恋は、母をやめてから始まる――正体を隠したまま、仮の婚約者になりました

あい

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第四話 余っていた、昼食

机の上に、紙が一枚置かれている。

昨夜、帰ってから書き留めたものだ。

従業員数。
資金繰り。
取引先。

結婚相手として会ったはずなのに、どうして私は、会社の心配をしているんだろう。

自分で書いておきながら、少し可笑しくなる。

朝の支度をしていると、エリオットが外套を羽織りながら振り返った。

「出かけるの?」

「ええ。ちょっと人に会ってくる」

言葉を濁すと、彼は少しだけ考える。

「婚活?」

「……仕事の相談」

それ以上、エリオットは聞かなかった。

「姉ちゃんが選んだなら、いいと思う」

その一言に、私はわずかに視線を落とす。

選んだつもりは、ない。
ただ、動いてしまっただけだ。

ノクスの会社は、街でも名の知れた場所にあった。

立派な建物。
整えられた受付。
忙しなく行き交う人々。

「潰れそう」だと言われた印象とは、あまりにも違う。

廊下ですれ違う社員たちの声が、自然に耳に入る。

「社長、さすがだよな」
「あの人についていけば安心だ」

足が、少しだけ止まった。

……あれ?

応接室で向かい合ったノクスに、そのまま聞いてみる。

「皆さん、落ち着いていますね」

彼はすぐには答えず、ほんの一拍置いてから言った。

「表に出ていないだけです」

嘘ではない。
けれど、全部でもない。

それ以上、私は追及しなかった。

何か手伝えるかもしれない、と思って来た自分が、少しだけ恥ずかしくなる。

鞄の中に、昼用に用意していたサンドイッチがあることを思い出す。

朝、いつも通りに作ったものだ。
特別な理由はない。

ただ、そこにあった。

紙包みを取り出し、差し出す。

「……良かったら、これ」

ノクスはすぐには受け取らず、こちらを見る。

「俺に?」

「……余っているので」

それだけ言って、私は視線を外した。

応接室を出ると、背後で扉が静かに閉まる。

部屋に残されたノクスは、しばらくその場に立ち尽くしてから、紙包みを開いた。

中身は、簡素なサンドイッチだった。

豪華でもない。
見慣れた、昼の食事。

一口食べて、動きが止まる。

結婚する余裕がない、と言ったのは自分だ。

それでも。

彼女は、来た。

紙包みを包んでいたハンカチを、ゆっくりと畳み、机の端に置いた。

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