74 / 161
『第十三話・4 : 忘却を呼ぶ霧の前で』
しおりを挟む
舗装のない街道は昨夜の露で湿り、蹄が踏みしめるたびに小さな水音を散らす。
馬上に揺れる身体が一定のリズムを刻み、耳元で風がほどけていった。
馬の吐息は白く、湿った大地の匂いが鼻腔に残る。
小鳥の鳴き声が時折響くたび、旅の始まりを告げていた。
右手には小川が流れ、光の粒が水面を踊っていた。
左手には低い丘と、その向こうに広がる濃い森。
だが、そのさらに向こう──北の地平だけが、輪郭を溶かすように灰色へと沈んでいた。
昼を少し回った頃、道端の焚き火に腰を下ろす老人と出会った。
荷車の横では、干し草を積んだロバが大人しく立っている。
老人の片足は膝から下がなく、木の義足が土埃にまみれていた。
焚き火の煙が、ゆっくりと風に溶けていく。
近づくにつれ、焦げた木の匂いと乾いた草の香りが混じり、胸の奥に微かな熱が残った。
老人は、炎の向こうで静かに身じろぎもしなかった。
片方の肩に落ちる陽光が、皺だらけの手の節を黄金色に染めている。
木の義足が地面を押すたび、乾いたこつ、こつという音が、まるで時の針のように響いた。
「……北へ行くのか」
掠れた声。
煙に混じるような低さで、だが確かにこちらを見ていた。
「ラグネルまで」
リリアは短く答える。
「その先は……やめとけ」
老人は煙草を唇に挟み、火をつけることもなく、ただ指先で弄んだ。
「霧の砦は、もう“道”じゃねえ。あそこは、帰りを忘れる場所だ」
焚き火がぱちりと弾け、火の粉が宙を舞った。
一瞬、老人の片目の奥で光が揺れ、記憶の影がにじむ。
「……昔、仲間と行った。呼ばれたんだよ、名前でな」
「名前で?」
「ああ。聞こえるんだ、霧の奥から。“こっちだ”ってな。
声のした方へ進んで……気づいたら、俺ひとりだった」
老人は、義足を軽く叩いた。
その仕草に、焚き火の影がわずかに震えた。
「足だけは……まだ、あの霧の中にあるのさ」
炎の明滅が、彼の横顔を赤く照らす。
「……霧の中ではな、鎧の音が聞こえる。
夜でも昼でも、同じ歩みの速さで、途切れもせずにな。
それを耳にしたら、もう遅い。気づけば足が、勝手に砦へ向かっているんだ」
「俺も、気づいたら膝まで沈んでた。引きずられるみてえに。
逃げようとしたが……間に合わなかった。」
その声音には、聞いた者しか知らない重さと、失ったものの悔恨が滲んでいた。
リリアは一瞬、焚き火の炎に映る自分の影を見つめた。
──あの霧の奥に、“真実”があるのなら。
たとえ足を失おうと、進むしかない。
「忠告ありがとう。でも、行かなきゃいけないんだ」
リリアはそう告げ、馬の手綱を引いた。
蹄が再び土を叩き、背後で、ため息と焚き火のぱちぱちという音だけが遠ざかっていった。
やがて森を抜けると、視界の先に灰色の壁が立ちはだかった。
石で築かれたその壁は、年月を経ても崩れを許さず、まるで巨大な墓標のように沈黙している。
──息を呑んだ。
その背後には、うねる霧が空へとせり上がり、砦全体を包み込んでいた。
風が吹き抜けても、その霧だけは微動だにしない。
むしろ風に逆らって揺れ、表面にさざ波のような模様を浮かべ、奥の闇をちらりと覗かせる。
その瞬間、匂いすら奪われた気がした。草の香りも、湿った土の匂いも、何もかも。
名を呼ばれたときのような“空白”が、舌と喉をすり抜けていった。
風も、時間も、息を忘れた。
鼓動の音だけが、自分の体の中で世界を刻んでいる。
──その刹那、鎧がきしむような低い音が一度だけ響いた気がした。
その響きは、まるで名を呼ぶ声のように耳の奥に残った。
背筋に冷たいものが這い上がる。
胸の奥で心臓がひときわ強く打ち、背のレーヴァテイン・ゼロがわずかに震えた。
魔剣が自ら反応するのは、強大な魔力を感じ取った時だけだ。
それは、挑む者への合図にも、帰ることを許さぬ宣告にも思えた。
(……あれが、ガルヴェインの砦)
ただ見ているだけで、霧の中から“何か”が名を呼び、心の奥を覗き込んでくる気がした。
その声に触れた瞬間、世界の輪郭がきしりと軋む。
一瞬、舌の上の味が消え、胸に抱いた名さえ薄れていく感覚が走る。
思考の端が、霧に溶かされていくようだった。
そのとき、不意にセラフィーのあの言葉が胸を突いた──「忘れたくないものを、握りしめて」。
目を逸らせば、その感覚すらも呑み込まれてしまいそうで、視線を外せなかった。
(……大丈夫だ)
視線を砦へ戻し、ゆっくりと馬首を返す。
霧はまだ遠くにあるはずなのに、離れるほど背中にその冷気がまとわりついた。
ラグネルでの準備と情報──それが揃うまでは、あの中へは踏み込めない。
風がひとすじ、馬のたてがみを撫でた。
その感触が、“自分”がまだこの世界に在ることを教えてくれる。
胸の奥の緊張が、ほんの少しずつほどけていく。
けれど、その底に沈んだ警戒の糸だけは、最後まで切れることはなかった。
北の空を覆う灰色の下、遠くにラグネルの城壁がわずかに霞んで見え始める。
胸にまだ答えの出ない迷いを抱えたまま、それでも──進むと決めた歩みを止めることはなかった。
風が、遠くで鐘のように鳴っていた。
馬上に揺れる身体が一定のリズムを刻み、耳元で風がほどけていった。
馬の吐息は白く、湿った大地の匂いが鼻腔に残る。
小鳥の鳴き声が時折響くたび、旅の始まりを告げていた。
右手には小川が流れ、光の粒が水面を踊っていた。
左手には低い丘と、その向こうに広がる濃い森。
だが、そのさらに向こう──北の地平だけが、輪郭を溶かすように灰色へと沈んでいた。
昼を少し回った頃、道端の焚き火に腰を下ろす老人と出会った。
荷車の横では、干し草を積んだロバが大人しく立っている。
老人の片足は膝から下がなく、木の義足が土埃にまみれていた。
焚き火の煙が、ゆっくりと風に溶けていく。
近づくにつれ、焦げた木の匂いと乾いた草の香りが混じり、胸の奥に微かな熱が残った。
老人は、炎の向こうで静かに身じろぎもしなかった。
片方の肩に落ちる陽光が、皺だらけの手の節を黄金色に染めている。
木の義足が地面を押すたび、乾いたこつ、こつという音が、まるで時の針のように響いた。
「……北へ行くのか」
掠れた声。
煙に混じるような低さで、だが確かにこちらを見ていた。
「ラグネルまで」
リリアは短く答える。
「その先は……やめとけ」
老人は煙草を唇に挟み、火をつけることもなく、ただ指先で弄んだ。
「霧の砦は、もう“道”じゃねえ。あそこは、帰りを忘れる場所だ」
焚き火がぱちりと弾け、火の粉が宙を舞った。
一瞬、老人の片目の奥で光が揺れ、記憶の影がにじむ。
「……昔、仲間と行った。呼ばれたんだよ、名前でな」
「名前で?」
「ああ。聞こえるんだ、霧の奥から。“こっちだ”ってな。
声のした方へ進んで……気づいたら、俺ひとりだった」
老人は、義足を軽く叩いた。
その仕草に、焚き火の影がわずかに震えた。
「足だけは……まだ、あの霧の中にあるのさ」
炎の明滅が、彼の横顔を赤く照らす。
「……霧の中ではな、鎧の音が聞こえる。
夜でも昼でも、同じ歩みの速さで、途切れもせずにな。
それを耳にしたら、もう遅い。気づけば足が、勝手に砦へ向かっているんだ」
「俺も、気づいたら膝まで沈んでた。引きずられるみてえに。
逃げようとしたが……間に合わなかった。」
その声音には、聞いた者しか知らない重さと、失ったものの悔恨が滲んでいた。
リリアは一瞬、焚き火の炎に映る自分の影を見つめた。
──あの霧の奥に、“真実”があるのなら。
たとえ足を失おうと、進むしかない。
「忠告ありがとう。でも、行かなきゃいけないんだ」
リリアはそう告げ、馬の手綱を引いた。
蹄が再び土を叩き、背後で、ため息と焚き火のぱちぱちという音だけが遠ざかっていった。
やがて森を抜けると、視界の先に灰色の壁が立ちはだかった。
石で築かれたその壁は、年月を経ても崩れを許さず、まるで巨大な墓標のように沈黙している。
──息を呑んだ。
その背後には、うねる霧が空へとせり上がり、砦全体を包み込んでいた。
風が吹き抜けても、その霧だけは微動だにしない。
むしろ風に逆らって揺れ、表面にさざ波のような模様を浮かべ、奥の闇をちらりと覗かせる。
その瞬間、匂いすら奪われた気がした。草の香りも、湿った土の匂いも、何もかも。
名を呼ばれたときのような“空白”が、舌と喉をすり抜けていった。
風も、時間も、息を忘れた。
鼓動の音だけが、自分の体の中で世界を刻んでいる。
──その刹那、鎧がきしむような低い音が一度だけ響いた気がした。
その響きは、まるで名を呼ぶ声のように耳の奥に残った。
背筋に冷たいものが這い上がる。
胸の奥で心臓がひときわ強く打ち、背のレーヴァテイン・ゼロがわずかに震えた。
魔剣が自ら反応するのは、強大な魔力を感じ取った時だけだ。
それは、挑む者への合図にも、帰ることを許さぬ宣告にも思えた。
(……あれが、ガルヴェインの砦)
ただ見ているだけで、霧の中から“何か”が名を呼び、心の奥を覗き込んでくる気がした。
その声に触れた瞬間、世界の輪郭がきしりと軋む。
一瞬、舌の上の味が消え、胸に抱いた名さえ薄れていく感覚が走る。
思考の端が、霧に溶かされていくようだった。
そのとき、不意にセラフィーのあの言葉が胸を突いた──「忘れたくないものを、握りしめて」。
目を逸らせば、その感覚すらも呑み込まれてしまいそうで、視線を外せなかった。
(……大丈夫だ)
視線を砦へ戻し、ゆっくりと馬首を返す。
霧はまだ遠くにあるはずなのに、離れるほど背中にその冷気がまとわりついた。
ラグネルでの準備と情報──それが揃うまでは、あの中へは踏み込めない。
風がひとすじ、馬のたてがみを撫でた。
その感触が、“自分”がまだこの世界に在ることを教えてくれる。
胸の奥の緊張が、ほんの少しずつほどけていく。
けれど、その底に沈んだ警戒の糸だけは、最後まで切れることはなかった。
北の空を覆う灰色の下、遠くにラグネルの城壁がわずかに霞んで見え始める。
胸にまだ答えの出ない迷いを抱えたまま、それでも──進むと決めた歩みを止めることはなかった。
風が、遠くで鐘のように鳴っていた。
20
あなたにおすすめの小説
どうも、命中率0%の最弱村人です 〜隠しダンジョンを周回してたらレベル∞になったので、種族進化して『半神』目指そうと思います〜
サイダーボウイ
ファンタジー
この世界では15歳になって成人を迎えると『天恵の儀式』でジョブを授かる。
〈村人〉のジョブを授かったティムは、勇者一行が訪れるのを待つ村で妹とともに仲良く暮らしていた。
だがちょっとした出来事をきっかけにティムは村から追放を言い渡され、モンスターが棲息する森へと放り出されてしまう。
〈村人〉の固有スキルは【命中率0%】というデメリットしかない最弱スキルのため、ティムはスライムすらまともに倒せない。
危うく死にかけたティムは森の中をさまよっているうちにある隠しダンジョンを発見する。
『【煌世主の意志】を感知しました。EXスキル【オートスキップ】が覚醒します』
いきなり現れたウィンドウに驚きつつもティムは試しに【オートスキップ】を使ってみることに。
すると、いつの間にか自分のレベルが∞になって……。
これは、やがて【種族の支配者(キング・オブ・オーバーロード)】と呼ばれる男が、最弱の村人から最強種族の『半神』へと至り、世界を救ってしまうお話である。
【超速爆速レベルアップ】~俺だけ入れるダンジョンはゴールドメタルスライムの狩り場でした~
シオヤマ琴@『最強最速』発売中
ファンタジー
ダンジョンが出現し20年。
木崎賢吾、22歳は子どもの頃からダンジョンに憧れていた。
しかし、ダンジョンは最初に足を踏み入れた者の所有物となるため、もうこの世界にはどこを探しても未発見のダンジョンなどないと思われていた。
そんな矢先、バイト帰りに彼が目にしたものは――。
【自分だけのダンジョンを夢見ていた青年のレベリング冒険譚が今幕を開ける!】
最強無敗の少年は影を従え全てを制す
ユースケ
ファンタジー
不慮の事故により死んでしまった大学生のカズトは、異世界に転生した。
産まれ落ちた家は田舎に位置する辺境伯。
カズトもといリュートはその家系の長男として、日々貴族としての教養と常識を身に付けていく。
しかし彼の力は生まれながらにして最強。
そんな彼が巻き起こす騒動は、常識を越えたものばかりで……。
ブラック国家を制裁する方法は、性癖全開のハーレムを作ることでした。
タカハシヨウ
ファンタジー
ヴァン・スナキアはたった一人で世界を圧倒できる強さを誇り、母国ウィルクトリアを守る使命を背負っていた。
しかし国民たちはヴァンの威を借りて他国から財産を搾取し、その金でろくに働かずに暮らしている害悪ばかり。さらにはその歪んだ体制を維持するためにヴァンの魔力を受け継ぐ後継を求め、ヴァンに一夫多妻制まで用意する始末。
ヴァンは国を叩き直すため、あえてヴァンとは子どもを作れない異種族とばかり八人と結婚した。もし後継が生まれなければウィルクトリアは世界中から報復を受けて滅亡するだろう。生き残りたければ心を入れ替えてまともな国になるしかない。
激しく抵抗する国民を圧倒的な力でギャフンと言わせながら、ヴァンは愛する妻たちと甘々イチャイチャ暮らしていく。
最低のEランクと追放されたけど、実はEXランクの無限増殖で最強でした。
みこみこP
ファンタジー
高校2年の夏。
高木華音【男】は夏休みに入る前日のホームルーム中にクラスメイトと共に異世界にある帝国【ゼロムス】に魔王討伐の為に集団転移させれた。
地球人が異世界転移すると必ずDランクからAランクの固有スキルという世界に1人しか持てないレアスキルを授かるのだが、華音だけはEランク・【ムゲン】という存在しない最低ランクの固有スキルを授かったと、帝国により死の森へ捨てられる。
しかし、華音の授かった固有スキルはEXランクの無限増殖という最強のスキルだったが、本人は弱いと思い込み、死の森を生き抜く為に無双する。
チート魅了スキルで始まる、美少女たちとの異世界ハーレム生活
仙道
ファンタジー
ごく普通の会社員だった佐々木健太は、異世界へ転移してして、あらゆる女性を無条件に魅了するチート能力を手にする。
彼はこの能力で、女騎士セシリア、ギルド受付嬢リリア、幼女ルナ、踊り子エリスといった魅力的な女性たちと出会い、絆を深めていく。
~最弱のスキルコレクター~ スキルを無限に獲得できるようになった元落ちこぼれは、レベル1のまま世界最強まで成り上がる
僧侶A
ファンタジー
沢山のスキルさえあれば、レベルが無くても最強になれる。
スキルは5つしか獲得できないのに、どのスキルも補正値は5%以下。
だからレベルを上げる以外に強くなる方法はない。
それなのにレベルが1から上がらない如月飛鳥は当然のように落ちこぼれた。
色々と試行錯誤をしたものの、強くなれる見込みがないため、探索者になるという目標を諦め一般人として生きる道を歩んでいた。
しかしある日、5つしか獲得できないはずのスキルをいくらでも獲得できることに気づく。
ここで如月飛鳥は考えた。いくらスキルの一つ一つが大したことが無くても、100個、200個と大量に集めたのならレベルを上げるのと同様に強くなれるのではないかと。
一つの光明を見出した主人公は、最強への道を一直線に突き進む。
土曜日以外は毎日投稿してます。
ギャルい女神と超絶チート同盟〜女神に贔屓されまくった結果、主人公クラスなチート持ち達の同盟リーダーとなってしまったんだが〜
平明神
ファンタジー
ユーゴ・タカトー。
それは、女神の「推し」になった男。
見た目ギャルな女神ユーラウリアの色仕掛けに負け、何度も異世界を救ってきた彼に新たに下った女神のお願いは、転生や転移した者達を探すこと。
彼が出会っていく者たちは、アニメやラノベの主人公を張れるほど強くて魅力的。だけど、みんなチート的な能力や武器を持つ濃いキャラで、なかなか一筋縄ではいかない者ばかり。
彼らと仲間になって同盟を組んだユーゴは、やがて彼らと共に様々な異世界を巻き込む大きな事件に関わっていく。
その過程で、彼はリーダーシップを発揮し、新たな力を開花させていくのだった!
女神から貰ったバラエティー豊かなチート能力とチートアイテムを駆使するユーゴは、どこへ行ってもみんなの度肝を抜きまくる!
さらに、彼にはもともと特殊な能力があるようで……?
英雄、聖女、魔王、人魚、侍、巫女、お嬢様、変身ヒーロー、巨大ロボット、歌姫、メイド、追放、ざまあ───
なんでもありの異世界アベンジャーズ!
女神の使徒と異世界チートな英雄たちとの絆が紡ぐ、運命の物語、ここに開幕!
※不定期更新。最低週1回は投稿出来るように頑張ります。
※感想やお気に入り登録をして頂けますと、作者のモチベーションがあがり、エタることなくもっと面白い話が作れます。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる