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『第三話・3: 祈りの残響 ― Requiem for the Living World ― 』
しおりを挟む足元の泥が、微かに震えた。
呼吸ではない。何かが“形を思い出そう”としている。
霧の底に眠っていた残滓が、ゆっくりと揺れ始めた。
リリアは息を呑み、剣先をわずかに下げる。
(……まさか……霊核が、自分で……?)
灰色の靄が再び集まり始める。
空気の粒子が逆流し、時間の縫い目がほどけていく。
崩れかけた鎧の断片が、音もなく浮かび、ゆっくりと元の形を模していく。
だが、それは“再生”ではなかった。
死が拒絶されている。
世界が、祈りの形を無理に保持しようとしている――そんな光景だった。
――それは、世界がまだ“生きたい”と叫んでいるようにも見えた。
「……ガルヴェイン?」
呼びかける声に、応える者はいない。
けれど、鎧の胸部――霊核のあった場所に、淡い光の粒が一つ、静かに浮かぶ。
それは炎でも魔力でもなく、記憶そのものの残響だった。
光の粒が、風もないのに揺れた。
そのたびに、胸の奥で何かが共鳴する。
鼓動のリズムが、外の世界とずれていく。
奇妙な浮遊感。
霧が消えたはずの空間に、音のない波紋が幾重にも広がっていった。
まるで、世界の記憶をなぞるように。
リリアは胸に手を当てた。
その鼓動が、もう自分のものかどうか――わからなかった。
(……これは……心の中に……?)
「――リリア。」
声がした。
耳ではなく、心臓の奥に直接触れるような響き。
その声は、かつてセラフィーが“師”と呼んだ英雄――
その人の記憶が、今も祈りの底で呼吸しているようだった。
「ガルヴェイン……?」
名を呼んだ瞬間、空気がふっとほどけた。
灰色の世界が淡い光に満たされ、音が遠のいていく。
時間そのものが息を止め、光だけがゆっくりと流れていく。
そこに、鎧を脱いだガルヴェインが立っていた。
その姿は、霧の中に溶ける幻のようでありながら、確かに“生きていた”。
現実と記憶の境目が、ゆっくりとほどけていく。
「……すまなかった。
こんな形で、“未来を担う者”に剣を向けることになるとはな。」
「そんなこと……! 私、ただ……!」
言葉が喉の奥でほどけ、声にならない。
ガルヴェインは、静かに微笑んだ。
その笑みには、悲しみでも後悔でもない――ただ“誇り”があった。
「いい。お前は、見事だったよ。
セラフィーが共に歩むと決めた理由が、今ならわかる。」
「最初にお前の話を聞いた時は――とんでもねぇ奴だと思ったが、
その眼差しは、かつてのわしよりもずっと真っ直ぐだ。」
霧の底で、リリアの瞳が滲む。
涙ではなく、魔力の共鳴。
魂が触れ合うたび、世界が微かに音を立てて鳴る。
光が弦のように震え、ふたりの間を結んでいた。
「わしはもう、この世界の理には触れられない。
肉体も魂も、すでに“記録”の彼方だ。」
「……生き返ることはできん。」
「だが――祈りなら、まだ届く。
リリア。お前が抱いた“願い”を手放すな。」
「……聞け。魔王は、すでに復活した。」
「わしらが命を賭して封じたあの“闇”が、
再びこの大地を蝕み始めている。
世界律は乱れ、祈りの記録がひとつ、またひとつと失われていく。」
「このままでは、世界そのものが“忘却”に沈むだろう。
だが――人の心が祈りを繋ぐ限り、闇はすべてを奪えはしない。
それだけが、まだ残された灯だ。」
「……ガルヴェイン……」
ガルヴェインは、ふと空を見上げた。
「……もう一度だけ、この手で剣を握りたかった。
だが、今はそれすら祈りの形でしか残せぬ。
――だからこそ、託せる。お前たちに。」
「セラフィーを導け。
あの子の中には、私が果たせなかった“終焉への鍵”がある。」
「だが、それを開くのは剣ではなく、お前たちの絆だ。」
「闇を斬り裂け、リリア。祈りの剣で、世界を取り戻せ。」
光が彼の輪郭を包む。
指先からほどけるように、世界が淡く揺れる。
それは消滅ではなく、再び“祈り”へ還るような気配だった。
「行け、リリア。剣はもはや、血を断つための刃ではない。命を繋ぐための灯りだ。」
「……その意味を、お前なら知っているはずだ。
ならば――わしを斬れ。」
「今のわしは既に魔王の傀儡と化し、意志も光も澱(よど)んでいる。
この身を残せば、わしはお前たちの祈りを喰らいつくすだろう。」
「だから、お前の刃で、わしを解き放て。
それが、わしが最後にお前へ託す“覚悟”だ、リリア。」
光が収束し、霧が閉じる。
残ったのは、ただひとつ――
その声が、胸の奥でまだ“生きている”という確信だった。
静寂が戻った──はずだった。
だが次の瞬間、空気の奥で“何か”が脈動した。
それは、もう優しい光ではない。
黒く濁った波が、霊核の欠片から滲み出していた。
「ぐあっ」と喉を裂くような叫び。
それがガルヴェインの声だと気づくまで、ほんの刹那。
(……これは……違う……!)
リリアが踏み出すより早く、光は裂けた。
白と黒がせめぎ合い、火花のように弾ける。
ガルヴェインの姿が一瞬だけ苦痛に歪み、
その眼の奥に、かつての温もりとは違う“何か”が宿る。
「ダメだ、抵抗して!」
リリアの叫びに、ガルヴェインの唇がかすかに震える。
「リ……リリア……逃げ……」
その言葉は、黒い靄に呑まれた。
一瞬で身体が崩れ、霧と鉄の混じった“影”に変わっていく。
鎧が軋み、地面を砕いた。
さっきまでの静寂が嘘のように、空気が悲鳴を上げる。
霊核の中心に走った裂け目から、黒い炎が噴き出した。
その炎は燃えるのではなく、周囲の光を喰らいながら広がっていく。
リリアは後退せず、ただ剣を構えた。
「……ガルヴェインの魂を、穢させはしない。」
世界が一瞬、息を止めた。
そして――黒炎の中から異形の鎧が立ち上がる。
かつて“誇り”と呼ばれたその姿は、
今や世界律の外で“呪いの器”として再生していた。
霊核の奥で、わずかに声がした。
『……誇りを……守れ……守れ……守れ……』
その繰り返しが、やがて獣の咆哮に変わる。
「ガルヴェイン……!」
名を呼ぶ声が、戦場に溶けた。
もう、応答はない。
ただ――“英雄の形をした魔王の傀儡”が、剣を抜く音だけが響いた。
それでも、霧の底で――彼の祈りは、まだ息をしていた。
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