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第九十五話 白いレースは、もう剥がせない
その夜。
静かな病室の中で、桃香は、白い天井をぼんやり見上げたまま、浅く息を繰り返していた。
規則的な電子音。
薄暗く落とされた照明。
カーテン越しに滲む、夜の気配。
綾羽が去り、あの甘い香水の匂いが少しずつ遠のいていくにつれ、胸の奥を満たしていた幸福な熱も、ゆっくり輪郭を薄めていった。
唇へ残っていた柔らかな痺れも、時間と一緒に少しずつ冷めていく。
そうなるほど逆に、さっきまで自分がどれほど深く綾羽へ縋っていたのかだけが、静かな現実味を伴って胸へ沈んできた。
その隙間へ入り込むように、冷えた思考が静かに浮かび上がる。
唇がわずかに開く。
掠れた呟きが、暗い病室へ溶けた。
どうして、自分はここにいるのか。
どうして、こんな身体になっているのか。
自分は――尚人だったはずだ。
その瞬間、脳裏へ、いくつもの光景が滲んだ。
文化祭のステージ。
ミスコンの控室で、
誰かにリップを塗り直されながら笑っていた記憶。
SNSへ載せた加工写真へ、
「普通に女の子より可愛い」と並んでいたコメント。
ネオンの滲むショークラブで、
長い黒髪を揺らして笑う美香の姿へ、
息をするのも忘れたまま見入っていた夜。
けれど。
(……待って……)
胸の奥が、小さく軋む。
それは、本当に自分の記憶なのか。
綾羽の声へ触れるたび、
何度も繰り返し見せられてきた、
甘い夢の断片。
思い返そうとするほど、その記憶だけが、薄い膜の向こう側へ沈んでいくみたいに曖昧だった。
その違和感へ触れた瞬間、背筋を冷たいものがゆっくり撫でていく。
思考の奥で、“尚人”という名前だけが、遠く沈みかけた鐘みたいに、微かに鳴る。
けれど、その輪郭はもう、驚くほど曖昧だった。
このままだと、沈んでしまう。
その感覚だけが、冷えた思考の奥で、小さく点滅する。
シーツを掴みながら、
桃香は、震える身体をわずかによじった。
その時だった。
「……ぁ……」
不意に、肌へ吸い付くような柔らかい感触が、ざわついた意識を静かに包み込んだ。
病衣の下。
直接肌へ触れている、薄いレース。
ブラジャーとショーツ。
その繊細な感触が、恐怖で乱れた呼吸を宥めるみたいに、優しく身体へ沿っている。
桃香は、ゆっくり目を閉じた。
(……ちがう……)
女の子の下着を自分で選んでいた頃も、
淡いピンクのレースを見るたび、胸の奥は少しだけ浮き立っていた。
鏡の前で、少しでも柔らかく見える角度を探して。
細いリボンや、白いレースのショーツを掌へ乗せるたび、
“こうなれたら”と何度も願っていた。
ブラウスの胸元へ薄くタオルを詰めて、
鏡の前で何度も形を整えていた夜もある。
少しだけ膨らんだ胸元を見るたび、
嬉しいはずなのに、
胸の奥には、いつも小さな苦しさが残っていた。
どれだけ可愛く整えても、
下着の感触だけが、どこか“借り物”みたいに肌へ浮いていた。
なのに今は。
薄いレースが、まるで最初から“今の身体”へ合わせて作られていたみたいに、驚くほど自然に肌へ沿っている。
布地が触れている場所だけ、静かに身体の輪郭が落ち着いていく。
締め付けられているはずなのに、苦しくない。
むしろ、ばらばらだった身体の輪郭が、ゆっくり同じ形へ揃えられていくみたいだった。
その感覚へ気づいた瞬間、桃香の喉が小さく震えた。
拒絶するみたいに握っていたはずの指先が、
いつのまにか病衣のボタンへ触れていた。
震える指先が、ひとつずつ、静かにボタンを外していく。
はだけた胸元へ現れたのは、
淡いピンクのレースブラジャー。
白いレースの縁へ、細いリボンが静かに揺れている。
桃香は、指先でそっとカップの輪郭をなぞった。
「……ん……」
柔らかな膨らみが、ゆっくり沈み、遅れて弾力を返す。
指先へ伝わるその重みだけが、
静かに桃香の思考を奪っていった。
触れるたび、丸みを帯びた感触がわずかに形を変え、
そのたび、胸の奥へ、ぬるい痺れがゆっくり沈んでいく。
その動きへ視線を落とした瞬間、
“借り物”だったはずの膨らみが、もう自分の身体の一部みたいに収まっていることへ気づいてしまった。
その感覚へ、身体の方が先に馴染んでいく。
ふと視線を落とした先で、細く揃えられた脚が、薄暗い照明へ白く浮かび上がっていた。
泥だらけで走り回っていた頃の面影は、
もうそこには残っていない。
張っていた筋肉は、
静かに削ぎ落とされていた。
その脚を見た瞬間、喉の奥で、何かが小さく軋んだ。
けれど意識は、膝を寄せた時に浮かぶ華奢な輪郭へ、どうしても引き寄せられてしまう。
目を逸らしたいのに、その白い曲線だけが、妙に脳裏へ残り続ける。
薄暗い闇の中へ焼き付いたその線は、
いつまでも離れなかった。
喉の奥が、小さく震えた。
漏れた息は、自分でも知らないほど柔らかかった。
静かな病室の中で、桃香は、白い天井をぼんやり見上げたまま、浅く息を繰り返していた。
規則的な電子音。
薄暗く落とされた照明。
カーテン越しに滲む、夜の気配。
綾羽が去り、あの甘い香水の匂いが少しずつ遠のいていくにつれ、胸の奥を満たしていた幸福な熱も、ゆっくり輪郭を薄めていった。
唇へ残っていた柔らかな痺れも、時間と一緒に少しずつ冷めていく。
そうなるほど逆に、さっきまで自分がどれほど深く綾羽へ縋っていたのかだけが、静かな現実味を伴って胸へ沈んできた。
その隙間へ入り込むように、冷えた思考が静かに浮かび上がる。
唇がわずかに開く。
掠れた呟きが、暗い病室へ溶けた。
どうして、自分はここにいるのか。
どうして、こんな身体になっているのか。
自分は――尚人だったはずだ。
その瞬間、脳裏へ、いくつもの光景が滲んだ。
文化祭のステージ。
ミスコンの控室で、
誰かにリップを塗り直されながら笑っていた記憶。
SNSへ載せた加工写真へ、
「普通に女の子より可愛い」と並んでいたコメント。
ネオンの滲むショークラブで、
長い黒髪を揺らして笑う美香の姿へ、
息をするのも忘れたまま見入っていた夜。
けれど。
(……待って……)
胸の奥が、小さく軋む。
それは、本当に自分の記憶なのか。
綾羽の声へ触れるたび、
何度も繰り返し見せられてきた、
甘い夢の断片。
思い返そうとするほど、その記憶だけが、薄い膜の向こう側へ沈んでいくみたいに曖昧だった。
その違和感へ触れた瞬間、背筋を冷たいものがゆっくり撫でていく。
思考の奥で、“尚人”という名前だけが、遠く沈みかけた鐘みたいに、微かに鳴る。
けれど、その輪郭はもう、驚くほど曖昧だった。
このままだと、沈んでしまう。
その感覚だけが、冷えた思考の奥で、小さく点滅する。
シーツを掴みながら、
桃香は、震える身体をわずかによじった。
その時だった。
「……ぁ……」
不意に、肌へ吸い付くような柔らかい感触が、ざわついた意識を静かに包み込んだ。
病衣の下。
直接肌へ触れている、薄いレース。
ブラジャーとショーツ。
その繊細な感触が、恐怖で乱れた呼吸を宥めるみたいに、優しく身体へ沿っている。
桃香は、ゆっくり目を閉じた。
(……ちがう……)
女の子の下着を自分で選んでいた頃も、
淡いピンクのレースを見るたび、胸の奥は少しだけ浮き立っていた。
鏡の前で、少しでも柔らかく見える角度を探して。
細いリボンや、白いレースのショーツを掌へ乗せるたび、
“こうなれたら”と何度も願っていた。
ブラウスの胸元へ薄くタオルを詰めて、
鏡の前で何度も形を整えていた夜もある。
少しだけ膨らんだ胸元を見るたび、
嬉しいはずなのに、
胸の奥には、いつも小さな苦しさが残っていた。
どれだけ可愛く整えても、
下着の感触だけが、どこか“借り物”みたいに肌へ浮いていた。
なのに今は。
薄いレースが、まるで最初から“今の身体”へ合わせて作られていたみたいに、驚くほど自然に肌へ沿っている。
布地が触れている場所だけ、静かに身体の輪郭が落ち着いていく。
締め付けられているはずなのに、苦しくない。
むしろ、ばらばらだった身体の輪郭が、ゆっくり同じ形へ揃えられていくみたいだった。
その感覚へ気づいた瞬間、桃香の喉が小さく震えた。
拒絶するみたいに握っていたはずの指先が、
いつのまにか病衣のボタンへ触れていた。
震える指先が、ひとつずつ、静かにボタンを外していく。
はだけた胸元へ現れたのは、
淡いピンクのレースブラジャー。
白いレースの縁へ、細いリボンが静かに揺れている。
桃香は、指先でそっとカップの輪郭をなぞった。
「……ん……」
柔らかな膨らみが、ゆっくり沈み、遅れて弾力を返す。
指先へ伝わるその重みだけが、
静かに桃香の思考を奪っていった。
触れるたび、丸みを帯びた感触がわずかに形を変え、
そのたび、胸の奥へ、ぬるい痺れがゆっくり沈んでいく。
その動きへ視線を落とした瞬間、
“借り物”だったはずの膨らみが、もう自分の身体の一部みたいに収まっていることへ気づいてしまった。
その感覚へ、身体の方が先に馴染んでいく。
ふと視線を落とした先で、細く揃えられた脚が、薄暗い照明へ白く浮かび上がっていた。
泥だらけで走り回っていた頃の面影は、
もうそこには残っていない。
張っていた筋肉は、
静かに削ぎ落とされていた。
その脚を見た瞬間、喉の奥で、何かが小さく軋んだ。
けれど意識は、膝を寄せた時に浮かぶ華奢な輪郭へ、どうしても引き寄せられてしまう。
目を逸らしたいのに、その白い曲線だけが、妙に脳裏へ残り続ける。
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