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禁止されていないなら、別にいいでしょ?
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「禁止されていないなら、別にいいでしょ?」
木島の口癖だ。まるで免罪符のように、彼はあらゆる場面でその言葉を使っていた。リモート会議中に株の売買をしていたことがバレたときも、後輩が見つけていた外注先を勝手に“自分の実績”として報告書に載せたときも。
「ルールに明記されてないんだから、問題ないでしょ?」
そう言って笑って流す。しかもそれが、意外と通用してしまうのが、今のこの会社だった。
創業十年目を迎えたこのIT企業は、“自由な社風”を掲げている。出社義務はなく、勤怠管理も自己申告。評価は完全に成果主義。ガイドラインもほとんどなく、「数字さえ出せばいい」という空気が暗黙の了解だった。創業者が好んで語っていたというのが、
「社員を信じる。その代わり、ルールは最小限でいい」
というフレーズだった。自由の裏には、信頼がある。その信頼を裏切るような人間はいない、そう信じていたのだろう。
だが、現実はどうか。
木島のような人間にとって、それは単なる“隙”だった。ルールに書かれていないことは、やってもいい。むしろ、やったもん勝ち。そんなふうに都合よく解釈して、彼はどんどん数字を伸ばしていった。
要領が良く、話し上手で、顔も悪くない。社内では“期待の若手”として扱われ、上司の覚えもめでたい。彼のやり方に眉をひそめる者はいても、真正面から異を唱える人間はいなかった。
「まあ、結果出してるしね」
「グレーだけど、明確にアウトじゃないし……」
曖昧な空気が、木島の立ち回りを正当化していく。誰もが心の中では「それは違うんじゃないか」と思いながら、声には出さなかった。もしかしたら、自分がその矛先になるのを恐れていたのかもしれない。
俺も、最初はそうだった。
深入りするな。関わるな。そうやって自分を納得させていた。
けれど――
「秋山さんって、正直者ですよね」
ある日、後輩の長谷川にそう言われた。彼は真面目で実直なタイプで、どこか融通がきかないと言われがちな男だった。でも、誰よりもちゃんと働くし、報われない不器用さに俺はどこか親しみを感じていた。
「俺、実は……少し前、木島さんにやられたことがあるんです。外注先の選定、俺が頑張ってリストアップしたのに、全部横取りされて。“社内調整が面倒だから”って」
苦笑混じりにそう言った彼の目には、かすかな怒りがあった。
「でも、社内的には“彼の手柄”になってしまった。悔しかったですけど、証拠もないし、上に言っても“若手同士のすれ違い”で済まされるんだろうなって、諦めました」
その時、胸の奥が妙にざわついた。
俺も見て見ぬふりをしてきた。彼のグレーなやり方を「関わらない」という名目で放置してきた。でも、そのツケが確実に誰かに回っていたのだ。長谷川のような、ちゃんとやっている人間が、傷ついていたのだ。
「秋山さん。俺、今回は黙っていられません。たとえまた揉み消されても、動きたいです。手を貸してくれませんか」
長谷川の声は、震えていた。怒りなのか、覚悟なのか、あるいは諦めを押し殺す決意なのか。
俺は頷いた。何かが、自分の中で変わったのが分かった。
このままではいけない。
“禁止されていない”という言葉の裏に隠されたものを、暴かなければならない。
木島がリードするプロジェクトは、社内でも話題になっていた。
特に話題を集めたのは、先月リリースされたアプリ開発案件だった。スピードも品質も抜群で、顧客満足度は驚くほど高い。担当部署の部長が「今期最大の成果」と持ち上げるのも無理はなかった。
「さすが木島さん、他のチームも見習ってほしいよなあ」
「彼みたいに、もっと“自走力”を持ってくれないと困るよ」
社内ポータルでは、成功事例として紹介記事が掲載された。木島のコメントも載っている。
──“既存のルールにとらわれず、最短距離で成果に向かう。それが今の時代の働き方だと思います”──
長谷川がその記事を読んで、眉をしかめた。
「こういうこと、平気で言えるんですね、あの人」
その言葉を聞いて、俺も重い気持ちになった。
記事の内容に違和感があった。プロジェクトの進行スピードが、あまりにも早すぎるのだ。アプリ開発は、要件定義、設計、実装、テスト……と複数の工程を踏まなければならない。それが通常の半分以下の期間で完了していた。
「外注先の情報、共有されてたか?」
「いえ。私の知る限り、社内管理台帳にも載っていません」
長谷川が静かに言った。
そこから、俺たちは独自に調査を始めた。
業務管理ツールを見直し、関係するチャットログや発注書を洗い出す。まず見つかったのは、外注業務に関する不自然な点だった。
正式な業務委託契約書の記録がない。報酬の支払いルートが不透明。外注先の選定プロセスも、社内マニュアルと照らして明らかに逸脱していた。
さらに、管理台帳にない発注データがいくつか見つかった。
「ここ、個人名ですよね……?しかも、会社名も登録住所もない」
「社外から業務メールが送られてるのに、ファイル共有ログが残ってない」
「しかも、この日付、休日のはずなのに……」
何かが、おかしい。俺たちは確信に近い疑念を抱き始めていた。決定的な手がかりを得たのは、それから数日後だった。長谷川がファイルのメタデータを精査していたときだった。
「秋山さん、これ……見てください」
彼が開いた発注書のバックアップには、編集履歴が残っていた。日付と操作履歴、そしてログインID。
そこには、木島が“正式な手続きの前”にファイルを複数回改変していた記録がはっきりと残っていた。しかも、社外の個人口座に振り込むよう誘導する文言が一時的に記載されていたことも分かった。
「完全に、やってますね……」
俺は深く息を吐いた。
やはりそうだった。木島は、会社の自由と信頼を逆手に取り、自己利益のために制度を利用していたのだ。
「でも、これだけじゃまだ“状況証拠”ですよね」
「確実にいくなら、外注先に直接確認を取る必要がある」
長谷川は一瞬躊躇ったようだったが、すぐに頷いた。
「やります。僕、直接連絡してみます」
それからの数日間、俺たちは業務の合間を縫って、木島と関係があると思われる外注先にコンタクトを取った。すべてが表立ったやりとりではなかった。だが、少しずつパズルのピースが埋まっていく感覚があった。
ある外注先からの返信メールに、こう書かれていた。
──“発注元の担当者に報酬の一部を“中間手数料”として渡すよう指示されました。契約書は交わしていません”──
それは、“自由な風土”を装った、私的な金銭授受の証拠だった。
「秋山さん……これは、出しましょう。もう、止められないですよ」
俺は静かに頷いた。誰にも言わず、ただパソコンの画面を見つめた。“自由と信頼”で回っていた会社に、静かに積もっていた歪み。それを見過ごさなかったという事実を、記録に残す時が来たのだ。
◆
「報告会、今週の金曜だってよ。木島の一人舞台になるな」
そんな声が、社内で聞こえるようになっていた。部長や執行役員まで顔を出すという話で、社内ポータルには“今期最大の成功事例の共有”という仰々しい見出しが踊っていた。
「このタイミングしかないな」
長谷川の声は落ち着いていたが、その目は研ぎ澄まされていた。俺たちは、手に入れた証拠群を整理し、報告会のプレゼンシステムに仕込む最後の作業に取りかかっていた。
木島が使う予定の発表スライドは、社内共有ドライブに保存されている。俺はそのデータの複製を作り、途中に“もうひとつの映像”を挿入した。
《木島が個人に対して無許可で外注依頼をした証拠》
《振込履歴と個人口座名義の一致》
《発注書の改竄履歴とログイン情報》
《外注先からの証言付きメールスクリーンショット》
その全てを、短く編集した動画にまとめた。再生時間はわずか2分30秒。だが、それを見れば誰もが理解できる。「木島が、社の信頼を金に換えていた」という事実を。
「……これを流す、覚悟はあるか?」
「あります。というより、もう腹は決まってます」
木島の“自由”は、もう一線を越えていた。この会社がまだ“まとも”であるために、俺たちは引き金を引くしかなかった。
金曜日。会議室には普段見かけない幹部の顔もあった。スーツを新調したらしい木島が、壇上で笑っていた。
「いやー、本当にありがたい限りです。現場の皆さんの協力があってこその成果ですよ」
「“やれる範囲”じゃなくて、“やれる方法”を考えた結果が、こうなったんです」
うまいことを言っているようで、その実何も言っていない。けれど、聞く人の多くが納得してしまう――それが木島の“話術”だった。
拍手が一度、二度、起きかけた。だが、そのタイミングで木島が言った。
「では最後に、本プロジェクトの外注対応のフローについて、映像でご紹介します」
リモコンが押され、スクリーンが切り替わった。
──しかし、映ったのは予定されていた映像ではなかった。
《2025年3月:外注先A氏との未登録契約メール》
《口座情報:◯◯銀行 ××支店 名義:キジマ トモヤ》
《業務ログ:個人宛に送信された進捗ファイル》
《発注書メタデータ:編集者名“KijimaT”、編集日時:深夜2:44》
静寂が、会議室全体を包んだ。
「え……?」
「これ……どういうこと?」
「社内ルート通さずに、個人に……金?」
誰かの息を呑む音がはっきり聞こえた。
「おい、止めろ、これ!」
木島がリモコンを連打するが、映像は止まらない。操作を無効化していたのだ。再生は自動で最後まで続く設計になっていた。
長谷川が席を立ち、プロジェクター側へと歩き出した。そのタイミングで、部長が重い椅子を引いて立ち上がった。法務部の担当者も、無言で後を追う。
全員が察していた。
──これは“事故”じゃない。
──意図的に仕込まれた“内部告発”だ。
「ちょ、ちょっと待ってください。これは……誤解です。僕は別に、明確に禁止されてたわけじゃ……!」
木島の声が震えていた。だが、誰も返事をしなかった。誰も笑わなかった。誰も庇わなかった。“禁止されていない”という魔法の呪文が、何の効力も持たない場所に、木島は一人で立ち尽くしていた。
その日のうちに、木島には自宅待機命令が下された。
その後、正式な調査チームが立ち上がり、プロジェクトの契約履歴と金の流れを一つひとつ洗い直す作業が始まった。
俺と長谷川の行動が公式に認められることは、きっとない。でもそれでいい。誰かが“踏み越えてはいけない一線”を示す必要があったのだ。
そしてその線は、ようやく引かれた。
木島の懲戒解雇が正式に発表されたのは、報告会からおよそ一ヶ月後のことだった。
社内メールで届いた通知には、端的な言葉が並んでいた。
「複数の業務委託において、私的な金銭の授受が確認されました」
「社の信用を毀損した重大な行為と認定し、懲戒解雇処分といたします」
内容自体は淡々としたものだったが、その意味するところは重い。“木島のようなやり方は、たとえ数字を出していても認められない”というメッセージが、社内に静かに、しかし確実に伝わった。
「いやぁ……まさか、あの木島が、ね」
「うまく立ち回ってると思ってたんだけどな」
「『ルールに書いてなきゃ挑戦だ』って言ってたっけ。完全に墓穴だったな」
誰も木島を擁護しなかった。むしろ、見えない圧のようなものが一つ消えたのか、社内の空気は軽くなっていた。
俺も長谷川も、特に評価されることはなかった。ただ、何も言われないことが“理解されている”証にも思えた。
数日後、社内ポータルに「行動指針見直しのお知らせ」という通知が掲載された。そこには、たった一行の文言が追加されていた。
「法令および社内ルールに明記のない事項であっても、公序良俗、道徳に反しないよう心掛けること」
それを読んだ瞬間、俺は思わず笑ってしまった。
明文化されていないことの裏をかこうとする者がいれば、会社はその都度、ルールを増やすしかなくなる。だが、それでは“自由な風土”なんて成り立たない。
この一行に込められたのは、創業者が最初に掲げた理想――「社員の良識を信じる」ということの再確認だった。
あの日、部長がぽつりと漏らした言葉を思い出す。
「ルールってのはな、最低限でいいんだよ。でも、その代わり、“信じてる”ってことを記録に残す必要がある。裏切ったら終わりなんだって、示すためにな」
木島は、その“信頼”を都合よく利用し、そして切り捨てた。彼の去った後、誰も「惜しい人材だった」なんて言わなかった。むしろ、ようやく空気が澄んだような、そんな雰囲気すらあった。
昼休み、コーヒー片手に長谷川と屋上で話した。
「ようやく“自由に”働けそうですね」
彼が苦笑まじりに言う。
「そうだな。今度は、“ちゃんとした自由”にな」
俺は頷いた。
“自由”ってのは、勝手にやることじゃない。
誰かの信頼を踏み台にすることでもない。
それは、自分の中の“倫理”という名のルールを、
他人に言われなくても守るということだ。
ようやく、この会社に“自由”が戻ってきた。
今度は、もう誰にも、それを奪わせはしない。
木島の口癖だ。まるで免罪符のように、彼はあらゆる場面でその言葉を使っていた。リモート会議中に株の売買をしていたことがバレたときも、後輩が見つけていた外注先を勝手に“自分の実績”として報告書に載せたときも。
「ルールに明記されてないんだから、問題ないでしょ?」
そう言って笑って流す。しかもそれが、意外と通用してしまうのが、今のこの会社だった。
創業十年目を迎えたこのIT企業は、“自由な社風”を掲げている。出社義務はなく、勤怠管理も自己申告。評価は完全に成果主義。ガイドラインもほとんどなく、「数字さえ出せばいい」という空気が暗黙の了解だった。創業者が好んで語っていたというのが、
「社員を信じる。その代わり、ルールは最小限でいい」
というフレーズだった。自由の裏には、信頼がある。その信頼を裏切るような人間はいない、そう信じていたのだろう。
だが、現実はどうか。
木島のような人間にとって、それは単なる“隙”だった。ルールに書かれていないことは、やってもいい。むしろ、やったもん勝ち。そんなふうに都合よく解釈して、彼はどんどん数字を伸ばしていった。
要領が良く、話し上手で、顔も悪くない。社内では“期待の若手”として扱われ、上司の覚えもめでたい。彼のやり方に眉をひそめる者はいても、真正面から異を唱える人間はいなかった。
「まあ、結果出してるしね」
「グレーだけど、明確にアウトじゃないし……」
曖昧な空気が、木島の立ち回りを正当化していく。誰もが心の中では「それは違うんじゃないか」と思いながら、声には出さなかった。もしかしたら、自分がその矛先になるのを恐れていたのかもしれない。
俺も、最初はそうだった。
深入りするな。関わるな。そうやって自分を納得させていた。
けれど――
「秋山さんって、正直者ですよね」
ある日、後輩の長谷川にそう言われた。彼は真面目で実直なタイプで、どこか融通がきかないと言われがちな男だった。でも、誰よりもちゃんと働くし、報われない不器用さに俺はどこか親しみを感じていた。
「俺、実は……少し前、木島さんにやられたことがあるんです。外注先の選定、俺が頑張ってリストアップしたのに、全部横取りされて。“社内調整が面倒だから”って」
苦笑混じりにそう言った彼の目には、かすかな怒りがあった。
「でも、社内的には“彼の手柄”になってしまった。悔しかったですけど、証拠もないし、上に言っても“若手同士のすれ違い”で済まされるんだろうなって、諦めました」
その時、胸の奥が妙にざわついた。
俺も見て見ぬふりをしてきた。彼のグレーなやり方を「関わらない」という名目で放置してきた。でも、そのツケが確実に誰かに回っていたのだ。長谷川のような、ちゃんとやっている人間が、傷ついていたのだ。
「秋山さん。俺、今回は黙っていられません。たとえまた揉み消されても、動きたいです。手を貸してくれませんか」
長谷川の声は、震えていた。怒りなのか、覚悟なのか、あるいは諦めを押し殺す決意なのか。
俺は頷いた。何かが、自分の中で変わったのが分かった。
このままではいけない。
“禁止されていない”という言葉の裏に隠されたものを、暴かなければならない。
木島がリードするプロジェクトは、社内でも話題になっていた。
特に話題を集めたのは、先月リリースされたアプリ開発案件だった。スピードも品質も抜群で、顧客満足度は驚くほど高い。担当部署の部長が「今期最大の成果」と持ち上げるのも無理はなかった。
「さすが木島さん、他のチームも見習ってほしいよなあ」
「彼みたいに、もっと“自走力”を持ってくれないと困るよ」
社内ポータルでは、成功事例として紹介記事が掲載された。木島のコメントも載っている。
──“既存のルールにとらわれず、最短距離で成果に向かう。それが今の時代の働き方だと思います”──
長谷川がその記事を読んで、眉をしかめた。
「こういうこと、平気で言えるんですね、あの人」
その言葉を聞いて、俺も重い気持ちになった。
記事の内容に違和感があった。プロジェクトの進行スピードが、あまりにも早すぎるのだ。アプリ開発は、要件定義、設計、実装、テスト……と複数の工程を踏まなければならない。それが通常の半分以下の期間で完了していた。
「外注先の情報、共有されてたか?」
「いえ。私の知る限り、社内管理台帳にも載っていません」
長谷川が静かに言った。
そこから、俺たちは独自に調査を始めた。
業務管理ツールを見直し、関係するチャットログや発注書を洗い出す。まず見つかったのは、外注業務に関する不自然な点だった。
正式な業務委託契約書の記録がない。報酬の支払いルートが不透明。外注先の選定プロセスも、社内マニュアルと照らして明らかに逸脱していた。
さらに、管理台帳にない発注データがいくつか見つかった。
「ここ、個人名ですよね……?しかも、会社名も登録住所もない」
「社外から業務メールが送られてるのに、ファイル共有ログが残ってない」
「しかも、この日付、休日のはずなのに……」
何かが、おかしい。俺たちは確信に近い疑念を抱き始めていた。決定的な手がかりを得たのは、それから数日後だった。長谷川がファイルのメタデータを精査していたときだった。
「秋山さん、これ……見てください」
彼が開いた発注書のバックアップには、編集履歴が残っていた。日付と操作履歴、そしてログインID。
そこには、木島が“正式な手続きの前”にファイルを複数回改変していた記録がはっきりと残っていた。しかも、社外の個人口座に振り込むよう誘導する文言が一時的に記載されていたことも分かった。
「完全に、やってますね……」
俺は深く息を吐いた。
やはりそうだった。木島は、会社の自由と信頼を逆手に取り、自己利益のために制度を利用していたのだ。
「でも、これだけじゃまだ“状況証拠”ですよね」
「確実にいくなら、外注先に直接確認を取る必要がある」
長谷川は一瞬躊躇ったようだったが、すぐに頷いた。
「やります。僕、直接連絡してみます」
それからの数日間、俺たちは業務の合間を縫って、木島と関係があると思われる外注先にコンタクトを取った。すべてが表立ったやりとりではなかった。だが、少しずつパズルのピースが埋まっていく感覚があった。
ある外注先からの返信メールに、こう書かれていた。
──“発注元の担当者に報酬の一部を“中間手数料”として渡すよう指示されました。契約書は交わしていません”──
それは、“自由な風土”を装った、私的な金銭授受の証拠だった。
「秋山さん……これは、出しましょう。もう、止められないですよ」
俺は静かに頷いた。誰にも言わず、ただパソコンの画面を見つめた。“自由と信頼”で回っていた会社に、静かに積もっていた歪み。それを見過ごさなかったという事実を、記録に残す時が来たのだ。
◆
「報告会、今週の金曜だってよ。木島の一人舞台になるな」
そんな声が、社内で聞こえるようになっていた。部長や執行役員まで顔を出すという話で、社内ポータルには“今期最大の成功事例の共有”という仰々しい見出しが踊っていた。
「このタイミングしかないな」
長谷川の声は落ち着いていたが、その目は研ぎ澄まされていた。俺たちは、手に入れた証拠群を整理し、報告会のプレゼンシステムに仕込む最後の作業に取りかかっていた。
木島が使う予定の発表スライドは、社内共有ドライブに保存されている。俺はそのデータの複製を作り、途中に“もうひとつの映像”を挿入した。
《木島が個人に対して無許可で外注依頼をした証拠》
《振込履歴と個人口座名義の一致》
《発注書の改竄履歴とログイン情報》
《外注先からの証言付きメールスクリーンショット》
その全てを、短く編集した動画にまとめた。再生時間はわずか2分30秒。だが、それを見れば誰もが理解できる。「木島が、社の信頼を金に換えていた」という事実を。
「……これを流す、覚悟はあるか?」
「あります。というより、もう腹は決まってます」
木島の“自由”は、もう一線を越えていた。この会社がまだ“まとも”であるために、俺たちは引き金を引くしかなかった。
金曜日。会議室には普段見かけない幹部の顔もあった。スーツを新調したらしい木島が、壇上で笑っていた。
「いやー、本当にありがたい限りです。現場の皆さんの協力があってこその成果ですよ」
「“やれる範囲”じゃなくて、“やれる方法”を考えた結果が、こうなったんです」
うまいことを言っているようで、その実何も言っていない。けれど、聞く人の多くが納得してしまう――それが木島の“話術”だった。
拍手が一度、二度、起きかけた。だが、そのタイミングで木島が言った。
「では最後に、本プロジェクトの外注対応のフローについて、映像でご紹介します」
リモコンが押され、スクリーンが切り替わった。
──しかし、映ったのは予定されていた映像ではなかった。
《2025年3月:外注先A氏との未登録契約メール》
《口座情報:◯◯銀行 ××支店 名義:キジマ トモヤ》
《業務ログ:個人宛に送信された進捗ファイル》
《発注書メタデータ:編集者名“KijimaT”、編集日時:深夜2:44》
静寂が、会議室全体を包んだ。
「え……?」
「これ……どういうこと?」
「社内ルート通さずに、個人に……金?」
誰かの息を呑む音がはっきり聞こえた。
「おい、止めろ、これ!」
木島がリモコンを連打するが、映像は止まらない。操作を無効化していたのだ。再生は自動で最後まで続く設計になっていた。
長谷川が席を立ち、プロジェクター側へと歩き出した。そのタイミングで、部長が重い椅子を引いて立ち上がった。法務部の担当者も、無言で後を追う。
全員が察していた。
──これは“事故”じゃない。
──意図的に仕込まれた“内部告発”だ。
「ちょ、ちょっと待ってください。これは……誤解です。僕は別に、明確に禁止されてたわけじゃ……!」
木島の声が震えていた。だが、誰も返事をしなかった。誰も笑わなかった。誰も庇わなかった。“禁止されていない”という魔法の呪文が、何の効力も持たない場所に、木島は一人で立ち尽くしていた。
その日のうちに、木島には自宅待機命令が下された。
その後、正式な調査チームが立ち上がり、プロジェクトの契約履歴と金の流れを一つひとつ洗い直す作業が始まった。
俺と長谷川の行動が公式に認められることは、きっとない。でもそれでいい。誰かが“踏み越えてはいけない一線”を示す必要があったのだ。
そしてその線は、ようやく引かれた。
木島の懲戒解雇が正式に発表されたのは、報告会からおよそ一ヶ月後のことだった。
社内メールで届いた通知には、端的な言葉が並んでいた。
「複数の業務委託において、私的な金銭の授受が確認されました」
「社の信用を毀損した重大な行為と認定し、懲戒解雇処分といたします」
内容自体は淡々としたものだったが、その意味するところは重い。“木島のようなやり方は、たとえ数字を出していても認められない”というメッセージが、社内に静かに、しかし確実に伝わった。
「いやぁ……まさか、あの木島が、ね」
「うまく立ち回ってると思ってたんだけどな」
「『ルールに書いてなきゃ挑戦だ』って言ってたっけ。完全に墓穴だったな」
誰も木島を擁護しなかった。むしろ、見えない圧のようなものが一つ消えたのか、社内の空気は軽くなっていた。
俺も長谷川も、特に評価されることはなかった。ただ、何も言われないことが“理解されている”証にも思えた。
数日後、社内ポータルに「行動指針見直しのお知らせ」という通知が掲載された。そこには、たった一行の文言が追加されていた。
「法令および社内ルールに明記のない事項であっても、公序良俗、道徳に反しないよう心掛けること」
それを読んだ瞬間、俺は思わず笑ってしまった。
明文化されていないことの裏をかこうとする者がいれば、会社はその都度、ルールを増やすしかなくなる。だが、それでは“自由な風土”なんて成り立たない。
この一行に込められたのは、創業者が最初に掲げた理想――「社員の良識を信じる」ということの再確認だった。
あの日、部長がぽつりと漏らした言葉を思い出す。
「ルールってのはな、最低限でいいんだよ。でも、その代わり、“信じてる”ってことを記録に残す必要がある。裏切ったら終わりなんだって、示すためにな」
木島は、その“信頼”を都合よく利用し、そして切り捨てた。彼の去った後、誰も「惜しい人材だった」なんて言わなかった。むしろ、ようやく空気が澄んだような、そんな雰囲気すらあった。
昼休み、コーヒー片手に長谷川と屋上で話した。
「ようやく“自由に”働けそうですね」
彼が苦笑まじりに言う。
「そうだな。今度は、“ちゃんとした自由”にな」
俺は頷いた。
“自由”ってのは、勝手にやることじゃない。
誰かの信頼を踏み台にすることでもない。
それは、自分の中の“倫理”という名のルールを、
他人に言われなくても守るということだ。
ようやく、この会社に“自由”が戻ってきた。
今度は、もう誰にも、それを奪わせはしない。
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