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平津は、私を騙してなんかいなかった。
二回目のマーキングは、本当にほとんど痛くなかった。むしろ、どこか歪んだ快感さえあった。
刺激に全身の力が抜け、私は喘ぎを止められなかった。――アルファでも、こんなふうに感じるんだなって。こっそり抜け出しては“受け側”(※0)に徹するアルファたちの気持ちが、少しわかった気がした。
すべてが終わり、平津の腕の中でしばらく動けずにいると、ようやく意識が戻ってきた。後ろ首の新しい噛み跡に触れながら、信じられない思いで尋ねる。
「……まさか、誰かで練習した? 技術、上がりすぎじゃない?」
平津は苦笑した。
私の衣服の襟を整えながら、まだ少し嗄れた声で言う。
「何言ってるの。僕がマーキングするのは、君だけだよ」
その言葉には、どこか曖昧さがあった。
“僕だけ”って何よ? 私たち、一対一の関係でもないのに。でも、揚げ足を取るのも面倒くさい。なにしろ、もう退勤時間だ。
気分が良かった私は、平津の頬を軽く叩いて言った。
「ごちそうさま、平津。じゃあ、また明日」
颯爽と立ち去ろうとしたそのとき。
彼が、ゆっくりと口を開いた。
「光希、俺たちの“協定”を忘れてるんじゃないか?」
「協定……?」
その意味ありげな笑みに、嫌な予感が背を撫でた。
たしか、何かにサインした覚えが――。
平津が白黒の書類を差し出す。目を凝らして確認した私は、ほとんど卒倒しそうになった。
赤太字の見出しには、こう書かれていた。
【同棲契約書】
完全に罠にハマっていた。
これは、とんでもない不平等条約だ。
甲番:平津。
乙番:光希。
同居期間中、乙番は以下を禁止する──外泊、喫煙、飲酒、複数人での暴走行為……。
違反した場合は、違約金三千万円。
歯軋りしながら、私は手を伸ばして平津のシャツの襟を掴んだ。
「目的は何? 私を弄んで楽しいわけ?」
平津は、ひとつも表情を変えなかった。
「光希、君には俺の情報素(エニグマ)が必要だろう?」
「俺のマーキングを受けておきながら、外で好き勝手されるのは御免だ。」
彼はわずかに身を乗り出し、私の耳元へ唇を寄せた。
「Win-Win の関係だ。悪くないだろ?」
しばらく睨み合っていたが、結局、悔しさに負けて私は手を離した。
だが心の中では、ずっと罵倒し続けていた。
エニグマなんて、ほんと意味がわからない。
ただの“仮マーキング”の相手に、どうしてそんな変な独占欲を持つのよ。
まったく、この男はますます理解不能だ。
結局、しぶしぶながら同棲を始めることになった。
浴室から出てきた私は、ぷんすか怒りながら思った。
――平津って奴、絶対どこかおかしい。
家の中がミントの香りなのはまだ許せるとして、ボディソープもシャンプーも全部ミントってどういうこと!?
どんだけミントが好きなんだよ!
そして、一番の問題は……俺の情報素(エニグマ)がミントだという事実だ。
鳥肌が立つとはまさにこのこと。
ただ、彼が用意してくれていた寝巻きは、思いのほか体にしっくりきた。
サイズがぴったりで、まるでオーダーメイドみたいだ。
広い家の中を何周かしたが、平津の姿はどこにもない。
あの“仕事の鬼”め、どうせ会社に戻って残業しているんだろう。
最初は気にも留めなかった。
空いている部屋で寝ようとして、部屋を探し始めるまでは――。
そして、そこで大きな問題に気づいた。
どの部屋も、鍵がかかっている!
平津の主寝室以外は!
頭に血が上った。
どういうつもりだ?
俺に「俺のベッドで寝ろ」って、これでもかってくらいの暗示じゃないか?
私は冷ややかに笑った。
……よし、夜中にあいつの布団を全部奪ってやろう。
凍えて震えてろ、ざまあみろ。
平津のベッドに横たわってみたものの、まったく眠れなかった。
ごろごろ寝返りを打ち、だんだんイライラしてくる。
布団にも、枕にも……そこかしこに、すっきりとした酒の香りが染みついている。
この感覚は、背筋がぞわりとするほどだ。
まるで、完全に相手の縄張りへ足を踏み入れてしまったみたいで。
逃げようとしても、逃げ場がない。
平津の情報素(エニグマ)が、身体にまとわりついて離れない。
息をするたび、相手と曖昧に混ざり合っていくような気がする。
意識がぼんやりしてきた。
なぜか――平津にマーキングされた時の情景が、ふと脳裏をかすめた。
相手の灼けるような吐息、低く響く声、青筋の浮いた手の甲……。
気づけば私は、平津の布団を掴んでいた。
そのまま、うつ伏せになり、深く息を吸い込んで――。
ちょっと待て!
俺は、いったい何をやってるんだ!?
はっと我に返った瞬間、飛び起きて自分の行動に戦慄した。
何をやってるんだ、森下の御曹司(※1)!
しっかりしろ!
本物の依存症患者みたいな真似をするな!
睡魔は一気に吹き飛び、心臓はバクバクと鳴り止まない。
顔の火照りがどうしても引かない。
冷静になるため、とりあえず枕元に置かれていた本を手に取った。
よし、全部英語だ……読めない。
パラパラと適当にめくって気を紛らわせようとしたその時、
本の綴じ目から、一通の手紙がひらりと落ちた。
好奇心にかられて拾い上げる。
それは――色あせたラブレターだった。
二回目のマーキングは、本当にほとんど痛くなかった。むしろ、どこか歪んだ快感さえあった。
刺激に全身の力が抜け、私は喘ぎを止められなかった。――アルファでも、こんなふうに感じるんだなって。こっそり抜け出しては“受け側”(※0)に徹するアルファたちの気持ちが、少しわかった気がした。
すべてが終わり、平津の腕の中でしばらく動けずにいると、ようやく意識が戻ってきた。後ろ首の新しい噛み跡に触れながら、信じられない思いで尋ねる。
「……まさか、誰かで練習した? 技術、上がりすぎじゃない?」
平津は苦笑した。
私の衣服の襟を整えながら、まだ少し嗄れた声で言う。
「何言ってるの。僕がマーキングするのは、君だけだよ」
その言葉には、どこか曖昧さがあった。
“僕だけ”って何よ? 私たち、一対一の関係でもないのに。でも、揚げ足を取るのも面倒くさい。なにしろ、もう退勤時間だ。
気分が良かった私は、平津の頬を軽く叩いて言った。
「ごちそうさま、平津。じゃあ、また明日」
颯爽と立ち去ろうとしたそのとき。
彼が、ゆっくりと口を開いた。
「光希、俺たちの“協定”を忘れてるんじゃないか?」
「協定……?」
その意味ありげな笑みに、嫌な予感が背を撫でた。
たしか、何かにサインした覚えが――。
平津が白黒の書類を差し出す。目を凝らして確認した私は、ほとんど卒倒しそうになった。
赤太字の見出しには、こう書かれていた。
【同棲契約書】
完全に罠にハマっていた。
これは、とんでもない不平等条約だ。
甲番:平津。
乙番:光希。
同居期間中、乙番は以下を禁止する──外泊、喫煙、飲酒、複数人での暴走行為……。
違反した場合は、違約金三千万円。
歯軋りしながら、私は手を伸ばして平津のシャツの襟を掴んだ。
「目的は何? 私を弄んで楽しいわけ?」
平津は、ひとつも表情を変えなかった。
「光希、君には俺の情報素(エニグマ)が必要だろう?」
「俺のマーキングを受けておきながら、外で好き勝手されるのは御免だ。」
彼はわずかに身を乗り出し、私の耳元へ唇を寄せた。
「Win-Win の関係だ。悪くないだろ?」
しばらく睨み合っていたが、結局、悔しさに負けて私は手を離した。
だが心の中では、ずっと罵倒し続けていた。
エニグマなんて、ほんと意味がわからない。
ただの“仮マーキング”の相手に、どうしてそんな変な独占欲を持つのよ。
まったく、この男はますます理解不能だ。
結局、しぶしぶながら同棲を始めることになった。
浴室から出てきた私は、ぷんすか怒りながら思った。
――平津って奴、絶対どこかおかしい。
家の中がミントの香りなのはまだ許せるとして、ボディソープもシャンプーも全部ミントってどういうこと!?
どんだけミントが好きなんだよ!
そして、一番の問題は……俺の情報素(エニグマ)がミントだという事実だ。
鳥肌が立つとはまさにこのこと。
ただ、彼が用意してくれていた寝巻きは、思いのほか体にしっくりきた。
サイズがぴったりで、まるでオーダーメイドみたいだ。
広い家の中を何周かしたが、平津の姿はどこにもない。
あの“仕事の鬼”め、どうせ会社に戻って残業しているんだろう。
最初は気にも留めなかった。
空いている部屋で寝ようとして、部屋を探し始めるまでは――。
そして、そこで大きな問題に気づいた。
どの部屋も、鍵がかかっている!
平津の主寝室以外は!
頭に血が上った。
どういうつもりだ?
俺に「俺のベッドで寝ろ」って、これでもかってくらいの暗示じゃないか?
私は冷ややかに笑った。
……よし、夜中にあいつの布団を全部奪ってやろう。
凍えて震えてろ、ざまあみろ。
平津のベッドに横たわってみたものの、まったく眠れなかった。
ごろごろ寝返りを打ち、だんだんイライラしてくる。
布団にも、枕にも……そこかしこに、すっきりとした酒の香りが染みついている。
この感覚は、背筋がぞわりとするほどだ。
まるで、完全に相手の縄張りへ足を踏み入れてしまったみたいで。
逃げようとしても、逃げ場がない。
平津の情報素(エニグマ)が、身体にまとわりついて離れない。
息をするたび、相手と曖昧に混ざり合っていくような気がする。
意識がぼんやりしてきた。
なぜか――平津にマーキングされた時の情景が、ふと脳裏をかすめた。
相手の灼けるような吐息、低く響く声、青筋の浮いた手の甲……。
気づけば私は、平津の布団を掴んでいた。
そのまま、うつ伏せになり、深く息を吸い込んで――。
ちょっと待て!
俺は、いったい何をやってるんだ!?
はっと我に返った瞬間、飛び起きて自分の行動に戦慄した。
何をやってるんだ、森下の御曹司(※1)!
しっかりしろ!
本物の依存症患者みたいな真似をするな!
睡魔は一気に吹き飛び、心臓はバクバクと鳴り止まない。
顔の火照りがどうしても引かない。
冷静になるため、とりあえず枕元に置かれていた本を手に取った。
よし、全部英語だ……読めない。
パラパラと適当にめくって気を紛らわせようとしたその時、
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好奇心にかられて拾い上げる。
それは――色あせたラブレターだった。
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