誰の金で生活してんの?

広川朔二

文字の大きさ
1 / 1

誰の金で生活してんの?

目覚ましが鳴る前に俺は目を開ける。もう何年もこの時間に起きるのが習慣になっていた。五時十五分。まだ外は薄暗く街は静かだ。静かなのは家の中も同じ。妻も娘もまだ寝息を立てている。

俺の朝はまず台所の電気を点けるところから始まる。
娘の弁当を作り、妻の好物のヨーグルトに蜂蜜をかける。朝食はトーストと卵、あとは簡単なサラダ。娘は食べムラがあるから、好みに合わせて少しだけ工夫する。誰にも感謝されることはない。だが、それがどうした。父親なんてそんなものだ。

朝食を並べ終える頃、ようやく妻が寝室から出てくる。ぼさぼさの髪を後ろで束ねて、眠そうに伸びをしながら席につく。

「おはよう」

「ああ、おはよう」

それだけだ。結婚した頃はもっと笑い合っていた気がする。だが、いつからだろうな。こういう会話すら義務のようになったのは。

娘がリビングに現れるのはいつもぎりぎりだ。スマホを見たまま、挨拶もなく椅子に座る。俺が用意した食事に目もくれず、コンビニの菓子パンを取り出して食べ始めた。

「せっかく作ったんだけどな」

「いらない。甘いのが食べたい気分だったから」

それだけ言って、またスマホに目を戻す。俺の存在なんて空気みたいなもんだ。寂しいか? 正直寂しい。でも父親ってのは、そういうもんだと思ってる。

妻は昔、普通に働いていた。だが、「体調が悪い」「職場の人間関係がきつい」と言って突然辞めた。それから妊娠がわかって、子育てに専念するようになった。育児はもちろん大変だ。でも、俺も全く手伝わなかったわけじゃない。土日は妻を休ませたくて俺が面倒を見てきたし、夜泣きにも付き合った。保育園の送り迎えや病院にも行った。

今も、家事のすべてを押し付けたつもりはない。というか、割合的には同じくらいだろう。毎朝の食事に、帰宅後には掃除。食器の片付けだってやってきた。休みの日は家族を優先し、友人との飲み会なんて、もうずいぶんと行ってない。

それでも、俺はこの家庭を守るために働いてきた。朝から晩まで働いて、疲れて帰ってきても、文句一つ言わず笑っていた。
娘が冷たくなっても、それでもどこかで信じていた。いつか、娘が誰かの手に引かれて嫁いでいくときには、「お父さん、今までありがとう」って言ってくれる日がくるんじゃないかって。

——そんな幻想を、信じていたんだ。

今日も変わらず出社する。電車に揺られながら、スマホに届く未読の広告メールを消していく。誰も感謝しない。それでも俺は働く。家族のために、生活のために。そう信じて、ここまでやってきた。

異変を感じ始めたのは最近だった。いや、もしかしたら随分前からそうだったのかもしれない。妻の外出が多くなっていた。「ママ友とお茶するから」「私だって夜遊びたいのよ」そんな言い訳のような言葉に、胸の奥がざらついた。

だが俺は、問い詰めるような真似はしなかった。疑うより、信じたかった。信じることこそが、家族の絆を守る方法だと、どこかで思い込んでいたのだ。

けれど、きっかけは突然だった。

休日、部屋の掃除をしていたとき、何の気なしに落ちていたレシートを拾った。そこには、俺の知らないレストランの名前。しかも二名分のディナー。時刻は平日の夜、妻が「遅くなる」と言って帰ってきた日のものだった。

嫌な予感がした。そして、俺は気づいてしまったのだ。妻のスマホに一瞬映った通知、「ヒロくん」という名前。ロック画面のメッセージには、ハートマークと「早く会いたいな」の文字。

それが引き金だった。

俺は意を決し、興信所に連絡を取った。興信所の男は、手慣れた様子でこう言った。

「お話を聞いた限りだと証拠はすぐに取れそうですね」

一週間後に届いた調査報告書。そこに映っていたのは、ラブホテルへ入っていく妻と、明らかに年下の男。しかも、男は既婚者だった。勤務先も家庭もきちんとある人間で、どうやら「離婚するつもり」と嘘をついて妻と関係を続けていたようだった。

それだけでは終わらなかった。さらに胸をえぐったのは、娘の存在だった。

調査報告書の中には不倫相手を仲良さそうに三人で食事をしている写真もあったのだ。

そう、娘は知っていたのだ。母親の不倫を。そして、俺には黙っていた。

「そうか、俺が働いた金で生活して、俺が働いた金で不倫してたのか」

何もかもが崩れた気がした。俺が守ってきた家は、最初から崩れていたのかもしれない。

怒り。悲しみ。空しさ。いろんな感情が渦を巻いたが、それでも俺は冷静だった。泣いたり、喚いたりするのは、向こうの役目だ。俺は違う。

俺はスマホを開き、水面下で動き始めた。転職活動を進め新しい職場が決まった。旧い職場の退職願もすでに提出済み。もちろん、妻には一言も伝えていない。家計の記録も、ネットバンキングも、すべて新しい端末からしかアクセスできないよう設定した。

数日後の夜、リビングに呼び出された。そこに座っていたのは、化粧をきっちり決めた妻と、無表情な娘。

「……話があるの」

「なんだ」

「私、離婚したいの。好きな人ができたから」

娘はスマホをいじりながら、こちらをちらりと見た。その目は、あからさまに冷たい。バカにするような、軽蔑するような眼差し。ああ、そうか。娘にとっても、俺はもう“終わった男”なんだな。

妻は一息ついて、続けた。

「財産分与とか、いらない。あなたのはした金なんて、欲しくないの」

「そうか……じゃあ、慰謝料は請求させてもらう」

「いいわよ、どうせ大した額じゃないんだし払うわ」

「あと、子どもの親権についてはどうする?」

「当然、私がもらう。この子もあなたとはもう関わりたくないって。もちろん私も。あなたとはもう関わりたくないから」

娘が小さくうなずいた。俺を見ようともしない。これが最後の確認だった。念のために弁護士を立てて、条件を明文化する。それを了承すると、妻は「もう関わるつもりないから」と言い残して部屋を出ていった。

俺は静かに笑った。愚かな女たちだ。お前たちが捨てた“男”は、ここから立ち上がる。

そして引っ越しの日、俺は荷物を少しだけトランクに詰めた。ほとんどの家財は元々妻が決めたものだ。未練もない。賃貸契約の名義変更を済ませ、鍵を置いた。

出て行く最後の瞬間、リビングの棚に小さな封筒を残した。「弁護士事務所の連絡先」「離婚条件案」それだけだ。

家を出る前、娘がスマホ越しに俺を見ていた。「じゃあね、今までありがとう」とでも言ってくれれば少しでも救われたかもしれない。だが、彼女の口元はうっすらと笑っていた。その表情を、俺は決して忘れないだろう。





数日後、新天地での生活が始まった。新しい職場、新しい街。転職先は待遇も良く、生活の心配はなかった。何より誰にも邪魔されない「静かな時間」が手に入った。

そして、夜。スマホに着信が鳴り響いた。

妻からの三十件近い不在着信。メッセージアプリは未読メッセージであふれていた。

《お願い、話したいだけなの》
《ごめんなさい、本当に私バカだった》
《あんなの嘘だったの、全部》
《あなたしかいなかったのに……》

俺はソファに沈みながら、ふっと笑った。

——始まったな。





実は俺が離婚に進めて動いていたのは、興信所を通じて不倫男との関係を調べただけではなかった。

——別れさせ屋。

裏稼業のようなその業者に、俺はすべてを依頼した。

「俺と妻を、きれいに別れさせてくれ。そして、妻とその男も」

男は静かに笑った。

「お任せください。うちは“納得”を売ってますから」

別れさせ屋の工作員は、「高収入・独身・優しい性格」を装い、妻に近づいた。数か月かけて信用させ、「本気で一緒になりたい」と言わせた。それと同時に不倫男には女の工作員が近づき、妻と別れるように仕向けさせた。ダブル不倫なんて大した絆で結ばれているはずもない。最大の目的は妻と不倫男を別れさせ、妻が頼れる存在を抹消することだった。

俺の本当の狙いは、【妻が自ら地獄に足を突っ込む構図】を作ることだから。

不倫男から、高収入な好みの男に乗り換えた妻はすぐに離婚を切り出してきた。まさに計画通りだった。

だが、妻が信じたその男は架空の人物だ。

別れさせ屋のチームが練りに練った“理想の恋人”。もちろん、離婚後すぐに連絡が取れなくなるようにした。

「彼の職場に行ってみたけど、そんな人いないって」
「メッセージも既読がつかない。SNSのアカウントも消えてる」

そんな混乱の末に、ようやく妻は気づいたのだろう。
——騙された、と。

もちろん、不倫男にも制裁を加えた。俺は、不倫の証拠一式を送りつけた。宛先は、不倫男の自宅。そして、差出人は「奥様へ」。

その中には、妻と男がホテルへ入る決定的な写真、トーク履歴、そして日付入りのレシートのコピーが綴じられていた。

不倫男の妻は、数日後に動いたようだ。SNSには意味深な言葉が並び、家族写真は削除されていた。

代償は払ってもらった。もとより、顔しかしらない不倫男は慰謝料さえ払ってもらえればどうでもよかった。それでも妻とよりも戻すのであればそれはそれでよかったが、そうはならなかったみたいだ。不倫男は立場を失い、遠くに左遷されたらしい。

妻からの着信とメッセージを無視していると、今度は娘からメッセージが届くようになった。

《……一緒に暮らせないかな?》
《ママ、最近おかしいよ。ずっと泣いてる》
《前はごめん。私も反省してるから……》

だが、スマホに表示されるたびに娘のあの冷たい視線がフラッシュバックする。今までの態度を考えれば、自分可愛さか、もしくは妻に言われて送ってきたのだろう。

俺は、メッセージを一度だけ見返し、こう返した。

《そう望んだんだ結果だろう。なら、これが一番だ》

既読がついたまま、返事はなかった。

そして最後に、妻へ俺は一言だけ、淡々とメッセージを送った。

《俺も、関わるつもりはないから》

夜の静かな部屋で、缶ビールのプルタブを引いた。久しぶりに、学生時代の友人に連絡をした。「今度飲もう」とだけ。すぐに「いつ空いてる?」と返ってきた。

ふっと笑う。もう俺の人生は誰にも奪わせない。

翌朝、目覚めたときの感覚がまるで違っていた。
頭の奥にまとわりついていた重い膜のようなものが消えている。隣には誰もいない。誰かの機嫌を伺う必要もなければ、娘の無言の圧にも耐える必要はない。

冷蔵庫を開け、ベーコンを焼く。目玉焼きとトースト。淹れたてのコーヒーから立ちのぼる湯気。

「一人分」の食卓は寂しくなんかない。むしろ自由だった。

週末、学生時代の友人たちと久々に会った。笑いながらビールを飲み干す。くだらない話、過去の失敗談、今の仕事の愚痴。こんな時間を俺は何年も持てなかった。

ふと、スマホの通知が光る。「未読100件」のまま残っている、元妻からのメッセージスレッド。通知を無言でスワイプして消す。

もう過去は過去だ。

後日、弁護士から正式な離婚成立の通知が届いた。慰謝料と諸費用を差し引いた金額が口座に振り込まれていた。やはりというか、なんというか。不倫男との関係は破綻したと聞いた。あの家族の結末を、俺は知る必要もない。

娘からも、ついに音沙汰がなくなった。

——もう十分だ。あの日々にもう未練はない。

この静かな生活こそ、俺が守りたかったものだったのかもしれない。

今度こそ、「俺の金で、俺の人生を生きていく」んだ。
感想 0

この作品の感想を投稿する

あなたにおすすめの小説

お姉ちゃんだから、の呪い

広川朔二
ライト文芸
「お姉ちゃんなんだから」。その一言で、何もかもを譲らされ、我慢してきた咲良。妹・美優の影に隠れ、家族の中で“便利な存在”として扱われ続けた少女は、やがて「自分の人生」を取り戻すために、すべてを捨てて家を出る。 児童福祉を志し、学び、現場に立ち、咲良はようやく本当の「居場所」と「役割」を見つけていく――。 家族という名の呪縛に抗い、自分自身の価値を見つけ出した少女の静かで強い、再生と希望の物語。

演出された謝罪

広川朔二
ライト文芸
自称「映像素材クリエイター」の南雲翔太は、地方の植物園で撮影した映像を無断で販売し、SNSで“癒しの風景”として拡散。動画はヒットし、称賛のコメントが彼の承認欲求を満たしていた。しかし、施設側のクレームとともに炎上が始まる。 謝罪動画で沈静化を図るも、それは“演出”だった――。 暴露、拡散、提訴、社会的制裁。軽い気持ちで破った一文が、彼のキャリアと人生を崩壊させていく。

遺産は奪わせない

広川朔二
ライト文芸
十年にわたり母の介護を担ってきた幸司。だが母の死後、疎遠だった兄と姉は勝手に相続手続きを進め、さらには署名を偽造して幸司の遺産を奪おうとする。しかし、母が残していた公正証書遺言と介護記録が真実を明らかにする――。

親ガチャ失敗と言われ

広川朔二
ライト文芸
家庭に尽くし続けてきた主婦・恵。だが、無関心な夫、反抗的な息子、積み重なる「無価値の証明」に心が壊れ始める。ある日、彼女はすべてを置いて家を出た。置き去りにされたのは、恵ではなく“家族”の方だった。 失って初めて気づく、存在の重さを描く静かな決別の物語。

今更家族だなんて言われても

広川朔二
ライト文芸
父は母に皿を投げつけ、母は俺を邪魔者扱いし、祖父母は見て見ぬふりをした。 家族に愛された記憶など一つもない。 高校卒業と同時に家を出て、ようやく手に入れた静かな生活。 しかしある日、母の訃報と共に現れたのは、かつて俺を捨てた“父”だった――。 金を無心され、拒絶し、それでも迫ってくる血縁という鎖。 だが俺は、もう縛られない。 「家族を捨てたのは、そっちだろ」 穏やかな怒りが胸に満ちる、爽快で静かな断絶の物語。

母に捨てられた日と母を捨てた日

広川朔二
ライト文芸
父の葬儀を終え、実家の整理に訪れた綾乃は、遺された箱の中に一冊の日記と二通の封筒を見つける。そこには、幼い頃に突然姿を消した母の「本当の理由」が綴られていた。 ——「子どもがいなければもっと自由になれる」。 母は家族を捨て、自分を“不要な存在”と切り捨てていたのだ。やがて母から「会いたい」という連絡が届く。病を患い、“最後の願い”を口にする女に、綾乃が選んだ答えとは。 これは、「赦し」ではなく、「切り離す」ことで未来へ進んだ、ひとりの娘の物語。

偽りのフェミ

広川朔二
ライト文芸
SNSで“ミズキ様”と崇められたインフルエンサー・蓮水凛花。 「女性の味方」を名乗りながら、実際は男を金で操り、反論する女を晒して潰してきた。 しかし、彼女に傷つけられた人々が結集し、静かなる反撃が始まる。

ピンポンは、もう鳴らない

広川朔二
ライト文芸
静かに暮らす女性・綾のもとに現れたのは、しつこく高圧的な訪問営業マン。何度断ってもやってくる彼の態度に、綾はじわじわと心をすり減らしていく。これは、誰の称賛もいらない。静かな生活を守るための、ひとつの「勝利」の物語。