公爵令嬢の出来る事【完】

mako

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生まれた感情

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診療所の帰り、チェチーリアはふと、先日訪れた孤児院に立ち寄った。

中庭には子どもたちの姿があったが、その隅で、一人の少女がうずくまっているのが見えた。周囲から少し距離を置いて、膝を抱えて座っているその子に、チェチーリアはそっと声をかけた。

「具合が悪いの?」

少女は顔を上げた。やせ細った頬、瞳に浮かぶ濁った光。返事はなかった。

「……寒くない? ここに座ってると体が冷えるわ」

少女は小さく首を振った。だが目の奥には、何かが詰まっている。

「名前、教えてくれる?」

「……エマ」

かすれる声だった。

「エマ、何か欲しいものはある? おやつでも、お洋服でも。私、届けてあげられるかもしれない」

少しの沈黙の後、少女はぼそりと呟いた。

「……お母さんがほしい」

その言葉に、チェチーリアの胸が詰まった。

何も言えなかった。何も、差し出せなかった。

彼女は思った。王宮の自室であれば、最高級の菓子も、美しい服もすぐに手配できる。医者も、教員も、何でも呼べる。けれど――この子が望んだものだけは、どうにもならない。

そして、やっと気づいたのだ。

今までの自分の行動は、あくまで“与える側”としてのものでしかなかった。だが人の心には、与えるだけでは届かないものがある。

帰りの馬車の中、チェチーリアはぽつりと呟いた。

「……わたくし、何も分かっていなかったのね」

アメリアがそっと横目で彼女を見る。

「それでも妃殿下は、確かにあの子の側に立ちました。それはきっと、何より価値のあることです」

「いいえ……私はまだ“側”に立てていないわ。ほんとうに立てるようになりたいの」

チェチーリアの瞳には、初めて“揺れる感情”が宿っていた。

その夜、チェチーリアは珍しく中庭を一人で歩いていた。庭師が手入れした月下の薔薇が、淡い光に揺れている。

「妃殿下にしては、珍しい時間に外だな」

背後から静かな声。振り向けば、夜会服ではなく普段着のフリードリヒが立っていた。

「皇帝陛下こそ。こんな時間に、お一人で?」

「妃の様子を見て回れと言われたものでな」

そう言ってソファのような石造の縁に腰掛けると、彼は軽く顎で隣を指した。

「座らないのか?」

チェチーリアは一瞬迷ったが、素直に隣に腰を下ろした。

「……エマという名の子がいました」

「誰だ?」

「孤児院の少女です。彼女は、お母さんが欲しいと言いました」

「それは無理だな。死んでいるなら尚更だ」

「そうですね。私は何もできませんでした。着物も食べ物も、医者も与えることができても……彼女の欲しいものは、わたくしには与えられない」

フリードリヒはしばらく黙っていたが、やがて視線を月に向けたまま呟いた。

「与えることしか考えていなかったのか」

「……ええ。私は、そう育ちましたから。上に立つ者とは、与える者だと」

「そして満足する。自己満足だろう?」

チェチーリアは、グッと唇を結んだ。

「そうかもしれません。でも、何もしないよりは良いと、思いたかったんです」

フリードリヒが、静かに彼女の方を向いた。

「感情を持たない者の言葉としては……ずいぶん感情的だな」

チェチーリアは少し驚いたように彼を見ると、ぽつりと笑った。

「それなら……もしかしたら、ようやく私にも“心”というものが生まれたのかもしれませんね」

その言葉に、フリードリヒは眉をわずかに上げた。

「成長だと喜ぶべきか、面倒な存在になったと嘆くべきか……」

「どちらでも。わたくしは、ただ前に進むだけですから」

「……そうか」

夜風が吹き抜け、二人の間に少しの沈黙が落ちた。

けれどその沈黙は、決して重苦しいものではなかった。
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