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2.逃走

2.2 追手

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 「逃げられただと!?」
 ペルン王は声も荒々しくその報告に床を蹴った。
 「そんな…」ミーナは顔面蒼白で胸に手を置いて呻いた。「わたくしの…」
 「は、ははっ!」報告をした騎士は跪いたまま縮こまった。「薬師から身分を記したローブを紛失したと報告があり、その身分の者が門を通ったという記録が残されていました。魔術師であればそのような挙に出るとは思えません。そして廃墟街のハーミットから怪しい、血にまみれた人間が門の方に向かったという報告もなされています、この事実から考えると門から出たのは件のサモンドかと」
 騎士の目の前で水差しが派手な音と水しぶきを上げてくだけ散った。
 哀れな騎士は動く事も許されず、身を震わせ水を被った。
 「役立たずめ、捜索をつづけろ!」
 罵声を浴びて騎士は逃げるように謁見の間からでていった。
 「誰かあやつを捕らえる良い意見はないか?!ペルンの危機である!」
 だが居並ぶ魔術師の反応は薄かった、本当にペルンの危機であればいざ知らず、これは明らかに現王家の危機だからだ。
 そんな彼らの内心を見抜いたのか王は舌打ちすると謁見の間に視線をさ迷わせる。
 セバスティアンはひとまず胸を撫で下ろした。彼は王都の外へと出たらしい。これからが問題だし、セバスティアン自身の問題にも繋がるのが。
 「外交官殿!」
 そら来た、と彼は内心舌打ちした。
 「貴殿の知恵を貸してはくれまいか、確率と偶然の探求者よ」
 この結果はわかりきっていた、だが、彼が力を貸した時に起こることが彼には予測出来なかった。全くパターンがマナの流れの中に浮かばないというのは、つまり予想できないということは彼にははじめてだった。
 それは彼の知的探究心、つまり魔術師としての本能を刺激する事だった。一方で彼には逃げ切って欲しいのも事実だった。
 しかし答えは決まっている、セバスティアンは外交官としてここにいるのだ。
 「思い付く方法はいくつかあります、ありますが、問題が多いのです。彼の者はマナの理の外にいるのか明確な結果を見ることが叶いません、それでもかまいませんか?」
 「構わん、是非力を貸してくれ」
 セバスティアンは恭しく一礼して続けた。
 「まず盗まれたローブを追跡することです、それは容易でしょう。そして彼はローブを捨てることはありますまい。そして追っ手は完全武装の親衛隊を合わせた2個軍を向かわせます、生半可な兵力では全滅する未来しか見えません」
 「まるで戦争だな、なぜそんな戦力を?」
 「多くの兵士達がたった1人の男に殺害されました、そして遭遇した兵士の中にはバルクール旧神の姿を見たという者までいました」
 「パニックを起こして幻覚でも見たのだろう」
 バスティアンはかぶりをふった。
 「陛下、私は確かに彼がバルクール旧神の姿になるのを見ました」
 「馬鹿な!」
 謁見の間にざわめきが広がる。
 「素手で鎧を切り裂く力、エンチャントされた人間の動きに対応する身体能力、そしてたった一度神像を見ただけでその力を得る、高度なポゼッションと言うには強力過ぎる力です。私は彼が我々よりも魔術的に上位の存在だと推測します。故にカースがかかり、胸に穴が空いているのにも関わらず命令もできない」
 ううむと王は唸った。
 「ですが、魔術的には高位であっても、肉体的には今は亡き王妃様とそうは変わりません。剣が当たれば皮膚を裂き、矢があたれば突き刺さる、肉体を破壊し動きを止める事は可能でしょう」
 「それゆえの軍勢か」
 王の言葉にセバスティアンは頷き、それからミーナの方に向き直る。
 「ミーナ殿下、どのような秘術を用いて召喚を行ったのですか?可能な限りでいいので答えられるでしょうか、本来あのような高次元の者に干渉することなど不可能のはずですが、それが現実に起きている。その方法を紐解く事で彼が何処から来たのかを突き止め、例えば送り返すと言う事も可能になるかもしれません」
 「セバスティアン殿!それは我が国の重要な機密である、知れば貴殿を国外に出すことは出来ぬぞ!」
 ミーナが言葉を発する前に王が厳しい言葉で警告した。
 「これは失礼しました、お詫び申し上げます」
 ちらりとミーナを見ると彼女は俯き、今にも泣き出しそうに見えた。
 「と言うことだ、鉄槌の騎士スルタ、魔弓の騎士アザリア!」
 「はっ!」
 「ここに!」
 王が名前を呼ぶと2人の騎士が歩み出た、スルタは素顔が伺えないフルフェイスの兜をかぶり、重鎧に身を包んだ大男でアザリアはそのままパトロールにでも出そうな軽装の騎士だった。
 2人ともペルンに於ける最高位の騎士の称号を持ち、親衛隊4軍の内、1軍4軍の指揮官だった。
 「ただちにお前達は軍を率いてサモンドの追撃を開始しろ、どれだけ傷つけでも構わん、捕らえよ。それでも無理な時は命も問わん、絶対に逃すな!」
 「お任せください!」
 「畏まりました、陛下!」
 勇ましく返事をした2人は踵を返すと謁見の間から退出し、追撃へと向かった。
 それはバスティアンの予知ではなく、ただの予想、妄想だったが、2人のうちどちらかは戻らない、そんな気がしてならなかった。

 都市から離れれば離れるほど俺の足は早まり、やがて早足で歩くようになっていた。
 道は舗装されてはいないが、程よい固さの土が足に優しかった。
 完全に都市の姿がなくなり、ようやく俺は速度を緩めた。
 そして歩きながら今後の行動について考えた。
 この道は必ずどこかに通じている、この国以外に。
 それからどうするのか、それはともあれ、まずは出ないことにはどうにもなら無い。
 不意に腹が声を上げて空腹を主張する。
 そうだ食料もないし、路銀もない。働くにしたってこの国では無理だ。
 どれくらいで隣国に出られるからは知らないが、厳しい事になりそうだ、先の見えない状況は俺の憂鬱を深くした。
 それでも足取りだけは重くする訳にはいかない。
 道は緩やかな坂道に差し掛かり、周囲には草地が広がる。疎らに生える高木以外に地面から生えるのは牛らしき生き物の4本の足くらいだった。
 牧に包まれ、獣臭さが漂うが俺の方が余程臭うだろう。
 坂を登りきると道の量端に疎らに家屋が表れた。
 牧村だ。先程門番の言っていた村だろうかと見渡すが子馬は見当たらなかった。
 「観光するつもりなんてねえけどよ」
 俺は独りごち、村の中へ足を踏み入れた。
 「あら、ゆっくりとしていっていいのよ?」
 声をかけられ俺は危うく飛び上がりそうになった。
 見れば黄色く塗られた家を囲む柵にもたれかかり、1人のおばさんがにこやかに俺を眺めていた。
 「ああ、どうも…」
 「といっても牛や馬しかいないけどね、そうそう、新しく生まれた子馬は可愛いわよ?」
 俺は葛藤した、この中年女性から情報を聞き出すかどうか。
 例えばこの道の先の国やそこまでの距離、注意する点など、知っておくべき事はいくらでもあるし、機会は逃すべきではない。
 「あの、少しお尋ねしてもいいでしょうか?」
 「年令と体重以外ならなんでも」
 俺はそれに愛想笑いを浮かべ続けた。
 「この先の国についてなんですが」
 「スールダールの事ね?」
 スールダールというらしい、俺は頷いた。
 「徒歩でも1日でつくわ。でも今からだと国境の町ペンズで一泊かしらね。街道をまっすぐ、途中山道があるけどそっちへ行っては駄目よ、よく間違えて時間を無駄にして戻って来る人が多いからね」おばさんは早口で捲し立てるように言った。「お兄さん、反対側の人?薬剤師のスライバルグさん?」
 そこでおばさんは急に顔をしかめた。
 様々な悪い想像が頭を突き抜ける、例えばこの人が薬剤師スライバルグの知り合いだとか。
 だが全く違い、ある意味俺の心を抉る内容だった。
 「スライバルグさん、こんな事言いたく無いのだけれど、あなた、何て言うか、本当に臭いわ!まるで一月掃除していない牛舎の中みたいな臭いよ!」
 「あ、ああ。すみません、ちょっと訳ありで」
 「なんでもいいわ、そんな臭いじゃ泊めてくれる宿なんて無いわよ!村を出てすぐに川があるからそこでしっかりと体とローブを洗って行きなさい!いいわね!」
 それだけ言い残すとさっさとおばさんは家の中に引っ込んでしまった。
 慣れた俺でさえ臭うのだから相当なものなのだろう。 
 俺は少しでも風呂と洗濯に時間をとれるように、そしてこの臭いをこの村に留めないようにと走りだした。
 幸いな事にそれ以上村人に臭いを嗅がせる事もなく村を抜け、言われた川が見えてきた。川幅20メートル程はある広い川だが、川底がはっきり見える位の深さ、たぶん腰くらいだろう、澄んだ水を湛える清流だった。
 まず俺はあたりを伺い、誰もいないことを確かめるとローブを脱ぎ、清流に浸して揉むように洗った。俺の体に触れていた事もあり、茶色の汚れが水に溶け出す。しばらく揉んでいるとついには水に色がつかなくなったのを見とり、俺は水からローブを上げて1度強く降って水を切ると同時に広げた。そのままローブは川岸に生えていた木の枝にかけることにした。
 これで終わりではない、臭いの大本を絶たなければ同じ事の繰り返しだし、いつまでもショッキングな指摘に怯えることになる。
 人は回りにはいない、それでも俺は青空の下で全裸になることは憚られた。
 だから俺はそのまま水に飛び込んだ。
 心地好い冷たさが疲れ、傷ついた体に染み渡るようだった。
 しばらくその感覚をじっと楽しんでいたが、やるべき事を思いだして皮膚を擦り、着たままの服を叩き、揉みほぐした。
 恐ろしい勢いで水が濁り、体と服から汚れを落としていく。俺は少しずつ流れに逆らい移動して常に清浄な水に身をおいた。
 顔をつけ、潜って頭部の汚れも落としていく。
 服から色が完全に落ちることは無かったが、それでもついには水に色がつかなくなり清流は清流のまま流れた。
 その頃には最初に川に入った場所からだいぶ上流に移動し、木に掛けた服が紺色の染みでしか確認できなくなっていた。
 俺は疲労と若干の寒さを感じ水面に出ている大岩の上に登って陽光の下で休む事にした。
 空腹も不安もあったが、日の暖かさは心地好く、疲労も相まって瞼が重くなる。
 「寝るわけにゃいかねえけど」
 呟きとは裏腹に意識がぼんやりとする、疲れ過ぎているからだ。
 しょうがない少しだけ休もう、そう決めたら視界が閉ざされた。
 だいぶきたし少し位なら大丈夫だろう。
 川のせせらぎと陽光に包容され、酷い世界に放り込まれて以来、はじめて安らいだ気がした。
 どれだけそうしていたのだろう、不意に無意識の中に音が割り込んで来た。いくつものくぐもった轟、甲高い嘶き、そして人の声!
 体を起こし、岩の上で伏せた。ゆっくりと顔をあげ、音の方、下流を覗いた。
 胸は早鐘を打ち、脈が鼓膜を震わせる。覚醒したばかりの思考は驚き狼狽え、脈絡の無い思考を繰り返した。
 まず落ち着け、俺は目の前の光景に自分に言い聞かせた。
 川岸も村から続く橋や道までも人で埋め尽くされていた。
 ここからでもそうとわかるブリキ缶、ペルンの兵士達。まるで戦争に行くかと思う大仰な軍勢、騎兵隊。果たしてあれが俺の追っ手でありうるのか、残酷な見せ物が大好きな土人共の事だ、戦争も大好きだろう。
 どちらにせよ姿を現す必要はない。戦争に行くならすぐに消えるだろうが、そうでないとすると困った事になる。
 監視を続けていると数人が川に近づく、いや川岸のあの木、俺のローブ、いや借りたローブをかけてある木に近づく。
 ズキリと胸が傷んだ。
 鈍い鉄色の腕が木にのばされ、紺色に染まり戻った。
 「近くにいるぞ、探せ!」
 そんな叫びがここまで聞こえて来た。
 体を伏せたまま俺は後ろに下がり、足から岩陰に着水した。
 あの常識外れの数は俺の追っ手として気の狂った王が差し向けた軍隊だったのだ。
 なるほど有言実行と言うわけだ。
 川の中、姿勢を低くし頭だけを出して上流へと向かった。他に俺が行ける場所はない。
 とにかく俺はあれから離れる他なかった、今わかっている隣国スールダールへの道から離れてしまうことになったとしても。
 いくらか遡上するとやがて川原がなくなり、両側が崖になっている渓谷へと入った。川幅も半分程度になり、その分水深も深くなる。
 あまり泳ぎが得意では無い俺は崖の陰に上がり、できる限り周囲を伺う。
 今のところは気がつかれた様子はない、崖は高さ15メートル位だが切り立ってはいなく、急だが凹凸が多くて足場になりそうな場所は多い。落ちたらゲームオーバーだが、登ることはできるだろう。
 崖を登って上に出るか、動きが鈍ってでも川の中を行くか。ここに隠れるという選択肢はない、十分な人数がいるのだからローラー作戦をとるだろう、なら確実にここまで来る。
 少し迷ってから俺は岩の割れ目に手を掛けた。

 崖に張り付き這うように登るあいだ、遠望に蠢く影を何度も振り返った。
 こちらから見えるのであれば向こうからも見えるのではないか、そんな不安に手足を掬われる前に、考えるのをやめて目の前に集中した。
 指を掛けそこなわないように、足を踏み外さないように、小石すら落下させないようにと。
 だが疲労に空腹、怪我も負っているのに俺の体はいつにもなく絶好調だった。10分とかからなかったと思う、崖の上に屈み、下の川を行く一団を伺った。
 それから崖上の状態を確認すると、そこが登山道の隅だとわかった。幸いな事に道は続いてはいた。ただ、あのおばさんの時間を無駄にして戻って来る、という話が引っ掛かった。どこに通じているのか、もしかしてどこにも通じていないのか。
 だが結局ここでも道は限られている、上へ向かうために足を踏み出したその時だった、踵に硬いものが弾ける感触があった。
 足元を、後方へと視線は追っていく。
 それは普通なら気にも留めない小石、親指2つ分くらいの黒い石ころ。俺の踵に踏まれ、飛び出したそれは2度斜面で跳ねると、俺が登って来た崖へと飛び出した。
 渓谷の中央に向けてゆっくりと落ちていくそれから目が離せなかった。
 小さな水柱をあげる音が聞こえた気がした。
 3人のブリキ缶がしぶきを見てから、おもむろにこちらを見上げる。
 そのうちの誰か、きっと全員ではない、と目があったと俺は思った。
 視線は下から上へ。
 全力で登山道を駆け上がる俺の背中で上がる怒号を俺は無視した。
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