いまは亡き公国の謳

紫藤市

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第七章 プロイセンの陰

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「わたしって、そんなに狙われやすい顔をしている?」
 綺麗だ美人だとは幼い頃からステファーヌとともに言われ続けているので、それなりに自覚はしている。庶子とはいえ公女としてリュネヴィル城で暮らしていたため、貴族の子弟から熱烈に求婚されたことも一度や二度ではない。
「人攫いからしたら、極上品扱いだと思いますよ。そりゃもう、かなりの高値で取り引きされます」
「コランタン。なにを失礼なことを言っているんだっ」
 野太い声が突然飛んできたかと思うと、勢いよくコランタンの頭に拳骨が振り下ろされた。
 ジェルメーヌが顔を上げると、コランタンの背後にピュッチュナー男爵が怒りで顔を紅潮させて立っていた。吊り上がった目の下には真っ黒なくまがあり、顔はしょうすいしきっている。甥の失態をクラオン侯爵らから毎日のように責められているためだ。
「とにかく、知らない者に話し掛けられても無視することです。ステファーヌ様の名前を出されても、です。まして、ついていくなんてもってのほかです!」
「ついていかないとステファーヌを殺すって言われたら?」
「トロッケン男爵自身に迎えに来るよう、伝えさせれば良いのでは? ステファーヌ様のお名前を出すのは、男爵らの一派だけですから」
「それもそうだな」
 納得したジェルメールは、大きく頷いた。
 ピュッチュナー男爵が警戒する理由はわからないでもない。
 トロッケン男爵がいつになったらフランソワとステファーヌの入れ替えを実行しようとしているのか、予定がわからないためだ。
 もしジェルメーヌとフランソワが入れ替わる前であれば、ピュッチュナー男爵らはステファーヌの保護に務められるが、本物のフランソワが公子として一行と合流した後であれば、悠長に旅を続けているわけにもいかない。ステファーヌが取り戻せていようといまいと、一行はプラハでカール六世にえっけんするため、先を急がなければならないのだ。
 もしトロッケン男爵との接触が遅くなれば、ジェルメーヌはフランソワとしてではなく、ジェルメーヌ公女として男爵と交渉するしかない。
 ステファーヌを公子としてカール六世に謁見させ、自分の息のかかった公子をロレーヌ公国の跡継ぎにするという目的が果たせないトロッケン男爵が、ジェルメーヌとの交渉に応じるかは微妙だ。
 いまのジェルメーヌにとって、敵はステファーヌを攫ったトロッケン男爵一派のみだが、フランソワ公子の敵は帝国内外に数多存在している。
 そのフランソワ公子として旅をしている以上、嬉しくないことにジェルメーヌが狙われる可能性は幾つもあるのだ。
「プロイセン側がフランソワ様を狙うのであれば、誘拐なんてまどろっこしいことはせずに、暗殺するんじゃないでしょうかね」
 猫舌のピュッチュナー男爵は、湯気が立つ紅茶に息を吹きかけて冷ましながら呟く。
「誘拐っていうのは、案外手間がかかるものですよ。さらうにしても移動手段と経路を考えなければなりませんし、監禁先の確保も必要です。プロイセンがフランソワ様を邪魔者と見なして排除したいならば、暗殺した方が確実なはずです。実行犯はひとりで済みますし、証拠が残りにくいでしょうしね」
「暗殺? 物騒だけど、なんだか重要人物と目されているようで、悪くはないね」
「世の中の王侯貴族で暗殺対象と見なされていない者は、よほどものじゃないでしょうかね。あぁ、でも、痴れ者は痴れ者で排除対象になることもありますが」
 ピュッチュナー男爵は言葉を選びながらもしんらつなことを言う。
「かく言うプロイセン王も幾度か命を狙われたことはあるようですし、カール六世も同様です。今回、プラハで行われるカール六世のベーメン王戴冠式は、帝国中の王侯貴族が集まりますから、なにごともなく終わる、ということは有り得ないでしょうね。もちろん、プロイセン王も出席するはずです」
「プラハに暗殺者がうようよしているということ?」
「そういうことです。宮廷の陰には刺客あり、ですよ」
 もっともらしい口調でピュッチュナー男爵が告げる。
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