遥香のはるかな海の歌

mitsuo

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 起きたらまずカーテンをあけるのが、叶遥香(かない はるか)の習慣だった。
 うすいピンクのカーテンをしゅっとひくと、さしこむ朝の光と一緒にすばらしい景色が目の前に広がる。
 遥香の住んでいる月浦町は海辺の町だ。ゆるやかな坂道の途中にある家の二階の窓からは、昔ながらの黒い瓦屋根が続く街並みの先に海が見わたせる。
 今はまだ夜が明けたばかりで、空はうっすらとした紫色をしている。だけど遠くの水平線の上にはルビーのように真っ赤な太陽がのぼり始めていた。町のそばでゆるゆると波打つ月浦湾も、その先に広がっている太平洋も、そんな朝の光をあびてあざやかなコバルトブルーの水面を静かに浮かび上がらせようとしている。
 この神秘的な景色に胸をうたれるたびに、遥香はいつもあるメロディーを思い出す。遥香がまだ小さいころ、お母さんが口ずさんで聞かせてくれた曲だった。
 窓を開けると、涼しい風が髪をふわりと舞い上げる。遥香は目をとじて、海に向かってそっと手を合わせた。
(お母さん、おはよう)
 心の中でいつもと同じ言葉をつぶやき、ゆっくりと目を開ける。すると太陽はさっきよりも高いところにあり、大海原をいっそうまぶしく照らしていた。
 新しい一日が始まる。遥香は天井に向かって腕をあげ、思いきり体を伸ばした。
 着替えをすませて一階におりると、台所ではお父さんが朝ごはんの準備を始めていた。
「お父さん、おはよう」
「お、おはよう遥香」
 お父さんはフライパンの目玉焼きから遥香へ視線をすべらせ、おだやかにほほ笑んだ。
「顔を洗ってお仏壇に手を合わせたら、料理を運ぶのを手伝ってもらえるかな?」
「分かった!ちょっと待っててね」
 遥香も小学五年にしてはかなり早起きだけど、お父さんはそれ以上だ。民俗学の研究をしている遥香のお父さんはいつも、車で二時間近くもかかる県庁所在地の大学に通勤している。だから外が暗いうちに起きないと間に合わないのだ。
 顔を洗った遥香は和室に向かい、仏壇の前に座った。
 仏壇のまん中には、若い女の人の写真が飾られている。
 それは遥香が五歳の時に亡くなったと聞かされている、遥香のお母さんだった。写真の中のお母さんはつややかな長い髪をしており、外国の人のように不思議な色あいを含んだ瞳でこっちに笑いかけている。その手前には木の枝みたいに細い形をしたサンゴのかけらが置かれていた。
 遥香は手を合わせて目をつむり、起きた時と同じように心の中で呼びかける。
(おはようお母さん。今日もお父さんと私のことを見守ってください)
 目を開けると、写真の中のお母さんと目が合ったような気がした。

 朝食の時間。お父さんと向かい合ってご飯を食べながら、遥香はぽつりと言った。
「ねえお父さん。朝ごはん、これからは私が作ろうか」
 それを聞いたお父さんは顔をあげて、眼鏡の奥の目を丸くした。
「ん?どうしたんだ、急に」 
「本当は前から言おうと思ってたんだ。だってお父さんはお仕事の準備もしないといけないのに、いつも朝ごはんをつくるのは大変でしょう?私だってけっこう料理はつくってるし、それくらいはお手伝いできるんじゃないかなあって思って」
「なるほど。でも遥香にはいつも食器を洗ってもらっているし、お父さんはそれだけでも充分に感謝してるよ。それにさ…」 
 するとお父さんは、急に意地悪っぽい笑みを浮かべた。
「遥香がいつもつくっている料理って、お魚にあげるやつだろう?」
「う…」
 本当のことをズバリと言われて、遥香の顔にたら~っと冷や汗が流れる。
「でっ!でもね、人間の料理だって上手なんだよ?お父さんが学会とか本の打ち合わせで帰ってこない時は自分で料理もするし、家庭科の実習でもほめられてるし!」
「ハハ…ごめんごめん、確かにその通りだったな。それじゃあ、もっと忙しくなったらお願いしようかな。心配してくれてありがとう」
 お父さんの優しい言葉に遥香はほっとしたけれど、やっぱり気をつかってくれているような気がする。
「ごちそうさま。それじゃ、行ってくるよ」
「行ってらっしゃい。気をつけてね」
 お父さんは遥香ににっこりと笑いかけると、立ち上がってお茶の間を出て行った。
(さてと、私も早く準備をしないとね)
 残った遥香も朝ごはんを急いで食べると、食器を持って台所に向かった。遥香の朝は、これからが忙しいのだ。

 ひそ…ひそ…ひそ…
 裏口のドアを開けてうす暗い建物の中に入った遥香の耳に入ってきたのは、エアレーションという水槽に酸素を送り込む機械の音。それとかすかなささやき声だった。
 声はあまりにも小さくて、何て言っているのかは分からない。そのかわり数がものすごく多いので、話し声というよりは空気がざわざわと震えているような感じだった。
 ここは月浦港の近くにある「月浦マリンパーク」という名前の水族館。遥香は今から一年以上も前から学校が始まる前にこの水族館へやって来て、いろいろな魚や生き物の世話をしている。いつも早い時間に起きるのはそのためだった。
 こんなお話をはじめて聞いた人は、きっと不思議に思うことだろう。いくら小さな町の小さな水族館だからといっても、専門的な知識が必要な生き物の世話をどうして小学生の遥香が続けているんだろう?って。
 もちろんそれには理由がある。だけどそれを聞いたら誰もがびっくりして、ますます不思議に思ってしまうかもしれない。
(お、誰か入ってきたぞ)
(誰だろう。遥香ちゃんかな?)
(この足音は絶対に遥香ちゃんよ。砂の下から伝わってくる振動で分かるもの!)
 展示室が近づいてくると、さっきはあまり聞きとれなかったささやき声の内容も少しずつ分かるようになってきた。最後にしゃべっていたのはきっと、いつも砂の中にもぐっているメガネウオだろう。展示室が近づくごとに、聞こえてくる声が熱気を増していくのが分かった。
 そして遥香がドアを開けて、展示室に足をふみ入れた瞬間…
(うおおおおおおーっ!) 
 興奮度がMAXに達した「彼ら」の心の底からの叫びが、たくさんの水槽の中からどっとわき起こった。
(やっぱり遥香ちゃんだ!今朝もごちそうだぞ!)
(おっ、アサリを持ってきてる!やったあ!)
 いろんな生き物が一緒になってはしゃいでいるので、遥香は思わずぷっとふき出してしまいそうになる。
 開園前の水族館には遥香のほかには誰もいない。だけど彼女の耳にはにぎやかな話し声がずっと聞こえていて、目をとじると休み時間の教室の中にいるみたいだった。いや、今は給食前の教室のほうが近いかもと遥香は思う。
「はいはい。みんな、朝ごはんだよお」
(わあい!早く早くぅ!)
(おなか減ったよお!)
 魚たちは一見するとのんびり泳いでいるように見えるけれど、聞こえてくる声は遥香が自分たちの水槽にエサを持って来てくれるのを強く待ちわびていた。厚いアクリルガラスを通しても聞こえてくるのだから、そのパワーはかなりのものだ。 
 小さい水槽なら展示室の中、大きい水槽だったら「バックヤード」という展示室の裏側といったふうに、エサをあげる場所は水槽のサイズによってちがっている。だから小さな水族館といっても、時間のない朝にはけっこう大変な作業だった。当然、すべての生き物たちの熱い要求にこたえるのにも時間がかかってしまう。
 いつもは遥香が水族館に来る時間には元山さんというベテランの飼育員さんがいて、一緒にエサをやってくれる。だけど最近、元山さんはこの時間になると用事で港に行くようになっており、遥香が一人でこの作業をしないといけないことが多くなっていた。とは言えそれは遥香を信用していないと絶対にできないことだから、忙しくても遥香にとっては嬉しいことでもあった。
 それに生き物たちも、遥香がエサの準備をする方が喜ぶらしい。展示室に最初に入ってくるのが遥香だと、彼らはやけに楽しそうに盛り上がるのだ。
 生き物たちの声を聞くことができる遥香はそれぞれの好きなものをちゃんと知っているし、そのぶん遥香のほうがごちそうを持ってくる確率が高い。今日もハルカが家から持ってきた手料理(?)は大人気だった。水槽にまいたとたんに魚たちが水面にわっと集まってきて、夢中になって食べ始めていた。
 だけどこの時間の遥香の仕事はエサをあげることばかりじゃない。小さな水槽の生き物にエサをあげたあとは展示室の中をぐるりと一周して、具合の悪そうな魚がいたりとか、水槽の中に異常がないかを調べないといけなかった。
 展示室をまわって特に問題がないことを確かめた遥香だったが、最後に大水槽の前でぴたりと足が止まった。大きくて白いものが、水槽の中でゆらりと動くのが見えたからだ。
(遥香あ!)
 その「大きくて白いもの」がなれなれしい声で遥香に呼びかける。そして胸びれをゆっくりと動かして、ハルカの目の高さまで下りてきた。
「メリー!」
 遥香が名前を呼ぶと、メリーは返事をするみたいに口からぷくーっと泡を出した。
 イルカそっくりな姿をしているけど、イルカとは少し違う。スナメリといって、浅い海に住んでいるクジラやイルカの仲間の海洋哺乳類だ。
 口先がイルカにくらべて丸く、いつも笑ってるような顔をしているのが特徴だ。大きさだって成長しても二メートルにもならず、イルカやクジラの仲間の中でも特に小さい。
 とはいっても、この大水槽はスナメリが自由に泳ぎまわれるほど広くはない。そもそもこのメリーは、マリンパークで飼っている生き物ではなかった。
「またご飯のさいそくに来たの?元山さんに見つかったらどうするのよ?」
(大丈夫、私はいつだってうまくやっちゃうんだから)
 遥香が腰に手をあててたずねると、メリーは笑っているような口を遥香に向けて変な余裕を見せた。
(分かってるとは思うけど、私はツウなんだからね。そうねえ…今日はイセエビが食べたいなあ。それも脱皮したての、殻が柔らかいヤツなんてあったら嬉しいんだけど)
「あのさ、それってすごい高級品なんだけど。人間の世界だといくらするか知ってる?」
 メリーはわざとらしく首をかしげるようなポーズをとった。普通の人には可愛く見えるであろう彼女のしぐさも、声が聞こえる今の遥香にはバカにしているとしか思えない。
 イセエビなんてこの小さな水族館には(水槽の中にしか)ないし、あっても絶対にやるもんかと遥香は思う。
(あ!今私の近くを通り過ぎていったお魚、おいしそうだったなあ…)
 遥香がイセエビを用意する気がないと分かったのだろう。メリーは下のサンゴ礁に視線を移して、わざとらしくつぶやいた。同じ水槽にいる魚たちは(ひいっ!)と短い悲鳴をあげて、サンゴや岩場の影にあわてて避難する。
「ちょっと!水槽の中のお魚を人質にする気?」
(ちがうよー!お魚だから人質じゃなくて魚質って言うんだよー!)
「うるさーいっ!あーもうっ、分かったわよ!冷凍庫にクルマエビが入ってたから、それをあげるよ!」
(ええ?クルマエビじゃなくてイセエビがいいんだけど…)
 どこまでもわがままなメリーの注文を聞くうちに、遥香の中で何かがぷつりと切れた。
「いい加減にして!それ以上文句を言うんだったらすぐに海に帰りなさい!」
(ううっ!)
 怖い目つきで水槽をのぞきこむ遥香の迫力に、メリーはたちまちおじけづいた。
「そもそもさ、今のメリーは竜宮の御遣い(おつかい)役なんだよねえ?だったら他の生き物たちからもらう命は大事にして、なんでも大切にいただくべきでしょう?」
(は、はい…)
 遥香の説教を聞いたメリーがしゅんと返事をする。だけどメリーとは幼なじみと言ってもいいほど付き合いが長いハルカは分かっていた。能天気な性格のコイツは明日にでも怒られたことをすっかり忘れて、同じことをくり返すのだろうと。
 「ふう…」ハルカは小さくため息をついて、冷凍庫からエビを出すために再びバックヤードの給餌室へ向かう。
 それからおよそ一〇分後。
(まあまあだったね。今度はやっぱりイセエビが食べたいなあ)
 メリーは遥香が思ったよりもずっと早く反省の気持ちを忘れてしまったらしく、たくさんのクルマエビをたいらげた後で正直すぎる感想を口にした。遥香の怒りも復活したけれど、そのあとのメリーの言葉を聞いて、その気持ちは吹き飛んでしまった。
(ところで遥香、ミノリイシは順調に育ってる?)
 ぎくり!それを聞いた遥香の肩が大きく震える。メリーはそこを見逃さなかった。
(あーっ!もしかして順調じゃないの?困るんだよねえ。七月の満月の夜までに卵を生める状態に育ててもらわないといけないのに、もう六月だよ?今度の大産卵で少しは成果を見せくれないと、私が竜宮で怒られちゃうんだから!ひょっとして、死んじゃったってことはないよねえ?)
 さっきの仕返しと言わんばかりに、メリーは水槽のガラスにぎゅっと頭をつけて遥香にプレッシャーをかけてきた。遥香は後ずさりをしつつ、ぶんぶんと首を横にふる。
「大丈夫、ミノリイシは専用の水槽でちゃんと生きてるから!だけど…ちゃんと卵を生むかっていうと、まだ自信がないの。サンゴはメリーや魚たちと違って声を聞き取るのも難しいから、ちゃんと育っているかどうかもはっきりしないんだ」
(ふうん。確かにこの水族館に残されているミノリイシはほんのちょっとだし、遥香が世話をする前は少しずつ小さくなっていくばっかりだったみたいだしねえ)
「そうなの。元山さんだってサンゴはあまり詳しくないから、かなり苦労したみたい。もしお母さんがいてくれたら、今ごろはもっと立派に育ってくれたと思うんだけど…」
(しょうがないなあ。じゃあ、私も帰ったら乙姫様に相談してみるよ。だけど七月の満月までには時間があるんだし、遥香もあきらめないでがんばってね)
「うん。ありがとう」
 遥香は知っていた。メリーはわがままで能天気なヤツだけど、落ち込んでいる時には本気で心配してくれるって。おかげですぐに元気を取り戻した遥香は、笑顔でメリーにお礼を言った。
(それじゃ、また近いうちに来るよ)
「分かった、待ってるよ。イセエビは用意しないけど」 
 最後にメリーはうらめしそうに遥香を見てから、くるりと体をひるがえす。そして水底のサンゴ礁に向かって力強く泳ぎだした。メリーの体は頭からテーブル状のサンゴの小さなすき間にするする入りこんでいき、あっという間に消えてしまう。これもすごく不思議な光景のはずだけど、見慣れている遥香は少しも驚かない。
 それよりも大きなリアクションを見せたのは、そのあとで時計を見た時だった。
「まずい!遅刻しちゃう!」
 遥香は叫び、ダッシュで展示室を出た。
 大水槽にメリーが現れた日はこんな遅刻のピンチも珍しくはない。そして遥香はこんな時、つくづく考えてしまうのだった。
 いろんな海の生き物たちとお話することができるなんて、すごく不思議で特別な力のはず。それなのに私、この力のせいでずい分と苦労してるような気がする…と。
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