ドS大佐はVチューバー

心雪くん

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Season2

ドS大佐はVチューバー⑮

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​つい先ほどまで世界を白く焼いていた猛烈な日差しが、まるで嘘のように掻き消えた。


空の彼方から這い寄ってきた鉛色の厚い雲が、みるみるうちに天を覆い尽くしていく。
一瞬、呼吸が止まるような静寂が訪れたかと思うと、夏の雨が堰を切ったように降り出した。

​窓を打つ雨音は次第に激しさを増し、叩きつけるような土砂降りが、外の景色を灰色に塗り潰していく。





「……兄さん、藤堂さんから連絡来た?」

​薄暗くなったリビングで、真琴はスマホを握りしめたまま、キッチンにいた薫に問いかけた。
いつもなら窓から暖かな光が差し込むはずの部屋は、今はじっとりと湿気を含んだ重苦しい空気で満たされている。

「なんで?」
「……すぐ戻るって言って、全然帰って来ないから」
「雨降って来たから、どっかで雨宿りでもしてんじゃねえの?あいつもガキじゃねぇんだし、そのう
 ち帰ってくるだろ」
​薫の放った冷めた正論は、真琴の胸の奥で渦巻く不安と切なさに呼応するように、じわじわと彼女の心にまとわりついた。

「……そんなの、分かってるよ。そのうち帰ってくるのは分かってるっ!!」

​真琴の中で、張り詰めていた糸がぷつりと切れた。

​「そりゃ、帰ってくるだろうけど……っ!私は、私は今すぐ会いたいんだよっっ!!」

自分でも驚くほど大きな声が部屋に響く。

真琴は玄関へと駆け出すと、傘立てから自分の傘を乱暴に引き抜いた。
今の彼女を突き動かしているのは、論理的な思考ではなく、「彼が消えてしまうのではないか」という根源的な恐怖に近い衝動だった。

「お前、何キレてんだよ!?電話してみりゃ済む話じゃねぇの!なぁ?真琴?おーいっ!」
​背後から飛んでくる薫の困惑した声は、真琴が勢いよく開け放ち、そして叩きつけるように閉めたドアの音にかき消された。

​薫の言うことは、あまりにも正しかった。

現代にはスマートフォンという、通話機能だけでなくインターネットやアプリも自由に操れる賢いデバイスが存在している。
連絡を取る手段など、指先一つでいくらでも選べたはずだ。

けれど、今の真琴の頭からその選択肢は完全に抜け落ちていた。

アスファルトを叩く激しい雨音と、自分の耳元で鳴り止まない早鐘のような鼓動。
漠然と押し寄せてくる不吉な胸騒ぎが、彼女から冷静さを奪い去り、ただただ、雨の向こう側にいるはずの彼を求めて、彼女の足を前へと進ませていた。




​勢いを増す夏の雨は、一粒一粒がアスファルトを激しく叩きつけ、ひんやりとしたコンクリートの歩道に深い水たまりを広げていた。
真琴は、風に煽られる傘を必死に支えながら、律が向かったはずのコンビニへと急ぐ。
けれど、雨粒に濡れた自動ドアのガラス越しに中を覗き込んでも、店内に律の姿はなかった。

「いない……。なんで?雨宿りできるとこ、他にあるっけ……」

真琴は律がいそうな場所を必死に手繰り寄せようとする。
けれど、早鐘のように鳴り響く鼓動が思考を乱し、答えの出ない問いだけが頭の中を堂々巡りしていた。その間も雨は容赦なく打ち付け、薄いビニール傘を叩く轟音は、真琴の胸の焦燥感をどこまでも煽り立てる。

(どこにいるの……)

あてもなく、ただひたすらに彼の影を求めて走り出したその時、上着のポケットの中でスマホが震えた。画面に浮かんだのは『藤堂桃果』の名前。
「桃果さん?ごめんなさい、今ちょっと……」
『真琴ちゃん、今日はごめんね?大事な誕生日デートの邪魔しちゃって』
電話越しの桃果の声は、いつもの明るさが影を潜めていた。
「全然、大丈夫ですよ。あの、本当にごめんっ……今、ちょっと急いでて」

『もしかして今、律さがしてる?』

​その言葉に、真琴は思わず息を呑み、足を止めた。
「え……なんで」
『律、子供の頃からそうなの。家族四人で何かするってなると、すぐいなくなっちゃう。パパやママ
 とも、普段は全然普通に喋るのに…「家族四人」ってなった途端、突然いなくなる』
「……どういうこと?」
​雨の音に消されそうな小さな声で問い返す。

『律、多分気づいてない』

電話口の桃果の声が、微かに、けれどはっきりと震えた。

『自分が家族を避けてること、気づいてないの。小さい頃、ママから言われた言葉に、本当はめちゃ
 くちゃ傷ついてることも!全っ然……っ!気づいてないんだって!!』

​桃果の声は、極限まで張り詰めた糸のように今にも切れそうで、その震えの奥には堪えきれない嗚咽が混じっている。

真琴は、降りしきる雨の中に独り取り残されたような錯覚に陥った。
目の前の景色が歪み、律がずっと独りで立ち尽くしていた真っ暗な部屋が、不意に視えた気がした。

『真琴ちゃん……お願い。私たちじゃ、ダメなんだよ。どんなに律に寄り添っても、どんなに言葉を
 重ねても……私たちの声は、律の心には届かなかった』

その瞬間、真琴を支配していた漠然とした胸騒ぎが、明確な輪郭を持って具現化した。
自分でも気づかないうちに「愛されること」を諦め、無意識に心を閉ざして消えてしまう律。

『真琴ちゃん、お願いだよ。律の傍にいてあげて…律を、独りにしないで……』

​桃果の切実な祈りのような願いが、冷たい雨に打たれ続けていた真琴の心に、熱い痛みとなって突き刺さった。




​桃果との電話が切れたあとも、真琴は動くことができなかった。

叩きつけるような雨の勢いは衰えず、差していた傘はいつの間にか力なく下ろされている。
肩を、背中を、容赦なく雨粒が打ち据え、夏だというのに真琴の体温を奪い去っていく。
ずぶ濡れになりながら立ち尽くす彼女の脳裏では、解決の糸口すら見えない難問が、濁流のように渦を巻いていた。

(自分の感情に気づかないってどういうこと?)

​自分を律し、常にクールに振る舞う彼。
けれど、その内側にあるはずの「痛み」のセンサーが壊れているのだとしたら。

(普通、自分に向けられる悪意とか、傷つけられてる感覚とか、分かるよね?分からないと、回避す
 ることも自衛することもできないじゃん。じゃあ今まで、藤堂さんは他人から向けられる悪意をど
 うやって防いできたの?)

​「感情」という盾を持たずに、彼はどうやってこの冷たい世界を歩いてきたのか。
真琴は弾かれたように顔を上げ、一点を見つめた。

雨に濡れた睫毛を震わせ、導き出された一つの答えに、戦慄が走る。

「そっか……。防いでないんだ」

喉の奥で呟いた言葉は、激しい雨音にかき消され、虚しく空気中に消えていった。

(仮に他人から悪意を向けられても、自分が傷ついていることに気づいていない。だから、藤堂さん
 は周りの評価を気にしないし、あんなに自由奔放に振る舞えるんだ。……もしそれで孤立しても、
 それは当たり前で、仕方のないことだと思ってる…)

それは、自分を愛し、守ろうとする人間が持つ「当たり前の本能」の欠落だった。

(それって、まるで自分には『愛される価値がない』んだって、自分自身に言い聞かせているみた
 い……。でも、そう思う悲しみや苦しさ、感覚さえも、藤堂さんは無意識の領域に閉じ込めちゃっ
 たんだね……)

彼が時折見せる、あの透き通るような孤独の正体。
それは「傷ついていること」さえ許されないまま、心の一番奥底に閉じ込められた、幼い日の彼の泣き声だった。

真琴の目から、雨とは違う熱い雫がこぼれ落ちる。
「気づいてない」のではなく、「気づかないふり」を何年も、何十年も続けてきた結果、彼は自分の心の鍵をどこへやったかさえ忘れてしまったのだ。

​「……見つけなきゃ」

​真琴は濡れて重くなった足を踏み出した。

彼が自分の傷に気づき、声を上げて泣ける場所。
それを今日、この雨の中で、自分が彼に手渡さなければならないのだと、真琴は強く、強く決意した。




​律はコンビニから少し離れた、東屋のある小さな公園で雨宿りをしていた。

吹き込んでくる雨を避けるように東屋の柱に身を寄せ、濡れた上着を手に取ると、苛立ちをぶつけるようにバサバサと振って水気を飛ばす。

「ほんっと最悪っ!なんなのマジで。ゲリラくそダルいっ」

​律はスウェットの尻ポケットからスマホを取り出すと、真琴に電話をかけた。
​彼にとっては、これは単なる「雨による足止めの報告」でしかなかった。

​激しすぎる雨のせいで、古びた東屋の屋根はもはや気休め程度の役目しか果たしていない。足元のコンクリートは完全に冠水し、跳ね返る雨粒が律の足首を濡らしていく。誰も座っていない木製のベンチは、湿気と寂しさを吸い込んだように重たげに沈んでいた。

​そんな中、雨粒で白く霞む景色の向こう側に、律は信じられない影を見つけた。

「え……真琴さん!?」

​雨音にかき消されそうな足音を立てて、ずぶ濡れになった真琴がこちらへ駆け寄ってくる。
傘もささず、全身から滴り落ちる水が彼女の輪郭を滲ませていた。

「何やってんの!?雨が止んだら帰るって言ったじゃん!なんで来んの……っ」

「藤堂さんの馬鹿っ!!」

​歩み寄った真琴は、律の言葉を遮るようにその胸を強く突き飛ばした。
不意を突かれた律の体がつんのめる。
そのはずみで、彼女が手にしていた傘が地面に落ち、ガラガラと乾いた音を立てて水浸しのアスファルトを滑っていった。

「はぁ!?」
「すぐ戻るって言った!」

​真琴は叫びながら、律の胸に何度も拳を打ちつけた。
怒りに任せたその一撃一撃には、彼女が先ほどたどり着いた「絶望的な仮説」への憤りが込められていた。

「や、だって、雨宿りしてたから……」
「すぐ戻るって言った!!」

​言い訳を許さない真琴の叫び。
律は打ちつけられる拳を止めようと、強引に真琴の両手首を掴み、その動きを封じた。

「だからさ、聞いてって……!」

「すぐ戻るって言った!!……言ったじゃんっ!!」

​至近距離で睨み合う。
律の手の中で、掴んだ手首が小刻みに、けれど激しく震えていた。
真琴の瞳は怒りと、それ以上の深い悲しみで潤み、今にも溢れ出しそうだった。

​真琴はそのまま力なく俯くと、激しい雨音に溶けてしまいそうなほど、細く切実な声で呟く。

「……私がいるのに。独りにならないで」

​律は息を呑んだ。
震える肩を、折れてしまいそうな彼女の心を繋ぎ止めるように、律はそっと彼女を抱き寄せた。
壊れ物を扱うような手つきで背中をゆっくりとさすり、困惑したまま、優しく耳元で囁く。

「……どうしたの真琴さん。なんで泣いてんの? ……わけわかんねぇよ」

​律の声は、真琴の悲しみの正体を見つけられない自分への無力感で、微かに震えていた。
彼はまだ知らない。
自分の「当たり前」の行動が、どれほどまでに彼女を不安にさせ、彼女がどれほどの覚悟でその「無意識の殻」を打ち破ろうとしているのかを。




​土砂降りの雨は容赦なく体温を奪い、真琴は頭の先から足先まで、絞れるほどにびしょ濡れになっていた。束になった前髪からは絶え間なく水滴が滴り落ち、真琴の視界を滲ませる。

​「……くしゅっ」

​小さくくしゃみをして、真琴の肩がぶるっと大きく震えた。鼻をすするその音は、夏の熱気の中でも彼女が限界まで冷え切っていることを告げていた。
それを見た律の瞳に、明らかな焦燥が浮かぶ。
「やばっ、すぐ帰ろ。マジで風邪引く」
​律は、雨を避けるように真琴を自分の体で庇いながら、彼女を促そうとした。だが、一歩踏み出そうとする律の指を、真琴の冷え切った手がぎゅっと力強く握りしめる。

「……藤堂さんちがいい」

​雨音の隙間を縫うような、けれど、何よりも重い呟きだった。

「や、でもここからじゃ真琴さんちのほうが近いし。早く温まらないとでしょ」

​律は真琴の手を優しく引き、彼女のマンションの方向へと促した。一刻も早く彼女を温かいシャワーに入れ、乾いたタオルで包んでやりたい。そんな合理的な、彼なりの献身。

けれど、真琴はその場に根を張ったように動こうとしなかった。

彼女の潤んだ瞳が、真っ直ぐに律を射抜く。
その眼差しには、「ただ帰りたい」のではない、「あなたの核心に触れたい」という逃げ場のない決意が宿っていた。

​律は、彼女の固い決意と、繋いだ手から伝わる震えを同時に感じ取り、諦めたように視線を落とした。
雨に濡れた前髪から滴る水が、彼自身の熱を奪っていく。

​「………わかった」

​小さく吐き出した溜め息は、甘んじて彼女の「無茶」を受け入れた証だった。
律は握られた彼女の指を、今度は自分の大きな手のひらで包み込み、自分のマンションへと続く道を選び直した。





「真琴さん、ちょっとだけ待てる!?今すぐ風呂沸かすから、そこらへん適当に座ってて!」

​律は玄関を開けるなり、せわしなくバタバタと足音を立てて浴室へと駆けていった。
一人残された真琴は、リビングの入り口で立ち尽くし、玄関の床に視線を落とした。
そこには、激しい雨と泥にまみれた律の靴が、無造作に転がっている。

​(……こんなの、全部いつもの私の妄想だって、そう思いたいのに)

​今日、桃果から聞いた言葉。
美知の天真爛漫な笑顔。
そして、目の前で必死に自分を気遣う律の背中。

バラバラに散りばめられていたこれまでの思い出を、一つずつ「欠落」という点で結んでいくと、切ないくらいに残酷な辻褄が合ってしまう。

彼は、傷つかないために、自分を愛することをやめたのだ。

​考えを巡らせていると、視界が真っ白な布に覆われた。
頭の上に、ふわっと柔らかい感触が降ってくる。

「濡れ方、ヤバいでしょ」

​律がいつの間にか戻ってきて、真琴の頭から被せたタオル越しに、濡れた髪をくしゃくしゃと大きな手で拭き始めた。
タオル越しに伝わる彼の体温が、凍えきった真琴の意識を現実へと引き戻す。

「一回、着替えよっか。俺の服で悪いけど、このまま凍りつくよりマシでしょ?」
​律は、困ったように少しだけ、悪戯っぽく笑った。

その屈託のない優しさに触れた瞬間、真琴の胸の奥で、張り詰めていた感情が決壊する。

真琴は凍えた指先を伸ばし、律の濡れたTシャツの裾を、白くなるほどきつく掴んだ。
薄い生地越しに、彼の腹筋の硬さや熱が、微かな震えを伴って指先に伝わってくる。
​真琴は顔を上げないまま、唇を震わせて、か細く呟いた。

「……藤堂さんが、温めて」

​静まり返った部屋の中で、その言葉は雨音の余韻を切り裂き、まっすぐに律の鼓動へと届いた。
タオルを動かしていた律の手が、ピタリと止まる。

​数秒の沈黙の後、律の喉がかすかに鳴った。

「……それ、意味分かって言ってんの?」

​律の声から、先ほどまでの「優しさ」が消え、ひりつくような熱を帯びた「男」の響きが混じる。
真琴は掴んでいた裾を離さないまま、ゆっくりと顔を上げた。

まつ毛に溜まった雫を振り落とし、その潤んだ瞳で、律だけを、逃げ場を塞ぐほど真っすぐに射抜いた。





​律は、壊れ物を扱うような手つきで真琴をベッドに横たえると、自らも覆いかぶさるようにして、雨で冷たくなった彼女の頬に柔らかなキスを落とした。

言葉にならない愛おしさを確かめるように、首筋へ、そして額へと、熱い唇を幾度も這わせていく。

次第に二人の呼吸は熱を帯び、いよいよその朱く綺麗な形の唇に触れようとした、その時だった。
​律は、自分の胸に添えられていた真琴の指先が、小刻みに震えていることに気づいた。

「……やめた」

​律は、触れる寸前で動きを止めた。

「えっ…なんで?」

真琴が戸惑いの声を漏らす。
律は重なる体を離してゆっくりと上体を起こすと、少しきまり悪そうに左手で後頭部を掻いた。

「普通によくないでしょ。こんな……勢いでとか。ちゃんとお互いに、もっと…余裕を持って、承認
 してからじゃないと」

「承認してるっ!私は、藤堂さんと……っ」

​必死に食い下がる真琴。けれど律は、たしなめるような、それでいてどこまでも優しい眼差しで彼女を見つめた。
「バッカ、気づいてねぇの?震えてるでしょ、ここ」
​律が視線を向けた先で、真琴の手は依然として止まらない。
​「これはっ……雨で冷えたせいだよ!」
「だとしても、今日はもう無理。……俺が、嫌なの」
​断定的な律の言葉に、部屋には一瞬で静寂が広がった。

窓の外で降り続いていた激しい雨は、いつの間にか遠くで微かに囁くような音へと変わっている。

​真琴は拒まれたショックを隠しきれないまま、逃げるように俯くと、冷たく肌に張り付いたままの濡れた服ごと、自らの両腕をきつく抱きしめた。
その仕草は、自分を拒んだ律への抗議というより、自分の不甲斐なさに必死にえているようにも見えた。

​その強ばった肩を、律は横目で見つめる。

彼女が無理をしてまで「特別」をくれようとしていること。その気持ちが痛いほど伝わってきたからこそ、彼は引き下がらなければならなかった。

​律は真琴の頬に、そっと指先で触れた。
彼女を怖がらせないよう、細心の注意を払った指先。

​「ありがと、真琴さん。……頑張ってくれたの、十分伝わったから」

真琴が顔を上げると、そこには春の陽だまりをそのまま形にしたような、穏やかで美しい律の笑顔があった。

「でも、今日はもう風呂入って温まって?明日、マンションまでちゃんと送ってくからさ」

​律のその言葉は、真琴が必死に保っていた「覚悟」という名の緊張を、優しく溶かしていった。
自分という存在を、性急な欲望ではなく、一人の大切な人間として尊重してくれた喜び。
張り詰めていた心が音を立てて解け、真琴の目頭は急激に熱くなった。

​今、この部屋に流れているのは、激しい雨の後のような、透き通った愛の形だった。





​いつの間にか激しかった雨は止み、雲の切れ間から冴えざえとした月が顔を出していた。

部屋の明かりを落とし、小さな間接照明だけを灯したリビング。二人は暖かな一枚の毛布を分け合い、窓から差し込む青白い月明かりの下で、静かに夜空を見上げていた。

お風呂上がりの石鹸の香りと、毛布越しに伝わる互いの確かな体温。
ただそれだけが、今の世界のすべてだった。

「この間、子供の頃の夢見たんだけどさ……なんか、おかしいんだよね」

​律が、夜の静寂を壊さないような低い声で切り出した。
「なにが?」
「俺、泣いてたんだよ。泣いた記憶なんてこれっぽっちもないのに……。寝てる間に、記憶が捏造で
 もされてんのかな」
自嘲気味に鼻で笑う律。けれど、真琴はその横顔を逃さず見つめ、静かに、けれど揺るぎない確信を込めて返した。

「……それ、本当に捏造?藤堂さんが、ずっと心の奥にしまっていた『現実』なんじゃないの?」

「は?何言って……」

律は怪訝そうに眉を寄せたが、ふと真琴の潤んだ瞳に気づき、言葉を失った。
​「もしかして、真琴さんがあんなに泣いてたのって、俺と母さんのこと?俺が家族のことで辛い思い
 してるって、勝手に深読みして泣いてたの?」
律は困ったように肩をすくめてみせる。
「前にも言ったけど、本当に大丈夫だから。父さんや母さんとも、そこそこ仲良くやってるよ。もう
 ガキじゃないんだから、いつまでもベタベタしないってだけでさ。それに、悲しい話じゃないって
 言ったじゃん」
律は呆れたように言葉を紡いでいたが、話の途中で、ふっと糸が切れたように動きを止めた。

視線は行き場を失い、窓の外の虚空を彷徨う。

「……そうだよ。悲しい話、じゃないんだから」

「藤堂さん?」

​真琴の呼びかけに、律の表情が微かに歪んだ。
「……俺さ、真琴さんと出逢ってからずっと、変なんだよ。ガキん頃の夢は見るし、昔のことばっか
 思い出す。……家族との関係に不満なんてなかったし、悲しいとも寂しいとも思ったことない。な
 のに……今さら」
胸の奥が、鋭い針で突かれたようにチクリと痛んだ。

ずっと氷のように凍結させていたはずの感情が、真琴という太陽の熱にさらされ、急激に溶け出し、濁流となって心に押し寄せてくる。

「……俺が欲しかったのは、これじゃない。なんて思うの……馬鹿みてぇじゃん?」

​​​律は無理やり口角を上げ、儚げな笑顔を作ってみせた。けれど、その震える唇は、隠しきれない深い傷を何よりも雄弁に物語っていた。

「大切な人が離れて行く恐怖心や、誰かに好きになってほしいっていう切なさとか……。そんなの知
 りたくなかった。一生、気づかなくてよかったのにっ……!!」

​​必死に涙をこらえ、震える拳を握りしめる律。

真琴は、その震えをすべて受け止めるように、言葉もなく力いっぱい彼を抱きしめた。

厚い殻を破って溢れ出した律の「痛み」が、繋がった肌を通じて真琴の胸へと、熱く、痛く流れ込んでくる。

「俺にはっ…!誰かに愛される価値なんてないんだって……。そんなこと、思い出したくなかった
 っ……!!」

​律の背中が大きく波打ち、張り詰めていたプライドが粉々に砕け散る。

隠していたはずの、けれど誰よりも愛を欲していた「藤堂律」という一人の少年が、真琴の腕の中でようやく声を上げ、大粒の涙を何度もその頬に転がし落ちた。


​律の慟哭が夜の静寂に響き渡り、やがて細い喘ぎへと変わっていく。
その背中を抱きしめながら、真琴の胸には狂おしいほどの後悔が押し寄せていた。

(藤堂さん、ごめんね。あなたが家族の話をしてくれた時、私はもっと深く問うべきだった)

​​彼が淡々と語った過去の中に隠されていた、血を流すような孤独。それに気づけなかった自分を責めるように、真琴は律の背中の温度を確かめる。

​(あなたが私にくれた優しい言葉たちを、あなたに返すべきだった。……あなたはいつも、私の些細
 な憂いにさえ気づいてくれるのに。気づいてあげられなくて、ごめんね)

​​真琴の視界が、溢れる涙で滲んだ。

​(隣にいるのが私じゃなかったら、あなたは自分の頑張りにもっと早く気づけたのかな……。それで
 も、あなたを手放したくなくて……本当に、ごめんね)

​自分の小さな独占欲や醜いエゴ。彼の心を救うにはあまりにも幼く、力不足だったとしても。

(私みたいな人嫌いの言葉があなたの心を溶かせるなんて微塵も思ってないよ。そんなのおこがまし
 いよね。……でもね、それでも、『伝えない』っていう選択肢は、今の私にはないんだ)

​真琴は律を抱きしめていた腕に力を込め、彼の顔を覗き込むようにして、まっすぐにその瞳を見つめた。

「あなたは、愛されるべき価値がある人です」

​真琴の放った言葉は、静まり返った部屋に凛と響いた。
それは美しく、そして何より力強く、閉ざされていた律の心の扉をノックする。
その一言は、長い間、律の感情を厳重に封じ込めてきた厚い氷を、躊躇なく叩き割った。

「言葉なんて信じられないって言うなら、一生かけて私が証明するよっ!」

​真琴の宣言と共に、二人の間に張り詰めていた一本の糸が切れる音がした。

揺るぎない覚悟を宿した真琴の眼差しは、律の凍てついた心の大地に、柔らかな春の光となって降り注ぐ。それは、彼の過去も、傷も、欠落さえも、そのすべてを丸ごと受け入れるという聖なる誓いのようだった。

「………真琴さん」

​律は、自分の内側で何かが温かく解けていく感覚に身を震わせた。
頬を濡らす涙を拭うことさえ忘れ、彼は縋るように真琴を見つめ返す。

「……俺の傍にいて。責任取って、俺のこと、ずっと好きでいてよ」

​律の目にはまだ、消えない涙の膜が滲んでいた。
けれど、その口元には、長く降り続いた雨が上がり、暗い空に七色の虹がかかったような、爽やかで、清々しい笑みが浮かんでいた。

​真琴は、もう二度と彼を孤独に返さないと誓うように、ためらうことなく再びその体を抱き寄せた。

分け与える温もりが、律の芯まで届くように。

二人の鼓動が重なり、溶け合い、夜が明けていくのを待つように、彼女は強く、深く、彼を抱きしめ続けた。




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逃げたかったのは、 疲れきった日々と、叶うはずのない憧れ――のはずだった。 無愛想で冷静な上司・東條崇雅。 その背中に、ただ静かに憧れを抱きながら、 仕事の重圧と、自分の想いの行き場に限界を感じて、私は退職を申し出た。 けれど―― そこから、彼の態度は変わり始めた。 苦手な仕事から外され、 負担を減らされ、 静かに、けれど確実に囲い込まれていく私。 「辞めるのは認めない」 そんな言葉すらないのに、 無言の圧力と、不器用な優しさが、私を縛りつけていく。 これは愛? それともただの執着? じれじれと、甘く、不器用に。 二人の距離は、静かに、でも確かに近づいていく――。 無愛想な上司に、心ごと囲い込まれる、じれじれ溺愛・執着オフィスラブ。 ※この物語はフィクションです。 登場する人物・団体・名称・出来事などはすべて架空であり、実在のものとは一切関係ありません。

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