稲荷詣で

斐川 帙

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六、猪隈殿

(十五)

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 左馬頭さまのかみを兼任している下野守しもつけのかみとは、奥州十二年合戦、後三年の合戦で名を挙げた八幡太郎義家の曽孫にして、保元の乱では、崇徳院側についた父為義と干戈かんかを交え、後白河天皇側を勝利に導いた源朝臣義朝みなもとのあそんよしとものことである。

 義朝は、相州鎌倉を拠点に安房あわ上総かずさ下総しもうさ相模さがみと言った坂東ばんどう南部の広範な地域で在地の武士を従属させることに成功し、東国有数の有力武士ぶしとして名を馳せ、上洛してからは鳥羽院や関白忠通に接近して従五位下下野守を拝命して貴族に列した。
 ちなみに、義朝の父の六条判官はんがん為義は、数々の不当行為、狼藉行為により鳥羽院の信用を失ったため、関白忠通と折り合いの悪い大殿忠実ただざねや、その息子、悪左府あくさふ頼長に接近し、奉仕することによって出世を図っている。

 義朝は、上洛してからは鎌倉には長子の義平を置いていた。義朝が下野守に任ぜられた仁平にんぺい三年(一一五三)、義平はまだ十二歳であった。
 一方、この頃、上州は多胡荘たごのしょう(群馬県高崎市の旧吉井町)に義朝の異母弟である義賢よしかたが下向してきた。

 為義は、当初、長子の義朝ではなく、次子の義賢を嫡男として扱っていたようであるが、義賢は、東宮体仁なりひと親王(後の近衛天皇)の帯刀長たちわきのおさ帯刀先生たちわきのせんじょう)に任ぜられて間もなく滝口武者たきぐちのむしゃ源備みなもとのそなう殺害事件に関与したとして、帯刀先生の役を解任された。この不祥事の結果、義賢は廃嫡され、嫡男の地位は四男の頼賢よりかたに移ったようであるが、その後、為義は、坂東で独自に勢力を広げつつある義朝を警戒して、義賢を上州多胡庄に入れて義朝を牽制することにした。それが、この義賢の下向である。

 義賢は坂東に下って後、武蔵の在庁官人のトップとも言うべき留守所惣検校職るすどころそうけんぎょうしきの秩父次郎大夫たいふ重隆の娘婿となり、重隆が用意したらしい武蔵国比企ひき大蔵おおくら(埼玉県嵐山町)のたちに入った。そうして義賢は重隆の影響力を背景に武蔵から南に勢力範囲を広げようと画策した。そして、この行為は、早晩、義朝・義平親子との衝突を招くことは必至であった。

 一方、秩父重隆は、留守所惣検校職を巡って、甥の畠山庄司はたけやまのしょうじ重能しげよし及び父重綱の後妻と対立関係にあった。そして、この重綱の後妻は義平の乳母めのとだったこともあって、重隆が義賢と結んだのを見た重能は義朝・義平親子を頼んだ。こうして、為義・義賢親子と義朝・義平親子の対立は、武蔵の在地有力者も巻き込んだ対立に発展した。

 そして、久寿きゅうじゅ二年(一一五五)、十五歳の義平は、突如、軍勢を率いて大蔵館おおくらのたちを襲撃し、義賢、重隆両名を殺害した。これは義平の初陣ういじんであった。この事件により、義平は悪源太あくげんたと呼ばれることになる。
 これによって、義朝にとってみれば、坂東での地盤を脅かす強力な敵対勢力が一つ消えたことになった。

 武蔵の有力在庁官人が殺害された、この事件は、朝廷はおろか武蔵国衙こくがでも問題にされなかったようである。本来なら何らかの処罰が義平に下ってもおかしくないのだが、その形跡は各種史料からは窺えない。
 この結果は、当時、武蔵守であった藤原信頼の黙認のもとに襲撃が決行されたからではないかと言われている。信頼は、この事件の五年前の久安六年(一一五〇)から武蔵守の任にあり、久寿二年(一一五五)に重任ちょうにんして更に任期を延ばしている。この間に信頼は、義朝の武蔵国内での行動を黙認、あるいは間接的に支援して、義朝を、その影響下に置こうとしていたとも言われている。

 保元元年(一一五六)七月に起こった保元の乱では、義朝は、安芸守あきのかみ平清盛、右衛門尉うえもんのじょう源義康等とともに天皇・関白方の主力として上皇の御在所であった白河北殿を夜襲して、上皇・左府方を敗北に追い込んだ。この時の褒賞で、義朝は下野守のまま、右馬権頭うまごんのかみ、後に左馬頭に任官して昇殿がゆるされ、清盛は播磨守はりまのかみ、後に太宰大弐だざいのだいにに任官している。
 その後、保元二年(一一五七)には義康が亡くなっていたので、源氏の武士の中では、義朝は動員兵力、実績共に抜きんでた存在となっており、対抗できるのは太宰大弐清盛以外にいなくなっていた。

 黙っている駿河守を見て、郎等が口を開いた。
「近江守様は、早く入道殿にお伝えせよとのことで書状を預かって参りましたが、ここに参上する途上、紀伊二位様の御堂に立ち寄ったものの、入道様、紀伊二位様、ともにご不在で書状を手渡すこと叶わず。駿河守様の北の方様は入道様とはご縁浅からざる御方とお聞きしました。このこと、早急にお伝え願いたく参上いたしました。」
 駿河守の北の方は少納言入道と同じ高階たかしな氏の出であった。少納言入道は、本来は、藤原南家の出であったが、父を幼くして亡くしたため、当時、受領を歴任して裕福だった武蔵守高階経敏の養子となって高階を名乗っていた。藤原姓に復したのは出家直前の天養元年(一一四四)、三十八歳のときである。
「それはいけない。直ちに伝えなければ。」と駿河守は応じたが、ふと気づいて次に言おうとしていた言葉を飲み込んた。
(ここで我らが入道殿に伝える役目を引き受けてしまうと、後々不味まずいことになるかもしれない。)
 そこで、駿河守は、言い方を変えることにした。
「いや、我らが入道殿に伝えるのでは遅い。ましが、まずは、姉小路の入道殿のお屋敷に向かえ。もし、入道殿がおられなかったら、紀伊二位様でも御子息のどなたかでもよいから事の次第を伝えよ、」
「承知仕りました。」と言いかけて腰を浮かせたところを、制するように駿河守は言葉を続けた。
「…もし姉小路のお屋敷にどなたもおられなかったら、三条烏丸におられると思うが…」
「三条烏丸…御所でございますか?」
「そうだ。院の御所だ。ただし、院の御側おそばには右衛門督様もいらっしゃることが多い。…もし、姉小路におられず、御所に向かうことになったら、事前に必ず右衛門督様が出仕されておられるか確かめてから、悟られないように、十二分に気をつけよ。右衛門督様に近しい者も御所には多いから、細心の注意を払えよ。ことが感付かれたら、近江守殿の身も危うい事になるかもしれないぞ。」
「承知仕りました。」
 郎等は一礼すると、すぐにその場から出て行った。
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