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第1章 リーベウィッチ麗華ちゃん

第2話:リーベウィッチ麗華ちゃん・1

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 七年前の夏休み、魔法少女マジカルレッドをやっていたことがある。
 魔法の妖精から力を受け取り、変身してステッキで戦い、悪の組織を壊滅させたことがある。
 山麓の地方都市を舞台に繰り広げた、バトルあり笑いあり涙ありのひと夏は今も色褪せない大切な思い出だ。

「だが引退したはずだ。私はもう高校二年生だぜ。果たしてまだ私の管轄でいいものかね!」

 言葉とは裏腹に、薄汚れたタイルを蹴る足は鍵盤を叩く指先のように軽やかに弾む。
 ぐっと踏み込んで電飾看板の配線を飛び越える。勢いあまって両足が浮いた、そのままアーケードをスキップで駆け抜けていく。小声で鼻歌を歌いながら。
 泣いている赤ちゃんをベビーカーごと抱きかかえて走る若い父親とすれ違う。ポロシャツからチノパンまで汗だくになった筋肉質の身体を一歩ステップしてひらりとかわす。
 角ばって膨らんだビニール袋を両手に下げ、顔を引きつらせて走る小太りの中年女性とすれ違う。袋の穴からこぼれたティッシュボックスを軽くジャンプして飛び越える。
 長い杖を突き腰を抑えて早足で歩く老女とすれ違う、いや、タイルの隙間に杖が挟まった。素早く手を伸ばして前につんのめる身体をキャッチする。

「お気を付けて」
「おお、ありがとよ……でもあんた、そっちは危ないよ。早く逃げなきゃ」
「承知の上です。危ないからって逃げなきゃいけないとは限りませんよ」

 不明瞭な応答に、老女は呆れ半分心配半分の平たい目つきを向けてくる。
 しかしここで問答している時間はない。早く現場に行かなければ。枯れ枝のような背中を軽く押し出し、反転して再び足を動かす。ばたばた慌てて逆行してくる人々をくるくる避けながら歩を進める。
 いや、逆行しているのはこちらの方だ。何せ他の皆が揃って同じ方向に逃げていて、逆方向に進むのは自分だけだから。騒乱の中心に近付くにつれ、すれ違う人も減っていく。

「……」

 耳を澄ませる。曇ったひさしで密封された路地に、低い唸り声が反響している。
 鼻を鳴らす。寂れた店舗が並ぶ隙間に、山中じみた獣臭さが僅かに香ってきている。
 脅威の気配に高鳴る胸が足を回すエンジンとなり、金物屋とコンビニが向かい合う交差の角を曲がったとき、思わず「わお」と声が漏れた。どうしようもなく口角が上がっていくことを自覚する。
 ようやくお目当てに、つまり皆がそこから逃げていたところの、諸悪の根源にエンカウントしたからだ。

「いるいる!」

 商店街を封鎖する漆黒の巨体!
 立派な軍用犬を凶暴に拡大プリントした感じというのが一番近い。高さだけで三メートル近くはあるだろうか、大きな身体が上下左右に閉じた空間で窮屈そうにしている。
 大樹のような筋肉質の四つ足でどっしりと通路を踏み締め、低い唸り声を口の端から漏らしている、透明な涎と一緒に。黒光りする鼻から荒い息が漏れるリズムに合わせ、三角に尖った耳がピクピクと揺れた。
 そして身体全体に黒いもやが纏わりつき、黒い体毛と混ざり合って輪郭がぼやけていた。

「やっぱり同じだな、七年前と」

 魔獣だ。魔力によって凶暴化した獣。
 日常に馴染まない怪物だが、見覚えのある敵ではある。元魔法少女としては。
 七年前には悪の組織が差し向ける尖兵として、空き地や校庭などによく出現していたものだ。終盤では束になって出てきていたし、当時倒した数は両手両足でも数え切れない。
 魔獣が不意に首を持ち上げた。欠伸のような動きで咆哮を放つ。
 衝撃を伴う波が肌をびりびり震わせ、どこかで共鳴した陶器か何かが割れる音がした。当時は割と雑魚敵だったが、一般人として向き合うととても手に負えない怪物だ。
 しかし魔獣に向かって一歩前に進み出る。

「久しぶりだね。と言っても、当時戦ったのとは別個体だろうけれども」

 問いかけたところで返ってくるのは唸り声だけ。魔獣に人語は通じないが、構わず独り言を続ける。

「歓迎するよ。君がいるのは魔法の夏がまた始まった証拠だから」

 人類史上、地球上に魔獣が現れたのは七年前のこの町だけだ。
 そのときは麗華を含む地元の小学生三人が魔法少女となって討伐した。魔法の妖精から力を借りて。そして魔獣の背後には悪の組織がいることが判明し、戦いは組織の幹部が操る魔法兵器とのボス戦にシフトし、最終的には組織の基地を壊滅させて世界から魔法は消え去った。
 当時はそんな顛末だったが、今年の事態がどう転がるかは元魔法少女にもわからない。

「今回の役者は誰だろうね。また魔法のストーリーが始まるとして、まず暴れる君を制圧するのは誰?」

 堂々と胸を張り、道の真ん中を一歩ずつ進んでいく。
 もう変身はできない。退治の手立ては特に考えていない。今とても危険な状況であることは頭ではわかっている。
 しかし足が勝手に小走りに変わる。制御できない欲求に突き動かされる頭が痺れるように気持ちいい。
 アニメの次回予告を見て来週が待ちきれない子供のように、垂れ幕のかかった掲示板の前で合格発表を待つ受験生のように、次を知りたい好奇心が足のスピードを上げていく。

「彼女はきっと来るさ。私たちは魔法の夏ならば出会えるはずだから」

 今日は七月二十一日、夏休みの初日。
 夏休みとは一つの異空間である。日々の決まり切ったルーチンから解放されて、どんなイベントにも参加できるボーナスタイム。それは魔法少女だって悪の幹部だって、もしかしたら魔獣だって例外ではないのかもしれない。
 怪物の正面。数メートル向こうからこちらを睥睨する魔獣と目が合う。
 どこに焦点を合わせているのかよくわからない、理知的ではないが錯乱してもいない獣の目。だが黒曜石のように平坦に沈んだ色の奥底に、関心の炎が灯るのははっきりと見えた。
 魔獣が不意に腕を振り上げた。高くまで伸びる爪が看板をひっかいて蛍光灯を割る。ガラス片に混じって輝くギロチンが振り下ろされる。

「さあ、どうなる!」

 もう半歩前に出た。今ここから起きることを知りたい。ひたすらに。
 身体には冷や汗一つ流れない、心臓がドクドクと脈打つのは死の恐怖ではない、視界を埋める死神の鎌から目を逸らさない。
 迫る鋭い爪は人生のカウントダウンだ。
 あと一メートルで死ぬ、あと八十センチで死ぬ、あと五十センチで死ぬ。あっという間に残量が減っていく、買い替え間際のスマホを思い出す。
 凶器より先にいよいよ風圧が髪を散らした次の瞬間、世界を切り替える叫びが全身を貫いた。

「どきなさい!」

 ハスキーな煌めく声、そして駆け込んでくる足音。
 背後からポップした閃光が空間全てを上から塗り潰す。

魔神機マジンギゴッドドール!」

 巨大な鉄拳が猛スピードでぶん殴った。正面から、魔獣の顔面を。
 プラスチックが砕けるような音が一瞬聞こえ、魔獣の身体が宙に浮く。
 巨体がそのまま吹き飛び、床屋のシャッターに直撃。薄いアルミが板チョコのように凹んで大破する。風で千切れ飛ぶのではないかと思うほど髪がなびいた。
 振り抜かれた鉄拳が宙でくるりと回った。魔獣に向かって改めて拳を固める。
 鉄拳、すなわち文字通りに鉄で出来た巨大な拳。腕まで合わせた全長は魔獣の顔より大きい。赤黒い金属プレートが表面を満遍なく覆い、薄暗いアーケードの中で血溜まりのように暗く煌いていた。

「邪魔、さっさと逃げなさい!」

 鋼鉄の腕を追って背後から走り出てきた少女。
 走馬灯が少し遅れてきたように、その姿に何年も目を奪われた。
 白と藍色のシンプルなセーラー服を纏っている。それは三年前に廃校になった公立高校の制服のはずだ。白く輝くソックスと黒く磨かれたローファーだけは身なりの整った模範的な生徒に見えないこともない。
 だが、制服には全くそぐわない装飾の数々が全身に散りばめられている。
 宝石が光る髪留め、両耳にピアス、手首にもブレスレット、首元にネックレス。腰や腕にまでチェーンを巻いている。これはどの学校でも確実に校則違反だろう。
 しかし決して下品な印象ではない。意志の強そうな鋭い目と固く結んだ口元は粗い気高さを漂わせ、明るく染めた髪色はしなやかな肢体にふさわしい煌めきを添える。

「きっと君は来るって信じてたぜ。絶対に」

 呟いた頬が緩む。見知った顔、見知った兵器。かつて魔法の夏に出会った彼女のことはよく覚えている。
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