おうちに帰りたい令嬢、いつのまにか王太子の「心臓」になる ~仮面舞踏会のうっかりが、一生モノの執着に変わるまで~』

mako

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アドラー家の伏兵

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アステリア王国筆頭公爵家、アドラー公爵邸の朝は、一筋の陽光が豪奢な回廊を照らし出すよりも早くに幕を開ける。

日の出と共に、純白のエプロンを揺らす侍女や隙のない身のこなしの従僕たちが、静寂を乱すことなく、しかし無駄のない動きで各々の持ち場へと急ぐ。

​アドラー公爵家は、王国の歴史そのものと言っても過言ではない。夫人のソフィアは隣国の王族の血を引く高貴な身の上であり、その系譜を遡れば、王族との縁戚関係にある者が名を連ねる。アステリア王国において「アドラー」の名は、単なる爵位以上の畏敬の念を持って語られる、文字通りの名門であった。
​そんな静謐な朝の空気を、場違いなほど明るい声が切り裂いた。


​「おはよう!」

​朝一番に食堂へ現れたのは、三女のアデリーンである。留学から帰国したばかりの彼女は、出迎えの使用人たちが思わず目を疑い、手にしていた銀器を落としかけるほどの格好であった。

寝癖のついた髪を雑にまとめ、着崩した寝衣のまま。彼女は豪快な欠伸を一つ漏らすと、優雅な椅子にどさりと腰を下ろした。そして目の前のデキャンタからオレンジジュースをなみなみと注ぐと、喉を鳴らして一気に飲み干したのである。

​「おやおや、我が家のレディは一体どのような教育を受けて帰国されたのかな? その格好で食事とは、寄宿学校の先生が泣いておしまいだ」

​呆れを含んだ声と共に現れたのは、次男のシリルだ。彼は今すぐにでも登城できる完璧な装いでアデリーンの隣に腰を下ろした。

​「シリル兄様こそ、こんなに早くにお出かけ? せっかく私が帰ってきたのに、冷たいんだから」

​パンを口いっぱいに頬張り、モゴモゴと答えるアデリーン。その背後から、さらに重厚な、それでいて剣呑な気配が近づいてくる。

​「『お出かけ』ではない。執務だ。というかお前、どこにそんな寝起きの格好で屋敷をうろつく令嬢がいる? シリルを見ろ、これが貴族の装いだ」

​長男のヴァレリアスだ。アデリーンは振り返ることもせず、シリルに向かってペロッと舌を出した。背中に感じる長兄の威圧感だけで、彼がどれほど不機嫌か(あるいは呆れているか)を察したのだ。

ヴァレリアスは彼女の正面まで歩み寄ると、有無を言わせぬ口調で告げた。

​「今夜の夜会は俺がエスコートしてやる。今すぐその薄汚れた格好を改めて、準備をしておけ」

​その言葉を聞いた瞬間、アデリーンはパンを喉に詰まらせ、激しくむせ返った。

​「げほっ! げほっ! ……い、嫌よ! お兄様にエスコートなんてされて夜会に出ようもんなら、秒で社交界に知れ渡っちゃうじゃない!」

​シリルが苦笑しながら、むせ返る妹の背中を優しくさする。

​「……何がだい?」

​「何って! 私がアドラー家の三女だってことがバレるに決まってるじゃない!」

​ヴァレリアスは眉間に深い皺を刻み、射貫くような視線でアデリーンを睨みつけた。

​「お前、自分の身元が露見すると何か問題があるのか? アドラーの名が不服だとでも?」

​「そりゃあそうでしょうよ! 公爵家の三女が留学から戻ったとなれば、また面倒なことになるわ。ただでさえ我が家は目立ちすぎなのよ」

​アデリーンも負けじと、ヴァレリアスを睨み返す。

​「面倒……だと?」

​「あら、考えてもみて。我が家には既に、隣国の王太子殿下との婚約が決まったクロエお姉様がいるし、知略に長けたサーシャお姉様だって辺境伯様との婚約が秒読みでしょう? これ以上、アドラー家が社交界の話題を独占しようもんなら、貴族派の勢力均衡が崩れてしまうわ。それに、下にはまだ幼い妹や弟だっているのよ? 私みたいな『伏兵』は、いざという時のために隠しておくに限るわ。未来永劫、家門を安泰にするための戦略的隠遁よ!」

​立て板に水のごとく言い逃れを並べるアデリーン。その饒舌な演説を、涼やかな笑い声が遮った。

​「まぁまぁ。相変わらず口だけは達者なのね、アデリーン」

​流れるような所作で食堂に現れたのは、長女のクロエであった。彼女がそこに立つだけで、周囲の空気が清らかに澄み渡るような錯覚を覚える。

​「そんな屁理屈を並べて。……本当は、ただ夜会から逃げたいだけでしょう?」

​「……っ」

​アデリーンはぐうの音も出なかった。

留学先で自由を謳歌しすぎた彼女にとって、窮屈なコルセットと、建前ばかりの社交辞令が飛び交う夜会は、何よりも避けたい苦行であった。

​アドラー公爵邸の朝は、いつになく騒がしい。しかし、この賑やかさこそが、王国最強の家門が持つ、隠れた強さの秘訣なのかもしれない。
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