夜が名前を呼ぶまで

しるふ

文字の大きさ
1 / 5

名前を呼ばれた夜明け前

しおりを挟む
夜が、音を立ててほどけた。

午前四時十三分。
駅前の古い時計は、相変わらず一秒だけ遅れて時を刻んでいる。何年も前からそうだった。直されることもなく、誰に文句を言われることもなく、ただ間違った時間を示し続けている。その不正確さが、この街にはよく似合っていた。

私はその時計の真下に立っていた。
コートのポケットの中で、携帯電話が震える。

こんな時間に鳴るはずがない。
仕事の連絡も、友人からの呼び出しも、もう何年も前に途絶えている。

嫌な予感が、背骨を伝って上ってきた。

画面を見た瞬間、呼吸が止まる。

――凪

表示されていたのは、三年前に死んだはずの妹の名前だった。

通知は一件だけ。
短いメッセージが、白い画面の中央に浮かんでいる。

迎えに来て。

それだけだった。
理由も、場所も、説明もない。
けれど私は、その文面を見ただけで理解してしまった。

凪は、そういう人間だった。

助けを求めるときほど、余計なことを言わない。
自分がどんな状況にいるのかを説明するより、相手が来るかどうかだけを試すような、残酷な優しさを持っていた。

「……馬鹿だろ」

誰に向けた言葉かもわからないまま、私は呟いた。

当然、返信はできない。
死んだ人間からのメッセージに、どう返せばいいのか、そもそも返していいのかもわからない。

周囲を見回す。
駅前は静まり返っている。コンビニの明かりだけが、夜と朝の境界を曖昧に照らしていた。通り過ぎる車もない。世界に取り残されたような感覚。

それでも私は、歩き出していた。

理由は単純だ。
もしこれが悪質な冗談だったとしても、もし頭がおかしくなっているだけだったとしても――行かずに後悔するより、行って後悔するほうがまだましだった。

改札を抜ける。
切符は持っていない。ICカードも、改札に触れていない。

それなのに、警告音は鳴らなかった。

まるで駅そのものが、私を通すことを決めていたかのように。

ホームに降りると、一本の電車が停まっていた。
古い車両だ。色あせた銀色のボディ。窓ガラスには、細かな傷が無数についている。

行き先表示は点いていない。

私は一瞬だけ躊躇い、それから乗り込んだ。

車内には誰もいなかった。
座席に座ると、布地がひどく冷たい。まるで長い間、誰にも使われていなかったようだ。

ドアが閉まり、発車ベルが鳴る。
電車は、音もなく動き出した。

窓の外を流れていくのは、見慣れたはずの街並み――のはずだった。

次第に、違和感が募る。

ビルの配置がおかしい。
交差点が、記憶より一つ多い。
あるはずの看板がなく、ないはずの道が伸びている。

そして、車内の電光掲示板が光った。

次は――帰途。

「……帰途?」

聞いたことのない駅名だった。

その瞬間、胸の奥がざわつく。
嫌な予感ではない。懐かしさに似た、もっと厄介な感覚。

電車が減速し、やがて止まる。
ドアが開いた。

ホームに立っていたのは、一人の少女だった。

凪だった。

濡れたように見える黒髪。
少しだけ癖のある前髪。
困ったときに浮かべる、あの微妙な笑い方。

間違えようがない。
三年前、私の前から消えた妹そのものだった。

「お兄ちゃん」

声を聞いた瞬間、世界が遠のく。

「遅かったね」

凪は、そう言って微笑んだ。

私は、言葉を失ったままホームに降りた。
足元を見ると、影がない。
私にも、凪にも。

「……迎えに来てって、どういう意味だ」

ようやく絞り出した声は、自分でも驚くほど震えていた。

凪は少しだけ視線を伏せ、それから顔を上げる。

「私はね、まだ帰れてないの」

「帰れて……ない?」

「うん。死んだはずなのに、終わってない」

凪は淡々と語った。
あの夜、橋から落ちたのは事故ではなかったこと。
誰かから、確かに逃げていたこと。
そして――助けを呼ぶ相手を、間違えたこと。

「お兄ちゃんは、知ってたでしょ」

胸を、何かで殴られたような感覚。

「私が追い詰められてたこと。なのに、見ないふりした」

それは否定できなかった。

忙しさを理由に、面倒を避けた。
大丈夫だろうと、勝手に決めつけた。

「だからね」

凪は一歩、こちらに近づいた。

「迎えに来てほしかったの。今度こそ」

遠くで、始発電車の音が聞こえる。
空が、わずかに白み始めていた。

凪の輪郭が、少しずつ薄れていく。

「次は――ちゃんと話そう」

そう言い残して、凪の姿は朝靄に溶けた。

次の瞬間、私は駅前の時計の下に立っていた。

午前四時十四分。

携帯電話には、何の履歴も残っていない。

それでも私は確信していた。

――あの夜は、終わっていない。
そして、私はもう、戻れない場所に足を踏み入れてしまったのだと。

夜明けの空は、まだ冷たく、どこまでも静かだった。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

妻の遺品を整理していたら

家紋武範
恋愛
妻の遺品整理。 片づけていくとそこには彼女の名前が記入済みの離婚届があった。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

敗戦国の姫は、敵国将軍に掠奪される

clayclay
恋愛
架空の国アルバ国は、ブリタニア国に侵略され、国は壊滅状態となる。 状況を打破するため、アルバ国王は娘のソフィアに、ブリタニア国使者への「接待」を命じたが……。

壊れていく音を聞きながら

夢窓(ゆめまど)
恋愛
結婚してまだ一か月。 妻の留守中、夫婦の家に突然やってきた母と姉と姪 何気ない日常のひと幕が、 思いもよらない“ひび”を生んでいく。 母と嫁、そしてその狭間で揺れる息子。 誰も気づきがないまま、 家族のかたちが静かに崩れていく――。 壊れていく音を聞きながら、 それでも誰かを思うことはできるのか。

私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。

MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。

春に狂(くる)う

転生新語
恋愛
 先輩と後輩、というだけの関係。後輩の少女の体を、私はホテルで時間を掛けて味わう。  小説家になろう、カクヨムに投稿しています。  小説家になろう→https://ncode.syosetu.com/n5251id/  カクヨム→https://kakuyomu.jp/works/16817330654752443761

あるフィギュアスケーターの性事情

蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。 しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。 何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。 この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。 そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。 この物語はフィクションです。 実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。

上司、快楽に沈むまで

赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。 冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。 だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。 入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。 真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。 ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、 篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」 疲労で僅かに緩んだ榊の表情。 その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。 「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」 指先が榊のネクタイを掴む。 引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。 拒むことも、許すこともできないまま、 彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。 言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。 だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。 そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。 「俺、前から思ってたんです。  あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」 支配する側だったはずの男が、 支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。 上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。 秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。 快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。 ――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。

処理中です...