛すぎるから。そうでしょ?

 わたしが犬小屋に近づくと犬は尻尾を振って近寄ってきたの。この子はわたしになついている。わたしのことが好きなんだ。頭を撫でて、可愛いとは思った。でも、この子がどれだけわたしのことを好いてくれていても、わたしがこの子を愛するとは限らない。
 なんとなく、そう思ったの。
 ほぼ放心状態で犬に首輪をつけて散歩にでた。でも、いま思えば用意周到に準備をしていたと思う。大きなポリタンクに入っている灯油を、ペットボトルにわざわざ流しこんで家を出たから。畑で灯油をかけようと思ったけど、火事にでもなったら大変だとわりと冷静に判断して、グラウンドに向かったの。

  最後にもう一度犬を撫でて、ペットボトルの灯油をかけた。匂いを嫌がって犬は逃げようとした。それでも首輪を引張って全身にかけた。水浴びしたときみたいに犬は胴を震わせて灯油をはじいた。
  そしてあたしはライターの火を近づけた。犬が燃えるところは絶対に見ないようにしようと思ってた。

 でも、火が点かなくて、何度かライターを近づけるうちに、本当に、ボッという音がしてわたしの目の前で一瞬で犬が火に包まれたの。犬はキャンキャン鳴いてグラウンドを走りまわった。走れば走るほど炎は大きくなっていって、わたしは怖くなって犬に背を向けて走りだした。ふり返らないほうがいい。そう思って走ったんだけど、ふり返ってしまった。

 犬は、炎に包まれながら、キャンキャン鳴きながら、わたしの方へ駆けてきたの。 
 そのとき犬はわたしに助けてもらおうとして鳴き声をあげていたの。火を点けたのは、わたしなのに、そのことに気づかないでわたしに助けてもらおうとして全力で駆けてくるの。
 それが、なぜかおもしろくてあたし噴きだして笑っちゃったよ。とんでもないことをしてるとは思うんだけどね。それで、犬は砂場でのたうちまわってキャンキャン鳴いてるの。肉が焼ける匂いがして、30分ほどすると手足はもう炭になって胴は熾火みたいに火が燻ってた。だから、ちょろちょろ灯油を犬に染みこませて、燃やして、それを繰り返して、炭を足で崩して砂場に埋めた。近くに咲いてたタンポポの花を上にのせた。 

 ひとつ疑問があったからお母さんに電話したの。

『犬を燃やしちゃった。これって犯罪なの?』――
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