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仮面舞踏会へ
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「アデリーン、久しぶりね! 会いたかったわぁ。もう、全然手紙もくれないんだもの」
留学からの帰国を報告するため、国王陛下への不本意な、失礼、正式な挨拶を済ませたアデリーンは、忍びのような素早さで王城を後にした。そのまま公爵邸へ直行すれば、またうるさく言われるのは目に見えている。
彼女が逃げ込んだのは、気心の知れた友人、パトリシアの屋敷だった。
「ごめんね、向こうの生活が楽しくて。⋯で、貴女は今夜、どこの夜会に参加するの?」
アデリーンは辟易とした様子で、差し出されたティーカップを手にした。社交界という名の戦場に、まだ心の準備ができていない。
対するパトリシアは、口角を不敵にグイッと上げると、声を潜めて囁いた。
「……仮面舞踏会よ」
「っ! 仮面舞踏会?」
アデリーンは思わず身を乗り出した。噂には聞いていた。身分も名も仮面で隠し、一夜限りの享楽に身を任せるという、どこか頽廃的で刺激的な社交場。
目の前のパトリシアは、手慣れた様子で幾度となく足を運んでいるようだ。異国から戻ったばかりのアデリーンは、自分だけが時代の潮流に取り残されたような、奇妙な焦燥感に襲われた。
「まだ予定が決まっていないなら、アデリーンも一緒に行く? 誰も貴女がアドラー家の娘だなんて気づかないわよ」
突然の誘いに、アデリーンの脳細胞が高速回転を始める。
⋯そうよ。どれだけ逃げ回っても、姉様たちが嫁いでしまえば、次は私の番。嫌でも社交界に引きずり出され、どこかの誰かに嫁ぐことになる。ならば、これは「自由な私」として遊べる最後のチャンスかもしれない。これも一つの社会勉強、経験よね?
アデリーンの決心が固まるのに、十秒もかからなかった。
宵闇が街を包む頃、豪華な馬車が静かに止まった。アデリーンは心臓の鼓動を抑えながらステップを降りる。そこには既に、漆黒のドレスに身を包んだパトリシアが待っていた。
手渡されたのは、繊細な細工が施された蝶のアイマスク。それを装着し、鏡の中の自分と向き合う。そこにいるのは「アドラー公爵令嬢」ではなく、ただの「名もなき淑女」だった。二人は顔を見合わせ、共犯者の微笑みを交わす。
「いい、アデリーン。ここでは絶対に名前を呼んではダメよ」
ますます緊張の度合いを増したアデリーンは、神妙な面持ちで頷いた。
大広間の重厚な両開きの扉が開かれる。光の洪水と、甘い香油の匂い。手慣れた足取りで踏み込んでいくパトリシアを、アデリーンはなかば尊敬の眼差しで見送った。パトリシアは最後に一度だけ、にっこりと微笑んだ。
「じゃあ、楽しんで!」
「……えっ?」
言うが早いか、彼女は華やかなダンスの輪の中へと溶け込んでいった。
呆然と取り残されたアデリーンは、仮面の下で半泣きになりそうだった。
⋯置いてけぼり? 嘘でしょう? 私、これからどうすればいいの!
しかし、そこは腐ってもアドラー家の血筋。キョロキョロと挙動不審になるわけにはいかない。彼女は精一杯の澄まし顔を作り、目だけで辺りを観察し始めた。
⋯なるほど。流れるようなワルツを踊っている面々は、いわば主催者が用意した「装飾」のようなものね。意気投合した男女は、そっと輪を抜けて、あの優雅な螺旋階段を昇っていくのだ。
螺旋階段を見上げながら、アデリーンは完全に傍観者と化していた。
「困ったわね……」
すぐに帰ったのではパトリシアに合わせる顔がない。「ビビって逃げた」と思われるのは公爵家の誇りにかけて本意ではない。が、正直に言えば、めちゃくちゃビビっていた。
その時、彼女の前を一人の男が横切った。
アデリーンの目が止まる。
――あやつだ!
見たところ、ギラついた目で獲物を探している「狩人」風ではない。仕立ての良い服を着てはいるが、どこか落ち着いた、裏方に徹しているような気配。おそらく主催者側の人間か、あるいは雇われた廷臣だろう。
アデリーンは「この人なら安全だ」と直感し、急いで男の袖を捕まえた。
「失礼、ごめんなさいね。私、こういう場所は不慣れで⋯。緊張がほぐれるまで、一曲お願いできますか?」
よもや、高位貴族とバレるわけにはいかない。彼女はわざと少し世間知らずな、頭の弱そうな令嬢を演じて声をかけた。男は一瞬、意外そうに目を見開いたが、すぐに口元を緩めて優雅にエスコートの手を差し出した。
踊り始めてすぐ、アデリーンの緊張は氷解した。リードする彼の手は、どこか祖父のそれのように温かく、節々に年輪のようなシワが刻まれている。やはり、若い女を口説き落とそうとする手ではない。
アデリーンはダンスの輪から一組、また一組と外れて階段へ向かう男女を、観察日記をつけるような目で追っていた。すると、男が穏やかに問いかけた。
「よろしいのですか? 私のような者と踊っていては、素敵な殿方とのチャンスを逃してしまいますよ」
アデリーンはいたずらっぽく、仮面の下で小さく舌を出した。
「内緒だけど。私、ただの『怖いもの見たさ』で来ただけなの」
その時、レディとしてはあるまじき音が、静かな二人の間に響いた。アデリーンのお腹が、それはもう元気よく鳴り響いたのである。
男は「くすくす」と、堪えきれないといった様子で笑った。そして壁際に並べられた豪華なテーブルに視線をやる。
「あちらに、素晴らしい食事の用意がありますよ」
「⋯! ありがとう。やはり貴方、ここの事情に詳しいのね」
アデリーンは確信した。この人はやはり主催者側の親切なスタッフだ。
「助かったわ、仮面の下のジェントルマン。楽しい時間をありがとう!」
アデリーンは再会の約束も、名前を問うこともしなかった。
ただ真っ直ぐに、吸い寄せられるように。
彼女は壁際の、鴨のローストと色鮮やかなテリーヌが並ぶ戦場へと、今日一番の素早さで突撃していったのである。
留学からの帰国を報告するため、国王陛下への不本意な、失礼、正式な挨拶を済ませたアデリーンは、忍びのような素早さで王城を後にした。そのまま公爵邸へ直行すれば、またうるさく言われるのは目に見えている。
彼女が逃げ込んだのは、気心の知れた友人、パトリシアの屋敷だった。
「ごめんね、向こうの生活が楽しくて。⋯で、貴女は今夜、どこの夜会に参加するの?」
アデリーンは辟易とした様子で、差し出されたティーカップを手にした。社交界という名の戦場に、まだ心の準備ができていない。
対するパトリシアは、口角を不敵にグイッと上げると、声を潜めて囁いた。
「……仮面舞踏会よ」
「っ! 仮面舞踏会?」
アデリーンは思わず身を乗り出した。噂には聞いていた。身分も名も仮面で隠し、一夜限りの享楽に身を任せるという、どこか頽廃的で刺激的な社交場。
目の前のパトリシアは、手慣れた様子で幾度となく足を運んでいるようだ。異国から戻ったばかりのアデリーンは、自分だけが時代の潮流に取り残されたような、奇妙な焦燥感に襲われた。
「まだ予定が決まっていないなら、アデリーンも一緒に行く? 誰も貴女がアドラー家の娘だなんて気づかないわよ」
突然の誘いに、アデリーンの脳細胞が高速回転を始める。
⋯そうよ。どれだけ逃げ回っても、姉様たちが嫁いでしまえば、次は私の番。嫌でも社交界に引きずり出され、どこかの誰かに嫁ぐことになる。ならば、これは「自由な私」として遊べる最後のチャンスかもしれない。これも一つの社会勉強、経験よね?
アデリーンの決心が固まるのに、十秒もかからなかった。
宵闇が街を包む頃、豪華な馬車が静かに止まった。アデリーンは心臓の鼓動を抑えながらステップを降りる。そこには既に、漆黒のドレスに身を包んだパトリシアが待っていた。
手渡されたのは、繊細な細工が施された蝶のアイマスク。それを装着し、鏡の中の自分と向き合う。そこにいるのは「アドラー公爵令嬢」ではなく、ただの「名もなき淑女」だった。二人は顔を見合わせ、共犯者の微笑みを交わす。
「いい、アデリーン。ここでは絶対に名前を呼んではダメよ」
ますます緊張の度合いを増したアデリーンは、神妙な面持ちで頷いた。
大広間の重厚な両開きの扉が開かれる。光の洪水と、甘い香油の匂い。手慣れた足取りで踏み込んでいくパトリシアを、アデリーンはなかば尊敬の眼差しで見送った。パトリシアは最後に一度だけ、にっこりと微笑んだ。
「じゃあ、楽しんで!」
「……えっ?」
言うが早いか、彼女は華やかなダンスの輪の中へと溶け込んでいった。
呆然と取り残されたアデリーンは、仮面の下で半泣きになりそうだった。
⋯置いてけぼり? 嘘でしょう? 私、これからどうすればいいの!
しかし、そこは腐ってもアドラー家の血筋。キョロキョロと挙動不審になるわけにはいかない。彼女は精一杯の澄まし顔を作り、目だけで辺りを観察し始めた。
⋯なるほど。流れるようなワルツを踊っている面々は、いわば主催者が用意した「装飾」のようなものね。意気投合した男女は、そっと輪を抜けて、あの優雅な螺旋階段を昇っていくのだ。
螺旋階段を見上げながら、アデリーンは完全に傍観者と化していた。
「困ったわね……」
すぐに帰ったのではパトリシアに合わせる顔がない。「ビビって逃げた」と思われるのは公爵家の誇りにかけて本意ではない。が、正直に言えば、めちゃくちゃビビっていた。
その時、彼女の前を一人の男が横切った。
アデリーンの目が止まる。
――あやつだ!
見たところ、ギラついた目で獲物を探している「狩人」風ではない。仕立ての良い服を着てはいるが、どこか落ち着いた、裏方に徹しているような気配。おそらく主催者側の人間か、あるいは雇われた廷臣だろう。
アデリーンは「この人なら安全だ」と直感し、急いで男の袖を捕まえた。
「失礼、ごめんなさいね。私、こういう場所は不慣れで⋯。緊張がほぐれるまで、一曲お願いできますか?」
よもや、高位貴族とバレるわけにはいかない。彼女はわざと少し世間知らずな、頭の弱そうな令嬢を演じて声をかけた。男は一瞬、意外そうに目を見開いたが、すぐに口元を緩めて優雅にエスコートの手を差し出した。
踊り始めてすぐ、アデリーンの緊張は氷解した。リードする彼の手は、どこか祖父のそれのように温かく、節々に年輪のようなシワが刻まれている。やはり、若い女を口説き落とそうとする手ではない。
アデリーンはダンスの輪から一組、また一組と外れて階段へ向かう男女を、観察日記をつけるような目で追っていた。すると、男が穏やかに問いかけた。
「よろしいのですか? 私のような者と踊っていては、素敵な殿方とのチャンスを逃してしまいますよ」
アデリーンはいたずらっぽく、仮面の下で小さく舌を出した。
「内緒だけど。私、ただの『怖いもの見たさ』で来ただけなの」
その時、レディとしてはあるまじき音が、静かな二人の間に響いた。アデリーンのお腹が、それはもう元気よく鳴り響いたのである。
男は「くすくす」と、堪えきれないといった様子で笑った。そして壁際に並べられた豪華なテーブルに視線をやる。
「あちらに、素晴らしい食事の用意がありますよ」
「⋯! ありがとう。やはり貴方、ここの事情に詳しいのね」
アデリーンは確信した。この人はやはり主催者側の親切なスタッフだ。
「助かったわ、仮面の下のジェントルマン。楽しい時間をありがとう!」
アデリーンは再会の約束も、名前を問うこともしなかった。
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