辻占

岡山工場(inpipo)

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辻占

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 ■

 その日の夕刻、南町奉行所同心の芦川信一郎が背中を赤く染めながら、普段はめったに足を運ばないその界隈を歩いていたのは、偶然ではなかった。
 信一郎の父親から二代に亘って仕えている御用聞きの権次から、この刻限、この辺りに現れると教えられた人物に会いに来たのだ。それは、百卦を立てれば百当たるという噂の「辻占」だった。
 それは、すぐにわかった。用水桶の隣に小さな所見台を出していた。しかしなぜか、手元の燭台には明かりを点けていなかった。台の上には、筮竹と算木が几帳面に並べて置かれていた。
 近づいて占者(せんじゃ)を見ると、気侭頭巾で顔を隠していたため、目元しか見えなかった。
 それでも、唯一見えている涼やかな目だけでなく、すっと伸びた背筋、柔らかく構えた両の腕などからも、占者が噂どおり、まだ若い佳人であることを窺わせた。
「いいかな」
 声をかけると、占者は、その長い睫毛を伏せ、小さく頷いた。
「まずは、これを見て欲しい」
 床机に腰を下ろすと、信一郎は慌しく、懐から一枚の人相書きを取り出した。そこには、婀娜な流し目をした年増女が一人、描かれていた。
「三月ほど前、この女が殺された」
 信一郎は人相書きを目にし、死んでいた女の顔を思い出した。そして、記憶の中の女と人相書きを比べ、そこに描かれた人相が実に特徴を捉えた筆力を持っていると、改めて舌を巻いた。
 同時に、筵に包まれて番屋に運び込まれた女の哀れな最後を思い出し、人間の一生というものの不思議さを感じ、胸の奥がちくりと痛んだ。
 信一郎は占者に伝えた。
「この女のことだが、ある者は傾国の美女と褒めそやし、ある者は女狐と蔑んだ。名を、小染と言い、鹿島流岡崎道場主賢雲斎の後妻だった。夫婦とはいえ、歳は四十近くも離れていた」
 岡崎道場は、門弟数こそ三十数名と小さいものの、初代道場主が幕閣と誼を通じていたため、旗本良家の子弟が集まるので有名な名門だった。
 占者は、人相書きをじっと見つめていた。筮を立てるだけでなく、人相見もするのだろうかと、信一郎が思うほど、じっくりと見ていた。
 信一郎は、人相書きを指差して、付け加えた。
「小染というこの女が道場の裏で殺されたのは、宵五ツ(午後八時頃)。小染のほかに、屋敷には賢雲斎と数名の門弟が残っていた」
 占者は人相書きから顔を上げると、信一郎の目を見た。底の見えない、夜の水面(みなみ)のような瞳だった。
 瞬間、信一郎は、ここで話そうとあらかじめ思っていた段取りを忘れた。伝えることと隠しておくことの境界線も見失った。
 その瞳に、記憶の糸を手繰られるようにして、信一郎の口は言葉を紡ぎ始めた。

 ■

 この事件は、最初から厄介だった。事件の舞台となった岡崎道場は町道場であり、被害者の小染は岡場所上がりの町人であるため、町奉行所の管轄だった。ところが、容疑者、目撃者、証人に当たる道場の門弟は誰もが旗本の子弟のため、目付の管轄になり、町奉行所では手が出せなかった。
 事件の探索は、町奉行所と目付の平行作業となったが、目付の秘匿主義や武士階級の壁があり、遅々として進まなかった。
 それでも信一郎たちの必死の活動により、少しずつではあったが真相がその姿を現し始めた。
 岡崎道場は、武家地に隣接しており、門の外まで竹刀を打ち合う気合が聞こえてくる小奇麗な屋敷だった。
 その日、夕稽古が終わると、門弟たちは家路に急いだ。道場の幹部による会合が予定されていたからだった。
 道場主賢雲斎は、若いうちに妻を亡くし、子供もないまま一人身で過ごしていた。しかし三年ほど前から体調を崩し、寝付くことが増えた。
 必然的に、道場の後継者問題が持ち上がっていた。町道場とはいえ、有力旗本の集う岡崎道場は、そこを握ることで、ひとつの派閥の長になれるという、政治的な価値も出ていたからだ。
 実際、現道場主の賢雲斎も、前道場主の娘との縁談が浮上した時に、別に決まりかけていた縁談を蹴ってまで、跡継ぎの道を選んでいた。
 その結果、今日まで、賢雲斎とその実家は、旗本の中で大手を振れる立場にあった。
 そして今、後継者候補の筆頭は、岡崎道場四天王の一人、金子重太郎だった。
 しかし、いまだ賢雲斎が後継者候補の名前を明言していない以上、四天王の他の三人を始め、誰にでも後継者となる可能性が残っていた。
 子弟を道場に通わせている親の間で、密かに牽制や腹の探り合いが始まった。道場の雰囲気が、少しずつ、陰湿なものに変わり始めていた。
 それが賢雲斎をさらに弱らせたのか、寝付くことが多くなった。
 そこへ、更なる厄介ごとが持ち上がった。賢雲斎と将来を言い交わしたといって、小染という女が乗り込んできたのだ。
 賢雲斎は、それを否定しなかった。小染は賢雲斎の後妻だと宣言すると、甲斐甲斐しく、賢雲斎の身の回りの世話を始めた。
 はじめは、賢雲斎のためにも介護をしてくれるものがいた方がいいと、小染の存在を渋々ながら是認していた親たちだったが、それは甘すぎた。
 小染は、道場の後継者問題に介入してきたのだ。
 まず、賢雲斎が後継者をいよいよ決めようとしているという噂を、門弟の間に流した。金子重太郎をはじめとした道場の重鎮が、その噂の真偽を賢雲斎に糺したが、曖昧な返事しか返ってこなかった。
 さらに小染は、道場の運営について、門弟の親が集まる会合で口にし、暗に、運営資金を無心した。
 その言葉の裏に、資金提供者の子弟が後継者の有力候補だということを強く匂わせていた。
 こうして、親たちは、小染への上納金金策を始めた。
 すべては内密に進められるはずであったのにもかかわらず、岡崎道場の騒動は、町に流れ出し、井戸端でも成り行きについての有ること無いことが噂されるようになった。
 そんな中で、岡崎道場四天王による極秘の会合が召集されたのだ。

 ■

 出席した四天王が全員、最後まで言葉を濁したため、会合の内容は明確にはならなかった。ただ、後継者問題に関係し、小染を排除することについて話し合われたのは間違いなかった。
 目付からの事情聴取を元にしての町奉行所の調べによると、四天王の意見は真っ二つに分かれた。
 小染排斥派の金子重太郎と、小染擁護派の久永源次郎、佐々木若江とで、意見が衝突した。
 もう一人の横瀬五郎四郎は、当初、無関心を通していたが、後継者問題に横槍を入れられていると聞くと、小染排斥の金子重太郎の意見に賛同した。
 二派は妥協点も見出せないまま、この日の会合を終えた。先に、座を蹴るようにして退席した久永源次郎と佐々木若江は、汗を拭うために井戸へ去った。
 残った金子重太郎は、今回は自分の意見に賛同してくれた横瀬五郎四郎を、しっかりと味方につけておくべく、説得した。
 しかし、そういうことに興味のない横瀬五郎四郎は、説得を振り払うようにして、井戸へ去った。
 井戸で、佐々木若江が横瀬五郎四郎を待っていた。こちらも横瀬五郎四郎を説得し、味方に引き入れようという算段だった。しかし横瀬五郎四郎は、元々、性格的に合わない佐々木若江の言葉を完全に無視した。
 そのとき、久永源次郎がどこにいたのかは、目付の取り調べでも、最後まではっきりとしなかった。久永源次郎は、言を左右にし、何かを隠していた。
 町奉行所では、会合の成り行きを、屋敷の一室で小染に報告していたのではないかと考えている。
 久永源次郎は、密かに小染に接近し、後継者候補の筆頭に躍り出ようとしていたらしかった。
 そして、そのとき、事件は起こった。
 はじめに、井戸水で汗を拭いていた横瀬五郎四郎が、勝手に話し続けていた佐々木若江を黙らせると、耳を済ませた。
「あの時、玄関に人が訪れたように思ったのです。案内を乞う声が、聞こえたように思います」
 横瀬五郎四郎は、目付の取り調べに、そう答えた。
 一方、一緒にいた佐々木若江は、何も聞こえなかったと証言した。町奉行所では、修行の進んでいた横瀬五郎四郎の感覚に重きを置いた。
 横瀬五郎四郎は、身体を拭き終えてから、佐々木若江を井戸端に残し、道場の脇を抜け、玄関へ確認しに行った。
 そして、門と玄関が開けられたままになっているのを目にした時に、屋敷の裏庭の辺りで、短いが鋭い悲鳴が上がるのを耳にした。
 横瀬五郎四郎は取って返し、井戸端を抜け、悲鳴がしたと思われる裏庭へ走った。
 横瀬五郎四郎がそこで見たものは、倒れている小染らしき着物姿と、その脇に立つ佐々木若江の背中だった。
 佐々木若江は、まだ血の滴っている刀を手にしていた。それが、犯行に使われた凶器だった。
 横瀬五郎四郎は即座に、足場を固め、抜き打ちの構えをして、佐々木若江を怒鳴りつけた。
「何があったのか申し開きをしろ」
 横瀬五郎四郎は、その時、なぜそう言ったのかを目付に話した。
「佐々木氏の刀を手にした様子、構えから見て、佐々木氏が斬ったとは思えませんでした。たまたま落ちていた刀を手にした、そう見えました。ですので、犯人とは決め付けずに、佐々木氏の口から何事が起きたのかを聞こうと思ったのです」
 佐々木若江は気が動転していた上に、背後からいきなり横瀬五郎四郎に怒鳴られたため、腰を抜かし、その場にへたり込んで、放心してしまった。
 佐々木若江から聞きだすのは無理と判断した横瀬五郎四郎は、小染に身を寄せると、すでに息がないことを知った。一刀で、見事に首筋の血脈を断たれていた。
 横瀬五郎四郎は、さらに辺りを見て回り、すでに怪しい人影がないことを確認した。
 そこへ、久永源次郎が不審顔で現れた。佐々木若江に、何事が怒ったのか問うてから、小染に気づいた。横瀬五郎四郎が見ても、顔から血の気の引いていくのがわかったという。
 裏庭で三人は、声もなく、立ち尽くすしかなかった。
 そこに声を掛けたのが、最後に姿を見せた金子重太郎だった。横瀬五郎四郎の状況説明に、金子重太郎の表情も険しくなった。
「まずは、町奉行所に届け出なければなるまい」
 本来なら、小者を使いにして近くの自身番へ走らせるところだったが、小染が自分以外の使用人をすべて解雇していたため、最年少の横瀬五郎四郎が走らなければならなかった。

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 やってきた自身番の老人は、場所が岡崎道場だと聞いただけで怖気づき、びくびくとしながら死体の番しか出来なかった。
 自身番からの知らせで当番の南町奉行所から信一郎をはじめとした捕物出役が駆けつけた時には、金子重太郎以外の三人は、道場の板の間で車座となり、押し黙っていた。
 そこに居ない金子重太郎は、信一郎たちの呼びかけに、屋敷の奥から姿を見せた。賢雲斎の部屋で、事のあらましを報告していたということだった。
 小染の死を聞くと、賢雲斎は小さく頷き、涙を零したという。
 信一郎たちは精力的に取調べを始めたが、久永源次郎は、
「町役人風情に語ることはない」
 と言ったきり、だんまりを続けた。佐々木若江も放心したまま言葉はなく、横瀬五郎四郎も押し黙るだけだった。
 ただ一人、金子重太郎だけが、重い口を開いた。
 事件の直前、久永源次郎と佐々木若江が去り、横瀬五郎四郎も出て行ったあと、道場に一人残った金子重太郎は、将来を感じ、黙想していた。
 その時、金子重太郎は、玄関脇から、不審な物音がするのを聞いた。気になり、玄関まで出てみると、音は、玄関脇にある、今は使われていない小者部屋の中から聞こえた。
 中を改めたが、異常はなかった。元通り、戸を閉めた、その時。金子重太郎は裏庭の悲鳴を聞いた。
 悲鳴と怪しい気配の関係が気になり、もう一度周囲を点検してから、裏庭へ向かったと言うのは、金子重太郎の証言だった。
 金子重太郎の聞いた怪しい物音は、横瀬五郎四郎の聞いた物音と同じものだろうと町奉行所では見ていた。ただ、その正体は不明だった。
 横瀬五郎四郎の聞いたと言う、人の声に関しては、金子重太郎は覚えがないと言った。
 この時点で、信一郎は、金子重太郎を訝った。人の声と言うのは、他の物音と区別がつきやすい上に、「案内を乞う声」と具体的に証言している横瀬五郎四郎の方が、正しいように思えた。
 信一郎の勘通りに、金子重太郎が下手人ではないかと町奉行所内で憶測が出たのは、凶器に使われた刀が理由だった。

 ■

 後継者候補筆頭で一番弟子、かつ、師範格の金子重太郎。実家の家禄は五百石高で、当主金子安房守は御小姓衆に就いていた。重太郎は金子安房守の次男だった。
 金子重太郎は門弟にも自分にも厳しい、昔気質の好男子だった。
 この金子重太郎が、今回の事件の鍵を握る人物となった。
 金子重太郎がこの日の会合を召集したわけは、道場の後継者問題が騒動を起こし始めていたからだった。
 賢雲斎は、早くから金子重太郎の才能を見出し、愛でて、後継者候補の筆頭に挙げていた。
 金子重太郎の人柄も、門弟から道場主として相応しいと認知されていたため、そのままだったなら何の問題もないはずだった。
 ところが賢雲斎には悪い癖があった。それは、女癖、だった。
 妻を亡くしてから一人身といっても、艶聞には事欠かず、浮名を流していた。相手は玄人筋だったため、大きな問題は起こらずに来た。
 ところが、最後に出会ったのが、よりによって、小染だったのだ。
 数多い深川芸者の中でも名が知られるほどだった小染の三十路の色香に、賢雲斎は溺れてしまったのだ。
 金子重太郎は、この小染という女の素性を、人を遣ってひそかに探らせた。その結果、ただの芸者ではないとわかった。確たる証拠はないものの、名のある旗本の妾腹で、素性を明かせば江戸の町を揺るがすほどの大騒動が持ち上がるというのだ。
 そういう謎を含んだ小染が、賢雲斎の鼻毛の数を数えるとすぐに岡崎道場に乗り込んできたのは、後継者争いを左右し、道場の運営を陰で操ることで、自分を捨てた親へ復讐するためではないか、と、金子重太郎は考えたらしい。
 もっとも、探索はそこで糸が切れ、小染の親の正体までは探り出すことは出来なかった。ただ、小染にそういう覚悟があるからには、一筋縄では引かないであろうとわかった上に、なんとしてでも除去しなければいけない獅子身中の虫だということもわかった。
 金子重太郎は後継者候補筆頭としても、小染のいる前で、賢雲斎に諫言した。後継者問題に、小染を介入させるべきではない、と。
 しかし、賢雲斎から返事はなかった。同時に、金子重太郎は、後継者争いから事実上、除外されることになった。
 今は小染が取り仕切っている、賢雲斎主催の月例会に、金子重太郎が呼ばれることは二度となかった。
 金子重太郎には、小染を殺害するのに充分な動機があったのだ。
 町奉行所が金子重太郎の当夜の行動を洗い直すように、目付へ依頼したが、捗々しい進展はなかった。
 その詰まっていた流れが、一気に決壊したのは、犯行に使われた刀が、三年前、賢雲斎から金子重太郎に下げ渡されたものだとわかったからだった。
 密かに後継者と決めていた金子重太郎に、賢雲斎は秘蔵の刀を託していた。山城国藤村左衛門尉の手による、小乱れが交じり小沸(にえ)付いた名刀だった。
 それが小染を斬り、佐々木若江が手にしていた凶器だった。
 はじめは、凶器をその名刀だと認めなかった金子重太郎だったが、久永源次郎が認めると、渋々と認めた。
 はじめに認めなかったのは、岡崎道場に伝わる刀が小染などという妖女の血を吸ったと世間に知られることを慮ったからだと、金子重太郎は苦しい釈明をした。
 しかし、その名刀を金子重太郎が事件当日、佩いていなかったことは、横瀬五郎四郎が証言を待つまでもなく、道場では当たり前の話だった。
 この名刀を、金子重太郎は自分一人の物とはせずに、道場の八幡大菩薩の神前に祀っていた。そのことは、門弟の誰もが知っていたのだ。
 しかしこの名刀が、当日の朝、神前から消えていたことも、多くの門弟が不思議がりながら証言した。
 この名刀が、犯行時まで、誰がどこに持ち出したのか、誰も知る者はなかった。
 久永源次郎は、「大方、金子氏が持ち帰られたのだろう」と言い、金子重太郎は、「小染殿が奥に仕舞われたのだろう」と言った。
 町奉行所は、名刀の行き先を、師から受け取った金子重太郎が知らなかったはずはないと考えた。その点を目付に糾問するように要請した。
 しかし、目付からは、それに対する明確な返答はなかった。それでも町奉行所では、金子重太郎が最も下手人に近い存在と考えていた。
 信一郎も、金子重太郎を動機の面から疑っていた。ただ、性格から見て、単純に小染憎さで斬ったとは思えなかった。まだ何かがあると思った。
 また賢雲斎は、愛する小染を失った痛手からか、さらに病状が悪化していた。信一郎が尋ねた時には、ただ布団に横たわり、息をしているだけで、呼びかけに対する反応すらなくなっていたのだ。
 医者の見立てでも、心の臓が衰え、回復は困難だと言うことだった。すでに、生命の蝋燭は、か細く揺らぎ、消えようとしていた。

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 二番弟子久永源次郎の実家の家禄は、三千石の大身旗本で、当主久永石見守は高御鉄砲百人組組頭に就いていた。久永源次郎は久永石見守の三男だった。弟子の中では一番家格が高かった。
 役者顔で、頭脳は明晰だったが、性格は陰湿で、門弟の受けはよくなかった。
 ただ、子分のように尻尾を振って慕ってくる取り巻きに対しては、座敷を借り切って酒を奢るなど気前がよく、ひとつの派閥を構成し、その長になっていた。後継者に対する色気は満ち満ちていた。
 そのため、岡崎道場は大まかに言うと、後継者をめぐり、この久永派と、反久永派に分かれ、反久永派は人格者の金子重太郎の下に集まっていた。
 しかし、いくら賢雲斎の覚えめでたい金子重太郎との差は埋まらなかった。
 そこに現れた、状況打破の蜘蛛の糸が、小染だった。
 久永源次郎が、すぐに小染に取り入ったのは、門弟の誰の目にも明らかな行動だった。小染も、久永源太郎を利用し、邪魔者である金子重太郎一派に打ち込む楔として便利に使った。
 したたかな小染は、そのまま久永源次郎を後継者とするつもりはなかった。そのため久永源次郎は、腹立たしく思いながらも、小染にへつらい、取り入り続けたようだった。
 事件のあとの町奉行所の取り調べには一切協力しなかった。目付による取調べにも、親の権力を隠れ蓑にして、口重かった。
 ただ、下手人は金子重太郎ではないかと、繰り返し口にした。凶器の出所などの、金子重太郎下手人説の裏づけとなる状況証拠については、積極的に話をした。
 久永源次郎が、小染の悲鳴をどこで聞いたのかも、その時に何をしていたのかも、すべては謎のままだった。目付も、大身旗本の子弟を厳しく取り調べることを差し控えた。
 町奉行所では、小染の死の直前まで行動を共にしていたと見て、下手人の可能性は大きいと考えていた。
 ただ、動機がなかった。
 小染がいるからこそ、金子重太郎をしのいで、自分が後継者に選ばれる可能性があると、誰よりもわかっているはずだった。
 信一郎は、当初は久永源次郎を疑っていた。当夜の行動に謎が多すぎるというのが理由だった。
 しかし取調べを進めるうちに、久永源次郎のような性格の者が、自らの手を汚して、不利益なことをする可能性はないと思うようになった。
 小染を失い、しかも事件の渦中にある久永源次郎は、今や、有力父兄の脳裏にある後継者候補名簿から消えようとしていた。

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 三番弟子佐々木若江の実家の家禄は二百石高で、当主佐々木監物は御腰物方に就いていた。若江は監物の次男だった。
 家格が低いことからか、久永源次郎が入門した時から、まるで自分が弟弟子のようにへりくだって取り入り、今ではすっかり腰巾着になっていた。
 血に塗れた刀を手にしていたことから、もっとも疑われてしかるべきではあったが、町奉行所も、信一郎も、佐々木若江に小染が斬れたとは思えなかった。
 竹刀捌きの小器用さと、古くからいるという年齢のせいで、四天王の一人に数えられてはいるものの、門弟の誰もが佐々木若江の存在を軽く見ていた。
 当夜の行動は、死体を見つけたことによる衝撃で、佐々木若江の記憶から抜け落ちていた。断片的な話と、周囲の状況から、概要だけはわかった。
 会合が物別れとなり、汗を拭ったあと、久永源次郎の命で、横瀬五郎四郎を説得して味方に引き入れるため、井戸端で待っていた。
 説得は不調に終わり、横瀬五郎四郎は、人の声がしたと言って、道場の脇へと姿を消した。
 佐々木若江は、横瀬五郎四郎のあとを追うべきか、不首尾を久永源次郎に報告するべきか悩んだ。
 どちらも選ぶことが出来ず、井戸端でじっとしていた佐々木若江は、横瀬五郎四郎が帰ってこないので、久永源次郎を探そうと思った。
 ところが、どこにいったのか見当がつかず、井戸端にいれば戻ってくるだろうと思い直し、そのままそこに居た。
 そして、悲鳴を聞いた。
 反射的に駆けつけた佐々木若江は、自分が目にしたものを即座に信じることが出来なかった。
 人が死んでいる。傍には、血の滴る刀が落ちている。
 そこで佐々木若江の意識は、なくなったのだ。あとは、夢遊病のように、意識のないままの行動だった。信一郎の目でも、それが演技とは思えなかった。
 それに、動機も見つからなかった。自分の運命を預けるようにして、久永源次郎の腰巾着になり貼りついている佐々木若江としては、宿主久永源次郎にとって小染が欠くことの出来ない存在だったということは、佐々木若江にとっても欠くことが出来ないということなのだ。
 信一郎も、町奉行所も、佐々木若江へかけている容疑は、きわめて薄いものだった。

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 四番弟子横瀬五郎四郎の実家の家禄は千石高で、当主横瀬駿河守は御小納戸という将軍に近い要職に就いていた。五郎四郎は駿河守の四男だった。
 さすがの久永源次郎も、幕閣と密接な立場にある父を持つ横瀬五郎四郎にだけは、腰を低く接していた。
 ところが横瀬五郎四郎という男は、世俗のことなどには一切頓着なく、ひたすら剣の腕を磨くことだけに執着していた。
 その稽古も容赦がなく、門弟からは忌み嫌われていたが、金子重太郎はその腕を愛し、乱取りでも皆が避けるその相手役を買って出ていた。
 もっとも、そんな厚意も横瀬四郎五郎にはどうでもよいことらしく、稽古が終われば金子重太郎と言葉を交わすことはなかった。
 もちろん、久永源次郎や佐々木若江の存在などは、端から歯牙にもかけていなかった。
 後継者争いにも興味はなく、小染に対しても、横から口を出してくる怪しからぬ奴、という目でしか見ていなかった。
 町奉行所でも、横瀬五郎四郎からは、小染を殺すほどの動機は探りだせなかった。
 悲鳴が聞こえた時、玄関近くにいたことから、金子重太郎を見かけていると思われたが、横瀬五郎四郎はそれを否定した。金子重太郎の方も、横瀬五郎四郎の存在に気づかなかったと供述していた。
 信一郎は、どちらかが嘘をついているのではないかと考えた。
 どちらかとはいうものの、信一郎の目には明らかに、金子重太郎の方が怪しく見えていた。
 奉行所で行われた会合の席でも、金子重太郎に第一番の容疑があるということで意見がまとまった。
 目付の許可さえ下りればすぐに、金子重太郎を尋問出来るように手筈を整えた。
 岡崎道場の有力父兄には、金子重太郎の無実を信じて後継者候補名簿の筆頭に挙げている者が、まだまだ多かった。それほどまでに、金子重太郎という人間性が高く評価されていたのだ。
 しかし目付からの尋問許可は下りず、奉行所の全員が悶々とした日々を過ごす羽目になった。
 この八方塞の状態の時、信一郎には、最後の蜘蛛の糸とでも言うべき捜査が残っていた。それは、横瀬四郎五郎が聞いたと言う、玄関の物音の正体、だった。
 この物音の正体が事件の鍵を握っているという直感が信一郎にはあった。そこで、横瀬四郎五郎の証言を基軸にして、信一郎は近隣の聞き込みや、木戸番や辻番、橋番からの情報収集を諦めることなく続けた。
 そしてついに、草鞋をすり減らした甲斐があり、当夜、岡崎道場から一人の男が出て行ったことを突き止めることが出来た。
 そして事件は、急展開した。

 ■

 一人の男が、浮かび上がった。その男は、安酒場で仲間に、岡崎道場へ出向いたところ、事件が起こったらしく、撒き込まれたくないから逃げてきたと口にしていた。
 それを信一郎配下の御用聞きの権次が小耳に挟んだのだ。
 その男の名前は塚田世左衛門といった。二年前、西国の某家が取り潰され、馬回り役だった塚田世左衛門も牢人となった。
 剣の腕に覚えのあったことから、同門を頼って江戸まで出てきたが、世間はそれほど甘くはなかった。
 行く先もなく、日銭を稼ぎながら、身を持ち崩していった。それでも、自慢の剣の腕を安売りしたくはないと思っていた。
 安酒場で憂さ晴らしをする日々だったが、困窮は魂に及んだ。ついに、剣の腕を金に換える決意をした。
 名のある、それでいて門弟の層の薄そうな道場を選び、出かけた。所謂、「道場破り」だった。
 追い詰めた道場主にわざと勝ちを譲り、それと引き換えに金銭を手にした。
 この日、塚田世左衛門は、岡崎道場を狙った。道場主は病に倒れ、跡目争いで道場内が動揺しているという噂を聞きつけたからだった。
 塚田世左衛門が腕を擦りながら岡崎道場を訪ねたその時、四天王の会合が終わったところだった。
 塚田世左衛門は、玄関で案内を乞うたが、すぐには誰も現れなかったらしい。やがて姿を見せたのは、その人相と背格好から金子重太郎と知れた。
 はじめは、取り込んでいるからと断られた。そこを粘った塚田世左衛門は、金子重太郎に一手手合わせを約束させた。
 こういう時だからこそ、すべてを忘れるくらいに思いっきり腕を振るってみたかったのではないかと、信一郎は金子重太郎の心の奥を想像した。
 塚田世左衛門の証言は、次のように続いた。玄関からそのまま道場に通された時、金子重太郎以外の四天王の姿はなかった。
 金子重太郎は、壁にかけられていた竹刀を落ち着いた仕草で二本取り、一方を塚田世左衛門に手渡した。
 塚田世左衛門が受け取った竹刀を素振りし、手に馴染ませていた時。
 悲鳴が聞こえた。塚田世左衛門は、その悲鳴が短かったが、女性のものだということはわかったと証言した。
 その時、金子重太郎がなんとも複雑な顔をしたのを、塚田世左衛門は見ていた。困った、と言うより、何かを後悔するような表情だったらしい。
 金子重太郎は丁重に断りを入れ、道場の裏手へ様子を見に行った。すぐに引き返してきて、塚田世左衛門にこう言ったという。
「厄介なことが起きました。巻き込まれると面倒なことになります。この場はすぐに立ち退かれた方が賢明と思われます」
 塚田世左衛門も、先ほどの悲鳴が尋常ではないとわかっていた。間違いなく、断末魔の悲鳴だと感じていた。
 そこで素直に言葉に従い、岡崎道場をあとにしたのだと言った。
 信一郎とその配下は、塚田世左衛門の言葉の裏を取った。どこにも不自然な点はなく、おおよその行動も目撃者がいたことで嘘ではないとわかった。
 塚田世左衛門の登場により、事件は混迷を深めた。奉行所や信一郎が一番の容疑者と考えていた金子重太郎が、事件発生時に塚田世左衛門と試合をしようとしていたことは、間違いないとわかったのだ。
 もちろん、疑問点も残った。金子重太郎は、なぜ、この道場破りの話を隠していたのか。自分の無実を証明してくれる塚田世左衛門のことを口にせず、まるで自分で罪をすべてかぶろうとするような行動をなぜとったのか、その答えが金子重太郎の口から語られることはなかった。
 犯人は、金子重太郎以外の何者かと決まった。では、誰が、何のために、小染を斬ったのか。
 奉行所は、信一郎も含め、暗礁に乗り上げた。頼みの目付も、これ以上の捜査をしなかった。
 そして、賢雲斎は、先日、息を引き取った。
 こうして事件は、迷宮入りとなった。
 信一郎はその若さもあって、この収まり方では、どうしても気が済まなかった。それをぼやく信一郎に、御用聞きの権次が、辻占の話をしたのだった。

 ■

 話を聞き終えると、占者は小さく頷き、白くしなやかな指で、筒に挿してあった筮竹の束を掴みとった。
 その束を揉み混ぜるような仕草をしてから、一本だけ抜き取り、筒に戻した。
「これが、大極、を象り、森羅万象変幻無碍を感じ取ります」
 耳に心地よく透き通る声だった。
 占者は目を伏せ気味にし、残りの筮竹を再び揉み混ぜると、左右の手に二分した。左の手を示し、「天」、右の手を示し、「地」、と呟いた。
 占者は右手の「地」を下に置き、その中から一本取った。それを左手の薬指と小指の間に挟み、「人」と呟いた。
 次に握ったままの「天」を二本ずつ数え、八本を一まとめとした。最後に、二本残ると、はさんでいた一本を加えるらしく、「三、離」と呟き、算木の¦をひとつ置いた。それから同じことを八回繰り返し、下から順に、¦ ─ ¦ ¦ ¦ ¦ と算木が並んだ。
 占者は伏せていた目を上げ、信一郎を正面から見て、言った。
「この卦は、地水師。一軍を率いる将軍を現します」
「良い卦、なのですか」
 信一郎の質問には答えず、占者は下から二本目の|を指差した。
「陰の中の陽、これが初爻の一つと上の四つを隔てています。下の一つが、賢雲斎様、上の四つが四天王の方々。隔てている陽の気は、亡くなった小染女」
 信一郎は頷いた。焦って、結論を急いだ。
「それで、下手人の見当はつきますか」
 占者はその質問には答えず、|を指先で二度、叩いた。
「本来なら陰陽逆転し、天火同人となるところ。それの意味するところは、小染女が、賢雲斎様にとって、ただの見知り人ではないということ。おそらく」
 占者は言葉を切り、信一郎の目の底を射抜くような鋭い目になり、言った。
「小染女は、賢雲斎の、血縁者。実の娘、ではないでしょうか」
 信一郎の脳裏に、賢雲斎が若い頃、言い交わした女性を捨てて道場主の娘と結婚した経緯を思い出した。
「もしや、その別れた者との間に、すでに子がいたのか」
 もし、自分の栄達のために捨てた女性との間に出来、岡場所に堕ちる辛苦を舐めた娘が小染だとすれば、無理難題を吹っかけられたとしても、その申し出を容易に断ることは出来ないだろうとも、信一郎は思った。
 占者は、さらに続けた。
「地水師の卦は、上に立つ者の哀しみも現します。賢雲斎様が今回の一連の騒動を深く憂えていたことは、この卦に現れています。そして」
 占者は下から三番目の¦を指差した。
「この三爻は、老陰坤。これは変じて、陰から陽に変わります。地水師は地風升となります。地風升は地に蒔かれた種、やがて天に向かって伸びる草、です。これは三爻、つまり四天王筆頭の金子様が、次の道場主となられることを示しています」
 信一郎は頷いた。その通りで、賢雲斎亡き後、次の道場主は、当初の予想通り、金子重太郎が継ぐことで口煩い父兄たちはまとまろうとしていた。
 信一郎は、当たるも八卦当たらぬも八卦と鼻先で笑っていた卜占の中に、予想もしなかった奥深さを感じ、唸った。
 これは、下手人もわかるかもしれないと、信一郎は身を乗り出し、占者に迫った。
「他に変化しそうな、爻とやらはないのか。他にも、見えてくるものはないのか」
 占者は、再び目を伏せると、静かな声で言った。
「変化はこれだけでございます」
 信一郎は、肩から力が抜けた。大きなため息が出た。肝心の、誰が、なぜ、どのように、あの名刀で小染を斬ったのか、それはわからないのだ。
「いろいろと教えてもらい感謝している。そうか、卦を見てもなお、下手人までは、わからずじまいか」
 すると。
「いいえ。すべては卦に現れております」
 占者の言葉に、信一郎は身体が震えた。
「だ、誰だと、言うのだ」
 占者は、三爻の¦を|に変え、それを指差して言った。
「地風升、この卦は、地に蒔かれた種、と申しました」
「ああ、聞いた」
「種は、その固い殻の中に、大切なものを包み隠しております。ですが、正しくない地に蒔かれては、種は朽ち果てます。種は風に乗り、正しき地を求めるのです」
「どういうことだ」
「小染女により正しくない地へ向かった種は、自ら、その過ちを正さなければなりません。小染女を斬ったのは、賢雲斎様」
「なんと」
「そのことを、金子様は知っておられます。しかしそれは秘中の秘として、種の固い殻の奥に仕舞いこんでいるでしょう」
 信一郎は、目から鱗が落ちた気がした。賢雲斎が下手人なら、全員の行動が納得できるからだ。
 金子重太郎が、後継者候補から外れたと思い、授けられた名刀を賢雲斎に返していたと想像も出来た。
 その名刀で斬られた小染を見た瞬間、金子重太郎は、斬ったのが誰かを悟ったはずだった。
 見事な太刀筋で命を絶たれた小染。
 こうすることでしか、賢雲斎には、自分の人生を締めくくることが出来なかったのだろうか。
 最後の命を振り絞った一刀は、賢雲斎の死期を早めただろう。しかし、それを承知してでも、賢雲斎は、不幸にした実の娘を、斬らなければならなかったのだ。
 信一郎は、しばらくの間、呆然としていた。次に気づいた時には、占者が店仕舞いをしているところだった。
「それでは、失礼いたします」
 なおも呆然と立ち尽くす信一郎に一礼すると、占者は器用に纏め上げたすべてを細い背に負い、楚々とした足取りで闇の奥へと去っていった。
 一人、夜の闇に包まれた辻に残された信一郎は、ぼんやりと考えていた。
 この事件は、迷宮入りになってよかったのではないか、と。
 顔を上げると、上弦の月が、冴えていた。


「了」
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