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あの夜のことを、誰ももう口にしなかった。
俊介はもともと酒を飲んだことがなく、あのとき初めて酔った夜の記憶が途切れているのかどうか、自分でもよくわからなかった。
前の晩のことをどこまで覚えているのか、確かめようともしなかった。
もとより彼と航平は、私的に頻繁に連絡を取り合うような間柄ではない。
あの夜のことをわざわざ話題にする理由もなかった。
食事の席で俊介が「今度、自分の秘密を教えてやる」と西村に言ったのはその日だけで、次に会ったときにはもうしらを切っていた。
「大人になったなあ」と西村がわざとらしく感慨深げに言うと、俊介は曖昧に笑ってごまかした。
自分の小さな秘密については、決して口を開こうとはしなかった。
俊介の大学院受験は順調だった。
専攻を変えて金融学の修士課程に進学し、同じ市内の大学に通っている。
相変わらず社交的な性格ではなく、寮の同室者とも親しくはなかったが、研究室の先輩や先生たちとはうまくやっていた。
先生からの信頼も厚く、俊介は仕事を与えれば黙々と、そして正確にこなす学生だった。
唯一の友人は依然として西村だった。
西村は心理学の修士課程に進み、今は病院でアルバイトをしている。人の話を静かに聞ける、信頼できるタイプの人間だった。
俊介もまた、いくつかのアルバイトを掛け持ちしていた。
固定の進学塾と家庭教師を二つ、それに大学からの補助金や奨学金を合わせれば、学費も生活費も十分に賄えた。
むしろ少し余るほどで、時折論文代筆のようなグレーな仕事も受けていた。
大学院生活が始まってしばらく経つころには、少しばかりの貯金もできていた。
実のところ、父が亡くなったあとにも、家にはわずかながら財産が残っていた。
それを母は手をつけず、すべて祖母に預けた。
さらに後に家を売った金もあったが、俊介はそれについて叔母たちに何も言わなかった。
それは、自分の中で閉ざしておきたい領分だった。
俊介の毎日は単調だった。
大学、塾、生徒の家——その三点を行き来するだけの生活。
唯一の変化といえば、西村と食事に行くことくらいだった。
そんな日々は、俊介にとって心地よく、穏やかだった。
航平とは、それきり連絡を取っていない。
航平は東京に戻り、すでに就職している——そのことも、西村から聞いた。
「なあ、航平、この前言ってた件、どうする?」
昼休み、オフィスで同僚がキャスター付きの椅子を滑らせながら近づいてきた。
手には大きなピザの箱。
航平はその中から一切れを取り、かじりながら聞き返す。
「何の話でしたっけ?」
「うちの姪っ子だよ。」
オフィスには二人しかいない。
同僚はさらに椅子を近づけ、航平の椅子の肘掛けにぶつけながら、意味ありげにウィンクした。
「留学生でさ、アート専攻。めっちゃ美人なんだ。写真見せようか?」
航平は笑いながら少し体を避けた。
「俺のことネタにして遊びたいだけでしょう。」
「ちょっと聞けよ。あの子、俺より二つしか下だぞ。冗談抜きでお前ら絶対合うって。信じろよ。」
この話は初めてではなかった。
同僚はしつこく勧めてきていたが、航平はいつも受け流していた。
その日も、同僚はピザの箱を航平の机に置くと、油のついた手でポケットからスマホを取り出し、姪の写真を見せてきた。
確かに、きれいな子だった。
黒いストレートヘアを肩に垂らし、淡いメイクに四角い眼鏡。清楚で穏やかな雰囲気。
客観的に見れば、たしかに航平の好みのタイプだった。
「な? 本気で紹介したいんだよ。」
同僚はさらに何枚か写真をスライドしながら言う。
「告ってくる男は山ほどいるのに、誰にもピンと来ないらしくてさ。見ろよ、お前ら絶対釣り合うって。」
航平はピザを食べ終えると、同僚の肘掛けを膝で軽く押しのけて立ち上がり、手を洗いに行った。
「俺、まだ二十三ですよ。」
背を向けたまま笑いながら言う。
「そんな早くお見合いなんて、勘弁してくださいよ。」
「お見合いじゃないって。ただの顔合わせだって!」
同僚はまだ諦めきれずに言った。
「本当の話な、兄貴が心配してんだよ。あの子、変な金持ちのボンボンに引っかかるんじゃないかって。まともな男と知り合ってほしいんだよ。」
航平が戻ると、同僚はまだ彼の席でピザを食べていた。
普段から仲は良く、入社以来ずっと面倒を見てくれている相手だ。
「うちは東京生まれだぞ、航平!」
同僚が笑いながら言うと、航平は思わず吹き出した。
「そんな家柄のいい人、俺には釣り合いませんって。」
「ふざけんな、お前の写真送っとくぞ?」
「やめてくださいよ。」
航平は真面目な顔で言った。
「今は恋愛とか結婚とか考えてないんです。まだ若いし、今は仕事頑張りたいんで。」
その言葉には嘘はなかった。
同僚もそれを察して、「そうか」と少し残念そうに笑った。
航平はそれを見て軽く笑い、「俺に恋愛する気があったら、もう彼女できてますって」と冗談を返した。
「ほら出たよ、そういうとこだぞ」と同僚は笑いながらピザを食べ続けた。
航平はスマホを手に立ち上がり、「俺も昼飯行ってきます」と言った。
「行ってこい。」
航平の言葉は、決して方便ではなかった。
彼は本当に恋愛を考える余裕などなかった。
就職は順調で、東京本社の検査系の会社に内定した。
採用理由は、成績が抜群だったからではない。
ただ、面接での印象が良かった——それだけだった。
ルームメイトは「運がいいな」と言っていたが、航平にとって面接は昔から得意な場だった。
言葉が上手く、見た目も爽やかで、学業も申し分ない。
だが、そんな新入社員に回ってくるのは、誰もやりたがらない仕事ばかりだった。
その中で恋愛をする余裕など、どこにもなかった。
俊介はもともと酒を飲んだことがなく、あのとき初めて酔った夜の記憶が途切れているのかどうか、自分でもよくわからなかった。
前の晩のことをどこまで覚えているのか、確かめようともしなかった。
もとより彼と航平は、私的に頻繁に連絡を取り合うような間柄ではない。
あの夜のことをわざわざ話題にする理由もなかった。
食事の席で俊介が「今度、自分の秘密を教えてやる」と西村に言ったのはその日だけで、次に会ったときにはもうしらを切っていた。
「大人になったなあ」と西村がわざとらしく感慨深げに言うと、俊介は曖昧に笑ってごまかした。
自分の小さな秘密については、決して口を開こうとはしなかった。
俊介の大学院受験は順調だった。
専攻を変えて金融学の修士課程に進学し、同じ市内の大学に通っている。
相変わらず社交的な性格ではなく、寮の同室者とも親しくはなかったが、研究室の先輩や先生たちとはうまくやっていた。
先生からの信頼も厚く、俊介は仕事を与えれば黙々と、そして正確にこなす学生だった。
唯一の友人は依然として西村だった。
西村は心理学の修士課程に進み、今は病院でアルバイトをしている。人の話を静かに聞ける、信頼できるタイプの人間だった。
俊介もまた、いくつかのアルバイトを掛け持ちしていた。
固定の進学塾と家庭教師を二つ、それに大学からの補助金や奨学金を合わせれば、学費も生活費も十分に賄えた。
むしろ少し余るほどで、時折論文代筆のようなグレーな仕事も受けていた。
大学院生活が始まってしばらく経つころには、少しばかりの貯金もできていた。
実のところ、父が亡くなったあとにも、家にはわずかながら財産が残っていた。
それを母は手をつけず、すべて祖母に預けた。
さらに後に家を売った金もあったが、俊介はそれについて叔母たちに何も言わなかった。
それは、自分の中で閉ざしておきたい領分だった。
俊介の毎日は単調だった。
大学、塾、生徒の家——その三点を行き来するだけの生活。
唯一の変化といえば、西村と食事に行くことくらいだった。
そんな日々は、俊介にとって心地よく、穏やかだった。
航平とは、それきり連絡を取っていない。
航平は東京に戻り、すでに就職している——そのことも、西村から聞いた。
「なあ、航平、この前言ってた件、どうする?」
昼休み、オフィスで同僚がキャスター付きの椅子を滑らせながら近づいてきた。
手には大きなピザの箱。
航平はその中から一切れを取り、かじりながら聞き返す。
「何の話でしたっけ?」
「うちの姪っ子だよ。」
オフィスには二人しかいない。
同僚はさらに椅子を近づけ、航平の椅子の肘掛けにぶつけながら、意味ありげにウィンクした。
「留学生でさ、アート専攻。めっちゃ美人なんだ。写真見せようか?」
航平は笑いながら少し体を避けた。
「俺のことネタにして遊びたいだけでしょう。」
「ちょっと聞けよ。あの子、俺より二つしか下だぞ。冗談抜きでお前ら絶対合うって。信じろよ。」
この話は初めてではなかった。
同僚はしつこく勧めてきていたが、航平はいつも受け流していた。
その日も、同僚はピザの箱を航平の机に置くと、油のついた手でポケットからスマホを取り出し、姪の写真を見せてきた。
確かに、きれいな子だった。
黒いストレートヘアを肩に垂らし、淡いメイクに四角い眼鏡。清楚で穏やかな雰囲気。
客観的に見れば、たしかに航平の好みのタイプだった。
「な? 本気で紹介したいんだよ。」
同僚はさらに何枚か写真をスライドしながら言う。
「告ってくる男は山ほどいるのに、誰にもピンと来ないらしくてさ。見ろよ、お前ら絶対釣り合うって。」
航平はピザを食べ終えると、同僚の肘掛けを膝で軽く押しのけて立ち上がり、手を洗いに行った。
「俺、まだ二十三ですよ。」
背を向けたまま笑いながら言う。
「そんな早くお見合いなんて、勘弁してくださいよ。」
「お見合いじゃないって。ただの顔合わせだって!」
同僚はまだ諦めきれずに言った。
「本当の話な、兄貴が心配してんだよ。あの子、変な金持ちのボンボンに引っかかるんじゃないかって。まともな男と知り合ってほしいんだよ。」
航平が戻ると、同僚はまだ彼の席でピザを食べていた。
普段から仲は良く、入社以来ずっと面倒を見てくれている相手だ。
「うちは東京生まれだぞ、航平!」
同僚が笑いながら言うと、航平は思わず吹き出した。
「そんな家柄のいい人、俺には釣り合いませんって。」
「ふざけんな、お前の写真送っとくぞ?」
「やめてくださいよ。」
航平は真面目な顔で言った。
「今は恋愛とか結婚とか考えてないんです。まだ若いし、今は仕事頑張りたいんで。」
その言葉には嘘はなかった。
同僚もそれを察して、「そうか」と少し残念そうに笑った。
航平はそれを見て軽く笑い、「俺に恋愛する気があったら、もう彼女できてますって」と冗談を返した。
「ほら出たよ、そういうとこだぞ」と同僚は笑いながらピザを食べ続けた。
航平はスマホを手に立ち上がり、「俺も昼飯行ってきます」と言った。
「行ってこい。」
航平の言葉は、決して方便ではなかった。
彼は本当に恋愛を考える余裕などなかった。
就職は順調で、東京本社の検査系の会社に内定した。
採用理由は、成績が抜群だったからではない。
ただ、面接での印象が良かった——それだけだった。
ルームメイトは「運がいいな」と言っていたが、航平にとって面接は昔から得意な場だった。
言葉が上手く、見た目も爽やかで、学業も申し分ない。
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その中で恋愛をする余裕など、どこにもなかった。
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