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六、猪隈殿
(一)
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「ご出立のご用意を。」との男の声が聞こえた。障子の向こうに誰かが来ているらしい。
まだ、屋敷のうちは暗く、半蔀も下ろされ、格子も嵌められたままである。声掛けをしに来た男は、明かりを持参してきたようで、それが放つ光が部屋の上から漏れていて、うすぼんやりと室内の様子を浮かび上がらせている。
「あと、一刻ほどで、出立いたします。」
そう言って、男は、障子を僅かに開け、大殿油を差し入れてきた。
大殿油とは、床に置くタイプの照明器具のことで、その形は、土居(土台)から細い竿が伸び、その先に灯械があって、灯械の上に油盞を置く。油盞とは油を入れる皿のことで、灯械とは油盞を置く台のことである。そして、油盞に油を入れ、灯芯を油盞の油に浸しておく。この灯芯に点火して照明として使用する。
また、この大殿油は灯台とも呼び、竿が短いものは切灯台と呼ばれる。今回、芳野の元に差し出されたのは切灯台の方である。
大殿油を差し入れることで、一気に室内は明るくなった。芳野は鋭い光に急激に瞼を焼かれて少し不快感を覚えながら、わずかに目を開けた。
西の対は静謐であった。少しの物音でも目が覚めるくらいの静かさだったから、小声でも目が覚めるには十分な声量であった。だから、男の声掛けで既に目は覚めていたものの、はっきりと目覚めた訳ではなかったので、大殿油の眩しさは、朦朧としていた意識を強引に覚醒し、そのせいで少し疲れが残った感じがした。
芳野は、寝ぼけ眼のうちに出発時刻を聞いたのだが、男の言った「一刻」と言うのが、どのくらいの時間のことを指すのか知らなかったので、とりあえず、しばらくしたら出発するのだろうと理解した。
ちなみに「一刻」とは二時間のことである。当時の時刻の数え方は、子の刻、丑の刻と言うように十二支で数えたので、つまり一日二十四時間を十二支で十二分割していたから一刻は二時間ということになる。
意識がはっきりした芳野は、まず、自分の置かれている状況を思い出すのに、しばしの時間を要した。
何で、自分は、ここにいるんだっけ?
その答えを導き出すのに数秒かかった。そして、「ご出立のご用意」の意味を理解するのに、更に数秒の時間を要した。「出立」が「出発」の意味であることはわかるが、理解に時間がかかったのは、どこに出発するか、何のために出発するかである。
思い出してみれば、あの女性の二人連れは、最初は猪隈の屋敷に戻ると言っていたが実際に向かったのは伯父の近江守の屋敷で、そこで一泊した。多分、猪隈の屋敷が遠いので、伏見稲荷大社に近い、この深草の屋敷に一泊してから、朝早い時間に出発して、自宅である猪隈の屋敷に向かう手順を取ったのであろう。ただ、自分は、稲荷山で偶然二人と出会って、稲荷詣でを共にしたというだけの関係性であって、彼女等の自宅までお邪魔したいとも言ってないし、彼女等も初対面の私を猪隈の屋敷まで連れて行くことは考えていまい。とすると、これから私を連れ出すとすれば、伏見稲荷大社まで送り返してくれるということなのではないか。芳野は、そう勝手に解釈して、伏見稲荷大社に戻れるんだと確信した。伏見稲荷に戻れれば、そこから京都駅に行って、新幹線で自宅に帰れる。
そこまで考えが至った芳野は、急に衾を撥ね退けて起き上がると、昨晩、寝る時に脱ぎ散らかした上着を取り集めて、急ぎ着込んだ。
まだ、屋敷のうちは暗く、半蔀も下ろされ、格子も嵌められたままである。声掛けをしに来た男は、明かりを持参してきたようで、それが放つ光が部屋の上から漏れていて、うすぼんやりと室内の様子を浮かび上がらせている。
「あと、一刻ほどで、出立いたします。」
そう言って、男は、障子を僅かに開け、大殿油を差し入れてきた。
大殿油とは、床に置くタイプの照明器具のことで、その形は、土居(土台)から細い竿が伸び、その先に灯械があって、灯械の上に油盞を置く。油盞とは油を入れる皿のことで、灯械とは油盞を置く台のことである。そして、油盞に油を入れ、灯芯を油盞の油に浸しておく。この灯芯に点火して照明として使用する。
また、この大殿油は灯台とも呼び、竿が短いものは切灯台と呼ばれる。今回、芳野の元に差し出されたのは切灯台の方である。
大殿油を差し入れることで、一気に室内は明るくなった。芳野は鋭い光に急激に瞼を焼かれて少し不快感を覚えながら、わずかに目を開けた。
西の対は静謐であった。少しの物音でも目が覚めるくらいの静かさだったから、小声でも目が覚めるには十分な声量であった。だから、男の声掛けで既に目は覚めていたものの、はっきりと目覚めた訳ではなかったので、大殿油の眩しさは、朦朧としていた意識を強引に覚醒し、そのせいで少し疲れが残った感じがした。
芳野は、寝ぼけ眼のうちに出発時刻を聞いたのだが、男の言った「一刻」と言うのが、どのくらいの時間のことを指すのか知らなかったので、とりあえず、しばらくしたら出発するのだろうと理解した。
ちなみに「一刻」とは二時間のことである。当時の時刻の数え方は、子の刻、丑の刻と言うように十二支で数えたので、つまり一日二十四時間を十二支で十二分割していたから一刻は二時間ということになる。
意識がはっきりした芳野は、まず、自分の置かれている状況を思い出すのに、しばしの時間を要した。
何で、自分は、ここにいるんだっけ?
その答えを導き出すのに数秒かかった。そして、「ご出立のご用意」の意味を理解するのに、更に数秒の時間を要した。「出立」が「出発」の意味であることはわかるが、理解に時間がかかったのは、どこに出発するか、何のために出発するかである。
思い出してみれば、あの女性の二人連れは、最初は猪隈の屋敷に戻ると言っていたが実際に向かったのは伯父の近江守の屋敷で、そこで一泊した。多分、猪隈の屋敷が遠いので、伏見稲荷大社に近い、この深草の屋敷に一泊してから、朝早い時間に出発して、自宅である猪隈の屋敷に向かう手順を取ったのであろう。ただ、自分は、稲荷山で偶然二人と出会って、稲荷詣でを共にしたというだけの関係性であって、彼女等の自宅までお邪魔したいとも言ってないし、彼女等も初対面の私を猪隈の屋敷まで連れて行くことは考えていまい。とすると、これから私を連れ出すとすれば、伏見稲荷大社まで送り返してくれるということなのではないか。芳野は、そう勝手に解釈して、伏見稲荷大社に戻れるんだと確信した。伏見稲荷に戻れれば、そこから京都駅に行って、新幹線で自宅に帰れる。
そこまで考えが至った芳野は、急に衾を撥ね退けて起き上がると、昨晩、寝る時に脱ぎ散らかした上着を取り集めて、急ぎ着込んだ。
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