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一章
肆話
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ライブ後、出口に向かうはずの紬の足がふと止まる。
観客達の流れと逆行して、先程感じた香りの方向へ視線を向ける。
だが、そこには当然、先程立っていた彼の姿はなかった。
漂っていたのは、懐かしいような……切ないような香りだった。
「紬、ちょっと帰るよ」
「あ、うん……」
「何?瑪瑙にハマった?」
姉からの声かけに、先程感じたことを話した。
「お姉ちゃん、さっき香りがしたの。あの人が演奏中……花のような甘い香りが、漂ってきて」
「え~?あんたまた変なこと言って。瑪瑙の近くにいたわけじゃないのに。周りの誰かの香水の香りでしょ?」
「そう、だよね…ごめん、変なこと言っちゃった」
おかしなことを口走ってしまったと、紬は後悔し、姉と一緒に帰路についた。
彼に纏わりついているように見えた、赤い蛇のようなものは何だったのかーー?
それだけが、妙に頭に残っていた。
瑪瑙は、今宵も無事に演奏を終え、いつもと変わらず神域へと戻っていった。
人間を見守る役目を、今日も無事に終えることができた。
ただ……今宵は一つ不思議な感覚がした。
視線を交えて感じた一つの不思議な気ーー彼女のものだったのだろうか?
その瞬間ー自らの内側から、何かが煙り出すように痛みが走る。
心臓が締め付けられる。
「何だ……これはっ!!」
身体が熱くなり。膝が崩れる。
そしてー仄かに花の香りが鼻先を掠めた。
「ありえない……私が、香りをーー?」
鼓膜の奥で、自分の血が脈打つ音だけが響いていた。
一瞬、視線を交えただけの、彼女が番だというのかーー?
(違う、そんなはずはない。番など……そう簡単にわかるはずはない)
だが、香りは、咲き誇るように消えない。
どこか懐かしく、どこか温かく、抗えない衝動を伴い瑪瑙を貫く。
番が見つかれば己の力を増すことができる。だが、人とはある程度の距離を置かねばと、心に言い聞かせている。
「この香りで番を捕らえたら……怖がるに決まっている。一方的に欲したところでーー」
あれからずっと興味を抱き、望んでいたものを、ついに見つけられると思うのに。
いざ実感すると、傷つけそうで怖いのだーー。
顕現を解き拝殿の隅へ身を潜ませる。身体の熱は籠ったまま、香りもまだ微かにわかる。
『眠ろう……』
身を丸くして蹲る。何も考えぬよう静寂の中に身を置き、時を過ごした。
虚ろな夢を見始めた頃ーー
人を喰らったあの頃の自分が浮かんできた。
月明かりが差す水辺で、かつての聖域の主であった、弁才天が琵琶を爪弾きながら、静かに自分に語りかけている。
「瑪瑙、其方は贄を食べたそうだな……」
「はい。贄を食べれば、己の力が増すと言っていましたから……ですが、何も変わりませんでした」
その言葉に、かつての女神は呆れた声を漏らしていた。
「……愚かな」
変化もなく過ごす日々に嫌気が差し、こう口走ったことがある。
「主様、私は蛇神として失格です。独自の香りも出せず、周りに置いていかれてしまう。きっと、出来損ないの存在なのです。私は時折、消えたくなります……」
この時、彼女とは一番深く語り合った気がした。
「瑪瑙、そう言うな。だが、贄を殺してしまう行為はするべきではなかった。贄は守らねばならない」
「……申し訳ございません。以後そのようなことがあれば気をつけます」
「お前も琥珀のように、贄という名の番を持てば変われると思うぞ」
「どうでしょう?琥珀殿は、何故あんなに人に焦がれるのか。贄にも嫌われているというのにーー」
彼の贄は自ら命を断つなど、何も人から得られていないというのに。
「番とは何なのでしょうか……?」
「番とは、お前達にとって、かけがえのないものをもたらす。離れられない衝動に駆られる。拒むほどに苦しくなるーーだからこそ恐ろしくもある」
「そんな恐ろしいものなら……いらないですね」
冷めた言葉に、女神はさらに言葉を紡いだ。
「だが、番を愛することで得られる苦しみは、神にも生きている証をくれる」
瑪瑙の額にそっと触れ、女神は告げる。
「もし、其方がその香りを発する時が来たらーー逃げずに番と向き合うのだ。香りは番になる者しか、わからないからな」
「……心得ておきます」
忘れられていたその言葉は、ずっと瑪瑙の奥底で眠っていた。
けれど今、番が近くにいると思うと、心を揺らされる。身体が勝手に香りを発したことでーーそれがさまざまに蘇ってくる。
(逃げずにーー向き合うのだ)
あの時の声が、今の自分の心に重なった。
意識が一瞬、目を覚ます。
『案外、忘れているものですね……向き合う……か』
あの時の彼女は、もう一度現れるだろうかーー?
または、あの者ではない別の存在がいるのかーー。
そう心に問いかけながら、瑪瑙は再び微睡みの中へ、意識を落とした。
観客達の流れと逆行して、先程感じた香りの方向へ視線を向ける。
だが、そこには当然、先程立っていた彼の姿はなかった。
漂っていたのは、懐かしいような……切ないような香りだった。
「紬、ちょっと帰るよ」
「あ、うん……」
「何?瑪瑙にハマった?」
姉からの声かけに、先程感じたことを話した。
「お姉ちゃん、さっき香りがしたの。あの人が演奏中……花のような甘い香りが、漂ってきて」
「え~?あんたまた変なこと言って。瑪瑙の近くにいたわけじゃないのに。周りの誰かの香水の香りでしょ?」
「そう、だよね…ごめん、変なこと言っちゃった」
おかしなことを口走ってしまったと、紬は後悔し、姉と一緒に帰路についた。
彼に纏わりついているように見えた、赤い蛇のようなものは何だったのかーー?
それだけが、妙に頭に残っていた。
瑪瑙は、今宵も無事に演奏を終え、いつもと変わらず神域へと戻っていった。
人間を見守る役目を、今日も無事に終えることができた。
ただ……今宵は一つ不思議な感覚がした。
視線を交えて感じた一つの不思議な気ーー彼女のものだったのだろうか?
その瞬間ー自らの内側から、何かが煙り出すように痛みが走る。
心臓が締め付けられる。
「何だ……これはっ!!」
身体が熱くなり。膝が崩れる。
そしてー仄かに花の香りが鼻先を掠めた。
「ありえない……私が、香りをーー?」
鼓膜の奥で、自分の血が脈打つ音だけが響いていた。
一瞬、視線を交えただけの、彼女が番だというのかーー?
(違う、そんなはずはない。番など……そう簡単にわかるはずはない)
だが、香りは、咲き誇るように消えない。
どこか懐かしく、どこか温かく、抗えない衝動を伴い瑪瑙を貫く。
番が見つかれば己の力を増すことができる。だが、人とはある程度の距離を置かねばと、心に言い聞かせている。
「この香りで番を捕らえたら……怖がるに決まっている。一方的に欲したところでーー」
あれからずっと興味を抱き、望んでいたものを、ついに見つけられると思うのに。
いざ実感すると、傷つけそうで怖いのだーー。
顕現を解き拝殿の隅へ身を潜ませる。身体の熱は籠ったまま、香りもまだ微かにわかる。
『眠ろう……』
身を丸くして蹲る。何も考えぬよう静寂の中に身を置き、時を過ごした。
虚ろな夢を見始めた頃ーー
人を喰らったあの頃の自分が浮かんできた。
月明かりが差す水辺で、かつての聖域の主であった、弁才天が琵琶を爪弾きながら、静かに自分に語りかけている。
「瑪瑙、其方は贄を食べたそうだな……」
「はい。贄を食べれば、己の力が増すと言っていましたから……ですが、何も変わりませんでした」
その言葉に、かつての女神は呆れた声を漏らしていた。
「……愚かな」
変化もなく過ごす日々に嫌気が差し、こう口走ったことがある。
「主様、私は蛇神として失格です。独自の香りも出せず、周りに置いていかれてしまう。きっと、出来損ないの存在なのです。私は時折、消えたくなります……」
この時、彼女とは一番深く語り合った気がした。
「瑪瑙、そう言うな。だが、贄を殺してしまう行為はするべきではなかった。贄は守らねばならない」
「……申し訳ございません。以後そのようなことがあれば気をつけます」
「お前も琥珀のように、贄という名の番を持てば変われると思うぞ」
「どうでしょう?琥珀殿は、何故あんなに人に焦がれるのか。贄にも嫌われているというのにーー」
彼の贄は自ら命を断つなど、何も人から得られていないというのに。
「番とは何なのでしょうか……?」
「番とは、お前達にとって、かけがえのないものをもたらす。離れられない衝動に駆られる。拒むほどに苦しくなるーーだからこそ恐ろしくもある」
「そんな恐ろしいものなら……いらないですね」
冷めた言葉に、女神はさらに言葉を紡いだ。
「だが、番を愛することで得られる苦しみは、神にも生きている証をくれる」
瑪瑙の額にそっと触れ、女神は告げる。
「もし、其方がその香りを発する時が来たらーー逃げずに番と向き合うのだ。香りは番になる者しか、わからないからな」
「……心得ておきます」
忘れられていたその言葉は、ずっと瑪瑙の奥底で眠っていた。
けれど今、番が近くにいると思うと、心を揺らされる。身体が勝手に香りを発したことでーーそれがさまざまに蘇ってくる。
(逃げずにーー向き合うのだ)
あの時の声が、今の自分の心に重なった。
意識が一瞬、目を覚ます。
『案外、忘れているものですね……向き合う……か』
あの時の彼女は、もう一度現れるだろうかーー?
または、あの者ではない別の存在がいるのかーー。
そう心に問いかけながら、瑪瑙は再び微睡みの中へ、意識を落とした。
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