非常ベルを押す迷惑男を退治せよ!

広川朔二

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非常ベルを押す迷惑男を退治せよ!

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山本俊介は、三週間ほど前に異動になった。新しい勤務先はこれまでの通勤ルートとは真逆の方向にあり、当然、利用する電車も変わった。

最初の一週間は、ただの慣れなさからくる疲労で帰宅後すぐに倒れるように眠っていた。だが二週目になると、俊介の「いかに楽に通勤できるか」への探究心が芽生えた。何時の電車なら座れるのか。どの車両が比較的空いているのか。ホームのどの位置に並べばスムーズに乗れるのか。

彼は手帳に時刻と車両番号、混雑具合をメモし、通勤という日常の中にある小さな最適解を探していた。だが、ある日から奇妙なことに気がつく。

「やけに非常ベルが鳴るな……?」

朝のラッシュ時間帯。特定の駅、特定の時刻になると、決まって電車が数分間ストップする。車内放送はいつもこうだ。「非常ボタンが押されたため、列車が停止しております」数分で再開するが、その数分の遅れがダイヤを狂わせ、俊介を苦しめる。

急いで乗り換えようとするたびに、電車のドアが閉まる。ギリギリで逃した特急。そして、上司からの「次からは余裕を持って来るように」という嫌味。

SNSでも似たような投稿がいくつか見つかった。

《○○線また非常ボタンで遅延》
《マジで迷惑。誰だよ押したの》
《同じ駅でまた?偶然じゃないよねこれ》

俊介の中で、「通勤ストレス」から「不信感」へと感情が変わっていく。これは本当に事故やトラブルなのか? 

そんな疑念を抱えたまま、彼はある朝、普段とは違うルートで出勤することになる。その日は、取引先に直行の予定が入っていた。普段のオフィス最寄り駅ではなく、「例の非常ベルがよく鳴る駅——A駅」で降りることになったのだ。

時刻は午前7時43分。

そう、非常ベルが鳴る、あのタイミングだ。

俊介はホームを歩きながら、ふと視線を上げた。彼の視線の先に、ひとりの男が立っていた。スーツ姿、細身、手に持つビジネスバッグには何かのキャラクターのキーホルダー。しかし、何かが引っかかる。男は妙にそわそわと周囲を見回していた。落ち着かない様子。駅員の姿を気にしているようにも見える。

そのときだった。

男が、ホームの柱に取りつけられた赤いボタンに手を伸ばし——押した。

「非常ボタンが押されました。安全確認のため、列車はしばらく停車します」

構内アナウンスが鳴り響く。だが、ホームには誰も倒れていない。喧嘩も、トラブルも、急病人もいない。

「……まさか」

俊介が周囲を見渡したときには、男の姿はすでに雑踏の中に消えていた。

そのとき、彼の中で明確な疑念が芽生えた。これは、偶然じゃない。
あの男は、明らかに意図的に非常ベルを押した。

「やっぱり、あれは偶然じゃない」

俊介は、男の行動から確信を得ていた。あの男は間違いなく、狙って非常ベルを押していた。しかも、周囲に誰も異常がないことを確認してから。

でもどうしてあんなことを?

多くの乗客の迷惑になる行為。場合によっては鉄道会社から訴えられかねない。そんなリスクのある行為を衆人環境のなかする意味はあるのか?迷惑行為を許せないという気持ちの他に、俊介のなかにじわじわと好奇心が湧いてきた。

その夜、俊介は普段より早く目が覚めた。頭の中がずっとざわついていた。

「次も、あの男がやるとしたら」

そう考えた彼は、有休を使い、翌朝の予定を白紙にした。

翌日。午前七時三十分。

俊介はA駅のホーム、非常ボタンの設置されていた柱のそばに立っていた。人目を避けるように新聞を開き、コートの襟を立てて周囲を観察する。まるで刑事ドラマの張り込みのようだった。

7時42分。

電車が到着する。人の波。だが、その中に見つけた。昨日の男だ。スーツに細身の体、手にはキーホルダーをつけたビジネスバッグ。

男はホームに降り立つと、昨日と同じように周囲をきょろきょろと見渡した。だがその日は、駅員がホームの端で巡回をしていた。警戒したのか、男は非常ボタンの前を素通りし、そのまま出口に向かって歩き出す。

「逃がすか……!」

俊介は人混みに紛れながら、男のあとを追った。階段を下り、改札を出る。男は駅前のカフェの脇道に入ったところで、スマホを取り出し、誰かに電話をかけている。間もなく、似たようなスーツ姿の男が現れた。肩を並べて歩き出す二人。

「ったくよ、最近は駅員がうろついててマジでやりにくいんだよ」
「まじか。でも、おまえさすがにやりすぎじゃね? 毎日って」
「うるせぇよ。こっちは毎朝同じ電車、同じ人間、同じストレス。たまに邪魔してやるとスカッとすんだよ。別に誰か怪我するわけじゃねーし」

俊介の耳に飛び込んできたその言葉に、怒りが沸騰した。誰も怪我しない? 違う。たった数分の遅延で、どれだけの人が焦り、苛立ち、困らされているか。

自分だって、何度も会議に遅れそうになり、上司に睨まれ、ストレスを抱えてきた。そのすべてがこいつの「ストレス解消」のためだというのか?

俊介の中で、何かが切り替わった。

次の日も、その次の日も、俊介はA駅に張り込んだ。日ごとに服装を変え、位置をずらしながら、何度も観察した。

そしてある朝、男が再び非常ボタンに手を伸ばした瞬間を俊介は動画に収めた。

はっきりと映る男の顔。ボタンを押す動作。そして、すぐに足早に去っていく姿。周囲に異常がないことは明白で、誰が見ても「故意の迷惑行為」であるとわかる。ポケットの中でスマホを握りしめながら、俊介は考えた。

この動画を駅員に見せれば、通報もできる。
だが、それだけで終わらせていいのか?

この男は、これまで何十回、いや何百回と「日常」を乱し続けてきた。それによって苛立ち、損害を被った人たちは数え切れない。駅員や警察だけに任せて、果たしてその人々の怒りは、報われるのか?

俊介は一つの決断を下した。

「——この動画を拡散してやる」

俊介は、自宅のデスクに向かいながら、スマホの動画を何度も見返していた。駅のホーム、非常ボタン。周囲には異常がない。男が周囲を確認し、ボタンに手を伸ばし、押す、その瞬間が、しっかりと収められている。

動画編集アプリを起動し、顔にはモザイクをかける。訴訟リスクやプライバシー侵害に配慮して、最低限のぼかしを加えた。だが、見る人が見れば、背格好や服装、所作から「この男」だとすぐに分かる程度のものにした。

タイトルはシンプルに。

《朝の通勤列車で頻発する「非常ボタン」トラブル、その瞬間を撮影しました》

説明欄にはこう書いた。

| この駅、この時間。
| 理由なき非常ボタンが連日押され、通勤が乱れ、被害が出ています。
| 誰かが、確信犯的に繰り返しているのではないか?
| そんな疑念から張り込みをし、撮影した映像です。
| ぜひご自身で、判断してください。

俊介はこの動画をこのために作成した動画投稿サイトにアップロードし、さらに別のSNSアカウントからは別の投稿も行った。
そちらのアカウントでは、モザイク無しの男の姿が映り込んだ別の画像を、あたかも「別件」のように投稿。悪意は隠した。

《今日はいつもと違う駅で下車。人混みヤバ!》

一見無関係に見えるが、服装、駅、時間帯、持ち物──全てが一致しており、“特定班”の注目を集めるよう巧妙に仕組まれていた。

数時間後、SNSは騒然となった。

《こいつ見たことある!》《あの駅で非常ボタンよく鳴るのって、まさか……?》
《服装同じ。しかもバッグのキーホルダー一致してる》
《前に電車止められて遅刻した!マジで許せない!》

ネット民の推理力はすさまじい。
駅名、曜日、時間帯、服装、身体的特徴──積み重なった断片情報から、すぐに「迷惑男」の勤務先や実名らしき情報が浮上した。

そして、決定打となる投稿が現れる。

《この人、うちの会社の○○部の△△さんじゃん。これ本人でしょ。毎朝この時間に出社してるし、会話の口調も同じだった。》

その投稿が火に油を注いだ。会社の公式アカウントに「どう対応するんですか?」という問い合わせが殺到し、関連ワードがトレンド入りする。

《非常ボタンおじさん》
《モザイクの男》
《通勤妨害》
《SNS私刑》

ネットは一気に炎上状態。
だが、俊介は冷静だった。

「やりすぎかも」と思う瞬間がなかったわけではない。だが、迷惑男が放置される限り、また同じように誰かの朝を、仕事を、生活を壊していく。

俊介の元には、DMが届き始めていた。

「あの動画、ありがとうございます。いつも同じ駅でイライラしてたので、気持ちが晴れました」
「毎朝困ってました。ようやく正体がわかってスカッとしました!」

「これは私刑か?正義か?」と論争する声もあったが、それ以上に多くの人が感謝していた。

そして翌日、ネットニュースのトップに、その男の記事が掲載された。

《通勤列車で非常ボタンを連続で押した疑い 会社員の男、勤務先が謝罪へ》

会社はホームページとSNSアカウントで謝罪し、「業務妨害の疑いでの処分を検討」と表明。迷惑男の顔写真と名前がネット中に広まり、SNSアカウントも特定、過去の投稿が掘り返される。

さらに悪質さが明らかになり、社会的信用は失墜した。

俊介は、電車のホームでひとり、改札の向こうを眺めながら小さく息を吐いた。

「……これで、誰かの朝が守られるなら」

動画は、今も拡散され続けていた。怒りと共感が、ネットの海を通じて広がっていた。

非常ボタンを押していた男の正体が明るみに出てから、わずか三日。男は会社を退職したという噂が流れた。精神的な理由で療養に入ったとも報じられた。ネットでは「ざまぁ」と快哉を叫ぶ声がある一方、「やりすぎだ」という冷静な意見も出てきていた。

俊介はその報道を、出勤前のテレビの音だけで聞き流しながら、静かにネクタイを締めていた。

A駅では、あれ以来一度も非常ベルが鳴らされていない。遅延もなく、定刻通りの運行が続いていた。俊介はふと、空を見上げる。朝の光が、思ったよりも明るい。

ホームに降りると、以前はどこかギスギスしていた通勤客たちの表情に、わずかだが余裕があるように感じられた。目の錯覚かもしれない。

だが、それでも。

(……誰かの朝が守られるなら、やった意味はあったのかもしれないな)

彼の動画は今でも拡散され続けていたが、俊介はすでにアカウントを削除していた。追撃の炎が、必要以上に誰かを焼かないように。目的は「制裁」ではなく、「再発防止」と「警鐘」だったのだから。

その日、俊介はいつもの車両に乗り込み、座席に腰を下ろした。

「正義は、派手じゃなくていい。静かに届けば、それでいい」

数日後、ネット上には新しい話題が湧いていた。迷惑男のような行為を防ぐため、鉄道各社が監視体制を強化するというニュース。SNSの力と市民の目が、社会の在り方に影響を与え始めていた。

世界はすべてが変わるわけじゃない。でも、自分の一歩で、たった一駅、たった数分の“平和”が守れたとしたら。

それは、きっと、誇っていいささやかな勝利だ。
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