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七、三条烏丸の御所
(七)
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芳野は、寝殿に呼ばれて、この場に腰を下ろしてから、駿河守の家族間でのやりとりでは、終始、蚊帳の外に置かれていた。なぜ、自分がここに呼ばれたのか理由がわからず、もやもやした感情に襲われていた。だんだん部屋に戻りたいという思いが強くなってきて、いつまで、ここにいさせられるのだろうかといら立ちを覚えてきた。
駿河守は、「さて。」と言いかけると、右手に持っていた檜扇で芳野を近くに招き寄せた。芳野は不意の行動に驚いて、周囲をきょろきょろ見回したが、檜扇の指す先には、自分の他に人はいなかったので、恐る恐る立ち上がって、母屋ぎりぎりのところまで前に進み、腰を下ろした。すると、駿河守は「八重から聞いたぞ。」と小さな声で声をかけてきた。芳野は、予想外の言葉を掛けられたので驚き、「何ですか?」と聞き返してしまった。
「あきおぎと契りを交わしたのか?」と声を抑えて問いかけてきた。駿河守がひそひそ話を始めたので察したのか、それとも芳野にかけた言葉のかけらが耳に入ったからなのか、この時、簾の奥の女性が静かに席を立って、寝殿から去って行った気配を感じた。
芳野は、一瞬、駿河守が何のことを尋ねてきているのかわからなかったが、すぐに感づいた。やはり、八重は喋っていたのだ。しかし、駿河守の聞きたいことを理解したものの、すぐには反応せず、黙っていた。簾の奥の女性が去ったからなのか、駿河守の声の大きさは通常に戻っていた。
「それで、まあ、今宵もあきおぎのもとに通ってもらいたいのだが、生憎、今晩、あきおぎには、あさつゆの供をして、三条烏丸の御所に上がらせようと思っているのだ。さっきの話は聞いたろう?あさつゆにとって、今日は、これから御所に局してお仕えする初めの日だ。局のことなど、いろいろあるので、あさつゆの身の回りのことをさせようと思っているのだが、と言っても、明日には、戻らせるつもりだから、今宵は無理だが、明日の晩は、きっと通ってもらいたいのだ。その翌日も。」
そう言って右手の檜扇で膝をぽんと叩くと、視線を逸らして、あらぬ方向を見るともなく見る風をして続けた。
「武者を供につけよとうるさいので、因州殿の家人を借り受けて供につけようという話にはしたが、八条の武者所に詰めておられるとあれば、恐らく不在であろうから、すぐに戻って来るであろう。結局のところ、当家の武者所から幾人か供に付けようとは思っているが、人数も少ないので、汝にも供についてもらいたい。三条烏丸の御所の御門前まで供を務めていただければ結構。今回は御所に参上するので、車は出さないから、徒で参らせるつもりだ。汝にも徒で供を務めてもらいたい。三条烏丸の御所までは、ここからだったら、そう遠くはないはずだ。四半刻もかからんだろう。そういうことなので、心づもりはしておいてほしい。」
そう言って、駿河守は「下がってよいぞ。」と芳野に退場を促した。芳野は、反射的に後ろを振り返って男を探したが、これまでのように簀子には姿が見えなかった。前因幡守のもとに郎等を借り受けに行っているので、ここにはいないんだと気づいたが、もう寝殿に来たのは二回目なので、さすがに部屋へ戻る道順は覚えていた。一応、頭を下げて、部屋に戻るべく立ち上がりかけたが、折角だから聞いておこうと思い立って、立つのをやめたものの、どう聞いたらいいか迷って躊躇してしまった。その様子を見咎めた駿河守が声をかけた。
「何か、言いたいことでもあるのか?」
「いえ、あの…」
「どうかしたのか?」
「あの…、いつもあちらに控えていらっしゃった方は、どなたなのでしょうか?」
聞かれて駿河守は誰のことを指して言っているのかピンとこなかったのか首を傾げていた。
「誰のことだ?」
「私が、こちらに来るときに先に立って案内してくださっている方です。」
「修理のことか?」
「あっ、『しゅり』さんと言う方なんですか。」
「しゅりさん?」と言って笑うと、
「修理職権大進藤井是則だったかな。位階は従六位上だったか。普段、『修理』と呼んでて名前を呼ぶことはないからな。間違ってるかも知れんが。」
『しゅり』と言うのは、名前ではなく、官職名だったことに気づいて、恥ずかしくなって、芳野はごまかすように苦笑した。しかし、名前が聞けたことで、どういう人なのか、もう少し、詳しく知りたくなった。
「藤井さんと言う方は、どういう方なんですか?」
駿河守は、「藤井さん」という聞きなれない呼び方に微笑しながら、なぜ、そんなことが知りたいのかわからないと言う風な表情をして、
「知ってどうするのだ?」
「いえ、ただ、いつも屋敷内を案内してもらっているので、どういう方なのか、知りたくて、使用人を統括するような方なのでしょうか?」
「使用人?聞きなれない言葉だが、まあ、修理には、当家の家中の一切を任せている。」
これを聞いて、自分が推測している内容と大差ないと思えたので、質問するのは、これで切り上げた。
「わかりました。ありがとうございます。」
「これでいいのか?」
もう少し詳しく聞かれるものと心構えをしていた駿河守は、呆気なく終わったことに肩透かしを食ったような顔をした。
「はい、十分です。」
そう言って、芳野は、再度、頭を下げると静かに立ち上がって、寝殿南面の簀子に出ると、部屋のある北の対に向かった。
駿河守は、「さて。」と言いかけると、右手に持っていた檜扇で芳野を近くに招き寄せた。芳野は不意の行動に驚いて、周囲をきょろきょろ見回したが、檜扇の指す先には、自分の他に人はいなかったので、恐る恐る立ち上がって、母屋ぎりぎりのところまで前に進み、腰を下ろした。すると、駿河守は「八重から聞いたぞ。」と小さな声で声をかけてきた。芳野は、予想外の言葉を掛けられたので驚き、「何ですか?」と聞き返してしまった。
「あきおぎと契りを交わしたのか?」と声を抑えて問いかけてきた。駿河守がひそひそ話を始めたので察したのか、それとも芳野にかけた言葉のかけらが耳に入ったからなのか、この時、簾の奥の女性が静かに席を立って、寝殿から去って行った気配を感じた。
芳野は、一瞬、駿河守が何のことを尋ねてきているのかわからなかったが、すぐに感づいた。やはり、八重は喋っていたのだ。しかし、駿河守の聞きたいことを理解したものの、すぐには反応せず、黙っていた。簾の奥の女性が去ったからなのか、駿河守の声の大きさは通常に戻っていた。
「それで、まあ、今宵もあきおぎのもとに通ってもらいたいのだが、生憎、今晩、あきおぎには、あさつゆの供をして、三条烏丸の御所に上がらせようと思っているのだ。さっきの話は聞いたろう?あさつゆにとって、今日は、これから御所に局してお仕えする初めの日だ。局のことなど、いろいろあるので、あさつゆの身の回りのことをさせようと思っているのだが、と言っても、明日には、戻らせるつもりだから、今宵は無理だが、明日の晩は、きっと通ってもらいたいのだ。その翌日も。」
そう言って右手の檜扇で膝をぽんと叩くと、視線を逸らして、あらぬ方向を見るともなく見る風をして続けた。
「武者を供につけよとうるさいので、因州殿の家人を借り受けて供につけようという話にはしたが、八条の武者所に詰めておられるとあれば、恐らく不在であろうから、すぐに戻って来るであろう。結局のところ、当家の武者所から幾人か供に付けようとは思っているが、人数も少ないので、汝にも供についてもらいたい。三条烏丸の御所の御門前まで供を務めていただければ結構。今回は御所に参上するので、車は出さないから、徒で参らせるつもりだ。汝にも徒で供を務めてもらいたい。三条烏丸の御所までは、ここからだったら、そう遠くはないはずだ。四半刻もかからんだろう。そういうことなので、心づもりはしておいてほしい。」
そう言って、駿河守は「下がってよいぞ。」と芳野に退場を促した。芳野は、反射的に後ろを振り返って男を探したが、これまでのように簀子には姿が見えなかった。前因幡守のもとに郎等を借り受けに行っているので、ここにはいないんだと気づいたが、もう寝殿に来たのは二回目なので、さすがに部屋へ戻る道順は覚えていた。一応、頭を下げて、部屋に戻るべく立ち上がりかけたが、折角だから聞いておこうと思い立って、立つのをやめたものの、どう聞いたらいいか迷って躊躇してしまった。その様子を見咎めた駿河守が声をかけた。
「何か、言いたいことでもあるのか?」
「いえ、あの…」
「どうかしたのか?」
「あの…、いつもあちらに控えていらっしゃった方は、どなたなのでしょうか?」
聞かれて駿河守は誰のことを指して言っているのかピンとこなかったのか首を傾げていた。
「誰のことだ?」
「私が、こちらに来るときに先に立って案内してくださっている方です。」
「修理のことか?」
「あっ、『しゅり』さんと言う方なんですか。」
「しゅりさん?」と言って笑うと、
「修理職権大進藤井是則だったかな。位階は従六位上だったか。普段、『修理』と呼んでて名前を呼ぶことはないからな。間違ってるかも知れんが。」
『しゅり』と言うのは、名前ではなく、官職名だったことに気づいて、恥ずかしくなって、芳野はごまかすように苦笑した。しかし、名前が聞けたことで、どういう人なのか、もう少し、詳しく知りたくなった。
「藤井さんと言う方は、どういう方なんですか?」
駿河守は、「藤井さん」という聞きなれない呼び方に微笑しながら、なぜ、そんなことが知りたいのかわからないと言う風な表情をして、
「知ってどうするのだ?」
「いえ、ただ、いつも屋敷内を案内してもらっているので、どういう方なのか、知りたくて、使用人を統括するような方なのでしょうか?」
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これを聞いて、自分が推測している内容と大差ないと思えたので、質問するのは、これで切り上げた。
「わかりました。ありがとうございます。」
「これでいいのか?」
もう少し詳しく聞かれるものと心構えをしていた駿河守は、呆気なく終わったことに肩透かしを食ったような顔をした。
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