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第08話「心の壁」
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蓮との交流が深まるにつれて、私の心は奇妙な二律背反に揺れていた。
彼といる時の安心感は、紛れもなく本物だった。彼の色のない声は、私の荒れ狂う色彩の世界における、唯一の凪いだ港のようだった。彼が隣にいるだけで、周囲の嘘の色が少しだけ遠のき、呼吸が楽になる。このまま彼に心を預けてしまいたい。そう思う自分と、人を信じることへの根深い恐怖が、常にせめぎ合っていた。
そんなある日の夜、実家の母親から電話がかかってきた。画面に表示された「母」という文字に、私の心は無意識に身構える。
「詩織? 元気にしてる? ちゃんとご飯食べてるの?」
母の声は、一見すると心配の色に満ちているように聞こえる。しかし、私の耳には、その奥に潜む淡いピンク色の嘘がはっきりと見えていた。それは、世間体を気にする見栄の色。娘がきちんと自立しているか、ご近所に恥ずかしくない生活を送っているか、それを確認したいだけの、自己満足の色だった。
「うん、元気だよ。ちゃんと食べてる」
私は感情を殺して答える。
「そう。それならいいんだけど。そういえばね、田中さんのところの娘さん、結婚するんですって。相手は銀行員さんで、立派な方らしいわよ。あなたももう27でしょう? 少しは将来のこと、考えないと」
始まった。いつものお説教だ。母の声は、「あなたのためを思って」という体裁を装った、美しい藤色に染まっていた。しかし、その本質は「早く結婚して私を安心させてほしい」という、支配欲と不安が混じった、くすんだ色合いだった。悪意はない。だからこそ、厄介なのだ。母は本気で、これが娘のためだと信じ込んでいる。その無自覚な嘘が、私には何よりも苦痛だった。
「……今は、仕事が楽しいから」
「仕事ばっかりじゃダメよ。女の幸せはね……」
私はそれ以上、聞いていることができなかった。
「ごめん、もう切るね。おやすみ」
一方的に電話を切り、ソファに倒れ込む。どっと疲労感が押し寄せてきた。母は、私を愛していないわけではない。ただ、その愛情表現が、私にとっては常に偽りの色を帯びて聞こえてしまう。それが悲しくて、虚しかった。
血の繋がった親でさえ、こうなのだ。
だったら、赤の他人である蓮が、いつまでも透明でいてくれる保証などどこにあるのだろう。
『どうせこの人もいつか、私に嘘をつくようになる』
心の奥底から、黒い疑念が鎌首をもたげる。彼が私に好意を向ければ向けるほど、その疑念は濃くなっていく。いつか、彼も私を喜ばせるため、あるいは傷つけないため、優しい色の嘘をつくようになるのではないか。その時、私はきっと絶望するだろう。唯一の安息所を失う恐怖が、私を支配した。
翌日、図書館で蓮に会った時、私は無意識に彼と距離を置いていた。
「水森さん、おはようございます」
彼がいつものように声をかけてくれても、「おはようございます」と短く返すだけ。彼が何か話したそうにしていても、私は「すみません、少し急ぎの仕事が」と、わざとらしく書類の山に視線を落とした。
私のよそよそしい態度に、彼は気づいているはずだった。しかし、彼は何も言わず、ただ静かにいつもの席へと向かっていった。彼の戸惑いが、声にはならずとも、その背中から伝わってくるようだった。
ごめんなさい。心の中で謝る。
でも、これ以上あなたに近づくのが怖い。あなたを信じ切ってしまうのが怖い。あなたがいなくなった時のことを考えると、息ができなくなる。
私は、自分の手で再び心の壁を高く厚く塗り固めていた。蓮の透明な声が届かないように。彼がくれる安心感に、これ以上依存してしまわないように。
傷つくことから逃げるため、私は最も大切な光から目を逸らそうとしていた。窓際の席で静かに本を読む彼の横顔を、私は盗み見ることすらできずにいた。
彼といる時の安心感は、紛れもなく本物だった。彼の色のない声は、私の荒れ狂う色彩の世界における、唯一の凪いだ港のようだった。彼が隣にいるだけで、周囲の嘘の色が少しだけ遠のき、呼吸が楽になる。このまま彼に心を預けてしまいたい。そう思う自分と、人を信じることへの根深い恐怖が、常にせめぎ合っていた。
そんなある日の夜、実家の母親から電話がかかってきた。画面に表示された「母」という文字に、私の心は無意識に身構える。
「詩織? 元気にしてる? ちゃんとご飯食べてるの?」
母の声は、一見すると心配の色に満ちているように聞こえる。しかし、私の耳には、その奥に潜む淡いピンク色の嘘がはっきりと見えていた。それは、世間体を気にする見栄の色。娘がきちんと自立しているか、ご近所に恥ずかしくない生活を送っているか、それを確認したいだけの、自己満足の色だった。
「うん、元気だよ。ちゃんと食べてる」
私は感情を殺して答える。
「そう。それならいいんだけど。そういえばね、田中さんのところの娘さん、結婚するんですって。相手は銀行員さんで、立派な方らしいわよ。あなたももう27でしょう? 少しは将来のこと、考えないと」
始まった。いつものお説教だ。母の声は、「あなたのためを思って」という体裁を装った、美しい藤色に染まっていた。しかし、その本質は「早く結婚して私を安心させてほしい」という、支配欲と不安が混じった、くすんだ色合いだった。悪意はない。だからこそ、厄介なのだ。母は本気で、これが娘のためだと信じ込んでいる。その無自覚な嘘が、私には何よりも苦痛だった。
「……今は、仕事が楽しいから」
「仕事ばっかりじゃダメよ。女の幸せはね……」
私はそれ以上、聞いていることができなかった。
「ごめん、もう切るね。おやすみ」
一方的に電話を切り、ソファに倒れ込む。どっと疲労感が押し寄せてきた。母は、私を愛していないわけではない。ただ、その愛情表現が、私にとっては常に偽りの色を帯びて聞こえてしまう。それが悲しくて、虚しかった。
血の繋がった親でさえ、こうなのだ。
だったら、赤の他人である蓮が、いつまでも透明でいてくれる保証などどこにあるのだろう。
『どうせこの人もいつか、私に嘘をつくようになる』
心の奥底から、黒い疑念が鎌首をもたげる。彼が私に好意を向ければ向けるほど、その疑念は濃くなっていく。いつか、彼も私を喜ばせるため、あるいは傷つけないため、優しい色の嘘をつくようになるのではないか。その時、私はきっと絶望するだろう。唯一の安息所を失う恐怖が、私を支配した。
翌日、図書館で蓮に会った時、私は無意識に彼と距離を置いていた。
「水森さん、おはようございます」
彼がいつものように声をかけてくれても、「おはようございます」と短く返すだけ。彼が何か話したそうにしていても、私は「すみません、少し急ぎの仕事が」と、わざとらしく書類の山に視線を落とした。
私のよそよそしい態度に、彼は気づいているはずだった。しかし、彼は何も言わず、ただ静かにいつもの席へと向かっていった。彼の戸惑いが、声にはならずとも、その背中から伝わってくるようだった。
ごめんなさい。心の中で謝る。
でも、これ以上あなたに近づくのが怖い。あなたを信じ切ってしまうのが怖い。あなたがいなくなった時のことを考えると、息ができなくなる。
私は、自分の手で再び心の壁を高く厚く塗り固めていた。蓮の透明な声が届かないように。彼がくれる安心感に、これ以上依存してしまわないように。
傷つくことから逃げるため、私は最も大切な光から目を逸らそうとしていた。窓際の席で静かに本を読む彼の横顔を、私は盗み見ることすらできずにいた。
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