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第4章 煉瓦街
2 壇上の麗人
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しばらく通りを進むと、先のほうに人だかりが見えてきた。
近づくと芝居小屋らしく、「朝野座」という幟旗が立っている。
読売のような恰好をした男が前に立って、扇子を片手に大声を張り上げていた。
「さぁて、今日は芝居じゃあない。今、巷で大流行りの演説だよお。それも、ただの演説じゃあない。
なんと、女演説だ。誰だいっ、艶めかしい舌と書いてエンゼツと読むなんて言ってるやつァ。
おいおい、そこのおっさん、変なこと思い浮かべてんじゃねえよっ。それも、ただの女じゃない。
なんと天子様の奥方にも講義をしたことがあるというお墨付きの才媛だ。その名も岸部芳子。
お題は箱入り娘ときたもんだ。さあ、入った入った!」
私達は顔を見合わすと、読売男が回す手の流れに沿うようにして木戸銭を払い、中へ入って行った。
中は二階の桟敷席まで満席で、ゆうに百人を超える客がいた。
仕方なく入口近くの壁際に立った。舞台には紫幕が張られ、大きな花が飾られている。
洋卓の両側には百匁蝋燭が灯され、袴姿の男が前座をつとめていた。
すぐにはわからなかったが、その男は盲目らしかった。
健常者だけでなく、目や耳が不自由な子どもたちのための学校も備えてこそ、真の文明国ではないか
と訴えていた。
舞台の左側には椅子が一脚置いてあり、腕組みをした警官が目を閉じたまま座っている。
前座が終わり舞台端から岸部芳子らしき女が姿を現すと会場は一旦、水を打ったように静かになった。
白地に藤を描いた絵羽染めの着物に黄色の帯を締め、大きな紋の入った黒羽織を着ている。
島田髷の芳子は、理久と同じくらいの歳に見えた。
細面で目元涼やか。読売男の前宣伝の影響か、なかなかの知的美人に見える。
客を驚かせたのは風貌だけでなく、その落ち着き様だった。
洋卓の前で一旦深々とお辞儀をすると、まず水差しの水を硝子杯に半分ほど入れ、一気に飲み干した。
それだけで客席から「ほぉー」と声が上がる。臨監中の警官は、相変わらず身じろぎもしない。
「皆様、私が、岸部芳子でございます……」
若い娘らしい高い声が、場内に冴え冴えと響き渡った。
「……演題の箱入り娘とは、皆様ご存知のように、まるで箱の中にしまわれたかのように大事に育て
られた娘のことを指しまする。父母がこの箱なるものを作るは娘を慈愛する心がなす業にござりましょう。
しかし箱あらば娘は自由に手足を広げること、叶いませぬ。これは箱の内に育てられた花に例え
ることができましょう……」
とまで言ったところで、臨監役の警官が、ゆっくりと目を開いた。
「生家では父母に従い、嫁しては夫に従い、老いては子に従うべしと徹頭徹尾従うべしとのみ諭さ
れるとき、女子は物事の是非を見分け正邪を解す知識を養成することができなくなるのでございます。
これでは箱に閉じ込められ、不自由極まりない花と相違ないではございませぬか?
花とて原野にあるもののごとく自由に輝き、笑い、芳しき香を放ちたいのでございます。
の内に萎れたくはないのでございます」
場内がざわつき始めた。警官は組んでいた腕を下ろし、顔を芳子のほうに向けた。
「閉じ込められた花は、娘は、悲しみや恨みのあまり箱から脱走し、父母はこれを捕えんと西へ東
へ奔走します。あるいは下男下女を遣わすも、これまた風吹き雨降り、苦労は堪えませぬ。
自由にさせておけば箱はいらず、下男下女も雇うにおよびませぬ。一家の費用も助かるというものです」
「そうだ! 新聞紙条例反対!」
「集会条例反対!」
「これからは女子も大いに学び、正邪を解す知識を持って、独立、自由の人格となるべきなのであります。
そうなってこそ、好き合って結ばれた夫婦は手に手をとって、世間という虎伏す野辺を進むことができ
るのでございます。鯨寄せる海を渡っていくことができるのでございます」
「虎はあそこにいるぞ!」
数人の客が舞台の左端を指差した瞬間、警官は勢いよく立ち上がった。
「演説中止! 解散!」
警官の怒号が場内に響き渡ると、すぐに、臨監席に向かって布団や茶碗が飛び始めた。
私達三人は、頭を腕で覆いつつ外へ出た。
近くの蕎麦屋に入ったが、理久は興奮冷めやらず、出て来た掛け蕎麦もなかなか喉を通らないようだった。
「あの女の人、どうなっちゃうのかしら?」
「直接、政府を批判するようなことは言ってませんでしたからねえ。聴いてる者が勝手に反応したと言えば、
そんなにおとがめはないんじゃないですか?」
「例えを使った政府批判は最近増えてるがらなあ。良くて罰金、悪くすりゃ……それこそ箱に入れられっか
も。まあ、そこまでは行かねえとは思うけんど。理久さん、ほれ、早く食わねと、麺、伸びちまうべ」
「箱って……牢屋のこと? 先生、冗談は止めてよ」
「冗談じゃねえべ。この頃は牢屋が足りねで増築してるそうだ。でもさすが、天子様の奥方に講義しただけ
あって物怖じしてない。俺は、ああいう若ぇおなごがいるっつうことに、たまげた」
「そのまま宮中にお仕えしてたほうが良かったんじゃないですか? なんか、勿体ない気がしますけど」
私もそれは不思議に思っていた。でも、にわかに腑に落ちた。
「宮仕えより、自分は巷で演説するべきだって思ったんだろな」
若い娘にとっては重大な決意だったろう。私は一気に残りの蕎麦をすすった。
近づくと芝居小屋らしく、「朝野座」という幟旗が立っている。
読売のような恰好をした男が前に立って、扇子を片手に大声を張り上げていた。
「さぁて、今日は芝居じゃあない。今、巷で大流行りの演説だよお。それも、ただの演説じゃあない。
なんと、女演説だ。誰だいっ、艶めかしい舌と書いてエンゼツと読むなんて言ってるやつァ。
おいおい、そこのおっさん、変なこと思い浮かべてんじゃねえよっ。それも、ただの女じゃない。
なんと天子様の奥方にも講義をしたことがあるというお墨付きの才媛だ。その名も岸部芳子。
お題は箱入り娘ときたもんだ。さあ、入った入った!」
私達は顔を見合わすと、読売男が回す手の流れに沿うようにして木戸銭を払い、中へ入って行った。
中は二階の桟敷席まで満席で、ゆうに百人を超える客がいた。
仕方なく入口近くの壁際に立った。舞台には紫幕が張られ、大きな花が飾られている。
洋卓の両側には百匁蝋燭が灯され、袴姿の男が前座をつとめていた。
すぐにはわからなかったが、その男は盲目らしかった。
健常者だけでなく、目や耳が不自由な子どもたちのための学校も備えてこそ、真の文明国ではないか
と訴えていた。
舞台の左側には椅子が一脚置いてあり、腕組みをした警官が目を閉じたまま座っている。
前座が終わり舞台端から岸部芳子らしき女が姿を現すと会場は一旦、水を打ったように静かになった。
白地に藤を描いた絵羽染めの着物に黄色の帯を締め、大きな紋の入った黒羽織を着ている。
島田髷の芳子は、理久と同じくらいの歳に見えた。
細面で目元涼やか。読売男の前宣伝の影響か、なかなかの知的美人に見える。
客を驚かせたのは風貌だけでなく、その落ち着き様だった。
洋卓の前で一旦深々とお辞儀をすると、まず水差しの水を硝子杯に半分ほど入れ、一気に飲み干した。
それだけで客席から「ほぉー」と声が上がる。臨監中の警官は、相変わらず身じろぎもしない。
「皆様、私が、岸部芳子でございます……」
若い娘らしい高い声が、場内に冴え冴えと響き渡った。
「……演題の箱入り娘とは、皆様ご存知のように、まるで箱の中にしまわれたかのように大事に育て
られた娘のことを指しまする。父母がこの箱なるものを作るは娘を慈愛する心がなす業にござりましょう。
しかし箱あらば娘は自由に手足を広げること、叶いませぬ。これは箱の内に育てられた花に例え
ることができましょう……」
とまで言ったところで、臨監役の警官が、ゆっくりと目を開いた。
「生家では父母に従い、嫁しては夫に従い、老いては子に従うべしと徹頭徹尾従うべしとのみ諭さ
れるとき、女子は物事の是非を見分け正邪を解す知識を養成することができなくなるのでございます。
これでは箱に閉じ込められ、不自由極まりない花と相違ないではございませぬか?
花とて原野にあるもののごとく自由に輝き、笑い、芳しき香を放ちたいのでございます。
の内に萎れたくはないのでございます」
場内がざわつき始めた。警官は組んでいた腕を下ろし、顔を芳子のほうに向けた。
「閉じ込められた花は、娘は、悲しみや恨みのあまり箱から脱走し、父母はこれを捕えんと西へ東
へ奔走します。あるいは下男下女を遣わすも、これまた風吹き雨降り、苦労は堪えませぬ。
自由にさせておけば箱はいらず、下男下女も雇うにおよびませぬ。一家の費用も助かるというものです」
「そうだ! 新聞紙条例反対!」
「集会条例反対!」
「これからは女子も大いに学び、正邪を解す知識を持って、独立、自由の人格となるべきなのであります。
そうなってこそ、好き合って結ばれた夫婦は手に手をとって、世間という虎伏す野辺を進むことができ
るのでございます。鯨寄せる海を渡っていくことができるのでございます」
「虎はあそこにいるぞ!」
数人の客が舞台の左端を指差した瞬間、警官は勢いよく立ち上がった。
「演説中止! 解散!」
警官の怒号が場内に響き渡ると、すぐに、臨監席に向かって布団や茶碗が飛び始めた。
私達三人は、頭を腕で覆いつつ外へ出た。
近くの蕎麦屋に入ったが、理久は興奮冷めやらず、出て来た掛け蕎麦もなかなか喉を通らないようだった。
「あの女の人、どうなっちゃうのかしら?」
「直接、政府を批判するようなことは言ってませんでしたからねえ。聴いてる者が勝手に反応したと言えば、
そんなにおとがめはないんじゃないですか?」
「例えを使った政府批判は最近増えてるがらなあ。良くて罰金、悪くすりゃ……それこそ箱に入れられっか
も。まあ、そこまでは行かねえとは思うけんど。理久さん、ほれ、早く食わねと、麺、伸びちまうべ」
「箱って……牢屋のこと? 先生、冗談は止めてよ」
「冗談じゃねえべ。この頃は牢屋が足りねで増築してるそうだ。でもさすが、天子様の奥方に講義しただけ
あって物怖じしてない。俺は、ああいう若ぇおなごがいるっつうことに、たまげた」
「そのまま宮中にお仕えしてたほうが良かったんじゃないですか? なんか、勿体ない気がしますけど」
私もそれは不思議に思っていた。でも、にわかに腑に落ちた。
「宮仕えより、自分は巷で演説するべきだって思ったんだろな」
若い娘にとっては重大な決意だったろう。私は一気に残りの蕎麦をすすった。
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