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2.逃走

2.1 外交官と異邦人

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 「バスティアン、どうするんだ?」
 初老のバスティアンとは孫ほども離れた少女が、この非常時を楽しんでいるかのように笑顔で声を弾ませて尋ねた。
 彼女はバスティアンの従者であるが普通の少女ではない、イグアルという種族だ。
 頬や額には青いひし形のアクセサリーにも見える鱗があり、笑えば鋭い牙が覗く。手足の指の間なある膜が水掻きを形成し、泳ぐ事に秀でている。何より特徴的なのが踵まで届く鱗に覆われた尻尾だ。
 非常に好戦的でそれにみあう能力をもつ彼女とバスティアンは子供と育ての親、そして主従の関係にあった。
 「どうするか今考えている、ちょっと落ち着きなさいギャラ」
 渋い顔をして悩むバスティアンを下から覗き込み、ギャラは首をかしげたり左右に揺れたりして彼の気を引こうとする。
 「ギャラはそいつにあってみたい、できたら戦ってみたいー」
 冗談ではないとバスティアンは思った。
 相手は無数のペルン正規軍の精鋭を容赦なく引き裂きながらさ迷っているのだ。このまま彼が捕まる迄にどれだけの被害が出るか検討もつかないし、捕まるというビジョンも見えない。もし自分達が首を突っ込んでも、ギャラは魔術が完成するまでもたないだろうし、たとえ完成したとしても彼の無力化に成功するとは思えない。
 国王は全魔術師、外交官であるバスティアンも含めて、に協力要請を出した。彼を捕獲したものには莫大な褒章が約束されている。
 いくばくかの魔術師が欲に駆られて彼の前に立ったが、皆床を赤く染めるペンキの一部になった。
 そもそもの話、上位の魔術師は協力しないであろう。
 王は彼が亡くなるまで王だ。が、王位に最も近かったその娘ミーナがこのまま従者候補を逃す失態を演じ、従者を得られないと成れば、次期王は上位の魔術師達の手に転がり込む。そんなチャンスをみすみす潰す事などありえない。
 しかしバスティアンには外交官の責務もあった。
 たがそれは危険云々の前にも問題があった。
 バスティアンの国、塔の守護者の王国はペルンと並ぶ魔術に秀でた国ではあるのだが、基本政策に相反する理念があった。すなわち彼らが儀式と称する召喚と隷属の禁止だ。
 本来なら彼の逃走に手を貸すべきなのが国と彼が思う魔術師の理念だ。しかし外交官として両国の関係を考えるのであればそうではない。
 「バスティアンは難しいなぁ、ギャラならやりたいようにやるのにー」
 無邪気に少女は言うと、バスティアンの腕に尻尾を巻き付けたり、離したりして遊び始める。
 「やりたいように、か」
 彼はギャラの頭に手をおき撫でる。
 両手を胸の前に添えて彼女は目を細めて気持ち良さそうにそれを受け止めた。
 「ギャラ、これから私が言うところまで行ってくれ」
 「ギャラにおまかせー」
 「いいか、絶対に戦ってはダメだぞ」
 「うー、わかったー」
 不満そうではあるが、彼女はバスティアンの言葉には従ってくれる。
 相手は手負いの獣みたいなものだ、遊びやエクササイズではすまされない。
 バスティアンは立ち上がり、そして部屋の外へ向かった。

 暗い。
 石畳道に石壁、淀んだかび臭い地下道はむせかえる程の血生臭さで満たされていた。
 その臭いは俺の体から沸き上がる、怒りに突き動かされた殺意とともに。
 壁に手をつくと点々と壁にかかかる松明の不明瞭な橙色の明かりの中で、黒っぽく見える手形がつき、床へと伸びて形を崩した。
 自分の荒々しい息だけが壁に反響し、得体の知れない生き物の唸りへと形を変える。
 やがて十字路に差し掛かった。
 そこで俺は立ち止まり体を休めながらどちらに行こうか逡巡した、これ以上戦わずに済む道を求め。
 疲労も激しいし、多くの戦いで無傷とはいかなかった。切り傷は数えきれないし、腕には打撲が、一番ひどいのは肩に刺さったままのスパイクだ。
 「クソ、道案内くらい置いておけよ」
 結局真っすぐ進むことにして歩き始めた。
 戻る事ができたら、それを考えたとき血塗れの体が震えた。一線を越えてしまった自分は普通に生きて行けるのかと。どうしようもないクソ共だし、仕方なかった、それでもこれまで俺とは無関係だった人間の命を奪った。その考えからか、痛みからか、胃の奥からざらつきが上ってきてヘドとなって、行く手を汚した。
 でも躊躇することは出来なかったし、これから、この悪夢から抜けだすまでも同じだ。
 反吐を踏みつけ進むとやがて薄い橙色の明かりの中、行く手に光りが見えてきた。
 期待に自然と足が早まる。
 光の中に足を踏み入れた、だがそれは陽光とは違った人工的な光だった。
 広さはバスケットコート2つ分位の広間、高さ10メートルはあるだろうか。つまりまだ俺は地下にいるという事だ。
 その広間の真ん中には天井すれすれの高さがある、巨大な石像があった。
 その前には祭壇があり、僅かな食べ物なんかと一緒に武器が供えてあった。祀られているところをみると神なのだろうか。
 半獣半人の姿、顔は犬とか狼とか鼻が長く牙のある生き物だが、その体は筋肉のよくついた人そのもの。長いサーベルの様な爪の生えた手があり、その掌には鎧を身に纏った人間が膝間付いていた。見ようによってはこれからその人間を貪る様にも見えるが、石像のそれの眼差しは優しげに見えた。
 戦いの神かなにかだろうか?
 もう戦わないで済みます様に、祈りか無意識の言葉か、頭に浮かんだ正にその時だった、叫びが聞こえた。
 「いたぞ!バルクール旧神の祭壇だ!」
 入ってきた場所から、左から右からブリキ缶やローブ姿の奴等が広間へ雪崩れ込む。
 これまでで一番多い敵の数かもしれない。
 怒りに胸が震え、歓喜にも似た感情が溢れ出すのに俺は気が付いた。最初に手が命をつかんだ時、俺は壊れてしまったのかもしれない。
 「俺に構うな土人ども!」
 「黙れ、人間未満のサモンドが!王の命によりお前を連行する!おとなしく縛につけ、さもなくば手足位は覚悟してもらう!」
 「どいつもこいつも同じ言葉を吐きやがって。その結果どうなった!」
 そんな強がりを吐いてはみても、今回はヤバそうだった。とにかく人数がおおい。
 手足に力を込めて、その時に備える。
 だが不意に図上から視線を感じ、そちらを見上げた。
 優しげな眼差しの獣が俺を見下ろしていた。
 嗤うのかよこいつ、ならこいつら皆てめえの捧げ物にしてやるよ!
 「おおお!」
 咆哮した、人のものでない獣の咆哮。振りかざす手には5本のサーベルが生え、口には骨を噛み砕く牙があった。
 一度地を蹴れば、次の刹那、目の前にはブリキ缶から覗く、恐怖に満ちた瞳があった。
 首を掴み持ち上げる、流石に掌には乗らなかった。
 けたたましい悲鳴は少し力を込めればブタの鳴き声のような音に変わった。
 バルクール神だ、バルクール神が表れた。
 そんな囁きがあり、それをかきけす絶叫。混乱の中で武器を捨て出口へと殺到する人々。
 やがて現れたときよりはるかに早く、広間には俺とそして手の中のブリキ缶だけを残して誰もいなくなった。
 ブリキ缶の股間からおびただしい量の臭う液体が漏れ出すのを見て、俺は小便野郎を放り投げた。
 派手な音を立てて落下した彼は濡れた黒い線を残しながらはって他の奴等を追った。
 1人残された俺は夢でも見ているかのような気持ちで突然起きた混乱の跡を眺めていた。

 よく分からないまま、俺は逃げたやつらとは逆方向、広間から左手の通路に入り、暫く行くと水が流れる音が聞こえてきた。
 水の流れをたどれば外に出られるんじゃないか、そんな浅い考えのままそちらに向うと5分とたたずに俺の前には濁った濁流が表れた。
 たぶん下水だろう、薄汚れた水は不衛生であったが、臭いは感じなかった。
 今のおれ自身よりも酷い臭いをしているものを探すのは砂の中の砂糖を探すのよりも難しそうだ。
 とりあえず俺は流れに沿って通路を進むことにした。手すりもないが十分な広さのある通路だから落ちることもないだろう。
 辺りに人の気配はなかった、あの謎の混乱で兵士はすっかり逃げてしまったのかもしれない。だから俺は安心していた、気が緩んでいたと言ってもいい。
 「あはー、いたー、バスティアンの言った通りだなー」
 そんな無邪気な声に俺は飛び上がり、危うく下水に落ちるところだった。
 1人の少女が、少女と言っていいのか甚だ疑問だが、松明の下に立ってこちらを眺めていた。何が面白いのか、ニコニコしながら。
 いたという事は俺を探していたと言うことだ、そして彼女の手には物騒な斧だ、小降りだが十分人を殺せる。
 ただそれだけで判断には十分だった。
 俺は彼女に飛びかかり、首を掴むと石畳道に引き倒した。
 キョトンとしていた顔が驚きに、そして痛みに歪む。
 「いったーい、何すんのーギャラはバスティアンに戦っちゃダメって言われているの!やめてね、やめてー」
 「黙れよ!」
 俺は女の子の頬を左手で挟み黙らせる、不器用な化粧のように少女の顔に朱が引かれる。
 変な顔で唸る彼女の目尻には涙が滲んでいた。
 「おい、答えろ!出口はどこだ!」
 強い口調で詰問すると、ついに涙が頬を伝う。
 可哀想だとは思うがなんとかして聞き出さなければならない。
 「それくらいにしてくれんかな、その子は君に危害は加えんよ、加えられる事はあってもな」
 再び声がした。
 俺は女の子を押さえつける手は緩めず、あたりを見渡した。するとさっきは誰も居なかった壁際に1人の男が立っていた。
 咄嗟に俺は女の子が落とした斧を左手でとると、男に向かって投げつけた。
 「やあぁ、ギャラの斧ー!」
 少女の抗議の声と石の砕ける音、金属が弾ける音が重なった。
 しかし男は何事もなかった様にそこに立っていた。

 「気が立っているのはわかる、だが少し落ち着いてくれ。それとできればその子を離してやってくれ、子供に暴力を振るうのは君の憎む相手と同じじゃないかね?」
 「つっ」
 確かにそうだと思いしらされ、ゆっくり体を起こすと彼女から飛び退く。
 解放された彼女は一目散に俺が投げた斧の元へ、尻尾、そう鱗だらけの尻尾を振りながら向かった。
 「ギャラの斧!」
 斧を拾うとそのまま彼女は男の傍らに立った。
 「バスティアン、ギャラ戦わなかったよ!」
 「そうか、偉いぞ」
 バスティアンと呼ばれる男がギャラを誉めると彼女は目を細めて喜んだ。
 「お前らいったいなんのつもりだ」
 目の前の茶番に俺が我慢できずに叫ぶと男がこちらを向く。
 そこで俺は男のおかしなところに気がついた。
 横に立つギャラに比べ明らかに薄いのだ後が透けて見えるほどに。
 「ああ。ひとつ断っておくと私は今、君の前にはいないのだ、姿はあってもね。そういう魔術なのだよ」
 「んで?子供をけしかける様な臆病者の下衆魔術様が俺に何の用だ?」声を凄ませ続けた。「言っておくが俺はお前らの酋長の元にも、頭のおかしい女元にも戻るつもりなんか無いからな、説得は無意味だ!」
 「やれやれ、全く口の達者な男だな」バスティアンは苦笑した。「安心しろ、君が酋長と嘲る王と私はそこまで関係無い、私はこの国の外の魔術師だ」
 信用できるわけがない。
 そんな俺に彼はため息をつくとかぶりを降った。
 「その目は信用していないな、まあいい時間もないし要件だけ伝えよう」
 何が起きても対応できるよう、周囲を確認してから再びバスティアンへと視線をむける。
 「準備はいいみたいだな、まあこれから話す事を信じても信じなくてもいい」
 彼はそう前置きして話し始めた。

 バスティアンの話しはこうだった。
 このまま下水を下っても外には出られるず、奈落が待っている。だから今いる通路を行き下水から離れて見つかる階段を昇る。すると地上まで出られるから目の前の塔に登り最上階から外を見る、そこで赤い色の大門が見えるからそれを通って外に出れば、国外に通ずる街道に入れると。
 「信用できるか」
 「うむ、それは君の自由だ。だがこのまま下水を下ったところですぐに奈落に行く手を阻まれ戻ることになる。そして地上への出入口は数えるほどしかない、幸運にもそのうちひとつを見つけることができたとしても、その頃には君が下水に入った事は知られているだろうし、全ての出口には十分な兵士が置かれるだろうな、まだ誰もいないその出口も含めて」
 たんたんとバスティアンは腹立たしい未来の事を語った。
 「だがお前を信用する理由がない!」
 「勘違いしないでほしいのだが、これはただの提案だ。交渉ではないし、こちらは君を説得する労力を使わない。老人を酷使せんでくれ」バスティアンは突き放すように言った。「君がさ迷うというならどこへでもいくといい、だが私の事を信じるならこのギャラが迷宮の出口まで案内しよう」
 「は、こいつが?」
 俺がみるとギャラは何が楽しいのか、ケタケタ笑いながら手をあげる。
 「いいよ!ギャラなら道ばっちり!」
 「最後までとはいかんがね、君に力を貸した事を知られる訳にはいかんのでな。だが外までは連れていけよう、まあもし私が騙したと思ったのであれば、その子の尻尾を引っこ抜くなり好きにするがいい」
 「ギャラの尻尾触るかー?」
 つき出された尻は無視して俺はセバスティアンを見据える。
 信頼できるだけの理由が欲しかった、が彼はそれ以上黙して語らなかった。
 僅かの葛藤の末に俺は首肯した。
 「案内を、頼む」
 「ではそのように」彼は口角を上げて笑った、嬉しそうにだ。「ここから出ることが出来て、ペルン以外の他国に入ることができても目立つ行動は控える事だ。それと塔の守護者の国、ガンパルドという名前の国を目指すといい、そこには君を奴隷にしようとする魔術師はいないし、力になってくれる人間も多い」
 「…考えておく」
 俺の返答に彼は苦笑した。
 「全く、魔術師恐怖症なんて病は聞いたこと無いがな、まあいい、そこで会える事を信じている」
 なんだよこいつの国かよ、そう俺は思ったが口にはしなかった。
 「では急ぐといい、まだ暫く出口は安全だろう。ギャラ、この人を案内しなさい」
 「わかったよー!じゃあこっち!」
 2、3度飛びはね自己主張をするとギャラは満面の笑みを浮かべたまま走り出した。
 俺はあれこれ考える間もなく彼女を追う羽目になった。

 陰鬱な橙色に支配されていた通路が2人になったことで明るくなった気がした。
 目の前の揺れる尻尾の持ち主は、時折肩越しに振り返り俺がついてきている事を確認すると楽しげな声を上げてさらに速度を上げるのだった。
 たぶんこいつのせいだろう。
 そんなこんなで上がる一方だったギャラの速度が急に緩やかになり、やがて歩きだした。すると目の前には明らかにそれとわかる階段が見えた。
 「ギャラ、ちゃんと案内できたよー!あれ上れば外、その後とー?登る?」
 「ああ、ありがとう」
 「感謝、嬉しい!」
 その場で彼女は跳び跳ねて喜びを表現した。
 急に俺は彼女を引き倒してしまった事への罪悪感を覚えた。
 「なあ、さっきは悪かったな、斧投げたり、酷いことして」
 「んー?」
 ギャラはキョトンとして俺を見てから歯をみせた。鋭い牙がちらりと覗いた。
 「大丈夫、ギャラはセバスティアンの言うこと守れて嬉しい!たけどお前がギャラの頭を撫でてくれたらもっと嬉しい!」
 彼女は自分の中の頭を突き出して俺に撫でるようにうながした。
 唐突、しかも脈絡の無い彼女に俺は困惑しながらも勢いに押され、手を伸ばしかけた。
 「ああ、ごめん、駄目だ」
 「えぇー、なんでーギャラ撫でて欲しいー」
 「ほら俺の手、きたねえからさ」
 赤く染まり、厚く黒い層状の部分が所々にある。謎の破片、チューブ状の何か、そして意識すれば改めて鼻を突く異臭。
 この汚物をこの子の頭に擦り付ける事は尻尾を引っこ抜く並みに酷い行為であろう、バスティアンに怒られる。
 じぃっと俺の手を見ていたギャラはやはり楽しそうに笑った。
 「じゃーあ、次に会ったときに撫でてー?」
 「ああ、わかった」
 次会うことは無いだろうが。
 「じゃあ俺は行く、ありがとうな。バイバイ」
 俺が手を振ると彼女は真似して力一杯手を振り回す。
 「バイバイ!バイバイ!」
 意味がわかっているのかどうなのか、その無邪気な声に見送られて俺は光の差す階段を駆け上がった。

 急な光の元に出て目に白い幕を被され、頭の奥が痛くなった。 
 確かにブリキ缶の出迎えは無かったが、俺は警戒しながらあたりを見渡す。
 草が生えるに任せた、人の手が入った様子の無い広場を建物が囲っていた、そしてその広場の中心にバスティアンの言っていた塔があった。
 思ったよりもずっと細く頼りの無い塔だが、高さはありそうだ。
 造りはいじけた赤のレンガで所々に隙間があるのは今もそれを侵食する植物の影響か。
 とりあえず登るのには問題なさそうだ、将来的には知らないが、近づきながらそんな風に思った。
 幸運にもその塔の中、一階部分には腕ほどの管から水が流れ出ていた。
 受けの石造りの水槽は使われた様子がなく、様々な沈殿物が見えたが、水は清浄そうだ。
 透明で素晴らしい無臭、口に一口含めば自然と喉の奥へ吸い込まれていく、冷たくてうまい水だった。
 喉を潤した後は急いで顔や手を洗った、ある程度落ちたらそこで俺は区切りをつけ、塔の階段を駆け上がる。
 螺旋階段の石段を蹴る足音が細長い空間で上に向かって反響した。
 結構長く上っていたと思う、不意に階段が途切れ四方が壁に囲まれた。いや、その壁は手すりになっていて、四方に口が空いている。ちょうど狭い鐘楼のようになっているところだった。一人立てば一杯のそこに立ち上がり、俺は外を眺めた。
 レンガ造りの街並みがまず目に入った、落ち着いた色合いの屋根が連なり、整然と建物が建ち並ぶ町は写真にでも納めたくなる美しいものだった。
 俺は1人かぶりをふった、探すべきはそんなものではない。
 別の方角を見れば遠くに門があった、だがそれは黒で赤くでは無い。
 狭い足場の上で注意深く後ろをふりかえる。
 連なった建物の屋根の向こうに鮮やかな赤色が映えていた、バスティアンの教えてくれた門に違いない。かなり巨大な門だから近づけば下からでも見える事だろう。
 方角は大体わかった、そう迷わずに門にたどり着けるとは思う、邪魔さえ入らなければ。
 問題はそこで、そしてその邪魔はここで風景を楽しんでいる間に増えるのだ。
 階段に飛び降りると俺は来たときよりも早く下り始めた。

 俺が出た周囲はどうやらこの街の中にあって、打ち捨てられた一角のようだった。理由はわからないし興味も無いが、崩れたり、無人だったりする廃屋が多かった。
 勿論人がいないわけではない、が、こういった所にいるのは訳ありの人間が多いのだろう、俺の異様な姿を見ても然程興味を持たなかった。
 驚いて見るような奴もいるが、俺がここにいたという事が暫くたった後に知られる分には構わない。
 しかしそんな隠れ蓑になってくれる一角もいつまでも続く訳がなく、清潔で人通りも多い活力のある街並みに差し掛かった。
 薄暗い路地影から観察していると着飾った人々が闊歩していて、やはり俺のようにあちこち裂けているうえ、血にまみれた服を着ている奴など居なかった。そのうえ、治安を維持するためだろう、巡回する軽装、胸鎧と青に黄色の縦線が入ったダサいユニフォームに身を包み、剣を腰に下げたパトロールがちらほらいた。
 まだ警戒線は引かれてはいないだろうが、それも時間の問題だ。
 もたもたしている暇はないが、だからと言っての格好のまま通りに出れば確実に呼び咎められらるだろう。
 後は強硬突破、そんな言葉が頭に浮かんだ時だった、通りを往来する人々の中に目を引く人がいることに気がついた。
 全身を1枚の布からなるフードつきの服に身を包み、見えるのは口元くらい、その表情さえうかがえない陰気な人々。いかにも魔術師な格好、魔術師が皆そうなのか、彼らが特別なのかはわからないが、あんな怪しいのに彼らが咎められことはなかった。
 あれなら身を隠せる、が、そんな都合よくローブを手に入れることなど。
 舌打ちし、諦めとともに天を仰ぐ。
 「あ、あった」
 おおよそ文明的な生活を送るのであれば、方法はさておき、洗濯位はするだろう。頭上には紐に吊るされた紺色のローブが俺に盗られるのを待っていたのだ。
 その建物のバルコニーからぶら下げられた洗濯物に俺は飛び上がり手を伸ばした。
 わずかに湿ったそれを頭から被ると俺は迷わず通りに飛び出すと目立たないように自然に、人の流れに沿って門の方向へと向かう。
 ややあって俺は思わず歩きながら体を強張らせた。
 正面からパトロールの二人組が歩いてきたからだ。握る拳に力を込めて対応できるようにした。が、それは余計な心配だった。
 俺を気にも留めず、彼らは談笑しながら歩いていた。
 「だからよ、俺はその魔女に言ってやったんだよ。俺の母さんだってもっと上手く鍋で煮込むってな」
 「ははは、そりゃあ傑作だ!言われたやつの顔が見たかったぜ」
 何が面白いのか全くわからなかったが、ばれる心配が無さそうで俺の足取りは軽くなった。
 中心に噴水のある円形広場を通り抜け、左右に店が建ち並ぶ一角に入ると正面に赤い門が見えてきた。
 観光地としてやっていけそうな計算された美しい街並み、だが不意に俺はここに来た時に言われた言葉を思い出した。
 魔術師以外は人間でない、つまりここにいるやつらは皆、ろくでなし共と言うことだ。そう考えると景色を見る気すら失せる。
 うつむいて店の前を通り抜け、ついに門のある広場に足を踏み入れた。等間隔に街路樹が植えられ様々なモニュメントがあるその広場には大勢の人がいたが、思い思いにくつろぎ楽しむ奴しかおらず、いまだに平和そのものだった。
 足早に門に向かう。
 門はいままで見たなかでも、かなり大きなものだった。高さは10メートル、幅は7、8メートルはあるだろうか。
 これに匹敵しそうなのは俺が見たなかでは通船門位だ。
 どちらが大きいかはわからないが、とにかくあの大きな門を人や馬車なんかが通っていて、もし閉じられてしまったら少しどころではなく困ることになる。
 「おい、聞いたか?アリーナの方で騒動があったらしいぞ」
 「ああ、なんでもミーナ殿下のサモンドの試合中にトラブルがあったとか」
 「らしいな、詳細はわからないが向こうはだいぶ混沌としているらしい、何人もの騎士達が建物に入っているみたいだ」
 俺は足を早めた、俺が逃げ出してどれだけたったのかわからないが情報は早かった。
 門の前まで来て、並ぶ人の列に加わる。
 いったい何の列だろうか、疑問に思ったが列は門の外に通じているから外に出るための列なのだろう。おおかた出入国関連の手続き…となるとだいぶ不味い。
 そうなのだ、何かしらのチェックがあってしかるべき事だ。そんな事には少しも思いも至らなかった自分に腹が立った。
 身分証の提示なり手形なり、とにかく門を通る権利を証明するものがあるはずだ。そんなものを俺は持っていない。
 よく観察すれば門の前、詰め所のような場所で例の制服に身を包んだ兵士の前で数秒間止まり、それから動き出していた。簡単な証明のようだ。
 だからこそ誤魔化しは利かないかもしれない。
 じわじわと進む人の列。前からは通るはずの無いチェックが、後ろからは捜索の手が迫る。
 どうするか。
 門の所にはチェックのために詰め所が4ヶ所、チェックをする軽装の兵士が各場所に2人。そして詰め所の中には確認できるだけでブリキ缶が2人はいた。最低8人プラス8の16人。
 覚悟を決めるしかない、自分の番になったら係の兵士2人を素早く始末し、全力で外出る、それしかない。俺は進む列に並びながらいくつものパターンについて考え、シミュレートした。
 そして次が俺の番になった。
 「失礼しますね」
 兵士は前の女性の腕をとると何かを確認した。
 「エリザローグさん、魔術画家ですか」
 「ゲンダーの牧に写生に行きますのよ」
 「わかりました、子馬がたくさん生まれたそうですよ、楽しんできてください」
 「ありがとう」
 エリザローグの番はそれで終わった。
 「次のかた」
 いよいよ俺の番だった。
 胸が高鳴るのを必死で抑え、ローブのしたで握りこぶしを握った。どのタイミングで切り抜けるか、いきなりか、話をしてからか。
 兵士の前に立つ。
 「失礼しますね」
 俺が彼の顎に拳を叩き込む前に、彼は俺のローブの裾とった。
 「スライバルガさん、薬剤師」彼は俺を見ながら営業的な笑顔をみせた。「薬草の採集ですか?」
 「は、あ、えーと、そうですね」
 彼は満足そうに頷き、袖に黒い石を押し当ててから離した。
 「ラズラック方面の森には盗賊が出没したという情報がありますので、お気をつけ下さい」
 「わかりました、ありがとう」
 それでチェックは終わりだった、逸る気持ちを抑えゆっくりと門をくぐる。門の影からでても、外へと通じる橋を渡りはじめてもずっと俺は拳を握っていた。
 ようやく力を抜いたのは硬い石の地面から柔らかい土に足が乗ったときだった。
 振り返り門と街を包み隠す城壁を見た。
 危うかったが、あの要塞のような場所から逃げる事はできた。
 だが、これからどうすればいいのか、この国から出て他の国へ行く。それはいい、それからは?
 全くその先の事が見えない、地理も文化もなにもわからない地で何ができるのか。
 不安が次々に沸き上がり、胸を刺す。
 だが立ち止まってばかりもいられなかった。
 「閉じろ、門を閉じろ!」
 そんなわめき声が聞こえてきた、そして俺の前でゆっくりと門が閉じていく。
 俺は閉じきるのを見ずして背を向けると足早に忌々しい都市から遠ざかった。
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