静けさの向こうに

広川朔二

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静けさの向こうに

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春の朝、陽の光が畑にやわらかく降り注いでいた。

佐々木誠司は、線路沿いの小さな畑に立ち、柔らかい土の感触を足元に感じながら、新芽の様子を見守っていた。ようやく芽吹いた野菜の若葉が、朝露をまとって控えめに揺れている。その向こうを、鉄道の列車がゆっくりと通り過ぎていく。

「今日もいい景色だなあ……」

誠司は一人ごちて、小さく微笑んだ。この場所は、「隠れた絶景スポット」だ。線路越しに見える畑と、春の若芽、そして走り抜ける列車の対比は、まるで絵画のような美しさだった。春の、僅かな期間だけのこの景色は亡くなった父も愛していたもの。

しかし、その日、静寂は破られた。

畑の一角が、妙に乱れていたのだ。芽がいくつも踏み潰され、土が抉れ、足跡が無数に交錯している。そして、そこには――ペットボトルやおにぎりの包み、コンビニのレジ袋まで、無造作に捨てられていた。

「……え?」

驚いて辺りを見回した誠司の視界に、ひとりの男が入ってきた。中年で、黒いジャンパー姿。肩に大きなカメラを提げ、脚立を抱えている。

男は、畑の畦道を無造作に踏み越え、土の上に脚立を立て始めた。

「ちょ、ちょっと……ここ、畑なんです。入らないでください」

勇気を振り絞って声をかけた誠司に、男は振り返り、眉をひそめた。

「は? なんだよお前」

「ここ、私有地なんで……芽も踏まれてますし……」

男は鼻で笑った。

「お前の畑が画になるから撮ってやってんだろうが。ありがたく思えよ、農民さんよ」

その言葉に、誠司の喉が詰まった。怒りがこみ上げる。でも、どうしても言葉にならない。怒鳴り返すことも、強く出ることもできず、ただ立ち尽くすだけだった。

男――野々村は、誠司を無視して脚立に登り、カメラのファインダーを覗き込む。その姿は、まるで人の土地を「ただの背景」としか見ていないようだった。

踏み荒らされた畑を前に、誠司の胸の中で、静かに何かが壊れていった。

(……ここは、俺の大事な場所なんだ)

しかしその思いも、ただ胸の奥に押し込めるしかなかった。誠司の背後で、列車の走る音だけが、風のように遠ざかっていった。

そして数日後の朝、誠司が畑に行くと、再び無残な光景が広がっていた。
芽は前よりもひどく踏み荒らされ、畦道には新しい足跡。レジ袋が風に揺れ、遠くから、金属の脚立を運ぶ音が聞こえた。

(まさか、また……)

畑の角を曲がると、やはりいた。例の男――野々村だ。まるで自分の庭のように振る舞い、脚立を立て、カメラを構えている。

「……困ります、ここは――」

声をかけた誠司に、野々村はあからさまにうっとうしそうな顔を向けた。

「またお前か。うるせえな。ちょっと撮るくらいいいだろ。写真に残るもんじゃねえだろ、土なんか。大体このくらいの野菜なんて精々数千円だろ。今度のコンテストは賞金に副賞でカメラもつくんだよ。いいか?俺の方が重要なの!」

誠司の胸が、ズシンと重くなる。言いたい言葉は喉まで来るのに、口からは出てこない。ただ、心の中に広がっていくのは、怒りと……それ以上に、自分の無力さだった。

「……」

誠司が何も言えずにいると、遠くから声がした。

「おじさん! そこ、畑に入っちゃダメでしょ!」

振り向くと、制服姿の高校生の少女が立っていた。黒髪を一つに結び、鋭い視線をこちらに向けている。近所に住む、従姪の美月だった。

「なんだガキが。関係ねーだろ、帰れ」

野々村は眉をひそめて言い放つが、美月は怯まない。

「関係あります。ここはこの人の畑です。無断で入るなんて泥棒と同じじゃないですか」

その言葉に、誠司は思わず目を見開いた。まっすぐな目。臆せず、まっすぐに正しさを口にするその姿に、胸の奥がざわついた。

野々村は「チッ」と舌打ちをして、無言で畑から立ち去った。あの冷たい目で誠司を一瞥し、ゴミをそのままにして――。

しばらく沈黙が流れたあと、美月がぽつりと言った。

「……黙ってたら、ああいう人、もっと調子に乗るよ」

誠司は、小さくうなずいた。

「でも……俺みたいなのが何か言っても、無視されるだけで……」

「それでも、言わないと。自分の場所、守れないよ。それに、私もこの景色好きだからあんな人にいてほしくないもん」

その言葉は、誠司の胸に深く刺さった。どこか恥ずかしくもあり、でも、どこか温かい。

その夜、誠司は悩んだ末に、畑の目立つ場所に「私有地につき立入禁止」の立て札を設置した。小さな文字ではなく、しっかりと読めるように太字で書いた。さらに、畑の様子をスマートフォンで写真に撮り、記録し始めることにした。

これまで、誰にも見せなかった自分の「怒り」と「願い」を、小さな行動に変えていく。

誠司にとっては、それが最初の一歩だった。




数日ぶりの晴天。畑の若葉が陽に照らされ、風に揺れていた。

誠司は、立て札の位置を確認し、看板がしっかり固定されていることを確かめる。「私有地につき立入禁止」の文字は、誰の目にも明らかだ。畑の周囲には簡易ロープも張り、境界を明確にした。

それでも――やつはまた来た。この天気なら再び野々村がくるかもしれない、そう美月から連絡がきたので今度こそ追い返そうと誠司は待っていた。

朝の列車が通り過ぎる時間、土埃とともに現れたのは、やはり野々村だった。いつも通り脚立を抱え、畑の前に立つ。

立て札を見た野々村は、鼻で笑った。

「バカバカしい……誰がこんなもん気にするかよ」

誠司が歩み寄ると、野々村はにらみつけるように言い放った。

「おい、邪魔だ。どけよ。構図に入るんだよ、お前」

そのまま野々村は、誠司の制止も聞かず、無造作に立て札を蹴り倒した。乾いた音を立てて、木製の板が地面に倒れる。

その瞬間だった。

「……録れた。バッチリ!」

畑の一角、背の低い藁の山の影から、制服姿の美月が立ち上がった。スマートフォンを掲げ、記録中の画面を誠司に見せる。

「な……お前……! 盗撮か!? 肖像権侵害だぞ!」

野々村が顔を真っ赤にして怒鳴ったが、美月は冷静だった。

「ここは私有地です。無断で侵入して器物を壊したのはあなた。証拠は揃ってます」

誠司も一歩前に出る。

「ここは私の畑です。何度も申し上げましたが、無断での立ち入りはやめてください。これ以上繰り返すなら、警察に通報します」

誠司の声は震えていなかった。初めてだった。怒鳴るでもなく、怯えるでもなく、自分の言葉で、自分の土地を守ろうとしていた。

野々村は何か言いかけたが、美月が一言、突きつけた。

「もう投稿しました。“#迷惑撮り鉄 #私有地侵入”。……拡散されてますよ、今ごろ」

その言葉に、野々村の顔が引きつった。

「はあ!? 消せ! 今すぐだ!」

「嫌です。事実ですから」

野々村がスマホを取り上げようと一歩踏み出すと、美月がすかさず後退しながら言った。

「手を出したら、本当に警察ですよ。通報の準備もしてあります」

畑の奥で、誠司がスマートフォンを取り出していた。野々村は、舌打ちして顔をそらし、怒りに震えながら立ち去っていった。

それから数日。

SNS上では、美月が投稿した動画が急速に拡散された。タグは次第に話題となり、鉄道ファンの間でも「あれは擁護できない」「こんな奴のせいで撮り鉄の評判が落ちる」と批判が集中した。

鉄道会社も動いた。公式アカウントが「当社の風景を撮影される皆様へ」としてマナー啓発の投稿を行い、地元警察も、畑周辺の巡回を強化することを表明した。

そして彼が再び畑に現れることは、なかった。




その後、野々村はSNS上で個人を特定され、全国の撮り鉄ファンから激しい非難を浴びた。

「マナー違反の恥さらし」
「同じ趣味の人間として情けない」

鉄道ファンの間でも炎上は止まず、彼が運営していた撮影ブログは閉鎖され、動画投稿サイトのアカウントも削除された。

さらに、撮影していた地域の鉄道会社からも「当社イメージを著しく損なう迷惑行為である」と名指しされ、公式に警告文が出された。

最終的に、野々村は不法侵入と器物損壊の事実が認められ、行政指導と罰金が科されることになった。

その事実は大きく取り上げられ、結果、野々村は完全に孤立した。

一方、誠司の畑には誰一人として無断で立ち入る者はいなくなった。

土は整えられ、踏み荒らされた芽も時間とともに新たに芽吹き、柔らかな緑が再び畝を彩っていく。

風は、以前のように静かだった。
それを、誠司は少し違う気持ちで受け止めていた。

いつもの朝、美月が畑にやってきた。制服のスカートが春風に揺れている。

「おじさん。はい、これ!」

彼女はスマートフォンを取り出し、画面を見せてくれた。

そこには、朝日に照らされた若葉の畑を背景に、赤い車両の列車が走っている写真。
まるで静寂の中に響く音楽のような、穏やかで美しい風景だった。

「本当に……きれいだね」

誠司は、まっすぐにそう言えた。

美月は微笑んだ。

「この風景を守ったのは、誠司おじさんだよ。ちゃんと、言葉にしてくれたから」

誠司は、ほんの少し照れたように笑った。

「……まあ、勇気をくれたのは君だけどね」

「ううん。行動したのは、おじさんだよ」

二人は並んで、列車の音に耳を澄ませた。

遠くから風を切るような音が聞こえ、やがて鉄道の車両が視界に現れる。
春の若葉の海をかすめながら、列車は静かに通過していく――。

その瞬間、美月がカメラを構え、シャッター音が静けさの中に響いた。

誠司は何も言わず、その背中を見守った。

守られた風景の中、静寂は戻っていた。
そしてその静寂は、かつてのような無力さではなく、誠司にとっての誇りと安らぎになっていた。

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