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🎐本章❖第四話🎐

第四話『 肉欲の刃 』 - 01 / 05

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「おはよう」
 禰琥壱ねこいちは、柔らかく朝の挨拶をする。
「おはようございます」
 すると、寝室から出てきた雪翔ゆきとが、そんな彼に挨拶を返した。
 それは、雪翔が禰琥壱の家で迎えた、何度目かの朝の事だった。
「よく眠れた?」
 そうして穏やかな朝を迎えた雪翔に、禰琥壱は問う。
 雪翔は、まだ少しまどろみながら、緩く微笑んで答えた。
「はい、凄く」
「そうか。それはよかった」
 禰琥壱は、その偽りのない雪翔の言葉に、笑顔を返した。
「君も、朝ごはん食べるかい?」
「あ、はい! 食べたいです」
 雪翔は、そんな禰琥壱の笑顔に心地よさを感じながら、素直に言った。
 すると禰琥壱はまたにこりとして言った。
「じゃあ、用意しておくから、顔を洗っておいで」
 そして彼は、一階へ降りる階段へと向かった。
「はい、ありがとうございます」
 そんな禰琥壱に返事をし、雪翔もまた、彼の後を追った。
 その日の朝また、穏やかで、安らぎを感じるような朝だった。
 雪翔は洗面台の前に立って背伸びをし、快適な睡眠を経た朝の幸せを噛みしめた。
 数日前から禰琥壱の家で過ごす事となった雪翔だが、そうして禰琥壱の家に来てからというもの、彼は何者にも邪魔されず、毎日快適な睡眠をとる事ができていた。
 そして朝もまた、冷や汗をかく事も、呼吸を乱して飛び起きる事もなく、心地よく目覚める事ができている。
 だだもちろん、彼の悪夢は消えたわけではない。
 これについては、未だに禰琥壱が調査を続けてくれている。
 そして雪翔は、そんな禰琥壱からの質問に正直に答える――というのが、現在の役目となっていた。
 だが、悪夢が解決してもいないのに、睡眠や苦も無く、雪翔が健康的かつ快適な睡眠をとる事ができているのは、あの瑠璃色の御守りのお蔭だった。
 雪翔は、この家に来てから、以前貰った御守りとはまた別の御守りを貰った。
 ただ、デザインは変わらず、同じく瑠璃色の包みで作られた御守りだった。
 禰琥壱に因ればそれは、禰琥壱の家の中だからこそ最大限の力を発揮する事ができるように作られているとの事だった。
 そして、雪翔はここ毎晩、肌触りの良い紐で首に掛けられるようになっているその御守りを身に着け、更にそれを胸に抱くようにして眠りにつくようにしていた。
 すると不思議な事に、まったくあの悪夢を見ないのだった。
 そんな事から雪翔は、睡眠薬に頼る事も、不安に怯える事もなく、毎晩、心からの休息をとる事ができていたのだった。
(普通に眠れるって……本当に幸せなんだな……)
 雪翔は洗顔後、ほどよく心地よい香りのするタオルで顔を拭きながら、その柔らかさに顔を埋めるようにして、その幸せを噛みしめた。
 
 
― 言ノ葉ノ綿-桔梗の夢❖第四話『肉欲の刃』 ―
 
 
 そんな穏やかな朝を経た、とある日の事。
 その日の昼過ぎに、禰琥壱の家には来客があった。
 そして、たまたま禰琥壱と共に一階のリビングで時を過ごしていた雪翔は、そのまま禰琥壱と共にその来客を出迎える事となった。
 インターホンが来客を知らせた事から、禰琥壱と雪翔は玄関へと向かった。
「あっ……!」 
 そして、禰琥壱の後ろに続くようにして来客を出迎えた雪翔は、その来客を見るなり思わず声を発した。
「ん? おお……」
 すると、そんな雪翔の声に気付いたのか、来客らしき男が雪翔を見た。
 そして彼もまた、雪翔と同じように少し目を見開いた。
 どうやら彼も、雪翔に見覚えがあったらしい。
「おや? お知り合いでしたか?」
 すると、そんな様子を見ていた禰琥壱が男に問うた。
 男は笑顔で答える。
「あぁ、そうだな、知り合いというか……お客様、か?」
 男はそう言うなり、何か含みのあるような表情をした。
「お客様――あぁ、なるほど」
 禰琥壱は、その男の意図を組んだのか、何やら納得したようにそう言った。
「え?」
 だが、当の雪翔はまったく理解できずにいた。
「はは。混乱させてすまない。気にしないでくれ。――やや久しぶりだな、雪翔君」
「あ、は、はい! お久しぶりで――……え」
 雪翔は、そんな男の頼りがいのある雰囲気に、少しだけ懐かしさを感じながらも、軽く会釈をしようとした。
 だが、雪翔はそこで思わず固まってしまった。
「ん? どうした?」
「どうしたんだい?」
 そんな雪翔に、男と禰琥壱が順々に声を掛ける。
「……や、……そ、その……」
 雪翔は、そんな二人に対し、それだけをぎこちなく返した。
 また、そんな雪翔は、その二人を見ていなかった。
 雪翔はその時、“何かに目を奪われているらしい様子で”、男の方に目を向け、男ではない何かを凝視しているようだった。
 そして、そんな雪翔に凝視され、“彼”もまた、戸惑いを隠せない様子で雪翔を見返していた。 
 だが、そんな彼もなんとかこの状況を打開しようと思ったのか、男の裾をつんと掴んで声を出した。
《りょ……遼弥りょうや……っ》
「え?」
 すると男は、そんな彼の声に答え、すっと己の背後を振り返った。
 そして男はそのまま、そんな彼の視線の先を辿った。
 そうして男の視線が辿った先には、同じく目を見開き、やや青ざめてきている雪翔が居た。
 すると、どうやらその男と同じようにして“彼”の視線を辿ったらしい禰琥壱の視線も、無事に雪翔に辿り着いた。
「おや……」
 禰琥壱は、そうして視線を向けた雪翔を見て、そう言った。
 そんな禰琥壱の一言を受け、雪翔は、まるで錆びついた機械のような鈍い動作で禰琥壱の方へと顔を向けた。
 すると、また一段と朗らかに微笑んだ禰琥壱は、雪翔に言った。
「やっぱり、君も視える子なんだねぇ」
 そうして雪翔はその日。
 幽霊は昼間でも普通に視えるらしいという事を、身をもって知る事となった。
  
 
 
「――図らずして驚かせてしまったな」
 リビングに設けられたテーブルを挟み、雪翔の斜め向かいに座ったその男、夜桜遼弥よざくら りょうやは、苦笑するようにしてそう言った。
 実のところ、彼は刑事を職としている。
 また、以前雪翔が行方不明になっていた当時にはその捜査を担当し、雪翔の生還後もまた、雪翔の聴取も担当した刑事でもあった。
 つまり、雪翔と夜桜に面識があったのはその為だった。
「ふふ、今日は驚く事が重なるねぇ」
 すると、そんな夜桜の言葉に続き、禰琥壱も雪翔に言った。
 そして、テーブルに茶菓子の皿を丁寧に置くと、その男の正面となる、雪翔の隣の椅子に腰を落ち着けた。
「は、はい……」
 そんな二人の言葉を受け、雪翔は未だに信じられないと言った様子でぎこちなく答えた。
《ごめんなさい……》
 すると、雪翔の正面に座る、誰よりも恐縮した様子のもう一人の男が、酷く申し訳なさそうにそう言った。
 雪翔は、そんな彼の様子に慌てて言った。
「えっ、あ、い、いや、全然大丈夫なんで! ほんと、ただ驚いただけですから!」
《うう……すいません》
 だが、それでもまだ落ち込だ様子のその幽霊、雪平眞世ゆきひら まなせは、今一度謝罪を述べた。
「ほら、いつまでヘコんでんだ。――もう許してもらったんだから、それ食って元気出せ」
 すると、そんな眞世を見兼ねてか、夜桜がそう声を掛けた。
《う、うん》
 眞世は、そんな夜桜の言葉でなんとか立ち直れたのか、先ほど禰琥壱から出された茶菓子に手を伸ばした。
(えっ……)
 そして、彼らのやり取りを現実感なく見ていた雪翔だったが、思わずそこで目を見開いた。
 雪翔は、実は先ほどから、恐らく飲食できないであろう眞世の目の前にも紅茶と茶菓子が置かれている事が気になっていた。
 だが、幽霊とて人に変わりはない。
 だからこそ、このような無粋な好奇心で興味をもたれるのは不快だろうと思い、雪翔はなるべくじろじろ見ないようにと心掛けていたのだ。
 だがその自制も、その瞬間の光景にだけは叶わなかった。
 なんと、雪翔の眼前では、幽霊であるはずの眞世が、そのクッキーを手に取るようにしてから口に運んだのだ。
《わ、美味しい……》
 そして、極め付けにはそんな感想を漏らした。
 だが、その様子に驚いているのはやはり雪翔だけだったらしい。
「お口に合ったようでよかったです」
 対する禰琥壱はといえば、相変わらずの穏やかな口調でそう言った。
(……く、食えるんだ……)
 だが、驚きに包まれたままの雪翔は、心の中でそう漏らさずにはいられなかった。
(で、でも、――あんまじろじろ見たら失礼だよな……)
 ただその後、雪翔はそう思い直すなり、そっと彼から視線を外したのだった。
「しかし、禰琥壱君は相変わらずあの一件との縁が切れないな」
 そうして眞世が元気になった事で安心したらしい夜桜は、また一つ言った。
 禰琥壱はそれに、首を傾げるようにして笑んだ。
「ふふ、そうみたいですね」
 雪翔は、そんな彼の言葉を不思議に思い、思わず尋ねた。
「え? あの“一件”ってなんですか?」
 すると夜桜が口を開いた。
「ん? あぁそれは……――いや、これは……」
 だが、それからふと迷うようにして、言葉を濁した。
 そして、そんな夜桜の隣で、心なしか眞世も気まずそうな顔をしている。
 雪翔はその様子をまた不思議に思い、首を傾げた。
 すると、その場を整えるようにして禰琥壱が言った。
「夜桜さん。彼は大丈夫ですよ。――彼は今、その事も踏まえてこの家に居るんです」
「何? ……そう、なのか」
 夜桜は、やや案ずるような表情で雪翔を見た。
 雪翔はそこで、禰琥壱の言葉を反芻し、先ほど夜桜が言葉を濁した理由を悟った。
 そして言った。
「あの――その“一件”って、もしかして、あのアパートの事ですか」
 夜桜は、そんな雪翔の言葉に少し驚いたような表情をした。
 そして、恐れる事なく雪翔がそう口にした事から何かを悟ったのか、夜桜はその後、ゆっくりと頷いた。
「あぁ、そうだ。――ただ、君が居る中で軽率に口に出すものではなかった。すまない」
 夜桜は、そう言って軽く頭を下げた。
 そんな夜桜に恐縮し、雪翔はそれを制するようにして言った。
「い、いえ! そんな、大丈夫です!」
 そして雪翔は続けて問うた。
「でも、あの、――あのアパートの事を知ってるって事は、夜桜さんもあのアパートで何かあったんですか?」
「ん? ――あぁ、まぁ。そうだな。そんなところだよ」
 すると夜桜は苦笑気味にそう答えた。
 雪翔はそれで、少し心が急くような気持ちになった。
 そして、その気持ちに背を押されるまま、更に問うた。
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