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名前を呼ばれた夜明け前
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夜が、音を立ててほどけた。
午前四時十三分。
駅前の古い時計は、相変わらず一秒だけ遅れて時を刻んでいる。何年も前からそうだった。直されることもなく、誰に文句を言われることもなく、ただ間違った時間を示し続けている。その不正確さが、この街にはよく似合っていた。
私はその時計の真下に立っていた。
コートのポケットの中で、携帯電話が震える。
こんな時間に鳴るはずがない。
仕事の連絡も、友人からの呼び出しも、もう何年も前に途絶えている。
嫌な予感が、背骨を伝って上ってきた。
画面を見た瞬間、呼吸が止まる。
――凪
表示されていたのは、三年前に死んだはずの妹の名前だった。
通知は一件だけ。
短いメッセージが、白い画面の中央に浮かんでいる。
迎えに来て。
それだけだった。
理由も、場所も、説明もない。
けれど私は、その文面を見ただけで理解してしまった。
凪は、そういう人間だった。
助けを求めるときほど、余計なことを言わない。
自分がどんな状況にいるのかを説明するより、相手が来るかどうかだけを試すような、残酷な優しさを持っていた。
「……馬鹿だろ」
誰に向けた言葉かもわからないまま、私は呟いた。
当然、返信はできない。
死んだ人間からのメッセージに、どう返せばいいのか、そもそも返していいのかもわからない。
周囲を見回す。
駅前は静まり返っている。コンビニの明かりだけが、夜と朝の境界を曖昧に照らしていた。通り過ぎる車もない。世界に取り残されたような感覚。
それでも私は、歩き出していた。
理由は単純だ。
もしこれが悪質な冗談だったとしても、もし頭がおかしくなっているだけだったとしても――行かずに後悔するより、行って後悔するほうがまだましだった。
改札を抜ける。
切符は持っていない。ICカードも、改札に触れていない。
それなのに、警告音は鳴らなかった。
まるで駅そのものが、私を通すことを決めていたかのように。
ホームに降りると、一本の電車が停まっていた。
古い車両だ。色あせた銀色のボディ。窓ガラスには、細かな傷が無数についている。
行き先表示は点いていない。
私は一瞬だけ躊躇い、それから乗り込んだ。
車内には誰もいなかった。
座席に座ると、布地がひどく冷たい。まるで長い間、誰にも使われていなかったようだ。
ドアが閉まり、発車ベルが鳴る。
電車は、音もなく動き出した。
窓の外を流れていくのは、見慣れたはずの街並み――のはずだった。
次第に、違和感が募る。
ビルの配置がおかしい。
交差点が、記憶より一つ多い。
あるはずの看板がなく、ないはずの道が伸びている。
そして、車内の電光掲示板が光った。
次は――帰途。
「……帰途?」
聞いたことのない駅名だった。
その瞬間、胸の奥がざわつく。
嫌な予感ではない。懐かしさに似た、もっと厄介な感覚。
電車が減速し、やがて止まる。
ドアが開いた。
ホームに立っていたのは、一人の少女だった。
凪だった。
濡れたように見える黒髪。
少しだけ癖のある前髪。
困ったときに浮かべる、あの微妙な笑い方。
間違えようがない。
三年前、私の前から消えた妹そのものだった。
「お兄ちゃん」
声を聞いた瞬間、世界が遠のく。
「遅かったね」
凪は、そう言って微笑んだ。
私は、言葉を失ったままホームに降りた。
足元を見ると、影がない。
私にも、凪にも。
「……迎えに来てって、どういう意味だ」
ようやく絞り出した声は、自分でも驚くほど震えていた。
凪は少しだけ視線を伏せ、それから顔を上げる。
「私はね、まだ帰れてないの」
「帰れて……ない?」
「うん。死んだはずなのに、終わってない」
凪は淡々と語った。
あの夜、橋から落ちたのは事故ではなかったこと。
誰かから、確かに逃げていたこと。
そして――助けを呼ぶ相手を、間違えたこと。
「お兄ちゃんは、知ってたでしょ」
胸を、何かで殴られたような感覚。
「私が追い詰められてたこと。なのに、見ないふりした」
それは否定できなかった。
忙しさを理由に、面倒を避けた。
大丈夫だろうと、勝手に決めつけた。
「だからね」
凪は一歩、こちらに近づいた。
「迎えに来てほしかったの。今度こそ」
遠くで、始発電車の音が聞こえる。
空が、わずかに白み始めていた。
凪の輪郭が、少しずつ薄れていく。
「次は――ちゃんと話そう」
そう言い残して、凪の姿は朝靄に溶けた。
次の瞬間、私は駅前の時計の下に立っていた。
午前四時十四分。
携帯電話には、何の履歴も残っていない。
それでも私は確信していた。
――あの夜は、終わっていない。
そして、私はもう、戻れない場所に足を踏み入れてしまったのだと。
夜明けの空は、まだ冷たく、どこまでも静かだった。
午前四時十三分。
駅前の古い時計は、相変わらず一秒だけ遅れて時を刻んでいる。何年も前からそうだった。直されることもなく、誰に文句を言われることもなく、ただ間違った時間を示し続けている。その不正確さが、この街にはよく似合っていた。
私はその時計の真下に立っていた。
コートのポケットの中で、携帯電話が震える。
こんな時間に鳴るはずがない。
仕事の連絡も、友人からの呼び出しも、もう何年も前に途絶えている。
嫌な予感が、背骨を伝って上ってきた。
画面を見た瞬間、呼吸が止まる。
――凪
表示されていたのは、三年前に死んだはずの妹の名前だった。
通知は一件だけ。
短いメッセージが、白い画面の中央に浮かんでいる。
迎えに来て。
それだけだった。
理由も、場所も、説明もない。
けれど私は、その文面を見ただけで理解してしまった。
凪は、そういう人間だった。
助けを求めるときほど、余計なことを言わない。
自分がどんな状況にいるのかを説明するより、相手が来るかどうかだけを試すような、残酷な優しさを持っていた。
「……馬鹿だろ」
誰に向けた言葉かもわからないまま、私は呟いた。
当然、返信はできない。
死んだ人間からのメッセージに、どう返せばいいのか、そもそも返していいのかもわからない。
周囲を見回す。
駅前は静まり返っている。コンビニの明かりだけが、夜と朝の境界を曖昧に照らしていた。通り過ぎる車もない。世界に取り残されたような感覚。
それでも私は、歩き出していた。
理由は単純だ。
もしこれが悪質な冗談だったとしても、もし頭がおかしくなっているだけだったとしても――行かずに後悔するより、行って後悔するほうがまだましだった。
改札を抜ける。
切符は持っていない。ICカードも、改札に触れていない。
それなのに、警告音は鳴らなかった。
まるで駅そのものが、私を通すことを決めていたかのように。
ホームに降りると、一本の電車が停まっていた。
古い車両だ。色あせた銀色のボディ。窓ガラスには、細かな傷が無数についている。
行き先表示は点いていない。
私は一瞬だけ躊躇い、それから乗り込んだ。
車内には誰もいなかった。
座席に座ると、布地がひどく冷たい。まるで長い間、誰にも使われていなかったようだ。
ドアが閉まり、発車ベルが鳴る。
電車は、音もなく動き出した。
窓の外を流れていくのは、見慣れたはずの街並み――のはずだった。
次第に、違和感が募る。
ビルの配置がおかしい。
交差点が、記憶より一つ多い。
あるはずの看板がなく、ないはずの道が伸びている。
そして、車内の電光掲示板が光った。
次は――帰途。
「……帰途?」
聞いたことのない駅名だった。
その瞬間、胸の奥がざわつく。
嫌な予感ではない。懐かしさに似た、もっと厄介な感覚。
電車が減速し、やがて止まる。
ドアが開いた。
ホームに立っていたのは、一人の少女だった。
凪だった。
濡れたように見える黒髪。
少しだけ癖のある前髪。
困ったときに浮かべる、あの微妙な笑い方。
間違えようがない。
三年前、私の前から消えた妹そのものだった。
「お兄ちゃん」
声を聞いた瞬間、世界が遠のく。
「遅かったね」
凪は、そう言って微笑んだ。
私は、言葉を失ったままホームに降りた。
足元を見ると、影がない。
私にも、凪にも。
「……迎えに来てって、どういう意味だ」
ようやく絞り出した声は、自分でも驚くほど震えていた。
凪は少しだけ視線を伏せ、それから顔を上げる。
「私はね、まだ帰れてないの」
「帰れて……ない?」
「うん。死んだはずなのに、終わってない」
凪は淡々と語った。
あの夜、橋から落ちたのは事故ではなかったこと。
誰かから、確かに逃げていたこと。
そして――助けを呼ぶ相手を、間違えたこと。
「お兄ちゃんは、知ってたでしょ」
胸を、何かで殴られたような感覚。
「私が追い詰められてたこと。なのに、見ないふりした」
それは否定できなかった。
忙しさを理由に、面倒を避けた。
大丈夫だろうと、勝手に決めつけた。
「だからね」
凪は一歩、こちらに近づいた。
「迎えに来てほしかったの。今度こそ」
遠くで、始発電車の音が聞こえる。
空が、わずかに白み始めていた。
凪の輪郭が、少しずつ薄れていく。
「次は――ちゃんと話そう」
そう言い残して、凪の姿は朝靄に溶けた。
次の瞬間、私は駅前の時計の下に立っていた。
午前四時十四分。
携帯電話には、何の履歴も残っていない。
それでも私は確信していた。
――あの夜は、終わっていない。
そして、私はもう、戻れない場所に足を踏み入れてしまったのだと。
夜明けの空は、まだ冷たく、どこまでも静かだった。
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