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5.魔女の仕事、従者の仕事

5.7 戦い、それぞれの役目

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 俺の眼前で一斉射された矢と投石器から打ち出された岩石が光の壁の前でのたくっている巨体に吸い込まれていった。それを受けた化け物は僅かに壁から離れた後で再び壁に体当たりを繰り返す。正直大した効き目はないようだ、小石をぶつけられれば少し痛くてひるむが、その程度なのだろう。
 「ポコちゃん!」嬉しそうなレイアの声が一変して不安下に曇る。「大丈夫?」
 俺に抱きかかえられ、顔色の悪いポコリナを見たからだろう、見たというのはたぶんそうなんだろうという俺の予測だ。羊少女は今や分厚い光のヴェールに包まれその顔は見えないからだ。
 「レイア悪いけど少し治療をお願いできるかな…」
 「は、大丈夫なのかよ、レイアはあの化け物止めてんだろう?」
 俺の言葉にレイアのクスクスという余裕のある笑い声が返ってきた。
 「大丈夫だよ」
 いうが早いか光の中から手がにゅっと出てきたかと思うと、ポコリナの胸に触れた。そして次の刹那にはあれだけ顔色が悪かったポコリナに生気戻っていた。
 「ポコちゃん、何があったの?」
 「あたしもあいつの瘴気にやられて死にかけた、というか死んでいたらしい。でもホリィに蘇生してもらったんだ」
 「ポコちゃんが…」恐怖がにじんだ声のレイア。「ホリィさん、ありがとう」
 友人が失われることが怖かったのか、あの化け物が怖いのかわからないがきっと前者だろう。
 「ま、仕事だしな」
 「なるほどポコリナ様でも耐えられないほどの瘴気ですか、突撃しなくて本当に良かった」
 指揮を執っていたサヴァーンが戻ってきていた。
 「そりゃあ正解だったね、この場であいつに近づけるのはホリィぐらいさ」
 おっさんは俺を見て頷いた、それから現在の状況の説明を始めた。
 まずレイアの結界で化け物は止まっていること、そして初めより距離が三分の二くらいに縮まっていて、残りの猶予がそうはない事。そしてその猶予のうちに現在集結中のアカデミーと王国の部隊は到着しないという事。おそらく二つほどの集落を飲み込んだ場所で会敵すると思われるが、その場合はかなりの農地が瘴気に飲まれることになるとおっさんは言った。
 「それでポコリナ様、何かいい知恵はありますかな?」
 サヴァーンの言葉にポコリナはうなりながら考え込んだ、それから小首をかしげおっさん、俺、メリーゼ、光の塊を見渡す。
 「あの瘴気の塊の活動を停止させる魔術は時間をかければ用意はできると思う」
 彼女の言葉におっさんは感心した様にうなる。
 「だけど事はそう簡単じゃないんだよおじさん、あいつの表皮は予想以上に厄介かもしれない」
 「ポコリナさんの言う通りですね」メリーゼとかいう魔女はポコリナに同意した。「私の分析によるとあいつの表皮は破城兵器くらいでないと傷がつかないし、何より魔法による攻撃はほとんど用をなしません」
 「流石だねメリーゼ」
 褒められてもメリーゼの深刻な顔は微塵も動かなかった。
 「そうなるとポコリナさんの魔術も…」
 「そうだね、だからあの化け物の表皮に少し傷をつけてもらいたいんだ。どんな小さくてもいいから内皮まで届く傷をね」
 「即席のカタパルトや弓ではそれは不可能ですな、つまり…」
 「そう」
 サヴァーンにポコリナは頷くと二人して俺をみた。
 「唯一あの瘴気に耐性のあるホリィ殿が」
 「直接たたくんだ」
 一同の視線はいつまでたっても俺に注がれたままで居心地が悪かった。それに何かを待つような、何かを期待するような感情が込められていることに俺は気が付き、その意味を悟った。
 「まあ…やるだけはやってみるけどよ」
 俺は光の壁の向こうでのたうつ化け物を見た。正直、瘴気を抜きにしても近づくのさえ困難な気がした。
 「どうこうする前にあの巨体に押しつぶされそうな気がするんだが」
 「そうなんだよね…、サヴァーンおじさん、何かいい方法ないかな」
 ポコリナはすがるようにおっさんを見た。
 倒す手段はあってもその方法はない、そんなので俺をあの化け物にけしかけようとしていたなんて無責任な奴だと俺は思ったが、それは間違いだった。
 おっさんは少し考え込むがすぐに力強く頷いた。
 「やって見せましょう」
 ポコリナはサヴァーンやこの場にいる者たちの能力も織り込んでいたのかもしれない。

 全員の準備が終わったのはレイアが作り出す光の壁が最初見た時の半分ほどになったころだった。もうろくに時間は残されてはいなかった、もしこれでうまく行かなければ俺達は即時撤退する事になっていた、その結果は考えるまでもなく悲惨な事になるのだろう。
 ポコリナは既に化け物を始末するための魔術を準備するために集中状態になっていた。詳しくは知らないし、理解もできないがレイアの力を借りるとのことだった。
 サヴァーンのおっさん率いる騎士団は全員が弓を構えていた。つがえられた矢が変わっていて、長い縄が矢の尻から延びていた。
 準備の大半がこれを用意するためだった。矢につけられた紐一本一本にメリーゼが何やら細工をしていたのだ。彼女はエンチャントと呼ばれる種類の魔術が得意らしく、それは人や物に特殊な力を付与するのだという。
 そのメリーゼは疲れ切った顔をして俺の後ろにいた、まああれだけの数に何か細工をしたのなら仕方ない。忌々しい事に俺も彼女から何らかの術を掛けられるらしいが、疲労で失敗しないことを祈るばかりだ。
 「では作戦を開始する、ストレイア様!」
 サヴァーンの号令で作戦が始まった。
 最初に動くのはレイアだった。
 ずっと化け物の進行を阻止していた彼女だったが、その障壁をあろうことか消してしまった。光の壁に阻まれることが亡くなった巨体は当然一気にこちらに向かってきた。だがもちろんただの自殺行為で終わるわけがなかった。
 再び発生した光の壁は化け物を止めるだけではなく、瘴気と共にその内部に閉じ込めた。まるで凄まじい重さに耐えられぬように巨体は荒れ地に押し付けられることになった。だが動きを完全に止めたかのように見えたのは最初だけで、すぐにそれを押し返そうと蠢いた。
 光のドーム表面に虫が這うような紫のスパークが絶え間なく発生するのを見るにいつまでも縫い留めておけるとは思えなかった。
 「放て!」
 即座にサヴァーンの次の命令が飛ぶと、紐が括りつけられた矢が一気に放たれた。だが矢は化け物自体ではなく、その巨体の上を通過して飛んだ。
 「矢尻よ、その密度を変えよ、重さを増せよ」
 メリーゼがアホみたいなセリフを飛ぶ矢に向けて吐いた。すると飛んでいた矢は急激に速度を落とし、真っ逆さまに荒れ地に向けて落ち、やがて深々と刺さった。
 結果、無数の紐が化け物の体に絡みつく事になった。
 「麻よ、鋼鉄と化せ」
 再びメリーゼの声がそう命じる。
 あんな細い紐では巨大な化け物を縫い付けられるわけがないはずだった、だが化け物が暴れても紐は髪の毛のように引きちぎられることはなく、見事にその目的を果たしていた。
 弦楽器をでたらめに弾くようなビュンビュンという音の中を俺は大剣を肩に構えながら巨体に向けて走った、今のうちにあの化け物のどたまを勝ち割らなければならない。
 鼻を衝く妙な生臭さが結界内に入った事を知らせた。
 手はずでは俺が大剣を振り下ろすのを見計らって、メリーゼが大剣に魔術をかけるのだそうだ。その効果があるうちに打ち下ろせばたいていの物は破壊できるのだと魔術師どもは保証した。
 眼前に震える化け物の頭部があった。目はなく、巨大なホール状の口が先端にあるのはヤツメウナギを思わせた。こんなものに生身の人間がこんな棒切れで立ち向かうなんて正気の沙汰ではない、そう思っただろう。だけど少し前から、この世界に落とされたときから俺の現実は少し変わってしまっていた。確かに魔術があるらしいという事は信じるもくそもないくらいの現実として俺の前に横たわっているのだから。
 だけど現実っていうのはどんな場所でもしばしばうまく行かない事があるのだ、見込みが甘かったり、予想外だったり、あるいは俺自身がその証明の様な不運だったりだ。
 化け物の頭めがけて剣を振り下ろそうとした瞬間だった、変圧器の上げる唸りのような音がしたかと思うと、次々に堅い物がはじける音が続き、化け物が首をもたげた、縫い付けていた紐が切れていくのだ。
 そして奴は一度顔を持ち上げたかと思うと、荒れ地に向けて叩きつけ、すべての呪縛を断ち切るように再び空に向けて頭を上げた、俺の体と共に。
 直接当たったわけではなかった、だが打ち上げられた物がたどる結果は同じだ、頂点に達すればあとはさがるだけ。全てが妙に遅く感じる中で少しずつ化け物の不気味な頭部と丸い口が近づいてくるのが見えた。
 俺は唖然とそれを見ていた、何をしていて、何をすべきなのかそれが見えなくなってしまっていたからだ。
 だが唐突に体を駆け抜けた衝撃が俺の思考を再起動させた。体を包む不可思議な重量感、まるで全身に鉛を括りつけられたかのような感覚はやがて腕に、そして手に移り、握られている金属塊に出て行った。
 きっとこれがメリーゼの魔術なのだろう、鈍い輝きにブレて見える大剣を目にして俺はやるべきことを思い出した。
 あいつのどたまを勝ち割ってやるんだ。
 自然と雄たけびが湧き上がった、目一杯の力を籠めるために。
 スパイクのような歯がびっしりと並ぶ丸い口が金属塊に覆い隠されると手と腕に痺れるような痛みがあり、それから灰緑色の液体で目のまえが一杯になった。
 どぶのヘドロを煮詰めような悪臭が襲ってきたところで俺は自分を見失った。

 ポコリナはこれ以上ないくらいの平安の中にいた。温かく慈悲に満ちたストレイアの気を体中に満たすのはただちに眠りに落ちてしまうほどに心地がいい物だ。
 だから彼女は自分の体の外に意識を置いて、半ば俯瞰するようにすべてを見ていた。
 既に魔術は出来上がっていた、体を包むこの心地よさがあの化け物を倒す力となる。
 我々とは全く逆の存在である瘴気の魔物、我々にとっての生は彼らにとっては死となる、全くいびつな生き物、いや生き物といっていいのかすらわからない。
 それはいつもポコリナを悩ます疑問だったが、彼女はその考えを頭から振り払った。
 今は集中しないと。
 戦況の変化を微塵でも見逃さないようにして、術を放ったり、撤退をしたりするタイミングを決めなければならない。
 そんなポコリナだったからこそ誰よりも早く異常に気が付いたのだった。
 瘴気が魔術の障害になる事は知られている通りだった、瘴気の濃度が濃ければ濃い程魔術は組み立てにくく、組み立てたとしても保持されにくい。例えばあたりを焼き尽くす大火球を十秒で組み立てられたとしてもそれが三十秒になり、少々表面を焦がす程度の火の玉になってしまう。だがそれは既にエンチャントされた物体に関しては大きな影響を与えないとされてきた。
 メリーゼは才能のある魔女である事をポコリナも認めていた、短期間であれだけの数にエンチャントを施したのだから。その業に不満はなかったし、不備もなかった。あったのは自分たちの認識不足だったのだ。
 ポコリナの視ている前で化け物を括りつけている紐を覆い、付与しているマナが奇妙な動きを見せた。高濃度の瘴気に触れると絡みつかれるようにして次々に引き離されていくのだ。
 いけない!
 ポコリナは心の中で叫んだ、がそれを声にすることはかなわなかった、彼女の体からは意識が出て行ってしまっていたからだ。そしてたとえ声になってもどうにもならなかった、それほどまでに変異は早く、彼女の従者もすでに化け物の前だったからだ。
 エンチャントが完全に剥離すると紐は化け物を拘束するワイヤーではなかった、次々に切れていき、次の刹那には化け物は完全に動きを取り戻していた。
 考えうる最悪のタイミングだった、結界内で自由になればすぐに化け物と瘴気は結界を食い破りあたりを蹂躙するだろう、そうなればレイアもサヴァーン達もメリーゼも自分も、何より従者が一番初めに…。
 従者の剣が振りかぶられる瞬間に化け物の巨体が地面を抉り、土煙が上がる。
 ポコリナははっきりとその光景を見ていた、従者の体が空高く打ち上げられ、それに向けて化け物が伸びていくのを。
 目をそむけたくなるような絶望的な光景もすべてポコリナには見えていた。がそれは絶望から困惑へと変わることになった。
 従者にマナの流れが追従していたのだ、それはメリーゼのエンチャントだった。
 え?
 それは魔術師の理に反する、ポコリナを混乱させるに十分な光景だった。
 一介の魔術師のエンチャント、それにしては巨大すぎるマナは恐ろしい事に成長し続けていた。高濃度の瘴気に曝されているのにも関わらず、逆にそれを吸い込むかのように同一の動きの中に取り込んでいく。
 現実なのか何らかの原因が見せる幻なのか、判断が付かないままその現象は現実とは思えない結果へと終着する事となった。
 空中の従者に到達したメリーゼのエンチャントだった魔術は彼の体、胸の穴に吸い込まれると不可思議な渦を巻きながら駆け巡り、やがて彼の手に持たれた大剣に至った。その刹那に大剣はまるで建国記念のオベリスクのように巨大化し、化け物の頭に突き刺さった。
 知覚を狂わせる巨大なマナスパークが魔術師たちのウィザーズアイをくらませる。
 そして信じがたい現象の後に残された現実はほどばしる大量の灰緑色をした化け物の体液と三分の一ほどが真っ二つにされた頭部だった。
 だがその状況でもあの化け物が生きている、それがポコリナにはわかった。
 だから彼女は自分の周りに集めていた命の光を傷口めがけて放った。
 急速に戻るポコリナの意識、光の束が化け物を穿ち、初めて化け物が吠えた、いや悲鳴を上げたというべきか。
 自分の魔術の結果を確認するまでもなく、ポコリナは駆け出した。
 「ホリィ!」
 従者の名前を呼んだが返ってくるのは化け物の断末魔のみただった。
 だいたいの落下した位置はわかるが正確な事はわからなかった、ちゃんとした契約を結んでいないからだ。その事が悲しくて怖くてポコリナの頬を伝って雫が落ちた。
 急速に瘴気が薄まっていく中、彼女は零れ落ちた体液の中を走った。灰緑色の体液が彼女のブーツやタイツをその色に染め、劣化させていくがその程度だった。だがたとえ瘴気が濃くても彼女はそれを止めなかっただろう。
 断末魔がやむと、今度はゲラゲラという笑い声があたりに響き渡る。スカベンジャーたちがごちそうを前に活動を開始したのだ。
 ポコリナは瘴気の汚泥の中で立ち尽くし、じっと従者の痕跡を探した。
 「急がなきゃ、急がなきゃ…」
 瘴気は従者にとっては問題ではない、だが彼も不死ではない。悍ましい体液からなる汚泥に埋まりっぱなしではやがて死に至る、そして猶予はそうない。もしかしたら落下の衝撃で動けないのかもしれない。
 「返事をするんだホリィ!」
 恐怖から悲鳴のような声で名前を呼ぶが、それもスカベンジャー達の鳴き声でかき消されてしまう。ポコリナは苛立ち、初めてスカベンジャーを憎々しく思った。
 「静かにしてよ!」
 鋭い視線を周囲で狂喜するスカベンジャーたちに向けるも目に映るのはスープをすするように汚泥に口をつけるスカベンジャーたちだけだった。どれもが自らの習性に従って瘴気を浄化しようとしている。
 だがその中でおかしな一団がいる事に気が付いた。
 それは食事をするでもなく、ゲラゲラと鳴き声を上げるだけだった。何かを囲んでだ。
 ポコリナはぞぶりぞぶりと汚泥をかき分けながらそこへ急ぎ、スカベンジャー達の輪の中に跪き手を突っ込んだ。
 堅い感触があり、引き上げ、腕を回し、汚泥から引き出した。
 人の形をした塊から汚泥が零れ落ち、顔が見えた。
 「ホリィ、死んじゃだめだよ!」
 食事を再開したスカベンジャーの輪の中でポコリナは呼びかけ、彼女ができる行動を開始した。

 脳天を焦がす炎天、足元には少しべたつくような、今となっては懐かしいと思えるアスファルトが熱せられて鼻にへばりつく様な独特な臭いを放っていた。
 熱い、日本の夏はこうじゃなくっちゃ。
 顎から滴り落ちた汗がアスファルトに消えていくのを見送り、顔を上げれば懐かしい通りの向こうに巨大な建築物が太陽の光を反射して白く輝いていた。
 ああ、帰ってきた、俺がいるべき現実に。
 そんな必要ないのになぜか涙があふれて、見たい光景をぼやかしていく。少しでもこの光景を目に焼き付けたくて涙をぬぐうが、どうしてもぼやけやがてそれがぐるぐると奇妙に回転していった。
 止まってくれない眩暈と浮遊感はまるで悪酔いのように俺の胃袋を蝕み、耐え難い圧力が喉の奥から湧き上がっていった。 
 「ぐぇえ」
 吹き出した灰緑色の液体が俺の体内の回転している何かも持って行ってくれたように急速に平衡感覚が戻り、体の感覚も戻ってきた。そして襲ってきたのは生臭さと汚物がない交ぜになった悪臭。
 なんだか既知感のある目覚め、俺はどうしてさわやかな目覚めを迎えられないのか、そんな猛烈な不満を抱きながら目を開けるとそこにはさらに不快になる現実しかなかった。
 悪夢のような光景、間近には灰緑色の粘液にまみれた魔女の顔、ゆっくりと顔を巡らせれば同様の粘液で満たされた沼とゲラゲラ笑う不気味な生き物。
 「ホリィ!」
 感極まったように変な名前で俺を呼ぶポコリナの顔は必要以上に近かった。
 「近いんだよ魔女が!」
 唖然とする彼女の顔を押しのけ、俺は粘液の中に手をつき、立ち上がろうとした。だが足がずきりと痛んで結局汚泥の中に胡坐をかく事になった。
 「なんだよ!それはないじゃないか、心配したのに!」
 顔を朱に染め抗議するポコリナに俺は返事をする代わりにいの奥から圧力で押し出された反吐を汚泥に向かって吐き出した。
 顔をしかめ両手を前に突き出し、腰を引くポコリナ。すでに反吐よりきたねえ粘液まみれのこいつがこれ以上汚れることなんてないと思った。それからどうして俺はこんな事になっているのか思い出そうとした。
 俺達のそばで汚泥から突き出す巨大な山、それは紛れもなくあの化け物の死体だった。そこで思い出した、俺は空に打ち上げられ、空中で化け物の頭をかち割ったことを。そして翼などない俺はそのままあいつの体液と一緒に地面にたたきつけられたというわけだ。
 足の痛みはその時の影響か、まあ死ななかっただけましなのだろうか。
 「あれは完全に死んだのか?」
 俺が横たわる巨体を指さすとポコリナは一転神妙な顔で頷いた。
 「あんたのおかげだよ、あんたが頭を切り裂いてくれたおかげで完全に浄化することができた、あれだけ濃かった瘴気も今じゃ微弱で、あいつの体液も死体もスカベンジャーの胃袋にそのうち消えるよ」
 ポコリナはそういってから微笑んだ。ボロボロのローブやハットは汚泥にまみれ、そこから見える長い髪は完全に赤く染まっていた。今までにないくらい酷い見た目のポコリナだったがその笑顔は今までないくらい満たされた者が見せる笑顔だった。
 「そりゃよかった、さてと」
 いつまでも汚物まみれでいたくはない、痛む足をおして俺は立ち上がった。
 「お、おい無理するなって、今魔術で」
 「いらねーよ魔術なんて」
 何とか歩けるんだ、変な物の厄介になんてならねえ。
 「なんだよもー」
 ポコリナはいらいらしながらうなると、足早に俺の右手に回り込み腕をとった。
 「じゃあ肩くらい貸させなよ」
 半ば無理やり俺を支えた。
 まあ変な術じゃなければいいかと、俺は好きにさせることにした。

 汚泥の沼から上がった俺達に向かってレイアが駆け寄ってきた。
 「ちょっとレイア、駄目だよ、駄目だー!」
 警告を無視してレイアは汚物にまみれたポコリナに飛びついた。
 当然彼女の白いワンピースや顔、黄金色の髪の毛を汚泥が汚したがそんな事を気にするレイアではなかった。
 「ポコちゃん!よかったよ!」
 彼女の祝福と抱擁を受けながらポコリナは困惑と喜びに目を白黒させていた。
 ようやく離れたレイアだったが、そのターゲットはポコリナだけではなかった。
 彼女はポコリナから俺に視線を向けるとまるで暴れ狂う羊の如く俺に突進し、そして両手を開いて飛び上がった。
 「待て待て待て待て、うげぇ」
 「ホリィさん、ありがとう!」
 柔らかで温かいレイアの体に抱擁され、俺は顔が熱くなるのを感じた。花の甘い香りが鼻をくすぐり、どうしたらいいのか俺はわからずに硬直していた。
 「…レイアだとそんなに照れるんだな」
 ポコリナが不満げに言うのが聞こえる。嫌ではないのだがよくもない、どうしたらいいのかわからない複雑な気持ちだった。
 幸いにもというべきか、残念ながらというべきかすぐにレイアは俺の首から手を放してくれたが、眉を顰め、汚泥のくっついてしまった輝く笑顔を曇らせて言った。
 「ホリィさん怪我してるね、見せて!」
 痛む足はズボンをめくると足首から膝にかけてがそうとわかる程に腫れていた。
 「折れているよこれ」そういってから彼女はポコリナも見た。「ポコちゃんもだいぶ瘴気にやられちゃっているね」
 不意にレイアの体からあの光が発せられる、命の光だか何だか、瘴気を防ぎ、化け物を閉じ込めていたやつだ。それが俺の体に染み入ると急激に足の痛みが引いていくのを感じた。変化はそれだけじゃなかった、真っ赤だったポコリナの髪が染め直されるように淡いブロンドへと戻っていくのだった。やがてそれはいつも通り先端だけを赤く残して終わった。
 「ホリィさんの足は安静にして、後はポコちゃんの薬で大丈夫だよ」
 確かにだいぶ楽にはなった、最後まで治して欲しいと思ってしまったのは後ろに着いた言葉のせいだろう。
 「ポコちゃんはおかしなところない?」
 レイアは俺の足からポコリナへ視線を移して言った。
 全体的におかしなところだらけだとは思うが、しいて言うなら髪の先が赤いままだという事だろうか。だがポコリナはかぶりを振った。
 「レイアのおかげでだいぶ調子が良くなったよ」
 「そう、良かったよ」
 嬉しそうな顔一転、レイアの心配そうな視線が遠くに向けられる。
 「…騎士団に被害が出たの?」
 「うん…、三人。やれることはやったけど、戻ってこられるかは本人たちのがんばり次第なんだ」
 きっと戦いで負傷した人間がいるんだろう、瘴気の影響だろうか。
 「それなら見守ってあげなよ」
 ポコリナの言葉にレイアは素直にうなずいた。
 「うん、ありがとう。またあとでね」
 いうが早いか駆け出したレイアをポコリナはじっと見つめ見送った。
 その目には決して大物を仕留めた達成感で満ちてなんかはいなかった、どこか影があり、何かに苛まれている、そんな風に見えた。
 「さてもうじき援軍が来るよ、その前に体を清めよう」
 彼女は俺に微笑んで言った。
 「体を洗うのは歓迎だけどよ、援軍って今更」
 俺の言葉にポコリナは鼻を鳴らせた。
 「そうだね、後始末に調査のためになったけどさ」ポコリナはかぶりを振って続けた。「ちょっと帰るのは遅くなるけどあんたは木馬で休んでいてくれよ」
 「お前は?」
 「あたしは先生方やお偉方にレイアやメリーゼと一緒に報告なんかがあるから」
 死にかけたのにたいしたヴァイタリティだ。こいつの仕事はえらくブラックなんだ、こんな仕事に就くのは御免こうむりたいと俺は思った。
 あるいは本当にそれだけ責任の重い仕事なのかもしれないな、汚泥の上でゲラゲラと笑う生き物がいる地獄のような光景を前に俺はそうも思った。
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