蛇の香は藤

羽純朱夏

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二幕

玖話

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琥珀と共に沼に向かっていると、無数の蜻蛉が傍をすり抜け飛んでいる。
その光景に秋が深まっていくのを感じる―――


背後から珊瑚の射抜くような殺意を鈴は感じていた。
彼の傍には、瑪瑙がしっかりと暴れないよう、自分達と珊瑚の間に割って入り歩いていた。

「おい、瑪瑙その場所をどけ」

「それは聞き入れられません。まだ彼女に死なれては困ります」

「お前、主を裏切ると言うのか!!」

大声をあげる珊瑚に、瑪瑙は溜息を吐きながら言葉を発した。

「私は主とは決別するつもりです。もはや私は主に気に入れられなくても構いません」

すると、珊瑚は言葉を失ったように黙り込むと、静かに言葉を漏らした。

「では……お前は聖域を失いどこに行くつもりだ?俺たちは聖域を抜けたら死ぬだけだ……贄がいないのに」

「贄を作ればいいと思います」

「馬鹿を言うな!今の人間に俺たちが受け入れられると思うか!」

「琥珀殿が証明しているではないですか?鈴殿を傍に置いて、今では、力が増しつつある」

「神が人間などに、媚びるなどありえない……人として生きるなど無能だ」

二人の会話を背後から聞きながら、鈴は琥珀に手を繋がれながら歩いていた。

(琥珀さんにとって、私は必要な存在……)

「あぁ、お前がいないと俺はあのまま干からびてたし、ここまで人型を取って暮らしていなかった」

「!!き、聞こえて……」

心の声が聞こえることを忘れていた鈴は、横で彼が笑う様子に赤面した。
琥珀は笑いながらも話を続ける。

「贄がいなくても、信仰の祈りや祀りで神は生き永らえる……だが、贄がいればそれ以上に、神は力を振るえる」

「……」

「あの聖域にいた時よりも、お前との場所が何より居心地がいい……」

そう言いながら彼は身体を密着させ、鈴の身体を引き寄せながら歩いた。
ほんのり香ってくる藤の香りに、安堵感に包まれる。
その様子を見つめていたのか、瑪瑙の笑みを含んだ声が聞こえる。

「歩いていても、熱い雰囲気を出すとは……琥珀殿はやりますね。鈴殿を奪ってみたくなります……」

「え?」

一瞬彼が奪うという言葉を耳にして驚くと、身体に触れている彼の手に力が籠められるのを感じた。

「鈴は俺の女だ……お前にも、誰にも渡さねぇ……」

「冗談ですよ……」

いつものように通う神社の鳥居を潜り、境内へと進んでいく。
大物主がこの様子を見ているかもしれないと、琥珀は辺りを見渡した。
だが、辺りは静かに風が吹き抜けていくだけだった。
直進に暫く進んでいくと、あの時見た沼への道が見える。
かつての主が、蝶になり会いに来てくれたあの場面―――
主が鈴を守れと言っていた。
沼に着くと、その一帯の水は澱むように濁っていた。
あの時見た綺麗な雰囲気は、主が見せた幻だったのだと思う。
真ん中に立つ小さき祠も寂れて、破損が目立っている。

「着きましたね、かつての主が守っていた場所」

「おい、瑪瑙。何でまたこの場所を!」

珊瑚の言葉に、瑪瑙は持っていた書物を広げて見つめた。

「ここは、かつての主の終焉の地……今の主に殺された……」

「何だと……馬鹿を言うな」

「真実ですよ、珊瑚殿……私はこの書物を見て恐怖を覚えました」

あの時に浮かんだ光景が蘇る、弱り果てていた主が、柘榴に飲み込まれていったあの瞬間――

「柘榴が力を取り込むため主を奪った……」

「主は柘榴様の呪縛から貴方を守ろうとしていた……かつての贄である女と幸せになるように」

かつての贄――
糸という女――
その女の結末はどのように幕を閉じたのか、掌が血に染まっていた光景が浮かんだ。
自分が追い詰め死に追いやったのか、それとも彼女自らが死を選んだのか……。
瑪瑙は続けて書物を読みながら、話を続けた。
すると辺りが涼しい風に包まれ、大神の声が響いてきた。

『琥珀達神霊よ……何をしている?」

「この声は?」

「大神だ、先程の神域の神社のご祭神……大物主大神様だ」

「大物主?我らと同じ蛇の神か!何故俺たちを?」

瑪瑙や珊瑚が辺りを見渡すと、人に顕現した大神が姿を現した。
大神は、緋色に染まった目で、自分たちを見つめながら話し始める。

「琥珀よ、こいつらがお前の仲間か?」

「はい……一応は」

「……大物主大神殿、お初にお目にかかります。瑪瑙と申します」

瑪瑙は大物主に対し、深く頭を下げ挨拶をした。
それに続き珊瑚も軽く頭を下げた。

「俺は珊瑚と言います」

「挨拶はいい……お前たちも聖域を追われたのか?」

「いや。俺はその贄を殺し、主の元へ帰る!」

「珊瑚殿、口を慎んだ方がいいですよ……」

珊瑚は、落ち着かないように呟くと大神はゆっくりと右手を上げ、珊瑚を本来の蛇に戻した。

『な、何をする!!』

「この場所で殺生は禁止だ。俺が許さない……鈴を殺せば、琥珀が暴れ出して危険だからな……」

『っ、このやろう……!』

「やめなさい!珊瑚」

茶色の蛇は牙を剥き、威嚇するように蜷局を巻きながら神気を発しだす。
それを阻止しようと、瑪瑙も本来の姿に戻り諫めるように絡みついた。

『貴方は殺されたくはないのですか?たとえ、鈴殿を殺してあの方に捧げたとしても、貴方は喰われるだけだ……』

『うるさい……仲間皆喰われて、殺されて。殺されぬためにはとずっと怯えてるのは嫌なんだよ……』

ずっと切磋琢磨して過ごしてきた仲間たちが、次々に消えていき……
主の後ろにいる翡翠が殺しているという事実を知った時……恐怖でたまらなかった。
悟られぬように、平然と振舞い。主の為にひたすら命令に従い……
ただ、琥珀が羨ましかった……。
この者は主にも気に入られ、他の者達が及ばないほど強く清廉な力を持っていたから。
俺の村の領地もいつしか消えてしまい、今の主の聖域で暮らし始めた時は何かに怯えていた。

『貴方の気持ちはわかります。私も同じように琥珀殿が憎かった……到底かなわない存在でしたから……』


「……瑪瑙」

『ですが、貴方は私たちよりも、人を慈しみ愛していた……そこは見習わねばと思っていました』

「……琥珀、お前はこの先対の者と決着を付けねばならん……」

「それは、柘榴の事ですか?」

琥珀の問いに大物主は頷いた。
大物主は以前かつての琥珀の主であった弁才天から、『守ってくれ』と頼まれたことを思いだしていた。
神を凌駕するほどの力を、琥珀の対である柘榴という女が持っていたとしたら……
多くの同胞たちを喰らいつくし、力を得ているに違いない。
琥珀が死に耐えるまで、彼女の執着は続くと、大物主は考えていた。
前の贄であった糸という女の過去を完全に思い出した時――
琥珀はどのように思うのだろうか。
だが、思い出させる必要があると思った。
これがきっと、今の贄である鈴に繋がる事だというのなら……

「お前たち蛇神は、弁才天が力を注ぎ生み出した卵から生まれたのだな……」

大物主の言葉に瑪瑙は頷いた。
卵から孵った蛇達は、小さい頃は主から慈愛の心で一斉に大切に育てられる。
やがて成長すると、主の為に下界に降り人々を災厄から守る役目を担っていた。
そこから力が秀でた者は、更に村の守護を与えられその場所の神として祀られることになり、贄を求める。
捧げられた贄を神は傍に死ぬまで傍に置いてもいいし、喰らってもいい。
そのことに関して、かつての主は何も咎めはしなかった。
琥珀と柘榴は自分たち神霊の中で、一際力が勝っていた。
人に顕現することも早かったし、力も簡単に扱えた。
書物にもあったが、琥珀と柘榴は一つの卵から孵ったらしい……

『琥珀殿と主は一つの卵から生まれた存在……』

「……そうだった、俺と柘榴は二人共に生まれた」

「お前は陽の気を強く受け、彼女は陰の気を強く持ち生まれた……」

「それがどういうことだと言うのですか?」

琥珀が、大物主に問いかけると、瑪瑙が暫し考えこんだ後声を発した。

『離れた者は再び一つに戻ろうとしているということですか……?』

「かもしれんな……彼女の執着は陽の気を取り込み、一つになろうとしているからかもしれない」

「俺は、柘榴と一つになれと言うのか?そうなれば俺は……」

鈴との出会いも思い出も、今までの記憶さえもすべて消されてしまうことになればと思うと怖くなる。
俺が俺ではなくなってしまうかもしれない。
もし、一つ取り込まれたとして柘榴の方が勝ったら……。

「そんな……」

隣の琥珀を見つめると、彼は辛そうに俯いた。
彼が消えてしまったらと考えると、胸が苦しくなる。
何か自分にできることはないか考えるが、贄としてできることは何も思いつかない。
その手を強く握ると、彼の手に力が籠められたのがわかった。

「鈴……」

すると、沼の祠から澱んだ瘴気が浮かび上がってくるのが目についた。
その祠からするりと緑の蛇が姿を現し、沼の水辺へと降り立つ。
二匹は仲間が水辺を渡ってくる様子に視線を移した。

『翡翠……何故ここに』

『何か、様子がおかしいですね……』

陸に近づき水底から上がると、その瞬間――
珊瑚目がけ、何かがすり抜けると同時に、抉られた音が響いたのを感じた。

『ぐあぁぁ――――!!』

『!!珊瑚殿!』

「翡翠お前!!」

飛んだ珊瑚の首が地面に転がり、鮮血で染められていく。
その光景を目にして、思わず叫んでしまった。

「きゃーっ!」

「鈴、見るな!」

人型となった翡翠は、転がった珊瑚の首を見ながら吐き捨てるように冷徹な言葉を吐いた。

「さっさと始末すると思ったが……役立たずめ」

『翡翠殿、何故このような惨いことを!我々同胞を消し去って楽しいのですか?』

翡翠はただ面白がるように笑みを浮かべながら、人型を取った。
首だけになりながらも、微かに珊瑚が言葉を紡いだ。

『……ひ、すい……よくも……仲間を』

「まだ死んでないか、雑魚が……。柘榴様はお前の事など何の目にも留めてなかった。残念だったな……」

『……瑪瑙、お前も……逃げ』

言葉はそこで途絶え、身体が灰になり風に消えていく。
その光景を目にしながら、瑪瑙は再び人型となり翡翠に刃を向けた。

「翡翠、貴方は何故彼女を止めないのです!愛しているなら何故正してやらない!!」

「愛しているからこそ、俺は柘榴様に従うのだ。すべてを無くしても……」

「間違っています!そんなこと……」

「はははっ、邪魔者は皆排除だ!琥珀お前さえいなければ……」

襲いかかろうとした時、大物主が力を発し翡翠を咎めるように身体を封じた。
その力に彼はもがき、本来の姿に戻っていく。

『くそっ…‥大神が傍にいるなど……邪魔をするな!』

「ふんっ、この大神の前で殺生するとは許さぬぞ…‥いくら神霊と言えど」

『はははっ、俺はもう死など怖くない……あの方の役に立てるなら……』

血迷ったような声を荒げ翡翠は可笑しげに笑うと、寂れた祠からゆっくりと白蛇が現れた。

「……ん。お出ましか、相当邪念に支配されたお前たちの主が」

『私の大事な者をよくも嬲ってくれたな、大神……』

水辺の瘴気が次々と沸き上がり、彼女の身を包んでいく。
むせ返るほどの芳香が辺りに立ち込めて気分が悪くなる。

「うっ……」

「鈴、しっかりしろ。何があっても、俺が掛けた、まじないがお前を守る」

「はい……」

『まだ、その女といるのか琥珀……その女の身体はさぞ極上なのか?』

「柘榴…‥お前がしていることは間違っている。何故、清らかなお前でいられない」

その問いも虚しく、彼女は完全に狂ったように言葉をつぶやきだす。
もう正気の様子ではない。彼女を包むものは薄汚い闇の瘴気だけ……‥
傍によられると吐き気がしそうだ。
鈴を守るために、必死に彼女の身を隠す。

『どれほど愛そうとも、お前は人のことばかり……私の元には返らない……』

「お前と俺は違う。一つであったとしても、一つにはなれない!」

『鈴さえ消えれば……そうだ、お前に呪いをかけてやろう。あの女と同じように……』

「あの女?まさか糸を呪ったのか?」

その問いに彼女は面白がるように高笑いをした。
そして、ゆっくりと人型になり、妖艶な姿をさらす彼女は鈴を睨みつけるように見つめながら、話し出した。

「呪った……お前はずっと贄に愛されない、捨てられるように、傷つけられるようにと呪っていたのに……あの女とその女だけは見事にかからない……」

「汚いことしやがって……」

「糸は苦しみながら死んでいったようだ……まぁ、あいつが悪い。せっかく私の手の内に戻ると思っていたのに、あの女はお前を愛し、夫婦の契りを結ぼうとしたのだから」

(夫婦……)

やはり琥珀と糸は結ばれていたのだと、鈴は確信した。
あの夢に見た幸せそうな二人を……幸せな二人の関係を彼女は壊してしまった。
あの人はどんな気持ちだったのだろう……
どのように殺されてしまったのだろう―――
そして、自分も呪いを掛けられてしまうのか。

「柘榴という神霊よ……お前はもはや神ではない。邪悪な霊魂だな、清めねば」

「黙っていてもらおうか、いくら大神だろうとこの私に口出しするのは許さぬぞ……」

邪悪な気が更に強くなり、大物主も応えるのか苦しい表情を浮かべた。
瘴気のせいか、私の中の意識も揺らいでいく……。
次第に視界が回るようになっていき、立つことができないまま、静かに倒れこむ。

「っ……」

「ふっ、死ね……鈴。私の瘴気に呑まれるがいい……」

「鈴!しっかりしろ……」

必死の呼びかけにも彼女は苦しい表情を浮かべながら、倒れてしまう。

「っ……琥珀殿。私もさすがにこれでは……」

瑪瑙も苦しそうにもがき始め、蛇の姿に戻ると身を震わせていた。

「翡翠、瑪瑙も殺してよいぞ……瑪瑙は余計なことを詮索しすぎたようだからな……」

『くっ……ここまでか』

「瑪瑙!」

「わかりました、柘榴様……」

この惨劇に、じっとしていられない――――

「許さん……これ以上多くの者を苦しませるのは……翡翠……柘榴!お前たちを許さない!」

力が溢れ出し、白い瘴気を纏うと、二人を強く睨みつける。
柘榴はただ不敵な笑みを浮かべながら、袖で口元を隠しくすりと笑う仕草を見せた。
翡翠が瑪瑙に襲い掛かろうとした所を、間一髪のところで跳ね返し瑪瑙を庇う。

『な、琥珀殿何故……?』

「俺は、もう何も失いたくないんだよ」

「愚かだな琥珀。瑪瑙はお前を嫌っていたはずだ。そんなやつを今助けるというのか?」

「確かに嫌っていたとしても、それは別のことだ。命を奪うことはないだろう」

「はははっ、お人好しなことだ……。俺はお前を殺し、柘榴様と共にいきる……目障りなお前を消し去ってくれる!」

「やってみろ!俺は簡単にやられはしない。鈴との未来の為に……!!」

二つの力が同時にぶつかると沼の水の飛沫が宙に舞い、辺りを濡らしていく。
神社の境内へ瘴気が侵入することを恐れた大物主は力を使い、沼の場所の空間を現実と分けるように隔てた。

「さて、弁才天……お前が望んだ未来は訪れるだろうか。琥珀と鈴を守れと言ったが。俺も果たしてできるか……」

この戦いですべてが終わる――
永き時を生きてきた蛇神達の行く末を大神はただ見守ることにした。


――――――(必ず貴方をもう一度……)

瘴気にあてられ意識がない鈴の元に、一片の蝶が止まる。
黒き色に美しい青色の文様が、彼女の手の甲でひらひらと羽を動かした……
鈴の元に近づいた柘榴は、その蝶を見つめると、忌々しそうな表情を浮かべ蝶を摘まむと掌で握りしめ潰した。
その瞬間――幻想的な光の珠が二人を包んだのだった。

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