稲荷詣で

斐川 帙

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八、現実世界

(十一)

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 その日は、乳母の女性が布団を用意していて、四人全員がそれぞれの寝床に就いた。芳野のうちにはベッドが一つあるだけで、それは独り寝用なので、二人で寝るとしたら窮屈なはずだったが、小柄なあきおぎとの同衾だったので、全然、問題なかった。赤ん坊は乳母の女性と、別の部屋で、床に敷かれた布団に寝た。
 芳野は、最初は何もせずにすぐに眠ろうとしたが、密着して眠るあきおぎに、欲情を刺激されて、乳母の女性が別の部屋で寝ていることもあり、あきおぎを抱いてしまった。

 翌朝、目が覚めてみると、朝食が既に用意されていた。乳母の女性が用意したようだ。具のないシンプルな汁粥だった。
 家事一切は乳母の女性の担当のようである。

 朝食を取り終えると、乳母の女性は、芳野に背を向けて、赤ん坊に乳をあげ始めた。あきおぎは、床に座っているだけで何もしなかった。

 金曜日は、一日中、米国に戻る準備をしていた。と言っても、大方の荷物は米国に置いたまま、帰国していたので、大した作業はなく、すぐに終わった。
 準備が早々に終わってしまうと、することがなくなり暇になったので、乳母の女性が貝合わせの貝殻を持ち出して来て、「御遊びになってはいかがですか?」と勧められるままに、一頻り、貝合わせを楽しんだ。

 そうして、米国に戻る飛行機が飛ぶ土曜になった。支度は既に、準備万端、できていて、余裕を持って成田に出発することができた。あきおぎ、乳母、赤ん坊は家に置いてきた。あきおぎが、ここに残って待っていると言ったのだ。大丈夫なのか心配だったが、本人たちが、そう言うのだから、言葉に甘えて、一人で米国に戻ることにした。彼女等を連れて米国に戻っても、彼女等を置いておくところがないのだから、そうする他なかった。

 芳野が米国に出発する際、彼女等は玄関まで見送りに来て、芳野が出て行くのを見守っていたが、その時、一瞬、目つきが鋭くなったのを感じた。まるで肉食獣が獲物を襲う瞬間の目つきのようであった。そして、くぉん、くぉんと言う鳴き声が脳内で再生された。どこかで聞いたことのある鳴き声だったが、どこで聞いたのか思い出せなかった。

 *********

 あの出来事から既に一週間経っていた。日本に置いてきたあきおぎたちは今、何しているのだろうか?気になったが、連れて来れるわけもなく、本人たちは、自分たちだけでも大丈夫と言っていたが、本当に、暮らせているのか、心配ではあった。

 メールの返事を書き終えて、すべて送信し終わった芳野は、ほっとして、もう一杯コーヒーが飲みたくなった。
 席を立った芳野は、コーヒーメーカの置いてある一角まで歩いて、プラスチックカップを一個取って、コーヒーを注いだ。注ぎ終わったカップを持って席に戻る途中、営業事務の水上さんとすれ違って、軽く会釈した。

 自席に戻ってコーヒーを口にしながら、明るい日差しに反射して輝いている外の木立に、ぼんやりと視線を送りながら、あの一時帰国の数日間は何だったんだろうと自問自答していた。仕事をしなきゃと思いつつも、やはり、あきおぎのことが心に引っ掛かって、仕事をする気になれなかった。

 一時帰国していた時のことを考えているうちに、早く、日本に帰りたいという気持ちが強くなってきた。あきおぎが自宅にいることが、それに拍車をかけた。そして、あきおぎのことを思い出すと、段々、恋しくなって、抱きたくてしようがなくなった。

 気分を変えようと、自席を立ち、窓際に近づいて、改めて外の風景を眺めてみた。窓から入ってくる、きらきらした白い陽光は、芳野に当たって、長い影をオフィスの床に描いていた。ただ、その影には、首から上がなかった。
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