緋色の蛇は宵に咲く

羽純朱夏

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二章

伍話

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暗い部屋の奥、明かりを点けずに瑪瑙は一人部屋に籠もった。
湿った夜気を閉め出しても、胸の奥の苦い熱だけはどこにも行かなかった。

指先が震えて、落ち着けるために香炉に火を灯す。白檀の香が、燻るように漂い始めると、わずかに心が静まった気がした。

(何を……してしまったのか)

目を閉じると、まだ微かに、紬の涙声が耳の奥に焼き付いている。守れなかった、傷つけた。
あの簪ひとつ、翡翠達の瘴気を断ち切ることさえできなかった。

「僕は……何をしているんだ」

白檀の甘い煙が髪を撫でる。けれどその香りさえ、今は胸を抉るだけだった。

机の上に置きっぱなしの譜面が目に入ったーー。
まだ完成していない、彼女のために、作っていたフレーズの一部を。

「っ……」

心の奥に溜まっていた黒いものに未だ苛まれ、熱い衝動に変わる。

瑪瑙の指が、その場に置かれている譜面を思い切り薙ぎ払った。紙が宙を舞い、ペンや傍にあったギターが派手に床を叩く。

白檀の香りは今宵一瞬しか、彼の心を鎮められない。息が荒くなる。胸が、何かに内側から押し割られるように痛む。

(情けない……弱い)

脈が速い。喉の奥が焼ける。身体の奥で、先程の交合により混じった何かが、ゆっくりと熱を広げていた。

「……瘴気か?」

翡翠と柘榴による罠ーー。あの交わりで、紬の中に潜まれていた瘴気が、今度は自分に移り、蝕んでいる。

「やめろ……僕は」

額を乱雑に押さえていた手が、薄く汗で濡れている。
吐き出そうとしても、喉の奥を熱が這い回り、吐息が濁るばかりだった。

(また、守れない……)

脈打つ痛みが頭を締め付ける。自身の花の香りと白檀の煙が混ざり合い、室内が熱に滲んで揺れる。

瑪瑙は机に手をつき、震える膝を必死に支えながら、苦く笑った。

「弱い蛇神だ……やっぱり」

滲む視界に、落ちた譜面の一枚が映る。自分が人の世で触れていたもの。曲を奏でることが、いつしか当たり前になっていた。周りには自分の曲を受け入れてくれる者たちがいた。あの冷たい世界にはなかった、自分を表現できる場所。ここに生きる理由になっていたーー。
だが、この姿は仮初。本当の自分を周りは知らない。
周りに非難されるのが怖いーー。受け入れてくれた彼女さえ、もう自分を恐怖の目で見るだろう。

白檀の香りを吸い込みながら、瑪瑙は静かに独り眠りについた。瑪瑙の身はゆっくりと、瘴気に蝕まれていくのだった。


***

瑪瑙が消えた後、紬は痛む身体を引きずりながら、浴室へと向かった。
首筋の噛み跡や鱗の胴が擦り込まれ刻まれた傷、強引に捩じ込まれた秘所は、未だに酷い痛みが残る。どうしてこうなってしまったのかーー。
シャワーの水に打たれながら、独りその身を抱きしめる。
彼は怒っていた。自分が何も交信することなく、連絡を絶っていたから。自分のしたことが、傷つけた。
それが、この結果になってしまった。異形の姿に抱かれた。考えるだけで恐ろしいーー。また、そんなことになってしまったらと思うと、彼に会いたくない。

「あの二人の言葉を信じずに、相談してたら……よかったの?」

正気に戻った時の彼の涙の表情が消えない。最後の台詞が悲しかったーー。『会わなければよかった』なんてーー。

「本当に、貴方を知らなければよかったのかな……」

紬はその場でしばらく涙に暮れた。

***

数日後、とある小さな特設ブースにて、昼から並んだファンが集まっていた。
二作目のアルバム『昇華』の発売のインストアイベントは、瑪瑙にとっても特別なはずだった。

しかし、会場裏で控えている瑪瑙の目は、赤い光が薄く滲んでいた。
内側で未だ瘴気が渦を巻いている。自分の中で浄化を試みたが、消すことはできない。

(……まったく眠れていない)

数日間、まともに眠れなかった。目を閉じれば、紬の泣き顔が浮かび、交わりで流れ込んだ瘴気が脳裏を灼く。

「あ、瑪瑙さん。そろそろお願いします!」

「……あ、えぇ……」

スタッフの声に、瑪瑙は微かに微笑んだ。手が僅かに震えながらも、表へと立つ。
照明の下に現れると、ファンの声が響き渡る。

「「瑪瑙ーー!」」

いつものように一礼をすると、席につき、琵琶を抱える。指がひどく震える。
だが、この瞬間だけは、失敗するわけにはいかない。
周りの目が自分に注がれる、それは自分がこの姿でいるからーー。
本当の自分は、醜い姿のーー。
痛みが走る中で、弦を弾く。

(どうか、この時が終わるまで、持ってくれ……)

「艶美」から始まり「番-tsugai-」へと五曲の構成。一音一音、集中して琵琶を奏でた。
途中手が震え、撥を上手く動かせない場面があったが、何とか次の音に繋げた。
汗が滲む、周りの目に見えてない部分が少しずつ、変化していく気がした。
蛇の姿になりたくないーーこの場で周りの者に見られたら。その時自分はーこの世界から存在できなくなる。

(まだ……もう少し)

身体が熱い、でもここで倒れるわけにはいかない。

「途中、失敗してしまいましたが……最後にこの曲を……」

”番”という名を付けた。ただ、一人の相手に捧げるために作った曲。彼女と僅かながらも温かい時間があった。もうきっと、彼女は戻らない。酷いことをした。自らの本能で壊してしまった。
腕紐で繋がれた絆ーー苦しめるなら、もう自由にーー。
赤い鱗の模様が広がるのがわかる。

曲が終わると、拍手の音が響き渡った。
曲の終わりと同時に、サイン会へと映るアナウンスが流れる。

一度会場裏へ姿を消すと、広がる鱗の模様に手を添えて抑える。
異形だと、知られてはいけない。

(まだ、駄目だーー嫌だ!)

「瑪瑙さん、並びが終わったので、準備お願いします」
「……はい」

苦痛を押し殺して、席に向かう。今日は何人いるのだろうーー?
全員に対応できるまで、持つだろうかーー?
目を見やる余裕もないまま、ただ模様が広がらないように祈った。そして、列が動き出す。
ジャケットにイラストを添えながら、必死に言葉を紡ごうとする。

「瑪瑙さん、お疲れ様でした!ずっと応援してます!」

(声が……出にくい……)

手元のペンを持つ指先が徐々に冷たく痺れていく。
握ったペンの先が、文字を滲ませる。

「すみません……少し、滲みました……来てくれて、ありがとう」

数人の対応を終え、次のファンが無邪気に笑いかけた瞬間ーー背中を駆け上がる熱が、喉を塞いだ。

(まずい……)

蛇の鱗が滲むように腕を吐い始めるのを、瑪瑙自身が感じた。もう、声が出ない。胸の奥で、蛇の本性が瘴気に引きずられる。

(……もう、駄目だ)

音もなく赤い鱗が滲み出す瞬間ー瑪瑙は残った神気を強引に周りに放った。
気配を誤魔化し、視線をそらす。自分の姿を、その場からそっと溶かすように。
一瞬の間を起きその場から離れ、瑪瑙は建物の隙間へと、消えた。

少しの間が解け、ファンたちが気づいた時、その場に瑪瑙の姿は見られない。

「え!!瑪瑙??」
「あれ、座ってたはずなのに……どうして?」

その場がざわつきだす。机の下にはペンが転がっていた。マネージャーの橘や、スタッフが側に駆け寄ってきたが、瑪瑙の姿は見られなかった。

「皆さん、すみません。今日は中止でお願いします!!」

スタッフが周りを誘導し、列はそれぞれ散らばり出した。
会場内の写真を撮る者、心配になりSNSに拡散する者。やがてその情報は彼のファンにすぐ届くことになる。
ファンの好奇と恐怖の声が、ネットを駆け巡った。

『ーー瑪瑙がサイン会で突然失踪!噂の神隠しに攫われた?』
『瑪瑙さん、消えちゃった……無事だよねーー?』
『怖いーーどうなるの?』


***

瑪瑙は赤い蛇の姿に落ちて、何も言葉を発せないまま冷たい床に蹲っていた。
人の形を保つ力が、瘴気に食われて溶けていくーー。

(……紬。お別れ……です)

そっと彼女の名前を呟いたのち、もうその吐息すら声にならなかった。全てが、霞んでいくーー。

(僕はーー弱かった……)

衰弱していく身体、瘴気が完全に血をめぐり、理性を噛み砕いていく。
熱だけが、地面に這わせる腹の奥で燻っていた。


夜が深くなってきた頃。近くに足音が響いてきた。

「……おやおや」

翡翠が赤い蛇を見下ろし立っている。その目は冷たさに満ちていた。


「……番を殺さなかったのは、計画外だったが、弱いただの蛇になったな、瑪瑙……」

赤褐色の瞳が、かすかに翡翠を捉える。
だが、牙を剥くこともできない。声を発することもできない。


「あの女、は素直に言うことを聞いて……扱いやすかった。やはり愚かな番だ」
翡翠の口元が。歪んだ笑みで吊り上がる。

「柘榴様もお喜びだ!これで、お前は野生の蛇として朽ちていく。番の絆も終わりだ」

ずるりと足元に影が伸びる。翡翠の靴先が、弱った赤い蛇の鱗を無造作に転がした。

「……ほら、どうした?瑪瑙……反抗してみろ」

鱗の身は僅かに身を揺らしただけだった。赤い瞳が、微かに涙のように濡れていた。
やがて、翡翠の足が尾を撫でるように、踏みつける。弱い呻きすら漏らせない。

「紬に嫌われ……二度と人型はとれまい」

笑う翡翠の声が夜の底に滲む。


「ただの蛇を誰が愛す?誰が抱く?……嫌われるだけだ。瑪瑙、お前はもう孤独に地を這って死ぬだけだ……無様にな!」

掴まれると、長い爪が胴に食い込み血が滲む。だが、瑪瑙は声をあげれない。
僅かに身をくねらせるだけだった。

翡翠の笑い声が、その場に冷たく響いていたーー。


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