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第十一話 灯りを消す夜
朝の空気は冷たい。
店の前に止まった馬車の扉には、レーゲンシュタイン公爵家の紋章が刻まれている。
黒塗りの車体が、冬の光を鈍く返していた。
エリアスは脚立に乗り、看板の紐を外しかけている。
「……まだ出発前よ」
下から声をかけると、エリアスは肩越しに振り向いた。
「帰ってくるころには、少し見栄えよくなってます」
軽い口調。
でも目は真面目だ。
「ほどほどにね」
「任せてください」
口元だけで静かに笑う。
看板はもう半分外れていた。
⸻
馬車の横に立つ男が、一歩進み出る。
整えられた黒の外套。
立ち姿は落ち着いていて、きちんとしている。
「レーゲンシュタイン公爵家執事、ハインツと申します」
低く整った声。
静かだが、よく通る。
その名を聞いた瞬間、胸の奥がわずかに揺れる。
――前の人生で、ルートヴィッヒのすぐ後ろに立っていた人。
命じられたことを確実にこなし、
必要なことだけを告げ、
決して主より前に出ない。
静かに支える人。
けれど今は初対面。
「別荘までお送りいたします」
丁寧に頭を下げる。
オーレリアも会釈する。
「よろしくお願いいたします」
⸻
馬車はゆっくり進む。
街を離れ、白く乾いた冬景色へ。
車輪の音だけが続く。
向かいに座るハインツは姿勢を崩さない。
かつて、この道を通ったことがある。
あのときもハインツは同行していた。
宝石台帳を抱え、公爵夫人として資産の確認に向かった。
ルートヴィッヒは城に戻り、
広い別荘で私はひとり台帳を開いた。
暖炉の火だけが揺れていた。
⸻
日が落ちるころ、別荘に到着した。
石造りの建物は記憶のままだ。
扉が開き、使用人たちが並ぶ。
「ようこそお越しくださいました」
柔らかな声が重なる。
その奥から弾んだ小さな声が聞こえる。
「まあ……なんて可愛らしいお客様」
控えめな笑みが広がる。
今の私は公爵夫人ではない。
ただの客人だ。
「数日、お世話になります」
そう告げると、使用人たちは深く頭を下げた。
「滞在中のことは私が承ります」
ハインツが静かに添える。
「お寒いでしょう。暖炉はご用意ができております」
「紅茶とココアがございます」
「どちらになさいますか」
「紅茶をお願いします」
屋敷の中へ足を踏み入れる。
暖かな空気が包む。
石壁に灯りが揺れる。
あの時と変わらない。
⸻
暖炉の火がぱちりと弾ける。
別荘の夜は静かだ。
淹れてくれた紅茶の湯気がゆらぐ。
あの頃。
前の人生で。
仕立ての予約が入ると、店先で彼を待った。
自分が応対できるように。
通りに馬車の音がするたび、胸が落ち着かなかった。
淡い銀の髪が戸口に現れた瞬間、胸が弾んだ。
好きになったのは、私のほうからだ。
ほんの少し言葉を交わすだけで、一日が特別になった。
やがてプロポーズされた。
奇跡のように思えた。
選ばれたのだと信じていた。
けれど。
私はちょうどよかったのだろう。
家に波風を立てず、
名を汚さず、
政治に踏み込まない妻。
彼にとっては、それで十分だった。
結婚してからも私は待っていた。
夜が更けても灯りを消さなかった。
扉の音を聞きたくて、
「おかえりなさい」と言いたくて。
ほんの少しでいい、同じ時間を過ごしたかった。
本当は……
「今日、寒いですね」とか
「少しだけ話しませんか」とか。
そんな言葉を待っていたのかもしれない。
けれど彼は、
「先に休め」
そして最後に、
「おやすみ」
いつもそれだけだった。
私はあれを愛だと思おうとした。
誠実さを愛だと。
沈黙を信頼だと。
けれど返ってはこなかった。
返らないものを期待して、
ひとりで舞い上がり、
ひとりで冷えていった。
暖炉の火が揺れる。
あの三年は私が望んだ時間だけど、今回は選ばない。
暖炉の火を落とし、
私は静かに部屋を出た。
店の前に止まった馬車の扉には、レーゲンシュタイン公爵家の紋章が刻まれている。
黒塗りの車体が、冬の光を鈍く返していた。
エリアスは脚立に乗り、看板の紐を外しかけている。
「……まだ出発前よ」
下から声をかけると、エリアスは肩越しに振り向いた。
「帰ってくるころには、少し見栄えよくなってます」
軽い口調。
でも目は真面目だ。
「ほどほどにね」
「任せてください」
口元だけで静かに笑う。
看板はもう半分外れていた。
⸻
馬車の横に立つ男が、一歩進み出る。
整えられた黒の外套。
立ち姿は落ち着いていて、きちんとしている。
「レーゲンシュタイン公爵家執事、ハインツと申します」
低く整った声。
静かだが、よく通る。
その名を聞いた瞬間、胸の奥がわずかに揺れる。
――前の人生で、ルートヴィッヒのすぐ後ろに立っていた人。
命じられたことを確実にこなし、
必要なことだけを告げ、
決して主より前に出ない。
静かに支える人。
けれど今は初対面。
「別荘までお送りいたします」
丁寧に頭を下げる。
オーレリアも会釈する。
「よろしくお願いいたします」
⸻
馬車はゆっくり進む。
街を離れ、白く乾いた冬景色へ。
車輪の音だけが続く。
向かいに座るハインツは姿勢を崩さない。
かつて、この道を通ったことがある。
あのときもハインツは同行していた。
宝石台帳を抱え、公爵夫人として資産の確認に向かった。
ルートヴィッヒは城に戻り、
広い別荘で私はひとり台帳を開いた。
暖炉の火だけが揺れていた。
⸻
日が落ちるころ、別荘に到着した。
石造りの建物は記憶のままだ。
扉が開き、使用人たちが並ぶ。
「ようこそお越しくださいました」
柔らかな声が重なる。
その奥から弾んだ小さな声が聞こえる。
「まあ……なんて可愛らしいお客様」
控えめな笑みが広がる。
今の私は公爵夫人ではない。
ただの客人だ。
「数日、お世話になります」
そう告げると、使用人たちは深く頭を下げた。
「滞在中のことは私が承ります」
ハインツが静かに添える。
「お寒いでしょう。暖炉はご用意ができております」
「紅茶とココアがございます」
「どちらになさいますか」
「紅茶をお願いします」
屋敷の中へ足を踏み入れる。
暖かな空気が包む。
石壁に灯りが揺れる。
あの時と変わらない。
⸻
暖炉の火がぱちりと弾ける。
別荘の夜は静かだ。
淹れてくれた紅茶の湯気がゆらぐ。
あの頃。
前の人生で。
仕立ての予約が入ると、店先で彼を待った。
自分が応対できるように。
通りに馬車の音がするたび、胸が落ち着かなかった。
淡い銀の髪が戸口に現れた瞬間、胸が弾んだ。
好きになったのは、私のほうからだ。
ほんの少し言葉を交わすだけで、一日が特別になった。
やがてプロポーズされた。
奇跡のように思えた。
選ばれたのだと信じていた。
けれど。
私はちょうどよかったのだろう。
家に波風を立てず、
名を汚さず、
政治に踏み込まない妻。
彼にとっては、それで十分だった。
結婚してからも私は待っていた。
夜が更けても灯りを消さなかった。
扉の音を聞きたくて、
「おかえりなさい」と言いたくて。
ほんの少しでいい、同じ時間を過ごしたかった。
本当は……
「今日、寒いですね」とか
「少しだけ話しませんか」とか。
そんな言葉を待っていたのかもしれない。
けれど彼は、
「先に休め」
そして最後に、
「おやすみ」
いつもそれだけだった。
私はあれを愛だと思おうとした。
誠実さを愛だと。
沈黙を信頼だと。
けれど返ってはこなかった。
返らないものを期待して、
ひとりで舞い上がり、
ひとりで冷えていった。
暖炉の火が揺れる。
あの三年は私が望んだ時間だけど、今回は選ばない。
暖炉の火を落とし、
私は静かに部屋を出た。
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