亡者の歌と生者の夢 ~ホワイトノイズ・シンドローム~

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第二章 西部方面軍管区第十七地域観測基地守備第二〇二三小隊

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 西部方面軍管区第十七地域観測基地守備第二〇二三小隊。
「きちんとしましょう。当番を決めないままではいけないと思います」
 僕をまったく無視し、体操服姿のままテーブルに突っ伏していた淡嶋高等専門士官学校所属の一年先輩、冠崎春華は、やっと反応したかと思うと顔を上げもせずに、一言、「だから、なに?」と言った。
 夕方の自主練習のあと、真っ直ぐこの観測室に戻ってきて、体操服をだらしなく着たまま着替えもせずにダレていたのだろう。
 美少女にはあるまじき無精者だということは配属されてすぐ喝破したものの、これほどとは思っても見なかった。しかも汗が……臭いのではなく……なんというか。
 配属されてまだ三か月しかたっていなかったが、僕は疲れ切っていた。
「しっかりしろ、自分!」
 小声で自分を叱咤した。忍者なら小刀を太ももにブッスリと刺すところだろう。
 そんな僕の動揺も知らず、春華は万歳をするように両手を投げ出していた。
 一度も染めたことがないという自慢の艶々黒髪がポニーテールを解かれ、テーブル全面に、孔雀の羽根のように広がっている。
 無防備だ。僕を男性と認識していないからに違いないが、無防備すぎる。
 体操服では春華のダイナマイトボディーを隠しきれず、悩ましいラインが丸わかりだった。ブルマから伸びた太ももも鑑賞し放題だった。
 しかし、僕には哀れで愚かではあるが、妥協できない性分があった。
 女の子がきちんとした姿をしていないと許せないのだ。自分でも「人生、損しているなあ」と感じる、哀しい性分なのだ。
 スカートの裾が乱れていたり、肩紐が外れていたり、脇から中身が覗いたりしていようものなら、正さずには入れないのだ。
 育った教会では、大人の女性であるシスターたちは全員、しっかりと躾が備わっていた。それと比べてしまうため、余計に許せないのだ。
 春華は健康的で艶っぽくて綺麗ではあったが、だからだといってもやっぱりだらしないことは許せない。
 今、目の前にいる、全身が熱い鉄板の上に置かれたアイスクリームのようにそのまま融けて流れ出しそうに見える乙女の無防備な姿なども、天が許しても僕には許せないのだ。
 もうちょっとずれてくれると、開いた胸元からさらに奥まで見通せそうであっても、許せないのだ。
「それにしても、これだけ重力に対抗できる弾力って、実際に触ってみたら指に物凄い反発が返ってくるんだろうな」
 と、物理学的興味が脳裏を駆け巡ったが、言葉に出ないようにつばを飲み込んだ。奥歯を食いしばり、目の前の「だらけ美少女」を見据えながら、自分を勇気づけた。
 自分の正当な権利を主張しなくてはいけない。このままずるずるいけば、いいように使い回されるだけだ。自然と口調が強くなったのはしかたがない。
「春華先輩! 今日こそは聞いてもらいますよ!」
 やっと顔を上げた。春華の甘い顔立ちが、外観からは想像できない殺気を含んで、僕を迎え撃つように睨みつけてきた。まるで眉間にナイフを突きつけられているような気分だった。
 たじろぐ自分を必死で励まし、僕は活動報告書を開き、言葉を続けた。
「いつまでたっても空白の当番表ですが、先輩と小隊長の意見を一つにまとめることはあきらめました。でも一言だけ、言っておきたいことがあります」
 僕を見上げる春華の目が、すっと、鋭くなった。突きつけられていたナイフが、皮一枚分、眉間に刺し込まれた感じがした。
 背中に、冷たい汗が噴き出した。言葉が止まった。僕の生存したいという本能が、死に至る可能性の高い言葉を止めたのだろう。
 生存本能が「何もいわずに隷属していれば助かるぞ」と囁いた。
「ええと……なんでもないです」
 目の前に立ちはだかる津波のごとき威圧感に、僕は白旗を掲げて撤収した。徹底抗戦する蛮勇より、明日の命が大切だから。戦略的撤退だと心の中で叫びながら。
「言いたいことがあるなら最後まで言いなさいよ。根性なし」
「う……」
 えぐる言葉。言葉は暴力。
「当番表の話でしょ? 空欄になっているのが気になるなら、全部、秋人の名前で埋めときなさい。来年の分まで。それで解決じゃない」
「……」
 沈黙は服従の印。僕の額に押された根性なしの烙印。
「当然、報告書の記入担当も、ずうっと秋人だからね」
 僕はせめてもの抵抗を示そうと、唇を尖らせ、呟いた。
「酷いです。僕が配属になって以来、僕以外で報告書を書いた人、今まで誰もいないじゃないですか。当番制だって聞いてたのに」
「誰に聞いたの? そんな嘘に騙されたの?」
「いえ、独り言です」
 自分がキング・オブ・根性なしだと今更ながら思い知った。
 春華は、しょげ返った僕を見て、ニヤリと笑った。
「何落ち込んでるの。秋人のことはそれなりに評価しているのよ、私。感謝しなさい」
「はあ」
「雑用を一手に引き受けてくれているところも高評価ね」
「はぁ」
 素直に喜ぶべきところだろうか。判断が難しすぎて、僕は曖昧な笑みを浮かべるしかなかった。
「だから私なりにサービスもしているじゃない。無料特典付きみたいなもんよ」
「え? 何か僕に特典がありましたっけ?」
 春華は顎に指を添えて、天井を見つめて少し考えてから、言った。
「私の魅惑の曲線をじろじろ見ていても『見るな』と拒絶しないように我慢しているわよ」
「頼まなくても、見せつけてるじゃないですか! その体操服だって、だらしなくて、その……」
「なによ。ほらほら、動いたら隙間から色々見えるんじゃない? しかも無料! ほらほら!」
 色々見えた。
「僕は、そんなこと、望んでいません!」
「えー? 物足りないってこと?」
「と、とんでも! そんな命知らずじゃありません!」
「まあそうねぇ。基地内での過激な行為は小隊長から禁止されてるから」
「ですから、過激なこととかは望んでいませんし」
「でもそういえば、小隊長は時々ヌードで基地内を歩いているわね、酔っ払って」
 僕は、もう一人の厄介な人物、ここの小隊長である今里五十鈴(いまりいすず)の顔を思い出した。整った顔からは想像できない春華以上のだらしなさを思い出してさらに気が滅入ってきた。
「あんたも一回くらい見たことあるでしょ? 夜中に歩き回っているドエロボディ」
 一瞬、思い出しそうになって、慌てて記憶を打ち消した。あれは出合い頭の事故だった。
「それにあたしが今こうしてダレているのは、工作室で真面目に職務を果たしていたからよ」
 春華は火力隊の中の工作班に属している。昔の軍隊でいえば工兵隊だろう。工作室とばれる機器類の加工や溶接などのできる部屋に閉じ篭もって何やら色々と作っている。
 根っからの機械工作オタクなのだ。外観からは想像が出来ない。この観測基地に来て一番驚いたのは工作作業時の春華の真剣さかもしれなかった。
「でもね、あたし、柔肌だから、引っかき傷とかたくさんするの。お肌は大切だから、作業の後はお風呂。で、お風呂の後は今みたいに休憩。どこにも非はないわよね!」
「長々と聞いて損した気分です……」
 僕は春華の戯れ言に疲れ切って、話題を断ち切った。
「わかりました。レポートは僕が書きます。ごきげんよう」
「じゃあお願いね」
 結局、僕は弄ばれただけだった。それでも最後に、主張するところだけはしておいた。最後の意地。虚しい最後っ屁。
「代わりといってはなんですが、ご自分でお使いの場所の掃除は各自にお願いしますからね」
「個人が使用している部屋なんてないじゃない。この休憩室を含めて全部共用じゃない」
「いえ、寝室とかあるじゃないですか」
「それくらいなら、してるわよ」
「寝室は当たり前です。ほかが共用というのは建前はそうですけれど、この部屋の続きにあるシャワー室なんて、使ってるの春華先輩だけじゃないですか。実質、春華先輩の個室ですよ!」
 春華は不服そうに眉根を寄せると、顎で部屋の西北隅にある扉を指しながら、言った。
「そんなこと言われなくたって、そこはあたしが掃除してるじゃない」
「当たり前です。ですからそれを続けてくださいね」
「五十鈴もたまに使ってるわよ」
「小隊長には、ですね、別の担当個所があります。ほら、あそこ」
 僕は観測基地の東北隅にある扉を指差した。
 扉の向こうは仮眠室になっていて、簡易ベッドが一つ置いてあった。
 そして今も、そこで昼寝している人がいる。眠り姫。スリーピング・ビューティー。
「小隊長にはあの部屋の掃除担当になってもらいます」
 春華は生欠伸を噛み殺しながら、言った。
「いいんじゃない、それで。小隊長は天気のいい日は外で日光浴、お日様が出ていないと仮眠室で転寝。今日は曇っているから仮眠室。あそこは小隊長の領地よね」
「僕の領地はどこだろう」
「知らないわよ。で、話は終わりよね? じゃ、おやすみ」
 そう言うと、再びテーブルに突っ伏した。呟くような聞き取りにくい声で続けた。
「まあ五十鈴のことだし、仮眠室に掃除なんて不要、って言うと思うけど。すぐにゴミ屋敷状態ね、絶対」
「念のために言っておきますけど、占有している部屋は占有者が掃除をして当然だと思います。僕が今日、決めておきたいのはそうじゃなくて、共有の場所、つまりここ、この観測基地は誰が掃除するんです? ここの掃除も当番制だってはじめに聞いて……」
 僕は言葉を途中で飲み込んだ。顔を横に傾けた春華が、上目遣いで睨んできたからだ。
 魂を削り取っていくような目。漫画に出てくる邪眼って、きっとこの目なのだと確信した。
 自分を守るため、言葉を探し、選び、口にした。
「春華先輩はお綺麗です。基地にやって来るいつもの補給班のおじさんたちも、『あのお嬢様はお掃除お料理お洗濯も上手に違いない』と噂しています」
「本当のことを言っても、お世辞とは言わないわよ」
 縋る余地もない冷徹な返事だった。そうくるなら、と、言葉を選んで言った。
「お掃除上手でしたら、この部屋くらいは、当番制にしても問題ありませんよね」
 春華の視線が鋭くなった。理屈や三段論法などというものが通じる相手ではなかった。やはり逆らわずに隷属しておくべきであったと深く反省した。
「春華先輩の視線って、冷たい目なんていうレベルじゃないんですよ。哀れむ目、いや違う、もっと突き放した感じ、そう、地獄に堕ちた亡者をただ静かに観察しているような、感情のない目、です。見られている僕の心が死に至る視線です」
「えらい言われようね。こう見えても、あたしは情が深い女って有名だったのよ」
 そう主張しながら春華は、テーブルの上でこれ見よがしに上半身をくねらせた。その動きに合わせて、体操服が可哀想に思えるレベルで胸がテーブルの上で大きく弾んだ。
 またイケナイモノが見えた。
 僕は、慌てて視線をそらし、そ知らぬ風を装った。羞恥ではなく、自己防衛のためだった。しかし、対処が遅かった。
「やらしー」
「見てません!」
「嘘ついても無駄。そういうのは女性ってわかるもんなのよ」
 言い返す言葉もなく、僕は肩を落とした。
「これって、罠? 苛め?」
 沈鬱な気持ちを紛らわそうと、僕は窓の外を見た。陽が水平線に近づき、垂れ込めた雲のわずかな隙間から漏れる赤みを帯びた日差しが、休憩室の中まで照らし始めていた。
 じっと辛抱の時が過ぎるのを待った。
 しばらくしてやっと静かになった春華の様子をこっそりと横目で伺うと、右腕を枕にして顎を乗せ、窓の外、雲の隙間からわずかに覗く夕日を見ていた。大きな瞳に、赤い太陽が燃えていた。
 炎を宿した瞳のまま、春華が呟くように言った。
「あんた、はじめてここに来た日に、ここから見える夕日が好きだって言ってたわよね」
「はい。赴任の挨拶でそう言いました」
「そう。あの時は見事に真っ赤な夕日だったわね。だから思い出したの。それだけ。なんでもないわ。会話終了」
 春華の言葉どおり、僕は夕日が好きだった。いつから好きになったのか記憶にないくらい、昔から好きだった。
 これまでも、数多くの夕日を見て、何度も感動してきた僕だったが、この観測基地から見る夕日の見事さは、その記憶の中でも突出していた。
 まず、ロケーションが素晴らしかった。観測基地の最上階から海がみえる。しかも水平線まで一望だった。
 その丸い水平線に沈んでいく夕陽は、あまりの素晴らしさ故に、何度見ても僕の心を感極まらせた。今も、夕日から目を離せなくなっていた。
 春華が横から、気だるそうに言った。
「美しさを表現で『男泣きする夕陽』って古い言葉があるわよね。あんたも泣くのね」
 時すでに遅し、とはわかっていたが、僕は顔を背けて、目じりの涙を隠した。それでも、自分の心には素直に従って、肯定した。
「ええ、よく泣きます。だって、自然って、凄いですよ。春華先輩は、夕日、嫌いですか?」
「ん~、ゆ~ひは~、ど~でもい~」
 投げやりにそう言うと、春華はむくりと立ち上がり、大きく背伸びをした。目の前で、また曲線が滑って何かが見えた。僕はそっと視線をはずした。
「じゃ、シャワー浴びて帰るから。小隊長、起きそうもないし。あたしが帰ったあとで起きたら、お相手よろしくね」
 僕の返事を聞く素振りもなく、春華はロッカーの中から洗面セットとバスローブとバスタオルを無造作に固めたピンク色の塊を取り出すと、シャワールームに向かった。
 扉に入る前に、殺人光線成分を含んでいるとしか思えない視線を僕の眉間に突き刺し、それからおもむろに扉に掛けてある看板を表に向けた。
 そこには、こう書かれていた。
「覗いたらコロス!」
 極太油性ペンによる迫力満点の筆致だった。しかも書いている途中で力が入りすぎたらしく、「ス」の最後でペンの軸が圧し折れ、「!」の部分はインクの飛沫で書き散らされていた。
 僕はこの文字を見るたびに、そこに明確な殺意を感じていた。
「わかってます」
 配属前までは父と母の追悼とシスター・合根川への感謝の気持ちが強かった。そのために生きようと誓っていた。どちらも忘れてはいけないものであるし、そのために単調な勤務の中にあっても緊張を持ち続け、白虚無症候群とヤツラを叩き潰さなくてはいけないのだ。
「そうなんだけどなあ。この観測基地は、魂を堕落させる」
 今はまず、煩悩を退散させようと、視線を窓の外に移した。
 窓の外の夕日は、輝きを増していた。もう直ぐ、海面と融け合う位置まで沈んでいた。
 近づく太陽に炙られて、海面の波は黄金色に煮え滾り、波の作る陰の部分とのコントラストを煌かせていた。荘厳な美に、僕の煩悩に爛れた心が洗われていった。
 静かな時間が流れた。
 ふと、我に返ると、太陽はその半分が海に没していた。空には夜が迫り始めていた。
 腕時計を確認した。小隊長は出てこない。何もないのなら、寝室に帰ってのんびりしたかった。
 しかし、明日の計画を確認せずに二人を置いて勝手に一人で先にお帰りなどすれば、しなくていけないことがすべて僕に背負わされる決定が欠席裁判でなされるだけだった。ただ、時の流れるのを、ひたすら待った。
「それにしても長いなあ」
 五十鈴小隊長の転寝も長かったが、春華のシャワーも終わる様子がなかった。
 シャワーの水音と鼻歌はエンドレスに続いていたがいつものことではあった。毎朝毎夕、一時間かけてシャワーする。よほど表面積があるのだろう。
 窓の外では太陽が完全に海に溶け込み、垂れ込めた雲が夜の闇に染まり出した頃やっと、シャワールームから春華が姿を見せた。
 ピンクのバスローブを身に着け、長い髪はバスローブと揃いのピンクのタオルで巻いていた。着替えた服らしきものを、僕の目に触れないように隠し持っているところだけが乙女心の残骸だった。
 バスローブ越しとはいえ、中に隠されている豊満な春華の肉体が弾むのが手にとるようにわかるので、僕は真反対の方向に視線をそらせるしかなかった。
「拷問だ。これは、拷問だ」
 鼻歌を続けながら春華は、ミニキッチンの戸棚からカップラーメンを取り出した。電気ポットに沸いていたお湯を注ぐと、テーブルについた。
 すぐにシーフードスープの香りが観測基地に流れた。気にしない振りをしていた僕のお腹は情けなくもグウと鳴った。
 瞬間、春華に睨まれた。
「一筋たりとも、一滴(ひとしずく)たりとも、あげないわよ」
 カップラーメンは、基地内で規定されている食事の質素さを十分に知っていた春華が補給班のおじさんを誑し込んでひそかに持ち込ませた私物だった。ご相伴にあずかる権利のない僕は、小さく何度も頷いて、従順な姿勢を示した。すると、匂いに誘われたかのように、閉ざされていた仮眠室のドアが開いた。
「おはよー。春華、一個、頂戴」
 寝ぼけ顔の五十鈴小隊長のご登場だった。
 パジャマ代わりなのだろう、上は寸足らずのTシャツ、下はぴちぴちの短パンだけという、春華と競って眼に有毒なだらしない姿だった。
 五十鈴小隊長は春華のような豊満タイプではなかったが、肩から胸、脇から腰のたおやかなライン、
を描き、可愛いオヘソが自己主張をしていて艶めかしいとしか言いようがなかった。
 しかも、ショートボブに縁取られた顔立ちは絵に描いたようなお嬢様タイプの日本美人ときているのだ。寝ぼけ顔というところが、さらに色気を増していた。
 寝乱れた寝惚け美少女。しかも、短パンがずれて、半ケツが見えていた。
 僕は、またしても、そっと視線をそらせることしか出来なかった。
 するとカップラーメンを啜り込んでいる春華がジト目でからんできた。
「はい、そこ。小隊長を今夜のオカズにしないように」
「しません!」
 カップラーメンにお湯を注ぎながら、寝ぼけた半眼で見ていた五十鈴小隊長が言った。
「私なら気にしてないわよ。脳内妄想まで規制しないから」
「ダメよ!」
 すぐに春華のダメ出しが飛んだ。シーフードスープの飛沫とともに。
「そうやって甘やかしてたら、風紀も人間も腐るのよ! 人類のためにもビシビシと厳しくしないと!」
「ビシビシ? そうねえ、ビシビシはするのもされるのも好きよ」
 僕は全身に濡れ綿のような疲労を感じた。いつもの風景で、いつもの会話だ。
 ラーメンを食べ終わった春華は、僕の精神消耗など気にもせずに、髪をドライヤーで乾かしながら、言った。
「小隊長の目が醒めちゃったから、活動しないとね。はい、あんた、始めて」
 こうして、基地配属の総勢三名は、正規の活動時間を過ぎてからやっと揃った。
「それでは、定刻よりかなり遅れていますが、本日の活動を始めます」
 自らを鼓舞して立ち直った僕は、そう宣言してから、発言を促そうと五十鈴小隊長を見た。
 ところが五十鈴小隊長はテーブルに片肘を突いた姿勢のまま、ラーメンが伸びるのも構わず転寝を始めていた。しかも春華よりたちが悪く、イケナイモノがまるっと見えていた。
 一方、春華は僕の宣言など無関心で、鼻歌混じりで髪を梳かしていた。こっちもバスロブの襟元から胸が半分以上こぼれ落ちている。
「神様。この艱難辛苦はいつまで続くのですか」
 今日も神様は無言だった。小隊長のように寝ているのかもしれない。
 真面目に活動を推進しているのは、明らかに僕だけだった。活動報告書を開き、ボールペンで今日の日付を記入した。
「レポートは僕の好きなように書かせてもらいますからね」
「いいわよ~」
「ぐ~」
 春華の適当な返事に、五十鈴小隊長のイビキの返事。なんという無気力。なんという倦怠感。
 僕は、報告書に印刷されている各設問に「特記なし」とひたすら書き続けた。
「もうこんな役に立っていない基地なんてなくなればいいのに、って考えてるでしょ?」
 髪をまとめながら呟いた春華の言葉に、僕は首を横に振って否定した。
「なくなったら困りますよ。この基地の位置って前のヤツラの侵攻時の防衛の要だったって聞いていますし」
「ああ、それは聞いたわね。海に大型の不審船が座礁して中からヤツラが上陸してきた、だっけ?」
「大陸からヤツラが船で来た、ってことなんでしょうか?」
「知らないわよ。ヤツラの知能程度は低いって聞いたけど? 小隊長なら何か聞いているんじゃない?」
「ぐー」
 小隊長は熟睡している。今ここで聞くのは無理そうだった。
 春華がジト目のまま口を開いた。
「ところで秋人ってさ、給与の半額以上を教会に送金しているって聞いたけど」
「はい。孤児だった僕をここまで育ててくれた恩を返そうと思ってます」
「あんたって、まともよね。あたしと大違い」
「春華先輩は、前に『出世のためにここでキャリアを積む』って言っておられましたよね」
「まあ、それもあるけど。前線の基地で優秀な成績を収めれば、自衛軍の本部に専用の出世コースが用意されているって聞いてるし」
「軍の偉いさんになりたいんですか?」
「んー。ちょっと違うわね」
 春華はそこで言葉を切った。少しだけ言い淀んでから僕を見た。
「あんたには教えてあげる。これも無料特典。他言は無用よ」
 僕は大きくうなずいた。
「逃げるためよ」
「逃げる? ええと、ヤツラからですか?」
「違うわ。復興省からよ」
 全く理解ができなかった。
「何、そのハトが豆鉄砲云々って顔。復興省再生庁の黒い噂、知らない?」
「あ、はい、全然知りません」
「男の子の耳には入らないのかしらね。女の子だけの噂かも」
「なんですか、それ?」
「また今度教えてあげる」
「え、ここまで話してくれたのに」
「人類は滅亡の淵まで来たから、今は産めよ増やせよ、でしょ? まずは人口をあるレベルまで増やさないと種が終わるとか」
 それは聞いたことがあった。だから士官学校の女子生徒も人口増加の研究のために再生庁へ進学する者が多かった。
「悪い研究でもしているんですか? SFアニメみたいに」
「そういう感じだって思っていいわ。でね、私は噂で聞くような『研究』に加担する気はないの。だからそこに配属されないように、本部で出世するの。ここに居ると小隊長くらいの年齢になったころに、強制的に再生庁への配属が決まるらしいわ」
 思わず僕は小隊長の寝顔を見た。近い未来に小隊長の身にそういう辞令が発令されるということなのか。
「小隊長の心は知らないけど、こうやって職務放棄しているのはささやかな抵抗かもしれないわ」
「そうなのかなあ」
 小隊長は黒い噂など知らぬ風に無邪気な顔で寝息を立てている。
「じゃ、秋人、あたし先に寝るわ。小隊長のこと、よろしく」
 そう言って立ち上がった春華は、振り返ると一言付け加えた。
「過激なことをするなら、あたしに聞こえないところでお願いよ」
「しません!」
 げらげら笑いながら、春華は寝室へ去って行った。残された僕は、小隊長の寝息を聞きながら、少し先の未来も自分の知らないことだらけなのだと気づいて気が重くなった。
 今できることは、ここの職務をこなし、教会へ仕送りを続けることだけだと腹をくくった。
「さてと、報告書を仕上げておくか」


続く
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