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夜も更け、バーの前には車の姿もまばらだった。
その中で――私はすぐに気づいてしまった。
路肩に停まる一台のマイバッハ。そして、その傍らに立つ人物。
「……平津?」
入口に立ち尽くし、信じられない思いだった。
どうして、僕がここにいるって分かったんだ?
理解した瞬間、胸の奥がずしりと重くなる。
「平津、つけて来たのか?」
そんなことをする必要がどこにある?
――森下のためか?
僕が森下を“奪い返す”のが、そんなに怖いのか?
平津はマイバッハの前で黙り込んだまま、何も言わない。
その顔は恐ろしいほど暗く、その瞳には嵐が渦巻いていた。
苛立ちがこみ上げる。「おい、黙ってるなよ――」
やっと、彼は口を開いた。だが、それは冷たい嘲笑だった。
「坊っちゃん。今夜はずいぶん楽しそうだったな」
一歩、また一歩。
エニグマ特有の圧迫感をまといながら、彼は僕へと近づいてくる。
背筋が粟立つ。無意識に後ずさったが、すぐ背中が壁にぶつかった。
逃げ場はない。
平津は何の苦もなく僕を閉じ込める。
伸ばされた手が、僕の顎をきつくつかんだ。
その声は氷のように冷たい。
「……オメガの花の香りが全身に染みついてるな」
「光希。お前、もっと厳しくしないと……躾けられないのか?」
手首の力は強く、痛みさえ走る。
胸の奥で燻っていた怒りは、さらに大きく炎を上げた。
――なぜだ?
お前は森下が好きなはずだろう?
なのになぜ、こんなふうに僕に干渉してくる?
ライバルを嘲笑いたいだけか?
それとも――馬鹿みたいに依存していくのは、僕だけなのか?
怒りが弾け、僕は平津を冷たく睨み返した。
「……平津。そんなに森下が好きなのか?」
明らかに彼は動揺した。
顎から手を離し、何か言いかける。
「光希、お前――」
その続きを、僕が遮った。
彼のネクタイを、思いきり引き寄せたのだ。
強く引かれてバランスを崩した彼が、仕方なく身を屈めた瞬間――
僕は激しく、衝動的に口づけた。
気づいたときには、もう逃げていた。
バイクのエンジンを最大まで回し、夜風を切って走る。
耳を裂く風の音でも、胸の鼓動は消えなかった。
狂いそうだ。狂ってしまいそうだ。
苛立ち、嫉妬、不安――
全部、理由が分からなかったはずの感情。
けれど、ついに答えが見えた。
とっくに気づくべきだった。
――僕は平津が好きになってしまっていたんだ。
夜空には暗雲が渦巻き、遠くから雷鳴が聞こえる。
もうすぐ豪雨になる。
気持ちと同じく、最悪の天気だ。
スピードを上げようとしたとき、バックミラーに車影が映った。
……平津のマイバッハだ!
あいつは執拗に追ってくる。振り切れない。
歯を食いしばり、曲がり角へとバイクを向ける。
だがマイバッハは僕の動きを見抜き、さらに加速。
あっという間に僕を追い抜き、急ハンドルで分岐路を塞いだ。
急ブレーキをかけるしかなかった。
ドアが開く。
エニグマが、怒りに満ちた気配でこちらに向かってくる。
――狂人め。危ないって分からないのか?!
気づけば、もう平津は目の前にいた。
ヘルメットを放り捨て、文句を言おうとした瞬間、
首を強く掴まれ、無理やり顔を上げさせられる。
抵抗する暇などなかった。
平津が身を屈め――
ほとんど乱暴に口づけてきた。
その瞬間、空が裂けるような音とともに、
土砂降りの雨が降り始めた。
家に着いた頃には、二人とも全身ずぶ濡れになっていた。
平津はタオルを持ってきて、濡れた私の髪を丁寧に拭いてくれた。私は抵抗せず、ただ素直に立っていた。さっきのキスの余韻がまだ体の奥に残っていて、頭がぼんやりしている。状況がうまく飲み込めず、気づけば口が勝手に動いていた。
「……あなた、森下のこと好きじゃないの?」
平津は呆れたようにため息をついた。
「光希、時々ほんと困るんだよ」
「好きな相手がここまでバカだと、どうすりゃいいんだ?」
それでも私は引き下がらなかった。
「じゃあ、あのラブレターの『H』って何なの?」
平津は一瞬だけ言葉を失い、それから諦めたように私の頭を軽く小突いた。
「お前、自分の名前に『H』がいくつあるか数えたことないのか?」
今度は私が固まった。
あの色あせたラブレターは――私宛てだったのか?
平津は、そんなにも長い間……私を?
理解が追いつかない私をよそに、平津はそっと肩に手を置き、押し返した。
「光希、早く部屋に入れ」
「それから鍵をかけろ。今夜俺がどんなにドアを叩いても、絶対に開けるな」
「……なんで?」
まばたきをしながら問い返すと、平津は困ったように笑った。
そして私の髪をくしゃりと撫でながら、声がわずかに震えていた。
「バカ……俺の易感期が来てるの、分かんないのか?」
その言葉で、ようやく胸の奥が冷える。
空気は冷たい強い酒の香りで満ち、圧迫感が肌に刺さるほど濃い。
平津は明らかに限界だった。手の甲には浮き出た血管が脈打っている。
私は黙って、彼が抑制剤を取り出すのを見ていた。
動かない私に気づいた平津が、もう一度ため息をつく。
「光希、いい子にしててくれ」
「エニグマの易感期は特別なんだ。抑制剤は長くもたない……」
話が長い。聞いていられなかった。
私は平津の手から抑制剤を取り上げ、そのままゴミ箱へ放り投げた。
そして正面から彼の目を見据え、はっきりと言った。
「抑制剤なんて使うな。俺を使え」
「――君の情報素への返礼だ」
つま先立ちになり、再び彼にキスを落とす。
「それと……あのラブレターへの、私からの返事」
窓の外では、激しい雨と雷鳴が荒れ狂っていた。
手首をネクタイで後ろ手に縛られた瞬間、私は悟った――やっぱり後悔すべきだったと。
エニグマは、絶対的な支配者だ。
強烈な酒の香りが一気に押し寄せ、ミントである私は、抵抗する資格すらなかった。
逃げ出したくてたまらなかったのに、押し倒されるたび、相手は「これが最後だ」と囁いて慰めてくる。
完全に意識が途切れる直前、頭の中に浮かんだ唯一の思いは――
命は大切に。火遊びはほどほどに。
私と平津が交際を発表した日、スマホはメッセージの嵐に襲われた。
父からは驚愕のメッセージが届いた。
【なんだって?!ちょっと面倒を見てもらおうと思っただけなのに、まさか本当に連れていかれるなんて?!】
悠己は半ば悲鳴のように送ってきた。
【ちょ、ほんとに平津と付き合ってたの?!私ずっとデマだって否定してたのに!!】
SNSを開けば、平津の会社の社員たちが一斉に投稿している。
【母さん、推してたカップルが現実になりました!】
……頭がくらくらした。
スマホをスクロールしていると、背後から腕が伸びてきて、私の腰をさらうように抱き寄せた。
耳元で低く、満たされた後のけだるさをまとった声が囁く。
「彼氏さん、スマホばっか見てないで……こっち見てよ」
私は微動だにせず呟いた。
「どうしたの、昨夜あれだけ見たのに、まだ足りなかったの?」
平津は低く笑い、私の顎をそっと持ち上げた。
そして、顔の向きを変えさせると、そのまま深くキスしてきた。
……まあいい。
彼氏とキスするのは、正直、悪くない。むしろかなり気分がいい。
私は身体を向き直し、自ら彼を抱きしめた。
ミントと酒の香りが、静かに、深く絡み合っていく。
誰が想像しただろう?
数年前は水と火のように相容れなかった二人の少年が、今こうして抱き合い、キスをしているなんて。
あの色あせたラブレターは――ついに現実になったのだ。
ぼんやりとした中、平津はそっと私の背を撫で、耳元で囁く。
「……愛してる」
甘すぎて、聞いていて恥ずかしくなる。まったく、本当に嫌なやつだ。
でも――そんなやつでも、やっぱり好きなんだ。
番外・平津視点
光希と初めて出会ったのは、母の葬儀の日だった。
あの年、僕は十三歳だった。
式場の隅に身を潜め、弔問客たちを冷めた目で眺めていた。
母は名家の出ではなく、誰からも軽んじられていた。
生前あれほど彼女を蔑んでいた連中が、今さら作り物の涙を流している。
父の姿が目に入り、僕は思わず唇を噛んだ。
彼の隣には――すでに妊娠したオメガがいた。
滑稽だと思った。
母の死を悼む葬儀は、結局、生き残った者たちのための茶番に過ぎない。
そのとき、空が泣き出した。
雨が髪を濡らしたが、気にする気力もなかった。
刺すような寒さが、身体の芯まで浸み込んでいく。
――その瞬間だった。
ふいに、僕の頭上へそっと傘が差し出された。
振り返ると、一人の少年が僕を抱きしめていた。
「悲しまないで。お母さんが悲しむよ」
柔らかな声だった。
僕たちは一つの傘の下で身を寄せ合い、その午後ずっと並んで座っていた。
布越しに伝わってきた温もりは、幼い僕の心に深く刻み込まれた。
あれは、確かに――懐かしさを感じるほど優しい温もりだった。
光希と再会したのは、高校一年の入学式。
もちろん、彼は僕のことなど覚えていなかった。
彼が同じ高校を受験し合格するよう、僕が裏でどれほど動いたか――彼が知るはずもない。
光希には友達が多かった。
いつも笑っていて、人の中心にいた。
眩しいほど輝いていて、僕には手を伸ばすことすらできなかった。
だから僕は、あらゆる形で彼の前に現れ続けた。
授業をサボろうとすれば止め、喧嘩をすれば割って入り、タバコに火をつければ取り上げた。
嫌われることは分かっていた。
それでも――彼の視線を奪えるなら、それでよかった。
成人式の日、僕は一通のラブレターを書いた。
光希宛ての、渡すつもりのない手紙を。
その翌年、僕は振り返ることなく海外へ旅立った。
学び、働き、忙しさに身を沈めれば、光希への想いも薄れると信じたかった。
だが途中で、僕は二次分化を起こし――エニグマになった。
その事実を知った瞬間、胸に浮かんだのはひどく利己的な期待だった。
もしかしたら、僕と光希に……ようやく、ほんの少しの希望があるのかもしれない。
帰国を迷う理由は、もうなかった。
光希が僕の情報素に依存するようになったとき、
僕は心の底で震えるような歓喜を押し殺すのに必死だった。
情報素を理由に、僕は彼をそばに置いた。
厚顔無恥だと自分でも思う。それでもやめられなかった。
日ごとに、光希はゆっくりと、確実に、僕の罠へと落ちていった。
彼が初めて自分からキスをしてきた瞬間、
胸が痛いほど高鳴った。
ああ――このまま死んでもいい、と本気で思った。
彼は知らない。
僕の世界はずっと灰色で、
その中で唯一の光が、ずっと彼だけだったことを。
光希。
僕は君を、この世の何よりも愛している。
この心臓はいつだって君に捧げる準備ができている。
永遠に、君のためだけに鼓動し続けるように。
その中で――私はすぐに気づいてしまった。
路肩に停まる一台のマイバッハ。そして、その傍らに立つ人物。
「……平津?」
入口に立ち尽くし、信じられない思いだった。
どうして、僕がここにいるって分かったんだ?
理解した瞬間、胸の奥がずしりと重くなる。
「平津、つけて来たのか?」
そんなことをする必要がどこにある?
――森下のためか?
僕が森下を“奪い返す”のが、そんなに怖いのか?
平津はマイバッハの前で黙り込んだまま、何も言わない。
その顔は恐ろしいほど暗く、その瞳には嵐が渦巻いていた。
苛立ちがこみ上げる。「おい、黙ってるなよ――」
やっと、彼は口を開いた。だが、それは冷たい嘲笑だった。
「坊っちゃん。今夜はずいぶん楽しそうだったな」
一歩、また一歩。
エニグマ特有の圧迫感をまといながら、彼は僕へと近づいてくる。
背筋が粟立つ。無意識に後ずさったが、すぐ背中が壁にぶつかった。
逃げ場はない。
平津は何の苦もなく僕を閉じ込める。
伸ばされた手が、僕の顎をきつくつかんだ。
その声は氷のように冷たい。
「……オメガの花の香りが全身に染みついてるな」
「光希。お前、もっと厳しくしないと……躾けられないのか?」
手首の力は強く、痛みさえ走る。
胸の奥で燻っていた怒りは、さらに大きく炎を上げた。
――なぜだ?
お前は森下が好きなはずだろう?
なのになぜ、こんなふうに僕に干渉してくる?
ライバルを嘲笑いたいだけか?
それとも――馬鹿みたいに依存していくのは、僕だけなのか?
怒りが弾け、僕は平津を冷たく睨み返した。
「……平津。そんなに森下が好きなのか?」
明らかに彼は動揺した。
顎から手を離し、何か言いかける。
「光希、お前――」
その続きを、僕が遮った。
彼のネクタイを、思いきり引き寄せたのだ。
強く引かれてバランスを崩した彼が、仕方なく身を屈めた瞬間――
僕は激しく、衝動的に口づけた。
気づいたときには、もう逃げていた。
バイクのエンジンを最大まで回し、夜風を切って走る。
耳を裂く風の音でも、胸の鼓動は消えなかった。
狂いそうだ。狂ってしまいそうだ。
苛立ち、嫉妬、不安――
全部、理由が分からなかったはずの感情。
けれど、ついに答えが見えた。
とっくに気づくべきだった。
――僕は平津が好きになってしまっていたんだ。
夜空には暗雲が渦巻き、遠くから雷鳴が聞こえる。
もうすぐ豪雨になる。
気持ちと同じく、最悪の天気だ。
スピードを上げようとしたとき、バックミラーに車影が映った。
……平津のマイバッハだ!
あいつは執拗に追ってくる。振り切れない。
歯を食いしばり、曲がり角へとバイクを向ける。
だがマイバッハは僕の動きを見抜き、さらに加速。
あっという間に僕を追い抜き、急ハンドルで分岐路を塞いだ。
急ブレーキをかけるしかなかった。
ドアが開く。
エニグマが、怒りに満ちた気配でこちらに向かってくる。
――狂人め。危ないって分からないのか?!
気づけば、もう平津は目の前にいた。
ヘルメットを放り捨て、文句を言おうとした瞬間、
首を強く掴まれ、無理やり顔を上げさせられる。
抵抗する暇などなかった。
平津が身を屈め――
ほとんど乱暴に口づけてきた。
その瞬間、空が裂けるような音とともに、
土砂降りの雨が降り始めた。
家に着いた頃には、二人とも全身ずぶ濡れになっていた。
平津はタオルを持ってきて、濡れた私の髪を丁寧に拭いてくれた。私は抵抗せず、ただ素直に立っていた。さっきのキスの余韻がまだ体の奥に残っていて、頭がぼんやりしている。状況がうまく飲み込めず、気づけば口が勝手に動いていた。
「……あなた、森下のこと好きじゃないの?」
平津は呆れたようにため息をついた。
「光希、時々ほんと困るんだよ」
「好きな相手がここまでバカだと、どうすりゃいいんだ?」
それでも私は引き下がらなかった。
「じゃあ、あのラブレターの『H』って何なの?」
平津は一瞬だけ言葉を失い、それから諦めたように私の頭を軽く小突いた。
「お前、自分の名前に『H』がいくつあるか数えたことないのか?」
今度は私が固まった。
あの色あせたラブレターは――私宛てだったのか?
平津は、そんなにも長い間……私を?
理解が追いつかない私をよそに、平津はそっと肩に手を置き、押し返した。
「光希、早く部屋に入れ」
「それから鍵をかけろ。今夜俺がどんなにドアを叩いても、絶対に開けるな」
「……なんで?」
まばたきをしながら問い返すと、平津は困ったように笑った。
そして私の髪をくしゃりと撫でながら、声がわずかに震えていた。
「バカ……俺の易感期が来てるの、分かんないのか?」
その言葉で、ようやく胸の奥が冷える。
空気は冷たい強い酒の香りで満ち、圧迫感が肌に刺さるほど濃い。
平津は明らかに限界だった。手の甲には浮き出た血管が脈打っている。
私は黙って、彼が抑制剤を取り出すのを見ていた。
動かない私に気づいた平津が、もう一度ため息をつく。
「光希、いい子にしててくれ」
「エニグマの易感期は特別なんだ。抑制剤は長くもたない……」
話が長い。聞いていられなかった。
私は平津の手から抑制剤を取り上げ、そのままゴミ箱へ放り投げた。
そして正面から彼の目を見据え、はっきりと言った。
「抑制剤なんて使うな。俺を使え」
「――君の情報素への返礼だ」
つま先立ちになり、再び彼にキスを落とす。
「それと……あのラブレターへの、私からの返事」
窓の外では、激しい雨と雷鳴が荒れ狂っていた。
手首をネクタイで後ろ手に縛られた瞬間、私は悟った――やっぱり後悔すべきだったと。
エニグマは、絶対的な支配者だ。
強烈な酒の香りが一気に押し寄せ、ミントである私は、抵抗する資格すらなかった。
逃げ出したくてたまらなかったのに、押し倒されるたび、相手は「これが最後だ」と囁いて慰めてくる。
完全に意識が途切れる直前、頭の中に浮かんだ唯一の思いは――
命は大切に。火遊びはほどほどに。
私と平津が交際を発表した日、スマホはメッセージの嵐に襲われた。
父からは驚愕のメッセージが届いた。
【なんだって?!ちょっと面倒を見てもらおうと思っただけなのに、まさか本当に連れていかれるなんて?!】
悠己は半ば悲鳴のように送ってきた。
【ちょ、ほんとに平津と付き合ってたの?!私ずっとデマだって否定してたのに!!】
SNSを開けば、平津の会社の社員たちが一斉に投稿している。
【母さん、推してたカップルが現実になりました!】
……頭がくらくらした。
スマホをスクロールしていると、背後から腕が伸びてきて、私の腰をさらうように抱き寄せた。
耳元で低く、満たされた後のけだるさをまとった声が囁く。
「彼氏さん、スマホばっか見てないで……こっち見てよ」
私は微動だにせず呟いた。
「どうしたの、昨夜あれだけ見たのに、まだ足りなかったの?」
平津は低く笑い、私の顎をそっと持ち上げた。
そして、顔の向きを変えさせると、そのまま深くキスしてきた。
……まあいい。
彼氏とキスするのは、正直、悪くない。むしろかなり気分がいい。
私は身体を向き直し、自ら彼を抱きしめた。
ミントと酒の香りが、静かに、深く絡み合っていく。
誰が想像しただろう?
数年前は水と火のように相容れなかった二人の少年が、今こうして抱き合い、キスをしているなんて。
あの色あせたラブレターは――ついに現実になったのだ。
ぼんやりとした中、平津はそっと私の背を撫で、耳元で囁く。
「……愛してる」
甘すぎて、聞いていて恥ずかしくなる。まったく、本当に嫌なやつだ。
でも――そんなやつでも、やっぱり好きなんだ。
番外・平津視点
光希と初めて出会ったのは、母の葬儀の日だった。
あの年、僕は十三歳だった。
式場の隅に身を潜め、弔問客たちを冷めた目で眺めていた。
母は名家の出ではなく、誰からも軽んじられていた。
生前あれほど彼女を蔑んでいた連中が、今さら作り物の涙を流している。
父の姿が目に入り、僕は思わず唇を噛んだ。
彼の隣には――すでに妊娠したオメガがいた。
滑稽だと思った。
母の死を悼む葬儀は、結局、生き残った者たちのための茶番に過ぎない。
そのとき、空が泣き出した。
雨が髪を濡らしたが、気にする気力もなかった。
刺すような寒さが、身体の芯まで浸み込んでいく。
――その瞬間だった。
ふいに、僕の頭上へそっと傘が差し出された。
振り返ると、一人の少年が僕を抱きしめていた。
「悲しまないで。お母さんが悲しむよ」
柔らかな声だった。
僕たちは一つの傘の下で身を寄せ合い、その午後ずっと並んで座っていた。
布越しに伝わってきた温もりは、幼い僕の心に深く刻み込まれた。
あれは、確かに――懐かしさを感じるほど優しい温もりだった。
光希と再会したのは、高校一年の入学式。
もちろん、彼は僕のことなど覚えていなかった。
彼が同じ高校を受験し合格するよう、僕が裏でどれほど動いたか――彼が知るはずもない。
光希には友達が多かった。
いつも笑っていて、人の中心にいた。
眩しいほど輝いていて、僕には手を伸ばすことすらできなかった。
だから僕は、あらゆる形で彼の前に現れ続けた。
授業をサボろうとすれば止め、喧嘩をすれば割って入り、タバコに火をつければ取り上げた。
嫌われることは分かっていた。
それでも――彼の視線を奪えるなら、それでよかった。
成人式の日、僕は一通のラブレターを書いた。
光希宛ての、渡すつもりのない手紙を。
その翌年、僕は振り返ることなく海外へ旅立った。
学び、働き、忙しさに身を沈めれば、光希への想いも薄れると信じたかった。
だが途中で、僕は二次分化を起こし――エニグマになった。
その事実を知った瞬間、胸に浮かんだのはひどく利己的な期待だった。
もしかしたら、僕と光希に……ようやく、ほんの少しの希望があるのかもしれない。
帰国を迷う理由は、もうなかった。
光希が僕の情報素に依存するようになったとき、
僕は心の底で震えるような歓喜を押し殺すのに必死だった。
情報素を理由に、僕は彼をそばに置いた。
厚顔無恥だと自分でも思う。それでもやめられなかった。
日ごとに、光希はゆっくりと、確実に、僕の罠へと落ちていった。
彼が初めて自分からキスをしてきた瞬間、
胸が痛いほど高鳴った。
ああ――このまま死んでもいい、と本気で思った。
彼は知らない。
僕の世界はずっと灰色で、
その中で唯一の光が、ずっと彼だけだったことを。
光希。
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