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水の中から動物の声が聞こえるようになった時のことを、遥香ははっきり覚えている。
小学三年生だった遥香は冬のある日、マリンパークを一人でおとずれた。その時はまだお手伝いではなく、一人のお客さんとして。
冬の、しかも夕方の水族館には他にお客さんもなく、遥香は一人きりだった。寂しい建物の中へ足を踏み入れた遥香だったけど、水槽を見ないようにわざと下を向いていた。
そのころの遥香は今とはちがって、マリンパークや月浦の海を避けていた。というのも遥香はこの海で、とても大切な二つの存在を失ってしまっていたからだ。
一人は遥香にとってかけがえのない人であるお母さん。そしてもう一人…ちがう、一匹は、彼女が小さい頃から仲良くしていたスナメリのメリーだった。
メリーは遥香が五歳の時に、月浦湾の浅瀬で出会った。
遥香はその年の七月にお母さんを亡くしていて、悲しい気持ちのまま夏休みをむかえたばかりだった。よく遊んでいた友達も遠くにでかけてしまい、港で漁師のおじちゃんや近所のおばちゃんたちに見守られながら、一人ぼっちの時間を過ごしていた。
そんなある日、海の中からとつぜん白いイルカみたいな生き物がぽっかりと顔を出して遥香に近づいてきた。そして遥香の近くをぐるぐると泳ぎ始めた。
「えっ、何?もしかして…私と遊んでくれるの?」
するとこの白いイルカもどきみたいな動物は頭を上げて、笑ってるような顔でハルカを見つめる。「イエス」と陽気に返事をしているように見えた。
大人からこの生き物はスナメリという名前であることを聞いた遥香は「メリー」という名前をつけ、すぐに遊び友達になった。
スナメリは昔から日本人にはなじみの深い生き物で、月浦の近くの海にも昔からスナメリが住んでいることが知られていた。けれど彼らは基本的に警戒心が強いので、メリーのように人なつっこい性格のものは珍しい。遥香とはまるで、最初から心が通じ合っているみたいだった。そんなメリーのおかげで、遥香は母親のいない夏も乗りこえることができた。
夏が終わってもメリーは月浦湾に住み着いていた。遥香が港や海ぞいの岩場に来るとすぐに姿を見せて、つぶらな瞳で一緒に遊ぼうと誘いかける。この時期の遥香にとって、彼女は一番の遊び相手だった。
だけどそれから二年後。お別れの時は、突然やってきた。
小学二年になっていた遥香は家にランドセルを置くと、いつものようにメリーに会うために港へ向かった。
だけどそこには遥香を待っていたかのように何人かの大人たちが集まっていて、彼女が来ると気の毒そうな表情を浮かべるのだった。何かがあったんだと幼い遥香は直感した。
その中の一人だった元山さんがゆっくり近づいてきて、ためらいがちに遥香に伝えた。
「遥香ちゃん…落ち付いて聞いてね。今日の朝、メリーが死んでしまったんだ」
その瞬間に、ハルカの頭の中は真っ白になった。
それから元山さんは原因は漁船のスクリューに運悪くぶつかってしまったことらしいとか、浜辺に打ちあがったメリーは遥香が見るとショックを受けるだろうから、漁船の網で引っぱって外洋の海に流したということをトーンの低い声で伝えた。けれど遥香はその話をすぐに受け入れることができなかった。昨日の今頃はメリーと楽しく遊んでて、最後には「また明日!」って感じで元気にお別れしたはずなのに。
大人たちが帰ったあとも遥香は月浦湾をじっと見つめ、いつもみたいにメリーがひょっこりと顔を出さないかと期待していた。だけどその時はおとずれなかった。
「メリーっ!」
何度も大きな声で呼びかけても、かえってくるのは静かな波の音ばかり。
もうメリーはいないんだとあきらめた時、波の音にまざって遥香の心の中に懐かしいメロディーが流れてきた。昔お母さんがどこかで歌ってくれた、不思議な響きのする曲だ。
気がつくと遥香は海に向かって、その曲を歌い続けていた。遠くへ旅立っていったメリーにも届くように願いながら。
目に涙があふれてきて、景色がじわりとゆがんだその時が、小学三年の遥香にとって最後にしっかりと月浦の海を見た瞬間だったかもしれない。
そんな遥香が自分からマリンパークへ足をはこんだ理由は、二週間ほど前に行われた校外学習だった。
久しぶりにここへやってきた遥香はある水槽の前で、なにか奇妙なことを感じとったのだ。それを確かめるために悲しい思い出がよぎるのをがまんして、一人で再びここへやってきた。
マリンパークの展示室は、おおまかに三つのゾーンに分かれている。
最初のゾーンはパネル展示と小さい水槽が中心で、月浦の海のなりたちやそこに暮らしている生き物の生態について学べるようになっている。そして次のゾーンでは大きな水槽が並び、月浦に生息している大きめの生き物が展示されている。さらに奥には高さが五メートルもある大水槽があって、月浦湾の環境を再現した空間の中にたくさんの生き物が一緒に暮らしている。
月浦の海はとても豊かだ。それはこの町が太平洋に面した半島の先っぽの方に位置しており、黒潮の影響を強く受けているからだといわれている。
特に海流のおだやかな月浦湾にはサンゴ礁やアマモ場が多く、そこは小さな生き物たちのすみかとなっている。するとその生き物を目当てにして大きな生き物も集まってきて…という流れが生まれ、生き物の種類は増えてくる。こうしてなさまざまな生き物の命がつながっていくことで、海の中はどんどん豊かになっていくのだ。マリンパークはそんな月浦の海について、そこに暮らす生き物を通して学べる施設だった。
遥香の目的は、最初のゾーンにある一つの水槽だった。ハナイカやウミウシといった小さな生き物が多い展示の中で、大きさも展示内容まるで違っているその水槽はひときわ強い存在感を放っている。実際のところ、それはこの水族館にいる生き物たちの中で一番珍しいと言ってもまちがいではないものだった。
その水槽の中にいるのは、一株のサンゴだった。それは太い木の枝みたいな形をしており、遥香の家の仏壇に飾られているものとよく似ている。
水槽の手前のプレートに書かれた「アヤイロミノリイシ」という名前を読むと、ふっと懐かしさがこみ上げてくる。
地元の人はこの名前を省略してミノリイシと呼んでいる。とても貴重なサンゴで、今のところは月浦湾でしか生息が確認されていない。そしてこれは遥香のお母さんが生きていたころ、マリンパークを手伝いながら熱心に研究をしていたサンゴでもあった。
普通のサンゴは種類ごとに決まった色を持っているものだけど、アヤイロミノリイシだけは違っている。個体によって鮮やかな紅色だったり、ライトブルーだったり、蛍光グリーンだったり…と、まったくちがう色をしているのである。そのためたくさんのミノリイシが集まる海の中は、色とりどりの花がひしめくお花畑のように美しかったという。
そしてミノリイシにはもう一つ、不思議な特徴があった。
それは産卵についてのものだ。多くのサンゴは初夏の夜にいっせいに卵の入ったカプセルをはなつ習性がある。それはミノリイシも同じなのだが、このサンゴはそれだけではなく、五年に一回の周期でより多くの卵を生む「大産卵」という習性も持っていた。
それほど多くの謎を秘めているミノリイシ。だけど彼らはもう自然界には生息していないらしい。あまりにも突然に、月浦の海から消えてしまったのだ。
正式な理由は分からないけれど、海にくわしい町の人たちの考えは近くの海岸のリゾート開発のせいということで一致していた。
というのも、少し前から鈴浜という隣の町では大きなリゾートホテルの建設と、そこへ人を呼びこむためのフェリーポートの埋め立て工事が始まっていたからだ。その場所は十キロ以上も離れているけど、流れてきた土砂の影響を受ける可能性は充分にあった。
サンゴは環境の変化に敏感だ。弱ってしまったサンゴは白化という現象を起こして死んでしまったり、まわりの強いサンゴに侵食されたりしてさらに弱ってしまう。ただでさえ生息場所の少なかったミノリイシはほかのサンゴよりも減るペースが早く、保護の対策すら思いつかないうちにあっさり絶滅してしまった。
そのため、今ではマリンパークに展示されているものが世界で唯一残されたミノリイシだと言われている。それは遥香のお母さんが特別に許可をもらって野生のミノリイシの一部を切り取り、株分けという方法で育ててきたものだという。
最初はほんの小石くらいのかけらだったという水槽の中のミノリイシも、お母さんの努力によって今では三〇センチ以上の大きさにまで育っていた。それを見ていると(もしもお母さんがいたら、野生のミノリイシだって守ることができたのかも)なんてことをつい考えてしまう。
このミノリイシはほんのりと淡いピンク色をしていて、細い体にあいた穴からたくさん伸びているポリプは桜の花びらみたいだった。すごくキレイだけど、今にもはらりと散ってしまいそうなはかない雰囲気をただよわせている。これがこの世に残っている最後のミノリイシだと思うと、遥香は心細い気持ちになった。
「私にも、なんとかできないのかな…」
ぽつりとつぶやいたあとで、遥香ははっとした。自分の口からそんな言葉が出てくるなんて、遥香本人も思いもよらなかったのだ。
そして遥香は、自分の本当の気持ちに気がついた。
(悲しいことを思い出したくなかったから、今までさけていたけど…私、やっぱり好きなんだ!お母さんが大切にしていた、そしてメリーがいた、この町の海が)
すると次の瞬間、彼女の前にもっと不思議なことが起こった。
「ん?…あれ?」
遥香はぱちぱちとまばたきをして、水槽に顔を近づける。
水槽の中のミノリイシがふいに、光ったように見えたのだ。内側からぼおっと、ホタルの光みたいに。
それはほんの一瞬で、それからはいくら待っても見ることができなかった。だけどその時にはもう、さらに不思議な現象が遥香の身に起こっていた。
耳鳴りみたいに、キーンとした音がずっと響いている。
この音に気がついた時、遥香は(これだ!)と心の中で叫んだ。前に来た時も、これと同じ耳鳴りみたいな音がしたのだ。それはマリンパークにいる時にはずっと鳴りやまなかったのに、建物を出たとたんにふっと聞こえなくなった。この音の理由が知りたくて遥香は今日、ここへ足を運んだのだった。
じっと耳をすませていると、そこから思いもよらない声が聞こえてきた。
(遥香…遥香…)
私の名前を呼んだ!いきなりのことに遥香は驚いたけれど、同時にすごく懐かしい感じがした。
声が聞こえるのはここから離れた場所。奥へ進み、大水槽の前に来た遥香の目には、信じられない光景が映った。
その中には、一頭のスナメリが泳いでいたのだ。遥香は一目見ただけで、それが懐かしい友達だとすぐに分かった。
「メリー!」
(久しぶりね、遥香)
メリーの声が聞こえることに驚いて、だけどそれよりも嬉しい気持ちが大きくて、遥香の体はぶるぶる震えだす。
「どうしてメリーがここにいるの?もしかして、本当は生きていたの?」
遥香が聞くと、メリーは小さい頭を左右にふった。
(そういうわけじゃないみたい。説明すると、長い話になるんだけど…)
それからメリーは、こうして遥香と再会するまでに起こったことを話した。
あの時、メリーはエサを探しながら海の中を油断して泳いでいたそうだ。しかし大きな音が迫っているのに気がついて感覚をすませると、すぐ近くに漁船の底が迫っていた。
(ぶつかる!もう駄目!)と思った次の瞬間にはもう、彼女は意識をなくしてしまったそうだ。遥香はこれでメリーが命を落としてしまったところまでを聞いていたけれど、実はこの出来事には続きがあったらしい。
それからどれくらいの時間がたったのかは分からない。次に目を覚ました時、メリーは今まで見たことのない海の中にいた。
透明にすみきった水の底は真っ白な砂でおおわれていて、地平線の先がキラキラと輝いている。メリーはおなかを上に向けた状態で水の流れにのり、その輝く場所へゆっくり運ばれているところだった。まわりにはいろんな海の生き物が集まっており、メリーと同じようにじっとしたまま流れに身をまかせている。次第にその「キラキラしたもの」が近づいてきた。
(びっくりしたよ。だってその正体は、たくさんのミノリイシだったんだもの!)
「ええっ!」
(しかも、その一つ一つがすごく大きいの。陸にある『木』っていう植物みたいに)
メリーはそれからも、遥香がびっくりするような話を続けた。ひしめくミノリイシはそれぞれがちがう色の光をはなっており、クジラやダイオウイカが小さな魚みたいにその中を泳いでいた。
ここはどこなんだろう。私は一体どうしちゃったんだろう…そう思っていると、ふいに(メリー)という声が聞こえてきた。
遥香に呼ばれたような気がしてびっくりしたけれど、こんな場所には遥香はもちろん、人間の姿だってあるはずがない。声だけがメリーの耳に聞こえていた。
(メリー、あなたは不幸な事故で命を落としてしまいました。だけどあなたの魂はあなたを大切にしていた人間の思いによって悠久の流れに乗り、この地へとたどり着くことができたのです)
語りかけてきたのは、とても優しそうな女の人の声だった。
そこは命を落とした海の生き物たちの魂が流れつき、新しい命をもらって再生するまでの時間を過ごす休息の海。メリーに語りかけた女の人は、その海を見守っている女神様のような存在だという。
それを聞いた遥香は、声を弾ませてメリーにたずねた。
「すごい!ねえ、そこってもしかして竜宮城?」
(え?『りゅうぐうじょう』って、あの…助けた亀につれられてえ、タイやヒラメの舞い踊り~ってやつ?)
「ちがう!メリーは月浦に住んでいたのに知らないの?月浦には、浦島太郎のお話とは別の竜宮城の伝説があるんだよ。そこはサンゴの森とはちがうけど、乙姫様みたいな人もいるし、なんだか似てるなって思ったんだ」
遥香の話を聞きながら、メリーはふむふむとうなずいた。
(そうなんだ。もしかしたらあの場所のことが人間に伝わって、そういうお話のモデルになったのかもしれないね)
そのミノリイシの森には決まった名前がないらしい。だから遥香は今の話を聞いて、そこを「竜宮」と呼び、声の主である女の人(人かどうかは分からないけど)を「乙姫様」と呼ぶことに決めた。メリーの話は続く。
乙姫様はメリーにお願いしたいことがあり、彼女にずっと語りかけていたらしい。
それは竜宮を出ることができない乙姫様にかわって他の海でいろいろな役目をこなす、いわゆる「御遣い役」になってほしいということだった。
「すごいじゃん!どうしてそんなえらい人が、メリーにおつかいになって欲しいって思ったんだろう?」
メリーは(さあ?)と言って首をかしげた。
(乙姫様は『いつか分かりますよ。うふふ』なんて言ってたけど。でもさ…まあ、きっと私がどこの海でも愛されちゃうキュートな姿をしているとか?かしこくてどんな仕事もスマートにこなせそうとか?そんな部分を見こんだんじゃないかしら)
メリーは自信たっぷりに言うと、無理して「えっへん!」と胸をはるポーズをとる。メリーがこんなにナルシストでお調子者のスナメリだったとは、話せるようになるまで知らなかった。
乙姫様のお願いを引き受けたメリーは今までの姿のまま新しい命を与えられ、さらに役目を果たすのに必要だからといくつかの特別な能力まで授かった。それから遥香に再会するまでの一年以上の間は、世界中の海を飛びまわっては乙姫様から頼まれた用事をこなしていたそうだ。
「ふーん。それじゃあ私がメリーとお話できるのも、その力のおかげなの?」
(ううん。私がここで使った力は海の水を通じてこの水槽に入ったことだけだよ。遥香が私とお話してるのは、遥香がもともと持ってる力のおかげなんだって)
「へえ~、そうなんだ。私の力だったんだあ…って、ウソぉっ!」
今の話を普通に受け流しそうになった遥香だけど、すぐに大きな声で叫んだ。
「じょっ、冗談でしょう?だって私、今まで海の生き物とこんなふうにお話したことなんて一度もなかったよ?」
(今までは目覚めてなかっただけよ。この力は大人に近づいてきたある時期に急に目覚めるものなんだって。乙姫様の話だと最初に耳鳴りみたいな音が聞こえるようになって、じきにそこから生き物の声が聞こえてくるみたい。私の声が普通に聞こえるってことは、がんばったらまわりの魚の声も聞こえるんじゃないの?)
メリーに言われて、遥香はじっと耳をすませてみた。
すると…本当だった。深い霧が晴れてまわりの景色がはっきりと浮かび上がってくるみたいに、キーンと響く耳鳴りの中からたくさんの話し声が聞こえてきた。
(おなか減ったなあ。エサの時間まだあ?)
(今日もお客さん少ないねえ。この水族館、つぶれたりしないのかな)
(あれ、どうしてあそこの水槽にイルカがいるの?)
(お、本当だ。イルカにしちゃ鼻がつぶれててブサイクだけど)
…などなど。たくさんの生き物の声に夢中になっているうちに、さっきの耳鳴りはすっかり消えていた。
(分かったでしょ?それでね遥香、これからが本題よ。私が久しぶりに月浦に帰ってきたのは、遥香のその力が目覚めはじめていることを乙姫様に教えてもらったからなの。乙姫様は遥香にどうしてもお願いしたいことがあるから)
「え?乙姫様が…私に?」
(そう。とっても大事なお願いなの。「竜宮を救う」って言っても良いくらいの)
メリーの声はすごく真剣だった。こっちへぐっと顔を寄せてきたメリーを前にして、遥香はごくりとつばをのむ。
(ここにいるミノリイシを育てて、もっと大きくしてもらいたいの。そして次の大産卵までには、卵を生んでくれるようにしてほしいのよ)
「え、それだけ?」
(ちょっと!「それだけ?」って何よ?すっごく大切なお願いなのに!)
緊張感の抜けた声を出す遥香に、メリーは口をがあっ!と大きくあけて注意する。
「あ、ごめん…だって『竜宮を救う』なんて言うんだもん。なんか悪いヤツと戦うとか、世界をまわって大冒険をするとか、そういうスケールが大きな話を思い浮かべちゃって」
(ミノリイシを育てるのも充分スケールが大きな話だよ。さっきもお話したでしょう?私たちの住んでいる竜宮はミノリイシでできているんだって。月浦の海で生まれた卵が海流に乗って長い長い旅を続けて、途中で幼生に姿を変えながらあの場所にたどり着くの。つまり月浦は私たちの海に卵をもたらしてくれる、大切なミノリイシの故郷の一つだったんだから)
しかしこの年の夏、月浦で生まれたミノリイシは一匹も竜宮へたどり着くことはなかった。野生のミノリイシが絶滅してしまったせいだ。
乙姫様はなぜか遥香の存在を、しかももうすぐ特別な能力に目覚めることまで知っていた。そのうえでミノリイシの再生をお願いするためにメリーを月浦に向かわせたようだ。せめて二年先の大産卵には、少しでもミノリイシの卵をこの海へ届けてほしい…と。
こんな小さな町で生まれたミノリイシの卵がそんな遠いところまで旅をして、命の再生をつかさどる大切な世界をつくっているなんて思ってもいなかった。メリーの話を聞いた遥香はふと、遠い昔にお母さんから教わった言葉を思い出す。
「海の中ではすべての命はめぐっているし、つながっているの。だからみんな一人ぼっちじゃないんだよ」と。今になって思うと、それはお母さんの遺言のようなものだったのかもしれない。
確かにその使命は世界を駆けまわって大冒険をするより地味なことに違いない。でもそれはすごく大切でかけがえのないことにつながっているのも確かみたいだ。そう思うと遥香は自分の胸の奥がじんわりと熱くなってくるのを感じた。
それに、何よりもこのミノリイシはお母さんがこの町にのこしていった形見みたいなものだ。誰かが育てる必要があるなら、娘である自分の手で…という気持ちも大きい。
「分かった。私、ミノリイシを育てる!」
遥香はガラス越しのメリーに向かって、力強く宣言した。
これをきっかけにして、遥香は竜宮を守るために活動を始めることになった。
まずはマリンパークに毎日のように通い、そこにいる生き物たちについてもっと詳しくなろうと努力した。生き物たちから直接声を聞くことができるおかげで、遥香は彼らの好きな食べ物とか、細かい体の調子なんかもすぐに分かるようになった。
もしもエサをあまり食べなかったり調子の悪い生き物がいて、唯一の飼育員である元山さんが困っていると、遥香がこっそり本人(?)から聞いた声をもとにアドバイスをしてあげる。それがいつも効果バツグンなので元山さんは驚き、「さすがは綸ちゃんの子供だね」とほめてくれた。「綸ちゃん」というのは前にここで働いていた遥香のお母さんの名前だ。
遥香が小学四年に上がった時に水族館のお手伝いをしたいとお願いすると、元山さんは特別にOKしてくれた。ちょうどボランティアで手伝っていた近所の人の都合が悪くなって抜けていたのと、小さい頃から遥香のことを知っているのも良かったらしい。それからはこうして水族館で生き物の世話をしながら、ミノリイシを今よりも立派に育てる方法を探し続けていた。
それから一年以上がたつ。マリンパークでのお仕事は順調だったけど、遥香にとってはすごくやっかいなことが一つあった。
それは遥香にこの役割を託した本人、いや本スナメリであるメリーの食い意地だった。
メリーはおつかいとして世界中の海をまわっている中で普通のスナメリは口にしないようないろんなものを食べてきたらしく、遥香と再会したころにはすっかりグルメを気取るようになっていた。そのクセに竜宮や別の仕事先で満足な食事にありつけないと乙姫様からもらった力で大水槽の中へ入りこみ、あの手この手で遥香から美味しい食事をせしめようとしてくるのだった。
メリーと再会できたのはすごく嬉しい。間違いなく。だけど昔は駄菓子屋で買ってきたえびせんだって美味しそうに食べてたのに…と思うと、遥香は寂しいような、腹立たしいような気分になってしまうのだった。
小学三年生だった遥香は冬のある日、マリンパークを一人でおとずれた。その時はまだお手伝いではなく、一人のお客さんとして。
冬の、しかも夕方の水族館には他にお客さんもなく、遥香は一人きりだった。寂しい建物の中へ足を踏み入れた遥香だったけど、水槽を見ないようにわざと下を向いていた。
そのころの遥香は今とはちがって、マリンパークや月浦の海を避けていた。というのも遥香はこの海で、とても大切な二つの存在を失ってしまっていたからだ。
一人は遥香にとってかけがえのない人であるお母さん。そしてもう一人…ちがう、一匹は、彼女が小さい頃から仲良くしていたスナメリのメリーだった。
メリーは遥香が五歳の時に、月浦湾の浅瀬で出会った。
遥香はその年の七月にお母さんを亡くしていて、悲しい気持ちのまま夏休みをむかえたばかりだった。よく遊んでいた友達も遠くにでかけてしまい、港で漁師のおじちゃんや近所のおばちゃんたちに見守られながら、一人ぼっちの時間を過ごしていた。
そんなある日、海の中からとつぜん白いイルカみたいな生き物がぽっかりと顔を出して遥香に近づいてきた。そして遥香の近くをぐるぐると泳ぎ始めた。
「えっ、何?もしかして…私と遊んでくれるの?」
するとこの白いイルカもどきみたいな動物は頭を上げて、笑ってるような顔でハルカを見つめる。「イエス」と陽気に返事をしているように見えた。
大人からこの生き物はスナメリという名前であることを聞いた遥香は「メリー」という名前をつけ、すぐに遊び友達になった。
スナメリは昔から日本人にはなじみの深い生き物で、月浦の近くの海にも昔からスナメリが住んでいることが知られていた。けれど彼らは基本的に警戒心が強いので、メリーのように人なつっこい性格のものは珍しい。遥香とはまるで、最初から心が通じ合っているみたいだった。そんなメリーのおかげで、遥香は母親のいない夏も乗りこえることができた。
夏が終わってもメリーは月浦湾に住み着いていた。遥香が港や海ぞいの岩場に来るとすぐに姿を見せて、つぶらな瞳で一緒に遊ぼうと誘いかける。この時期の遥香にとって、彼女は一番の遊び相手だった。
だけどそれから二年後。お別れの時は、突然やってきた。
小学二年になっていた遥香は家にランドセルを置くと、いつものようにメリーに会うために港へ向かった。
だけどそこには遥香を待っていたかのように何人かの大人たちが集まっていて、彼女が来ると気の毒そうな表情を浮かべるのだった。何かがあったんだと幼い遥香は直感した。
その中の一人だった元山さんがゆっくり近づいてきて、ためらいがちに遥香に伝えた。
「遥香ちゃん…落ち付いて聞いてね。今日の朝、メリーが死んでしまったんだ」
その瞬間に、ハルカの頭の中は真っ白になった。
それから元山さんは原因は漁船のスクリューに運悪くぶつかってしまったことらしいとか、浜辺に打ちあがったメリーは遥香が見るとショックを受けるだろうから、漁船の網で引っぱって外洋の海に流したということをトーンの低い声で伝えた。けれど遥香はその話をすぐに受け入れることができなかった。昨日の今頃はメリーと楽しく遊んでて、最後には「また明日!」って感じで元気にお別れしたはずなのに。
大人たちが帰ったあとも遥香は月浦湾をじっと見つめ、いつもみたいにメリーがひょっこりと顔を出さないかと期待していた。だけどその時はおとずれなかった。
「メリーっ!」
何度も大きな声で呼びかけても、かえってくるのは静かな波の音ばかり。
もうメリーはいないんだとあきらめた時、波の音にまざって遥香の心の中に懐かしいメロディーが流れてきた。昔お母さんがどこかで歌ってくれた、不思議な響きのする曲だ。
気がつくと遥香は海に向かって、その曲を歌い続けていた。遠くへ旅立っていったメリーにも届くように願いながら。
目に涙があふれてきて、景色がじわりとゆがんだその時が、小学三年の遥香にとって最後にしっかりと月浦の海を見た瞬間だったかもしれない。
そんな遥香が自分からマリンパークへ足をはこんだ理由は、二週間ほど前に行われた校外学習だった。
久しぶりにここへやってきた遥香はある水槽の前で、なにか奇妙なことを感じとったのだ。それを確かめるために悲しい思い出がよぎるのをがまんして、一人で再びここへやってきた。
マリンパークの展示室は、おおまかに三つのゾーンに分かれている。
最初のゾーンはパネル展示と小さい水槽が中心で、月浦の海のなりたちやそこに暮らしている生き物の生態について学べるようになっている。そして次のゾーンでは大きな水槽が並び、月浦に生息している大きめの生き物が展示されている。さらに奥には高さが五メートルもある大水槽があって、月浦湾の環境を再現した空間の中にたくさんの生き物が一緒に暮らしている。
月浦の海はとても豊かだ。それはこの町が太平洋に面した半島の先っぽの方に位置しており、黒潮の影響を強く受けているからだといわれている。
特に海流のおだやかな月浦湾にはサンゴ礁やアマモ場が多く、そこは小さな生き物たちのすみかとなっている。するとその生き物を目当てにして大きな生き物も集まってきて…という流れが生まれ、生き物の種類は増えてくる。こうしてなさまざまな生き物の命がつながっていくことで、海の中はどんどん豊かになっていくのだ。マリンパークはそんな月浦の海について、そこに暮らす生き物を通して学べる施設だった。
遥香の目的は、最初のゾーンにある一つの水槽だった。ハナイカやウミウシといった小さな生き物が多い展示の中で、大きさも展示内容まるで違っているその水槽はひときわ強い存在感を放っている。実際のところ、それはこの水族館にいる生き物たちの中で一番珍しいと言ってもまちがいではないものだった。
その水槽の中にいるのは、一株のサンゴだった。それは太い木の枝みたいな形をしており、遥香の家の仏壇に飾られているものとよく似ている。
水槽の手前のプレートに書かれた「アヤイロミノリイシ」という名前を読むと、ふっと懐かしさがこみ上げてくる。
地元の人はこの名前を省略してミノリイシと呼んでいる。とても貴重なサンゴで、今のところは月浦湾でしか生息が確認されていない。そしてこれは遥香のお母さんが生きていたころ、マリンパークを手伝いながら熱心に研究をしていたサンゴでもあった。
普通のサンゴは種類ごとに決まった色を持っているものだけど、アヤイロミノリイシだけは違っている。個体によって鮮やかな紅色だったり、ライトブルーだったり、蛍光グリーンだったり…と、まったくちがう色をしているのである。そのためたくさんのミノリイシが集まる海の中は、色とりどりの花がひしめくお花畑のように美しかったという。
そしてミノリイシにはもう一つ、不思議な特徴があった。
それは産卵についてのものだ。多くのサンゴは初夏の夜にいっせいに卵の入ったカプセルをはなつ習性がある。それはミノリイシも同じなのだが、このサンゴはそれだけではなく、五年に一回の周期でより多くの卵を生む「大産卵」という習性も持っていた。
それほど多くの謎を秘めているミノリイシ。だけど彼らはもう自然界には生息していないらしい。あまりにも突然に、月浦の海から消えてしまったのだ。
正式な理由は分からないけれど、海にくわしい町の人たちの考えは近くの海岸のリゾート開発のせいということで一致していた。
というのも、少し前から鈴浜という隣の町では大きなリゾートホテルの建設と、そこへ人を呼びこむためのフェリーポートの埋め立て工事が始まっていたからだ。その場所は十キロ以上も離れているけど、流れてきた土砂の影響を受ける可能性は充分にあった。
サンゴは環境の変化に敏感だ。弱ってしまったサンゴは白化という現象を起こして死んでしまったり、まわりの強いサンゴに侵食されたりしてさらに弱ってしまう。ただでさえ生息場所の少なかったミノリイシはほかのサンゴよりも減るペースが早く、保護の対策すら思いつかないうちにあっさり絶滅してしまった。
そのため、今ではマリンパークに展示されているものが世界で唯一残されたミノリイシだと言われている。それは遥香のお母さんが特別に許可をもらって野生のミノリイシの一部を切り取り、株分けという方法で育ててきたものだという。
最初はほんの小石くらいのかけらだったという水槽の中のミノリイシも、お母さんの努力によって今では三〇センチ以上の大きさにまで育っていた。それを見ていると(もしもお母さんがいたら、野生のミノリイシだって守ることができたのかも)なんてことをつい考えてしまう。
このミノリイシはほんのりと淡いピンク色をしていて、細い体にあいた穴からたくさん伸びているポリプは桜の花びらみたいだった。すごくキレイだけど、今にもはらりと散ってしまいそうなはかない雰囲気をただよわせている。これがこの世に残っている最後のミノリイシだと思うと、遥香は心細い気持ちになった。
「私にも、なんとかできないのかな…」
ぽつりとつぶやいたあとで、遥香ははっとした。自分の口からそんな言葉が出てくるなんて、遥香本人も思いもよらなかったのだ。
そして遥香は、自分の本当の気持ちに気がついた。
(悲しいことを思い出したくなかったから、今までさけていたけど…私、やっぱり好きなんだ!お母さんが大切にしていた、そしてメリーがいた、この町の海が)
すると次の瞬間、彼女の前にもっと不思議なことが起こった。
「ん?…あれ?」
遥香はぱちぱちとまばたきをして、水槽に顔を近づける。
水槽の中のミノリイシがふいに、光ったように見えたのだ。内側からぼおっと、ホタルの光みたいに。
それはほんの一瞬で、それからはいくら待っても見ることができなかった。だけどその時にはもう、さらに不思議な現象が遥香の身に起こっていた。
耳鳴りみたいに、キーンとした音がずっと響いている。
この音に気がついた時、遥香は(これだ!)と心の中で叫んだ。前に来た時も、これと同じ耳鳴りみたいな音がしたのだ。それはマリンパークにいる時にはずっと鳴りやまなかったのに、建物を出たとたんにふっと聞こえなくなった。この音の理由が知りたくて遥香は今日、ここへ足を運んだのだった。
じっと耳をすませていると、そこから思いもよらない声が聞こえてきた。
(遥香…遥香…)
私の名前を呼んだ!いきなりのことに遥香は驚いたけれど、同時にすごく懐かしい感じがした。
声が聞こえるのはここから離れた場所。奥へ進み、大水槽の前に来た遥香の目には、信じられない光景が映った。
その中には、一頭のスナメリが泳いでいたのだ。遥香は一目見ただけで、それが懐かしい友達だとすぐに分かった。
「メリー!」
(久しぶりね、遥香)
メリーの声が聞こえることに驚いて、だけどそれよりも嬉しい気持ちが大きくて、遥香の体はぶるぶる震えだす。
「どうしてメリーがここにいるの?もしかして、本当は生きていたの?」
遥香が聞くと、メリーは小さい頭を左右にふった。
(そういうわけじゃないみたい。説明すると、長い話になるんだけど…)
それからメリーは、こうして遥香と再会するまでに起こったことを話した。
あの時、メリーはエサを探しながら海の中を油断して泳いでいたそうだ。しかし大きな音が迫っているのに気がついて感覚をすませると、すぐ近くに漁船の底が迫っていた。
(ぶつかる!もう駄目!)と思った次の瞬間にはもう、彼女は意識をなくしてしまったそうだ。遥香はこれでメリーが命を落としてしまったところまでを聞いていたけれど、実はこの出来事には続きがあったらしい。
それからどれくらいの時間がたったのかは分からない。次に目を覚ました時、メリーは今まで見たことのない海の中にいた。
透明にすみきった水の底は真っ白な砂でおおわれていて、地平線の先がキラキラと輝いている。メリーはおなかを上に向けた状態で水の流れにのり、その輝く場所へゆっくり運ばれているところだった。まわりにはいろんな海の生き物が集まっており、メリーと同じようにじっとしたまま流れに身をまかせている。次第にその「キラキラしたもの」が近づいてきた。
(びっくりしたよ。だってその正体は、たくさんのミノリイシだったんだもの!)
「ええっ!」
(しかも、その一つ一つがすごく大きいの。陸にある『木』っていう植物みたいに)
メリーはそれからも、遥香がびっくりするような話を続けた。ひしめくミノリイシはそれぞれがちがう色の光をはなっており、クジラやダイオウイカが小さな魚みたいにその中を泳いでいた。
ここはどこなんだろう。私は一体どうしちゃったんだろう…そう思っていると、ふいに(メリー)という声が聞こえてきた。
遥香に呼ばれたような気がしてびっくりしたけれど、こんな場所には遥香はもちろん、人間の姿だってあるはずがない。声だけがメリーの耳に聞こえていた。
(メリー、あなたは不幸な事故で命を落としてしまいました。だけどあなたの魂はあなたを大切にしていた人間の思いによって悠久の流れに乗り、この地へとたどり着くことができたのです)
語りかけてきたのは、とても優しそうな女の人の声だった。
そこは命を落とした海の生き物たちの魂が流れつき、新しい命をもらって再生するまでの時間を過ごす休息の海。メリーに語りかけた女の人は、その海を見守っている女神様のような存在だという。
それを聞いた遥香は、声を弾ませてメリーにたずねた。
「すごい!ねえ、そこってもしかして竜宮城?」
(え?『りゅうぐうじょう』って、あの…助けた亀につれられてえ、タイやヒラメの舞い踊り~ってやつ?)
「ちがう!メリーは月浦に住んでいたのに知らないの?月浦には、浦島太郎のお話とは別の竜宮城の伝説があるんだよ。そこはサンゴの森とはちがうけど、乙姫様みたいな人もいるし、なんだか似てるなって思ったんだ」
遥香の話を聞きながら、メリーはふむふむとうなずいた。
(そうなんだ。もしかしたらあの場所のことが人間に伝わって、そういうお話のモデルになったのかもしれないね)
そのミノリイシの森には決まった名前がないらしい。だから遥香は今の話を聞いて、そこを「竜宮」と呼び、声の主である女の人(人かどうかは分からないけど)を「乙姫様」と呼ぶことに決めた。メリーの話は続く。
乙姫様はメリーにお願いしたいことがあり、彼女にずっと語りかけていたらしい。
それは竜宮を出ることができない乙姫様にかわって他の海でいろいろな役目をこなす、いわゆる「御遣い役」になってほしいということだった。
「すごいじゃん!どうしてそんなえらい人が、メリーにおつかいになって欲しいって思ったんだろう?」
メリーは(さあ?)と言って首をかしげた。
(乙姫様は『いつか分かりますよ。うふふ』なんて言ってたけど。でもさ…まあ、きっと私がどこの海でも愛されちゃうキュートな姿をしているとか?かしこくてどんな仕事もスマートにこなせそうとか?そんな部分を見こんだんじゃないかしら)
メリーは自信たっぷりに言うと、無理して「えっへん!」と胸をはるポーズをとる。メリーがこんなにナルシストでお調子者のスナメリだったとは、話せるようになるまで知らなかった。
乙姫様のお願いを引き受けたメリーは今までの姿のまま新しい命を与えられ、さらに役目を果たすのに必要だからといくつかの特別な能力まで授かった。それから遥香に再会するまでの一年以上の間は、世界中の海を飛びまわっては乙姫様から頼まれた用事をこなしていたそうだ。
「ふーん。それじゃあ私がメリーとお話できるのも、その力のおかげなの?」
(ううん。私がここで使った力は海の水を通じてこの水槽に入ったことだけだよ。遥香が私とお話してるのは、遥香がもともと持ってる力のおかげなんだって)
「へえ~、そうなんだ。私の力だったんだあ…って、ウソぉっ!」
今の話を普通に受け流しそうになった遥香だけど、すぐに大きな声で叫んだ。
「じょっ、冗談でしょう?だって私、今まで海の生き物とこんなふうにお話したことなんて一度もなかったよ?」
(今までは目覚めてなかっただけよ。この力は大人に近づいてきたある時期に急に目覚めるものなんだって。乙姫様の話だと最初に耳鳴りみたいな音が聞こえるようになって、じきにそこから生き物の声が聞こえてくるみたい。私の声が普通に聞こえるってことは、がんばったらまわりの魚の声も聞こえるんじゃないの?)
メリーに言われて、遥香はじっと耳をすませてみた。
すると…本当だった。深い霧が晴れてまわりの景色がはっきりと浮かび上がってくるみたいに、キーンと響く耳鳴りの中からたくさんの話し声が聞こえてきた。
(おなか減ったなあ。エサの時間まだあ?)
(今日もお客さん少ないねえ。この水族館、つぶれたりしないのかな)
(あれ、どうしてあそこの水槽にイルカがいるの?)
(お、本当だ。イルカにしちゃ鼻がつぶれててブサイクだけど)
…などなど。たくさんの生き物の声に夢中になっているうちに、さっきの耳鳴りはすっかり消えていた。
(分かったでしょ?それでね遥香、これからが本題よ。私が久しぶりに月浦に帰ってきたのは、遥香のその力が目覚めはじめていることを乙姫様に教えてもらったからなの。乙姫様は遥香にどうしてもお願いしたいことがあるから)
「え?乙姫様が…私に?」
(そう。とっても大事なお願いなの。「竜宮を救う」って言っても良いくらいの)
メリーの声はすごく真剣だった。こっちへぐっと顔を寄せてきたメリーを前にして、遥香はごくりとつばをのむ。
(ここにいるミノリイシを育てて、もっと大きくしてもらいたいの。そして次の大産卵までには、卵を生んでくれるようにしてほしいのよ)
「え、それだけ?」
(ちょっと!「それだけ?」って何よ?すっごく大切なお願いなのに!)
緊張感の抜けた声を出す遥香に、メリーは口をがあっ!と大きくあけて注意する。
「あ、ごめん…だって『竜宮を救う』なんて言うんだもん。なんか悪いヤツと戦うとか、世界をまわって大冒険をするとか、そういうスケールが大きな話を思い浮かべちゃって」
(ミノリイシを育てるのも充分スケールが大きな話だよ。さっきもお話したでしょう?私たちの住んでいる竜宮はミノリイシでできているんだって。月浦の海で生まれた卵が海流に乗って長い長い旅を続けて、途中で幼生に姿を変えながらあの場所にたどり着くの。つまり月浦は私たちの海に卵をもたらしてくれる、大切なミノリイシの故郷の一つだったんだから)
しかしこの年の夏、月浦で生まれたミノリイシは一匹も竜宮へたどり着くことはなかった。野生のミノリイシが絶滅してしまったせいだ。
乙姫様はなぜか遥香の存在を、しかももうすぐ特別な能力に目覚めることまで知っていた。そのうえでミノリイシの再生をお願いするためにメリーを月浦に向かわせたようだ。せめて二年先の大産卵には、少しでもミノリイシの卵をこの海へ届けてほしい…と。
こんな小さな町で生まれたミノリイシの卵がそんな遠いところまで旅をして、命の再生をつかさどる大切な世界をつくっているなんて思ってもいなかった。メリーの話を聞いた遥香はふと、遠い昔にお母さんから教わった言葉を思い出す。
「海の中ではすべての命はめぐっているし、つながっているの。だからみんな一人ぼっちじゃないんだよ」と。今になって思うと、それはお母さんの遺言のようなものだったのかもしれない。
確かにその使命は世界を駆けまわって大冒険をするより地味なことに違いない。でもそれはすごく大切でかけがえのないことにつながっているのも確かみたいだ。そう思うと遥香は自分の胸の奥がじんわりと熱くなってくるのを感じた。
それに、何よりもこのミノリイシはお母さんがこの町にのこしていった形見みたいなものだ。誰かが育てる必要があるなら、娘である自分の手で…という気持ちも大きい。
「分かった。私、ミノリイシを育てる!」
遥香はガラス越しのメリーに向かって、力強く宣言した。
これをきっかけにして、遥香は竜宮を守るために活動を始めることになった。
まずはマリンパークに毎日のように通い、そこにいる生き物たちについてもっと詳しくなろうと努力した。生き物たちから直接声を聞くことができるおかげで、遥香は彼らの好きな食べ物とか、細かい体の調子なんかもすぐに分かるようになった。
もしもエサをあまり食べなかったり調子の悪い生き物がいて、唯一の飼育員である元山さんが困っていると、遥香がこっそり本人(?)から聞いた声をもとにアドバイスをしてあげる。それがいつも効果バツグンなので元山さんは驚き、「さすがは綸ちゃんの子供だね」とほめてくれた。「綸ちゃん」というのは前にここで働いていた遥香のお母さんの名前だ。
遥香が小学四年に上がった時に水族館のお手伝いをしたいとお願いすると、元山さんは特別にOKしてくれた。ちょうどボランティアで手伝っていた近所の人の都合が悪くなって抜けていたのと、小さい頃から遥香のことを知っているのも良かったらしい。それからはこうして水族館で生き物の世話をしながら、ミノリイシを今よりも立派に育てる方法を探し続けていた。
それから一年以上がたつ。マリンパークでのお仕事は順調だったけど、遥香にとってはすごくやっかいなことが一つあった。
それは遥香にこの役割を託した本人、いや本スナメリであるメリーの食い意地だった。
メリーはおつかいとして世界中の海をまわっている中で普通のスナメリは口にしないようないろんなものを食べてきたらしく、遥香と再会したころにはすっかりグルメを気取るようになっていた。そのクセに竜宮や別の仕事先で満足な食事にありつけないと乙姫様からもらった力で大水槽の中へ入りこみ、あの手この手で遥香から美味しい食事をせしめようとしてくるのだった。
メリーと再会できたのはすごく嬉しい。間違いなく。だけど昔は駄菓子屋で買ってきたえびせんだって美味しそうに食べてたのに…と思うと、遥香は寂しいような、腹立たしいような気分になってしまうのだった。
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